第五話  伝説


 祠の中は思ったよりも広々としていた。
 下へ続く石段は湿っぽく、天井を掠めそうに低かったが、二人並んで歩けるくらいの幅がある。
「ゆっくり来いよ…。」
 一歩先を乱馬がお松明(たいまつ)を持ってゆるやかに降りてゆく。
 履き慣れぬ草履に巫女装束だ。いつものチャイナ服とは随分勝手が違う。それはまたあかねとて同じである。繋がった手を離すことなく、あかねは必死で乱馬に付き従った。このまま手を離すと何処かへ消えてしまうのではないか…。そんな心細さが己を襲っていた。
 ちろちろと燃える松明は、これから二人が行く祠の底へと続いている。螺旋階段のようにぐるぐると同じ所を降りているような感覚だった。
「思ったより奥深いんだな…。」
 乱馬は回りに気を払いながら一歩一歩降り続ける。
 暫く降りると、平らなところへ出た。階段はもうないらしい。だが、暗闇に続く洞穴はまだ奥へと続いているようだった。
「きゃっ!」 
 あかねが滑ったのか急に腕にしがみ付いて来た。
「どうした?」
「大丈夫・・ちょっと滑っ…。」
 あかねの言葉が止まった。
「何…これ…。」
 どうやら足元を見て驚いたらしい。
「あん?」
「見て…。足のところ…。」
 あかねは乱馬を促した。
「うわっ!!」
 足元には白い塊がたくさんばら撒かれている。
「な…なんだ、これは…。」
 砕かれたような白い塊。それが敷き詰められたように周りに転がっていた。
「ちょっと、これ…。嫌だっ!骨じゃないっ!」
 あかねの顔が歪んだ。よく見ると、骨盤や頭蓋骨らしき切片が見え隠れする。
「ん?壁に字が書いてあるぜ…。」
 乱馬は赤い炎を土壁に近づけた。確かにそこには墨書きの字が並ぶ。
「おみつ…享年三十四、寛政三年…。あん?何だ?墓か?」
 乱馬はぎょっとして振り返る。
「えっとこっちは…。天保十三年、享年二十七、たつ…。」
 ずらずらと墨で書かれたのは女性の名らしきものと享年だった。
「ひょっとして、巫女を務めた者の墓じゃねえのか?」
 乱馬はあかねを振り返った。
「そう考えた方が自然よね…。まさか、巫女が生贄になったわけでもなさそうだし…。」
「昔はどうか知らねえが…。今はそれはないぜ。第一法律が生贄なんか許しちゃいねえ…。それにほら、巫女経験者の婆さんと若女将が上に居たじゃねえか…。」
「それもそうよね…。」
 あかねはじっと乱馬にしがみ付いていた。こんな暗闇に得体の知れぬ骨。気持ち悪くない筈はない。
「ん?こっち見ろよ…。」
 乱馬は何かを見つけたらしくあかねを引っ張った。
「何?」
「ほら…ここの壁の文字…。」
「雪村サエ…享年三十八…平成○年…。そっか、サエさんだ。」
「こっちにもあるぜ…。森野泉、享年四十一、平成○年…・。」
「そっか、サエさんと同じ歳に巫女で舞ったという人ね…。」
「やっぱ、そうだよ…。きっと昔から巫女を務めた者はここへ埋葬されたんだよ…。」
「よく見ると、白い巫女装束の切れ端みたいなのも落ちてるわ。土器(かわらけ)みたいな欠片も落ちてる…。」
「そういうことだな…。ま、祟りがあるわけでもなかろう…。」
「ん?」
 乱馬は言葉を止めた。
「どうしたの?」
「いや、ほら…。下を良く見ろよ…。」
 乱馬は纏わりついて来るあかねを抱きとめながら松明を照らした。
「見ろって、お骨がびっしりあるだけだけど…。」
「いや、その下、ほら盛り上がってる…。」
 目を凝らすと、骨の下を何か血脈のようなものがびっしりと埋まっていた。
「何これ…。何かの根っこみたい。」
「…。もしかすると、ほら、上に老木があったろう。それの根かもしれねえな…。」
 乱馬はじっとそれを眺めた。
「お雪さんのご御霊木の根っこ?でも、こんな奥深くまで根っこって張るものなのかなあ…。」
「わかんねえぞ、相当な古木だったしな。」
「でも、驚いちゃったな…。」
「あまり気持ちのいいもんじゃねえな…。」
「踏んじゃっていいのかな…。骨とか根っことか…。」
「仕方ねえだろ…。今更。それに。多分、巫女の力を借りたいほど、重要なものが封印されてるんだろうよ…。」
「そうね…。なんだかドキドキしちゃうわね…。」
「ああ、それだけ俺たちは大変な役割を背負わされたってことだ。気を引き締めていけよ…。」
「他人事みたいに…。」
 二人は更に奥へと進む。道は暫く行ったところで壁に突き当たった。
「ここまでかな…。」
 乱馬が松明を翳すと、あかねが袖を引っ張った。
「まだ続いてる…。ほら今度はあっち…。」
 あかねは右手の方を指した。
「まだ奥があるのかよ…。」
 実際はそう深く潜っていないのであろうが、暗闇と異様な光景が二人をすっかり気分を萎えさせていた。
「ちぇっ!どこまで続いてるんだよぅ…。」
 文句の一つも言いたくなる。
 松明を照らしながらあかねの指差した方向へと足を進める。
 壁の途切れた所に、ぽっかりと空洞が開いていた。

 空気の流れが変わった。

 ゆらっと松明の火が揺れた。
「あかね…。」
 乱馬は思わずあかねを己の方へ抱き寄せる。あかねもひしっと乱馬の傍へ寄った。異様な妖気がそこへ満ちている。そんな気配を感じた。
 ごくんと生唾を飲み込んで、二人はその空洞へ入った。
「なんだ…。ここは…。」
 中へ入って二人は足を止めた。
 今まで怖々と歩いてきた暗闇よりも更に深い闇に覆われた奥の部屋。天井はずっと高く、鍾乳洞のような石蝋が自然な柱になっていた。暗闇の中に浮かぶちかちかと無数の光が松明を乱反射して目に差し込んでくる。赤い血のような色の岩肌にそれらは無数にこびり付いてイルミネーションのように光り輝く。その周りにへばりつくように伸びる大木の根っこ。おどろおどろしい空間だった。
「光ってるやつ、石英か何かか?」
 乱馬は松明を前へ差し出した。
「違うわ…。ほら…。」
 あかねは白い息を吐いた。そしてその光の粒を手に取った。
「小さな氷の欠片よ…。ほら…。溶けるもの。」
「本当だ…。じゃ、これは無数の氷の欠片だっていうのか。」
「みたいよ…。」
「でも、この中はそんなに寒くねえぞ…。いや、かえって暖けえくらいだ。」
 二人は顔を見合わせた。
 光は奥へ行くほど増えている。目を凝らすと祭壇のように盛り上がったところが見えた。
「乱馬、あそこ…。」
 あかねは乱馬の腕を引っ張って促した。
「こ、ここれは…・。」
 無数に輝く氷の欠片はその盛り上がりへびっしりと張り付くようにくっついていた。その周りには、玉串が捧げられ、素焼きの土師器が並べ立てられていた。
 まるで小さな古墳のようだ。土師器は丁度、埴輪のように見える。
 中央には封印なのか注連縄がそれらしく張り巡らされていた。
「乱馬…。」
「ああ、きっとこれが魔物を封じた場所だな。」
 乱馬はあかねの肩をぐっと抱き寄せた。
 方墳の中央には見事な刀が一本、突き刺さっている。多分それが神主の言っていた破魔の刀なのだろう。
「大丈夫…。俺がついてる…。」
 あかねを安心させるために、乱馬はぐっと抱き寄せる手に力を入れた。
「うん…。」
 頼りにしていると言いたげに、あかねもぴったりと乱馬に身体を密着させた。
 周りに張り付く氷の粒は妖艶に松明の光を受けて輝きだす。
 足元には白骨の代わりに縄が張り巡らされていた。よく見ると木の札のようなものがあちこちに付けられている。
「結界…か。」
 乱馬はぽそっと言葉を吐いた。
「こんな縄だけで魔物の侵入を防げたのかよ…。」
 それは結界というにはあまりにも小汚い頼りない注連縄だった。
「いいか、越えるぞ…。」
 越えたからどうこうという訳ではなかったが、二人は注連縄を踏まないように超えて中側へと入っていった。
「燭台へ火を灯すか…。」
 まず乱馬は持ってきた蝋燭を、傍にあった燭台へ立てた。一本、二本と。教えられたとおり、三本立てた。
「ふう…。これで松明が消えても闇にはならねえ…。」
 乱馬はほっと一息ついた。
 じじじっと蝋燭が鳴り、火が揺らめきだす。
「蝋燭って案外明るいんだね…。」
 あかねもほっとしたのか、乱馬を見てにこっと笑った。
「ああ…。どんな暗闇もこれがあれば、怖くねえってところかな。」
「で、これから朝までどうするの?それに…。朝ってわかるのかしら…。」
 あかねは素朴な疑問を乱馬に投げた。
「さあな…。朝日が昇れば誰かここまで降りてくるんじゃねえか?」
「あれ…ねえ乱馬、あそこ…。」
 あかねは奥の方を指差した。
「ねえ、あれって。」
「太陽の光だな…。」
 岩が薄く開いていて、真っ直ぐに降りてくる太陽の光があった。薄日が差し込んで、きらきらと氷を照らし出す。
「今、真昼間だもんな…。」
「ねえ、確か魔物は…。」
「夜の闇と共に来るとか言ってたな…。」
「日が落ちてからかあ…。」
 あかねはぽそっと口開く。
「寒くないね…。ここ。」
「ああ…。」
「雪山の腹の中だからもっと寒いかと思ってたけど…。」
「地中は案外暖けえもんだぜ。雪だってかまくらにして固めてしまえば吹雪を避けられるくらいだから。」
「そうなの?」
「ああ…。何度も雪山で遭難しかけてっからな…。俺とオヤジは。」
 乱馬は厳しい冬山の修業に何度か借り出されたことを思い出しながらあかねに言った。
「暖かいから氷も張り付かないのかしら…。」
「かもな…。確かこの下には湯脈があるって爺さんがさっき言ってただろ。きっとそのせいじゃねえかな…。寒くないのは…。」
「夜になっても大丈夫かな…。」
「さあな…。な、それよりあかね、身体休めておけよ。今から気を張り詰めたまんまだと一晩持たねえぞ…。」
 そう言って乱馬はちょっと窪んだ場所を確保するとそこへ腰を下ろした。
「そうね…。まだ太陽があんなに高いんですものね…。今のうちに休息を取っておくのが得策なんでしょうね…。」
 あかねも同調して一緒に腰を下ろした。
「蝋燭も暫くは消えねえだろ…。一休みすっかな…。」
 そう言うと乱馬は方墳の脇の壁へ身体を押し付けた。ここはさっきのような白骨は転がっていない。
 地面も柔らかい土だった。根っこもここにはへばりついている様子は無い。
 いつでも臨戦態勢に入れるように、横にはならなかった。腰を屈めて壁に背を当てた。
「あかねも休んどけよ…。」
 乱馬は傍のあかねに声を掛けた。
 それから乱馬は垂らしていた髪をたくし上げてごそごそと手を動かし始めた。
「何やってんの?」
 あかねが覗きこむと
「へっ!やっぱ、おさげがねえと落ちつかねえから結い上げてるんだ。」
 と乱馬が言った。そうだ。別にそのままポニーテール状に一括りだけしてだらんと垂らしていても良かったが、どことなく落ち着かなかったのだ。おさげは乱馬の象徴でもあった。最早、彼なりのスタイルのこだわりとなっていたのかもしれない。
「なあ、さっき言ってたろ…。若女将のゆきえさんがいろいろ話してくれたとか…。」
 乱馬はもぞもぞと結い上げながらあかねに振って来た。
「ん…。」
「何かここについて伝説でも伝わってんのか?」
「昔話をちょっとね。支度しながらしてくれたんだ…。」
「昔話ねえ…。ちょっと聞かせてみろよ。」
「いいよ…。何でも、この上にあるご神木にはお雪さんの魂が眠ってるんだって。」
「魂?ふうん…。」
「昔ね、ここいらは氷女(こおりめ)と雪女(ゆきめ)というユキオンナが住み着いていたんだって。彼女たちは、ひっそりと里から離れて暮らしてたんだそうよ。ところが、あるとき、都から落ちてきた侍が、この山に入って、温泉を見つけたそうなの。ユキオンナと温泉は相容れるものではないでしょ?」
「ま、そうだわな。温泉は温っかけえからな。雪だと溶けるもんな…。」
「でね、ユキオンナたちはこの地を追われることになったの。それを逆恨みして、彼女たちは人間に禍をもたらしたそよ。」
「ふうん…。随分勝手な話だな…。元はと言えば、ユキオンナたちの土地だったんだろ?そこへ人間が後から入ってきて追い出したのか?そりゃ、妖怪だって怒るぜ、普通…。」
 乱馬は相槌を打ちながら聞き入る。
「あるとき、二人の侍がここへやってきたんだって。兄と弟だったそうよ。地元の人たちに頼まれて、ユキオンナたちを退治したらしいの。その兄弟にはね、お雪という幼馴染がいたそうなの。自然、弟と恋仲になったそうよ。両親も認める許婚になって、もうすぐ結婚することになっていたんだって。たまたま湯治に訪れていたお雪さんと妖怪の間に悲劇が起こったんだって。雪女と氷女がお雪さんの身体を乗っ取ろうとして闘いになったそうよ…。」
「ふうん…。複雑なんだな…。で、どうなったんだ?」
「この山には古くからご霊木が聳え立っていて、その木に宿る神様がユキオンナたちの悪行に業を煮やして、兄弟たちに協力を申し出たんだって。」
「ご霊木?」
「ええ、何でも、神が降りてくると言い伝えられている山の霊木だったそうで…。この上の大木のご先祖様にあたるらしいわ。」
「ご神木のご先祖様ねえ…。で?」
「ご霊木の分身にユキオンナたちを封印すればいいということになったそうよ。そこで、二人の侍は神の導きのままに、ユキオンナたちをここへ引き寄せて封印したそうなの。でも、封印するためには依り代っていうのかしら、生贄が必要だったらしいの。」
「生贄…。嫌な言葉だな。」
「そう、たまたまそこへ来ていたお雪さんに卜占が当ってしまったそうよ。弟は泣く泣く、お雪さんをここの下の棺へと封印してユキオンナたちを鎮めたそうよ。」
「なるほどな…。なんか複雑に入り組んだ伝説なんだな…。」
「ユキオンナたちはお雪さんの御魂と共に永遠の眠りについたのね。弟侍はそれを嘆き苦しんで、ここから少し離れたお堂で暫くして即身成仏したって話だったわ…。」
「何か、嫌な話だな…。自己犠牲って奴か。」
 乱馬は夕べ夢枕に現れた武人のことを思い出していた。
 言葉を濁しながら乱馬に頼みごとをして消えた声の主。
(侍が兄弟で二人居たなんて、そんなこと初めて知ったぞ…。)
 黙りこくってあかねの話を考えていた。
「それで、その日から今夜が六百年目になるそうなの…。六百年目にもう一度改めて、邪念を追い払うために巫女が選ばれて。それがどうやらあたしたちってことらしいわ。」
「巫女ねえ…。たく…。かったるいだけじゃねえか。何で俺がこんな格好させられてるんだよ。迷惑な話だぜ。」
「ぶつくさ言わないでよ…。とにかく、巫女さんって神事を司る大切な役目だそうよ。十二年に一回、御神事を行って、ご霊木を清めるんだって。で、それに携わった巫女さんは皆、死を迎えると、ここへ丁重に葬られてきたって確かゆきえさんが言ってたなあ…。」
「途中で見たあれか…。あの骨か。とても丁重に葬られたって感じじゃあなかったけどな…。」
 途中の足場に散乱していた骨を思い出した乱馬は苦笑いをした。
(丁重に葬られたっていうより、何かに貪られたって感じだったな…。あの、張り付いた根っこで、この上の木が養分として吸い上げてるんじゃねえかって思うほどによ…。)
 腕組みをしたまま、乱馬は黙った。
 だが、思ったことはあかねには決して伝えなかった。
 只でさえ怖がりのあかねだ。あまり気持ちの良くない話は、この場ではしない方が良いに決まっている。

(何か、しっくりこねえな…。神主のじじいといい、旅館の婆さんといい若女将といい…。胡散臭えな…。)

 乱馬の表情は険しかった。
 何かとんでもない陰謀に巻き込まれかけているのではないかという危惧が心の片隅で引っかかりを持って己に警告を発しているのである。

(ま、いいか…。今更ジタバタしたって仕様がねえか…。)

「大体、伝説は分かった。何か複雑な事情があるみてえだな。六百年の満願だの、生贄だの。穏やかな話じゃねえことは確かだ。あかね…。」
 乱馬はじっとあかねを見た。
「気だけは研ぎ澄ませておけよ。何が起こるかは未知数だ。とんでもねえことが起きるかもしれねえし、何にもねえかもしれねえ。油断はするな…。だけど、今は至って穏やかだ。霊気も邪気も感じられねえ…。何か陰謀が動くとすればおそらくそれは「夜」だ。まだ、日が沈むまでには時間がある。今のうちにゆっくりと身体を休めて鋭気を貯えるんだ…。いいな。」
 乱馬の目がいついなく真剣だったのであかねもこくんと真面目に頷いた。
 それから乱馬はあかねの気を鎮めるためにか、そっと肩を己の方へと抱き寄せた。
 そっと触れるあかねの柔らかい身体。女に変化していることを忘れて思わず頭を引き寄せる。そして、肩の位置が己とそう変わらないことに気がついて苦笑する。
 伸ばす手も今は小さい。男のときのそれとは比べ物にならないくらい細くしなやかだ。
 思わず乱馬が身を引いたのであかねはきょとんと見上げた。
「どうしたの?」
「あ…。いや、何でもねえ…。」
 急に虚しさがこみ上げてきた。
 そう、己は今は女に変化している。この身体も手も足も声も、どこから見ても女そのものにしか見えない。肩を並べるあかねを包むには小さすぎる身体。
 ほうっと長い溜息が漏れた。
(いつになったら男に戻れるんだ…。いつになったら、どこに居てもどんな時も男のままであかねを抱き締めてやれるようになるんだ…。)
 それは己の悲願であるのかもしれない。そう思った。
 手を思わず置いた手を離しそうになったとき、あかねの方が身を寄せてきた。乱馬の細い肩にとんと頭を乗せてくる。

 あたしは気にしてない…。乱馬は乱馬だもの…。姿形は変化しても乱馬は男よ。

 そんなあかねの心の声が聞こえてくるような気がした。
 あかねの柔らかい鼓動とぬくもりと。
 あかねは至上の宝物だ。そう思った。

 何時の間にかあかねは寝息をたてていた。
 こくん、こくんと小さな頭が乱馬の肩のところで動く。
(緊張感のねえ奴だな…。ま、それでもいいが…。)
 乱馬は眠ってしまったあかねをみて自然に口元が緩んだ。時々肩にかかるあかねの息がくすぐったい。女の形をしていても心は健康な少年。肩に枝垂れかかりながら安心しきるあかねが愛しく思うのは少女に変化している時も同じ。
(それにしても…。ここへはいろんな怨念が染み付いているんだろうな…。)
 暗がりの天井をふと眺めた。
 ただの霊気だけではない。怒り、哀しみ、恨み、辛み。妖怪と人間の情念が長年に渡って封じ込められてきた。そんな感じを肌で受け止める。
 それを「気」として捉えられるのは、乱馬が一流の武道家に成長しつつある証のようなものだったのかもしれない。

(ここへ俺たちを導いた者は、何をさせようとしているのか…?)

 やり切れぬ思いとあかねの温もりを感じながら乱馬もまた浅い眠りに落ちる。

 どのくらいそこで眠りを貪ったのだろう。
 ふと気がつくと燭台の火が消えかかっていた。もう蝋燭が途切れそうだ。
「おっと、いけねえ…。」
 乱馬は立ち上がると、持って来た巾着からまた蝋燭を一本取り出す。丁寧に火を灯すと、またあかねの傍に戻った。あかねも目が覚めたのか
「おはよう…。」
 と、にっこり微笑んだ。
 この状況に、おはようはねえだろう…そう言い返したくなったがやめた。ここで喧嘩するのも大人げない。
 どのくらい眠ってしまっていたのか。
 天井を見上げるともう太陽の光はそこには無かった。
「日が暮れちまったかな…。」
 
 そう思ったときだった。
 空気の流れが一瞬変わった。

「どうしたの?」
 あかねが身構えた乱馬を見て問い掛けた。
「しっ!誰か来る。」
 乱馬は洞穴の入口の方をじっと見定めた。あかねをぐっと傍へ抱き寄せるように引っ張ると、きっと気を感じる方を睨みつける。
 コツコツと響く足音。
 近づく松明の揺らめき。

「あ、ゆきえさん。」
 あかねの顔は一瞬緩んだ。
 そこに現れたのは若女将のゆきえだったからだ。知った顔にほっとしたあかねと対照的に乱馬表情は険しくなる。



つづく



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