第八話  益荒男


「て、てめえっ!何をっ!」

 急に襲い掛かってきた爺さんをかわして乱馬はたっと身構えた。爺さんの振りかざした刀は乱馬の右腕をかすめて通り過ぎた。ぴっと衣が切れて、乱馬の身体を少しだけ切り刻んだ。赤い鮮血が流れて飛んだ。
「まだ儀式は終わっておらぬ。おぬしが手にしている白いカンザシをこの手に貰い受けるまではっ!!」
「なっ!!血迷いやがったか?」
「ふふふ…。狂ってなどおらぬわ。最初から計画通りよ。」
 爺さんはぺろりと赤い舌を出した。
「て、てめえっ!まさか、あかねを!言えっ!あかねをどうしたっ!!」
 迫りくる切っ先を交わしながら乱馬は爺さんを射るように見返した。
「ふふ、赤巫女ならそこの奈落へと突き落としてやったわ。今頃、闇の中からご霊木の根へ捕えられておろうぞ。」
「くっ!やっぱり、黒幕はおめえだったのか…。」
「おうよ…。さあ、その白カンザシをこちらへ寄越して貰おうかっ!」
「けっ!誰がてめえなんぞに!」
「ふふ、否が応でも取り返してやるわっ!」
 爺さんはにやっと笑った。そして右手を高らかと挙げた。
「それ邪木よ、奴の動きを封じろっ!!」
 爺さんの声に反応するように、メリメリと床や壁から木の根がはがれ出す。
 ぞわぞわとそれらは動き始めた。
「う、うわーっ!!なんだ?この気持ちわりいのはっ!!」
 乱馬はたっと身を翻した。動物のように自在に動き回る赤い血の色をした根が大挙として乱馬に襲い掛かる。
「くっ!こいつら、絡みつきやがるっ!」
 乱馬は手刀で絡みつく根を薙ぎ払った。が、多勢に無勢。瞬く間に捕えられ手足の動きを封じられてしまった。

「ふふふ…。他愛のない。どら、白いカンザシをこちらへ渡して貰おう。」
 爺さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべると乱馬へとにじり寄った。
「ぐ…。この根っこ。そうか、やっぱり、この上の大木の根だったんだな。」
「ふふふ…。今頃気がついたか。そうさ。この根は邪木の根だ。これで人間どもの屍やら生体から養分を吸い上げて成熟する。六百年に一回、再生するでな。その時に、無垢な少女の身体が要るのだ。そやつを木の中に取り込んで、また生育してゆく。ふふふ…。こやつに若い娘から放たれる養分を与える代わりに、ワシは永遠の命の輝きを手に入れられた。朽ち果てることなく、この木の再生と共にまた若き力を手にいれられるというわけじゃよ。そして、また新たな六百年をこの邪木と共に生きるのだ。氷女と雪女の妖気と共にな。ふははははは。」
「そういう訳だったのか…。こいつと、この木とグルになっててめえは、氷女や雪女も誑かし、引いてはお雪さんをも謀り、今度はあかねに手を掛けたって訳かっ!許せねえっ!!」
 乱馬は斬っと爺さんを睨みつけた。
「白いカンザシはこれだな…。ふふ。ご苦労であった。後はこの邪木の養分となって、取り込まれてしまうがいい…。この邪木はおまえのような、無垢な少女を好んで喰らうでな。」
「そうか…。女ったらしの妖怪の木って訳か…。男は喰らわねえのか?」
 乱馬はキッと見据えながら吐き出した。
「男は嫌いだそうだ。でなければワシとて無事でいるわけが無かろう?」
「そっか…。それを聞いて安心したぜっ!女ったらしのジジイめっ!」
「何を小戯れたことを…。邪木、さっさとこやつを喰らってしまえ。」
 根っこの触手が乱馬へと伸びた。
「喰らえるもんなら喰らって見やがれっ!!」
 乱馬は気を溜めていた気を放出しはじめた。燃えるような赤い闘気だ。
 根っこは乱馬の身体に潜入させようと茶褐色の繊毛のような根先をぴったりとくっつけたが、何かを躊躇うように避け始めた。
「どうした?何故怯む。何を恐れておるのじゃ?」
 邪木の根が躊躇したのを爺さんは叱責した。
「もっと喰らいやがれっ!!」
 乱馬はにやっと笑って闘気を瞬時に爆発させた。

 うおおおーーーん
 ごおおおーーーん

 邪木が一瞬唸り声を上げた。嫌だ嫌だをしているかのように鳴いた。
「へへっ!こいつ、俺みたいなのは好物じゃねえってよ。そりゃそうだよな…。」

 乱馬の胸元が赤く光りだす。

「おまえ…。その勾玉。何故光る?まさか…。益荒乙女…。」

「益荒乙女…かどうかはわかんねえけどなっ!」
 びちびちっと根っこが弾けた。
 メリメリっと音をたてて、剥がれ落ちた。
 邪木は纏わりついていた乱馬の身体から完全に触手を引き始めた。

「な?どうしたというのだ?何故手を引く。何を恐れておる?」
 爺さんは後ろへとたじろいだ。

『その訳を聞きたいか?時任満成よ!!』
 背後で低い女性の声がした。

 バリンっと氷が割れる音がして、蒼白い手が伸びてきた。そう、今しがた乱馬が倒した筈の妖怪、氷女だった。
 氷女は目にも止まらぬ速さで爺さんの傍へ近寄り、彼を後ろ手に絡めた。
「お、おぬし…。氷女っ!生きておったのか?」
 氷女に締め付けられて爺さんが叫んだ。
「久しぶりだのう…。満成。」
 冷気を放ちながら氷女がにやっと笑って冷たい息を吹きかける。
 邪木の触手が氷女にざざっと伸びた。
「はっ!!」
 氷女は伸びてきた触手へ凍った息を吐き出す。
 触手はみるみる凍りつき始める。
「ぐ…。離せっ!氷女っ!!」
 爺さんは氷女の腕をがっしと掴みながら喘ぎ始めた。
「離さぬ…。おぬしには六百年前の借りがある。それを今こそ返してくれようぞ…。」
 ふふんと氷女は鼻先で笑った。

「六百年だって?そのじじい、そんなに生き長らえてきたのか?」
 乱馬はじっと二人の絡み合いを眺めて吐き出した。
 邪木の触手が氷女に伸びようとするのを藪睨みで牽制する。乱馬に睨まれると、触手は恐れるように後ずさりする。

「おおさ…。こやつは、我ら姉妹を誑かし、この木の根元へお雪の魂と共に封印せし張本人よ…。思い出しても口惜しや…。その顔、その声、その気、老人に姿形変わろうとも逃がしはせぬ。弟を騙し、一人の娘を依り代にし、この地に邪木をはびこらせた…。邪木に長き齢を与えてもらうために。」
「離せっ!」
 もがきながら爺さんは氷女を流し見た。
「この腕、憎き輩に一度絡みついたら逃がしはせぬ。ふふ。いいざまだ。それにそこの白巫女。いくらおぬしに永き命与えし邪木も近寄れぬと見える。当然じゃなあ…。何故か教えてやろう…。そこに居るのは益荒乙女なのじゃからな…。正真正銘の…。」
「何だと…。こやつ、その身体の中に益荒男の魂を持つというのか?この陳腐な女体の中に…。」

「陳腐とは何だ、陳腐とはっ!!」
 乱馬が叫んだ。面白くないという顔を差し向けた。

 氷女はにやっと笑うと何か光るものを乱馬に投げて寄越した。きらっと光ってそれは吸い込まれるように乱馬の手に落ちた。
「何だ?これは?氷の欠片か?」
 良く観るとそれは白い勾玉であった。
「それはここに呪縛されていたお雪の生玉。益荒乙女よ、ここをおぬしの気砲で打ち抜けっ!そしてこの地下に通じる湯脈の中へこれを投じるのだ!大量の湯にこの生玉を投げ込めば、我らまやかしの者らを溶かす液体へと変化する。奴らは滅びるっ!おぬしら人間には何の変化も現れぬがな…。」
「お、おまえ、いつの間にそれを?」
 爺さんは氷女の腕にすがり付いて吐き出した。
「ふふ…。さっき、その棺が開いてわが魂を返してもらった時に一緒に飛び出してきたのさ。穢れなき無垢な生玉。そいつに滅ぼされれば良い。皮肉なことだな。」
「氷女っ!そんなことをしたらおまえも溶けて滅びるぞ!良いのか?」
 爺さんは喘いだ。
「構わぬっ!もとよりそのつもりだ。おまえに勝ち目はないっ!!策士は策に溺れて身を滅ぼすのだ。我とともに滅びるがいいっ!!」
 
「何てことだ…。う…。しかし、そやつがここを貫いて生玉を投げ込んだとしても、時既に遅いわ…。今頃、さっき投げ込んだ娘をこの邪木が取り込んでおるわ。明日の朝の光がこの大地を満たす時、邪木は新しく甦る。そう、復活するのだ。われも滅びはしない。それに、女の形ではその闇へは入れぬ。喩えそやつが男の魂を持っていたとしても…。はははは。」

(そうだっ!あかねだっ!!)

 乱馬は身構えた。こんなところでぐずぐずしてはいられない。

「大丈夫だ。おぬしなら彼女を助けられる。己を信じよ。そして全てを無へ帰させてくれ。あの憎き邪木も、人間どもの悪しき夢も。さあ、やれーっ!!」

「うおおーっ!!」

 両腕を身体に溜め込んだ闘気が滾(たぎ)る。胸の勾玉が共に赤く光った。

「行くぜーっ!俺の闘気っ!湯脈まで貫けっーっ!!」

 拳を振り上げて乱馬は地面目掛けて打ち下ろした。
 メリメリッと地面が激しく裂ける音が響いた。
 彼の手の先から放たれた赤い闘気は、真っ直ぐに地中へと突き刺さるように消えてゆく。
 暫くして、ゴゴゴという轟音が地中深くで唸り始めた。
 だんだんとそいつは近づいてくる。洞窟の地面が、壁が、天井が、一斉に共鳴し始める。

「来るぞっ!」

 氷女の叫びと共に、湯柱が上がった。
 何本かの湯柱がそこを水浸しにする。
「さあ、生玉を投げよっ!」
 湯煙に霞む洞穴の中で氷女の声が響く。
「無駄だっ!おまえらがどんなに足掻いても…。!」
 苦し紛れに叫ぶ爺さんの声も一緒に唸る。
 乱馬は掌の中の生玉を一度見た。輝く氷のような光は静かに乱馬を顧みる。乱馬は一度掌にぎゅっと握り締めると、思い切ったようにそそり立つ一番でかい湯柱へと投げ入れた。
 湯柱の中に生玉は吸い込まれるように消えてなくなった。

「さあ、我らが消えた後、おぬしは、そこの棺から入って、巫女を、赤巫女を助けるがよい。おまえならできる筈だ。益荒乙女…いや、益荒男よっ!!」
 氷女は一度乱馬を見やるとにやりと笑った。
「うう…。おぬし…。お、男だったのかっ!!」
 苦しそうに氷女の絡みつく腕の中から恨めしそうに睨みつけた。
 湯飛沫を浴びて、乱馬はみるみる変化し始める。ふくよかな胸は厚い胸板に、しなやかな鎖骨は筋肉で彫深く、丸い顎は頬骨が張り出しがっしりと。そして、柔らかな女体は強靭な男の肉体へと変わった。白と朱の巫女衣装が精悍で美しい彼の男の肉体を妖艶に映えさせていた。
 光り輝く清んだ瞳は静かに氷女と爺さんを捉えて止まった。

「それがおぬしの誠の姿か。わっはっは。愉快、愉快っ!さあ、行けっ!益荒男よ。その力強い手で巫女を助けて来いっ!そこに転がっている封印の剣を持て。何かの役に立つだろう。我ら魔の世界に棲む者が、二度とこの世に現れぬように…。邪木をうち滅ぼせ。そして、我らを無に返せ。頼んだぞっ!」
 
 そう叫ぶと、氷女は嫌がる爺さんをぐいっと己に引き寄せた。そして光り輝く湯柱を見上げると、にやりと笑い、その中へと身を投じていった。と、彼らの姿は視界から消えうせた。

「うぎゃあああああああーっ!」

 耳を劈くような爺さんの断末魔の叫び声が鳴り響く。
 うおおんっと一声、邪木が唸ったように思えた。
 ややあって、煌々と湯柱が一度、眩いくらい光った。溶けてしまったのだろうか。
 轟々と音をたてながら、湯柱は天へと上がり続けた。
 乱馬はじっと彼らが見えなくなった氷女と爺さんが溶けていった湯柱を見上げた。天井へ届く湯柱は、遥か上に枝葉を広げる邪木の上へと湯煙をあげる。

「こうしちゃあいられねえっ!あかねを助けなけりゃ、幕を引けねえんだっ!」

 乱馬は後ろを振り返った。
 そこには棺が据えられている。何事も無かったように、棺が蓋を開けて乱馬の到来を待ち受けている。そうんなふうに見えた。
 乱馬は氷女に言われたとおり、鞘から引き抜かれて転がっていた刀剣を手に持った。ずっしりと重い。氷のような刃が妖しく光り輝いていた。
(ひょっとして、こいつがあの夢枕のおっさんの言っていた破魔の刀剣なんだろうか…。)
 乱馬はさめざめとそれを見詰めると、鞘へ収め、腰へ差した。

「待ってろあかねっ!俺が、必ず、助け出してやるっ!!」
 
 乱馬は巫女袴の腰紐をぎゅっと締めなおした。襟元も正すと、棺へと手を掛けた。
 井戸を覗くように棺の中を見詰めた。彼を待つのは暗闇の世界。低いうねり音が棺から渡ってくる。何処までも広がる暗闇が其処へと広がる。
 不思議と恐怖は無かった。
 只有るのはあかねを助けるという固い決意だけ。
 一つ深呼吸をすると、カッと目を見開いて、その中へと身を投じた。






 暗闇が支配する黄泉の空間。

 乱馬はずっと下へと落ち続けていた。
 果てることない奈落とはこのような場所を言うのではないか、そう思った。
 闇は乱馬を柔らかく包む。まるで永遠の眠りを誘うように意識は次第に遠くなる…。

(このまま闇に包まれてまどろもうか…。)

 そんな弱気な考えが脳裏に浮かんだ。身体はまるで雪山に抱かれて眠りにつくように、凍えていた。何処からともなく降りてくる眠気に安らぎが満ちてくる。
(傍にあかねが居たら…。もっと気持ちよく寝られるっていうのに…。)
 薄れゆく脳裏に浮かぶのは愛しいあかねの面影。
(あかね…。あかねっ!)
 それを思い浮かべた瞬間、彼は目覚めた。
(そうだ…。寝てなんていられねえ…。あいつを見つけ出さなきゃ、死にきれねえじゃねえか…。)
 跳ね起きると乱馬は自分が浮かんでいることに気がついた。
 落ちているだけの世界かと思えばどうやら違うらしい。
「ひょっとしてここは、己の意思が反映される空間なのか?」
 乱馬は天井を仰ぎ見た。
 何も見えない。
 ここは全ての光を吸収する世界なのだろうか…。
(まてよ、なら、俺の姿だって見えねえはずだ。)
 乱馬は立ち止まった。そして己の手をすかして見た。掌が見える。己が着ている巫女の衣装も見えている。
(全部吸い込んじまうって訳でもなさそうだな…。ならば、気はどうだ…。)
 乱馬は気を集中させてみた。何か気配は無いか、精神を統一して、身体で何かを感じようとした。
(くそぉっ!何も感じねえ…。何も見えねえ…。あかねっ!あかね何処だっ!!)

「!」

 その時だった。
 何かがポタリと乱馬の頬へ落ちてきた。
「水?」
 見上げると、また落ちる雫。
「こっちか…。」
 乱馬は遥か上を見上げて、水が落ちてきた方向を見定めて浮き上がった。
 ふっと、目の前を何かが過(よ)ぎった。
「おっと…。」
 乱馬はそちらの方を見上げた。何か赤いものが空を漂っている。
 手を伸ばしてそれを鷲づかみにした。
「こ、これは…。」
 掴み取ったのは赤いカンザシだった。
「あかねが手にしていたもんじゃねえか…。」
 キッと漆黒の空間を見上げた。
「あかねっ!やっぱり、ここに居るんだなっ!!」
 乱馬はカンザシを握り締めた。

『こっちへ…。白巫女…。』

 水の弾ける音と共に声が脳裏に響いた。

「だ、誰だっ?」

 乱馬は辺りを振り返った。

『我が名は雪女。』
 声の主はそう答えた。
「雪女?ああ、氷女の片割か。何の用だ?何処から喋ってるんだ?」
 乱馬はキョロキョロと見回したが、声だけで気配も汲み取れなかった。
『我が肉体はもう朽ちてここにはない…。だが、魂だけはこうやって闇を彷徨っている。おぬしが持つその赤いカンザシの中に封じ込められてな…。』
「そっか…。ここにおめえの魂が居るってえのか…。」 
 乱馬はカンザシを握り締めた。
『おまえ…白巫女か?気は感じるが見てくれが違う。おまえ男だったのか?』
 乱馬に語りかける声は清涼としていた。
「ああ…。今は男の姿に戻っちまったがな…。」
 乱馬は苦笑して付け加えた。
「これが本来の、真の俺の姿格好だよ…。」
『ならば、聞かせてくれ、氷女は、姉上はどうなった?』
 雪女は尋ねてきた。
「時任なんたらというじじいと一緒に無へ帰った。」
 乱馬は手短くそう告げた。
『そうか…。奴を倒したか。』
「ああ、だが、油断はできねえっ!何故なら御霊木、いや邪木はまだ生きてるからな。じじいを復活させちゃいけねえって俺に望みを託してくれたんだ。氷女は…。」
『そうか…。お姉さまらしい最期じゃったのか。』
 雪女の声が心なしか震えた。
「おめえ、あかねの居所知らねえか?」
 乱馬は駄目元と思い尋ねてみた。さっきまで敵だった雪女だが、今は殺気が消えうせていた。
『恐らく、この先の邪木の本体の所に捕えられているのじゃろうよ…。行くのか?』
「あったりめえだっ!あかねは俺が必ず助け出す。そして、連れて帰る。それが俺の使命だからな…。」
『ふふ…。そうか。おぬし、彼女を愛しておるのだな。わかった。案内してやろう。さあ、早く。急がねば、赤巫女はお雪と同じ運命を辿ってしまう。奴に肉体を完全に取り込まれる前に…。さあっ!!』
「けっ!てめえを信じて行くしかねえって訳か。よっし…。良いだろう。案内しなっ!」 
 乱馬は声のするカンザシに向かって叫んだ。ここまで来れば、暗闇だろうがなんだろうが進むしかない。そう腹を括った。あかねを助ける。その情念だけが彼の脳裏を支配していた。
『さあ、こっち…。』
 何か柔らかい力に掬い上げられた。ふわっと乱馬の身体が闇に浮かぶ。
「まだそんな力が残ってやがったのか…。」
 そう囁くように言うと力を抜いてその流れてくる力に身を委ねた。風が闇を舞い始める。暗闇の空間が僅かに歪み始める。
「うっ!!」
 ビリビリと激しく辺りが振動した。
「うわあっ!!」
 押し出されるように空間から弾き飛ばされた。

 どすんっと鈍い音がして、乱馬は尻からその空間へと投げ出された。

「い、いってえっ!!てててて…。」

 尻餅ついたところをさすりながら乱馬は辺りを見回した。
「な、何だ?ここは…。」
 さっきまでの漆黒の闇と取って代わって今度は白んだ靄がかかる空間だった。ひんやりと冷気が漂っている。
 背中の方に只ならぬ気配を感じた。
「な、何か居る…。」
 それは武道家の直感。得体の知れないものがそこの空間を支配している。
『人間を蝕みながら生き長らえる邪木の本体がこの奥に居る。』
「な、なんだか良くわからねえが…。あかねは、この先に居るんだな?」
『ああ…そうだ。わしの案内はここまでだ。あとはおぬしが頑張るしかない。』
 雪女のカンザシは弱々しく言葉を継いだ。
『我はもう限界じゃ。おぬしをここまで導くのに力を使い果たしてしまった…。ゆけ…。そして、我らが姉妹の恨みを…そしてこの山を元の清らかな姿に戻しておくれ…。益荒男よ…。』
 雪女のカンザシはそれだけ告げると、ピシピシと音をたてて崩れ始めた。
「わかった…。あとは俺にまかせてくれ…。そうか、おめえも無に帰るのか…。」
 乱馬は崩れ去ってゆく雪女の魂のカンザシを両手で包みながら言葉をかけた。
 ひょおおっと返答の変わりに風が唸り声を上げた。
 塵屑へと帰った雪女を黙って見送ると、乱馬は重い腰を上げた。ぐずぐずはしていられない。

「あかね…。待ってろっ!。」

 乱馬は遥か先をじっと見た。この先にあるものがどんなものか見当はつかないが、導かれた以上、一時も無駄にしたくはなかった。
 すっくと立ち上がると、息を吸い込んだ。そして懸命に駆け出した。



つづく



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