第四話 白い巫女と赤い巫女


 凍てつくような夜明けのまどろみ…。
 あかねを傍にぐっすりと眠りを貪る乱馬を遥かに呼ぶ声がした。


 呼応するように光る乱馬の胸の谷間。
 爺さんに貰った勾玉が赤く光り輝く。
『益荒乙女…。我が魂を手にする乙女よ…。』
「ん?」
 遥かに呼ばれる声に乱馬は反応した。
『ここはおまえの意識の下の世界。そのままで聴くが良い…。猛し心を持つ乙女よ…。』
「誰だ…おめえ…。」
『我は遥か昔、お雪を沈めし武士(もののふ)、時任康成なり。』
「もののふ?ときとう、やすなり?」
『そうだ…。』
「その武士さんが俺に何の用だ?」
『おぬしは満願の巫女を賜った益荒乙女であろう?』
「ああ・・、不本意だけどな…。」
『満願の神事の前に申し置くことがある。だからこうやっておぬしに夢枕で伝えに来た。』
「ご苦労さまなことだな…。で、何だ?」
『明日は我がお雪の魂を社へ沈めて六百年目の満願の日だ。だが、それは同時に雪女(ゆきめ)と氷女(こおりめ)たちにっとっても蘇りの日でもある…。」
「雪女と氷女?二人もいるのか?化け物は…。」
『だから、二人の巫女に託してある…。それは良い…。奴が、奴が、虎視眈々とお雪の魂を鎮めたご霊木を狙っておる。』
「お雪の魂、ご霊木?」
『我が封印せし許婚の御霊を鎮めた霊木じゃ。いや、本当は…邪木(じゃぼく)と言った方が良いかも知れぬがな…。今を去ること六百年前、我は雪女と氷女を封じるため、許婚を生贄に雪女と氷女の二つの禍を鎮めさせられた。だが…。奴は満願近くなり、己の悪しき陰謀を再び貫こうと動き始めたのだ。新たな六百年を生き抜くためにな…。まだ、この世に禍成すほどの力は持たぬが、明日、奴はきっとお雪の封印を解こうとするに違いない…。雪女と氷女を使ってな…。そして、おそらく、赤巫女になる娘を狙って襲い掛かってくるに違いない。新たなご霊木の生贄にするために。』
「生贄だって?」
『恐らく奴は赤巫女を生贄に選んだに違いない。それが証拠に、その娘は瘴気にあたって熱を出した…。そう、おぬしらはもう。禍事に巻き込まれておる。その意志とは裏腹に…。』
「巻き込まれてるのか…。禍に…。」
 乱馬は無表情で繰り返した。
『そうだ・・。逃げようとしても、おそらく無事にここからは出られぬだろう。見よ…。あの闇を…。』
 乱馬は声のする方を振り返った。夢の中かもしれなかったが、どす黒い闇がその触手をあかねや己を飲み込もうと上空を取り巻いているのがはっきりと見えた。
『益荒乙女…。この勾玉の中に眠る力を呼び覚まし、その悪しき邪念を永遠に葬り去ってくれぬか?』
「そうか…どっちにしてももう巻き込まれたって訳か・・俺たちは…。」
『すまぬ…そして頼む…。我がその昔犠牲にした許婚のお雪の御霊に報いるためにも、ご神事を護り、凍てつく闇を永久に封じて給う。奴の邪心を尽く薙ぎ払って…。』
「ああ、良くわからねえが、あかねに禍なす奴は俺にとっても禍だ…。任せておけ…。」
『そうか・・引き受けてくれるか…。』
 声の主は明るい声色になった。
『ならば、おまえに我の力を与えよう…。だが、この力、最後の最後まで解いてはならぬ…。御神事に与するどの者たちにも決して心許してはならぬ。奴が紛れこんでおろう。そう、神事に携わる者等は皆、それぞれの思惑を叶えんとそれしか考えてはおらぬと知りおくがよい。そう、ギリギリまでおぬしは益荒乙女で居よ・・力を解放するな。最後に邪木の根元の奥深くに眠る破魔の刀剣で闇を切り裂け。良いか、決して誰にも悟られてはならぬぞ…。おぬしの本来の姿を…。そしてその娘を守リ抜け。決して闇に負けてはならぬ。手放してはならぬ。大切な許婚ならば…。益荒乙女、いや、益荒男よ…。すまぬ・・奴は衰えたとはいえ、邪木の霊力があるゆえに、これだけしかお主に教えることが出来ぬ。後は、己の目で確かめるのだ。再び奴へ清き乙女を与えてはならぬっ!!任せたぞっ!!』


 光は次第に薄れ、いつしか朝の太陽が雨戸越しに射しこんで、乱馬の瞼の上で止まった。

「う…ん…。」
 
 乱馬はその光の眩しさに、目をゆっくりと開いた。
「夢…か?」
 声の主の気配はなかった。胸の谷間に揺れる勾玉はただ、石の硬いくすんだ輝きしか持ってはいなかった。だが、嫌にはっきり覚えている低い声の主…。凛とした響きの中にあった悲しげな口調。
 傍で眠る愛しい少女をそっと盗み見る。
 憂いもなく眠る少女に、乱馬はふっと優しげな表情を向けた。
「さっきの声の主が言ったことが本当ならば、もう、俺たちは化け物たちの陰謀に巻き込まれてるって訳だ…。大きな禍の渦に…。守ってやるから…。絶対に…。」
 心でそう吐き出した。それは己自身に対する決意でもあった。
 乱馬はそっとあかねの頬に口付けると、ゆっくりと蒲団を出た。朝の冷気が射すように頬を掠めてゆく。
 乱馬の唇の気配を感じたのか、あかねがパッチリと目を開けた。
「あれ・・あたし…。」
「目が覚めたか?」
 静かにあかねに言葉を投げかけた。
「おはよう…。え…もしかして、あたしたち…。」
 蒲団が一つなのを発見してあかねが言葉を止めた。
「あ、言っとくがな、俺は何にもしちゃいないからな…。誤解すんなよ…。ずっと女のまんまで寝てたんだから…。それにだ、傍に居ろって言ったのはおめえだからな…。」
 乱馬は真っ赤になってソッポを向いた。
 あかねの頬もまた赤くなる。
「わ、わかってるわよっ!そんなことっ!あんたが、そんな勇気あるとは思えないし…。」
「けっ!誰がおめえみたいな色気のねえ女とっ!!」
「なんですってぇ?」
 そう言葉を振り上げた時、襖が開いた。
「ぼちぼち支度をと神主さまがお呼びでございます。宜しいかな?」
 元女将のセツ婆さんだった。

 中途で痴話喧嘩を止められて少し手持ち無沙汰になったが、二人はそこで会話を止めた。
「さて、赤巫女さまのあかねさんは若女将が、白巫女さまの乱子さんは私がお手伝いしますじゃ…。」
 にこにことセツ婆さんは話し掛けてくる。
「あ、あの…。出来れば乱子ちゃんと別の部屋で支度させてもらえませんか?」
 あかねはたじろぎながらセツ婆さんに言った。いくら女の形をしていても、元は男の乱馬だ。やはり同じ部屋での着替えは気恥かしかった。
「別によろしいですじゃが…。乱子さんは?」
「おほほほほ…。あかねさんって案外恥かしがりやですの…。あたしのバストの大きさにちょっと嫉妬してらっしゃいますの。あたしもそんなふうで喧嘩なんかしたくもありませんから、是非。別でお支度させてくださいませいな…。」
 あかねは乱馬の言いようにカチンときて、目立たないように思いっきり乱馬の脚を踏みつけた。
「いって…。凶暴女め…。ま、そのくらい元気があったら大丈夫だな…。熱も下がったみたいだし…。」
 乱馬は目配せしながらこそっと言った。
「分かってると思うが、俺の正体は絶対内緒だかんな…。」
 去り際にあかねに耳打ちすると
「さあ、行きましょう・・おばばさま。」
 そう言って寝間から立ち去った。

 外の井戸水で一通り禊(みそぎ)して乱馬は用意された部屋へ通された。
「お湯を使われればよろしいのに…。」
 セツ婆さんはわざわざ水で震えながら禊(みそぎ)する乱馬を見て笑った。
「いえ、目覚ましにはこのくらいで丁度いいですのよ…。ほほほ…。それが武道家の志の高さですわ!」
 ざんぶと頭から水を被った。やせ我慢の乱馬。
 目の前で湯浴みして男に戻る訳にもいかないのだ。ここは辛い所だがじっと耐えた。鳥肌がざあっと全身を覆ってゆく。
(ちめてーっ!くそっ!なんで俺が…。)
 そう思いながら堪えた。
「ほんに、いい身体つきをされておりますのう…。乱子さんは…。」
 禊が終わると、支度しながらセツ婆さんが言った。
「これは?」
 セツ婆さんは乱馬が吊り下げていたお守り袋に目が言ったらしく問い掛けてきた。
「見てのとおり、お守りですわ…。亡くなったオフクロさまが形見に授けてくださいましたの…。」
 咄嗟にとんでもない嘘をついた。勿論、彼の母、のどかは存命である。何故か、嘘をついてでも誤魔化さなければ不味いと咄嗟に判断したのである。脳裏に今朝方夢枕に立った武士(もののふ)のことが浮かんだからである。
「ほお、お母様の…。」
 セツ婆さんはそれ以上詮索しなかった。別に咎める風もなく、お守りはそのままにした。そして、乱馬に巫女の衣装を手馴れた手つきで着付けてゆく。
 みるみるうちに清純な巫女が一人仕上がった。
 後は髪飾りを結うだけである。
「おさげを外してもよいですかな?」
「ええ。どうぞ…。」
 乱馬はにっこりと愛想笑いを浮かべた。
 おさげを解いて、水引で髪をそれらしく結い上げた。
「そうそう…白いカンザシ…これを最後に襟元へ忍ばせておいてくだされ…。」
 セツ婆さんは昨日投げつけたカンザシを乱馬から取るとそれを改めて手渡した。
「あ、はい…。」
「それから…。これから明日の朝まで不眠不休で御神事が続きますゆえ、そう緊張なさらぬように…。」

 支度が終わると、乱馬は座敷へ通された。
 玄馬と早雲が並んで二人を出迎える。
「ほお…良く似合ってるではないか・・乱子よ。」
 にやにやと玄馬が笑いながら問い掛ける。
「あかねくんも可愛いじゃないか…。」
 玄馬の言葉に思わず乱馬はあかねをちらっと盗み見た。
「馬子にも衣装か…。」
「何よそれ…。」
 あかねが俯き加減に答えた。頬と口に薄っすらと紅をつけている。
「化粧か…?」
「うん…赤巫女はこうやって少しだけ白粉(おしろい)と紅(べに)をさすんだって…。」
「ふうん…。」
 少しだけドキッとした。
(可愛い…や…。)
 つい、男としての意識が浮かび上がってくる。ぶんぶんと乱馬は内心で首を振った。
(いっけね…。あかねに見惚れてる場合じゃねえや…。俺はこの神事を無事に終えることだけを考えねえと…。)

「準備は万端ですかな…。皆様方…。」
 厳かに神事を司る神主が現れた。昨夜の酔いどれスケベ爺さんぶりとは打って変わって真面目な面持ちの爺さんが現れた。
(人間は衣装で化けるっていうけど、本当にそうだな…。)
 妙に感心をしてしまう乱馬であった。
 皆でぞろぞろと雪の石段を登りながら隣の山の社を目指す。
「思ったよりきついじゃねーか。この階段…。」
 既に息が上がったのか、早雲と玄馬が遅れ出した。
「ちぇっ!親父たちだらしねえなあ…。」
 乱馬は苦笑しながら上を目指す。雪に包まれた階段の脇には蝋燭を灯す雪灯篭が作られている。
 前を行くあかねは足取りもしっかりしている。すっかり昨夜の熱は引いたらしい。何にしても良かったと乱馬は思った。
 雪の照り返しが眩しい上天気の朝だった。だが、空気は冷たく、雪が溶けるにはまだ外気温が低かった。
 社は山の上にひっそりと建っていた。
 思ったより丁寧に手が加えられていて、しっかりとした古い木造の寺社作りの屋根が一行を迎えた。屋根は急勾配で、雪が自然に下に落ちるように出来ていたので、お社の回りには自然に落ちた雪で覆い尽くされるような形になっていた。
 その傍らに大きな木が植えられていた。いや、植えられてというよりは、社をその木が守っている、そんな風に見えた。
「なあ、あの木、すげえな…。」
 乱馬は葉を天へ広げる木を仰ぎ見た。
「お雪さまの御霊木なんですって…。」
 あかねが言った。
「お雪さまの御霊木?」
 乱馬はきょとんと聞き返した。
「さっき、支度しながらいろいろと若女将さんに教えてもらったのよ。この木や山にまつわる悲しい伝説とかをね…。」
「ふうん…。」
「後で聞いたこと話してあげるわ。どうせ御神事の間は暇だろうし…。」
「お、おう…。」
 乱馬はそこで言葉を止めた。
 仰ぎ見る大木はさやさやと葉を天へあげるが、心なしか元気なさげに見えた。どうやら常緑樹のようではあったが、かなりの老齢と見た。時々枝から昨夜積もった雪がどっかと下へと落ちてくる。
 それ相応のご神木なのだろう。支援縄が張られている。

「さあ、ここから中へ…。」

 神主が後ろを振り返った。
 ぎいっと軋む音がして賽銭箱の向こうの観音開きの戸が開く。
 中は薄暗く、つんとカビ臭い湿った空気が鼻をつく。
 正面には大きな鏡が備えられていた。どこの神社にもあるようなそんな丸い大きな鏡だ。一応掃除はされていたのだろう。履物を脱いで中へ上がっても塵一つ落ちてはいなかった。
 祭壇へは餅や酒樽がそれらしく供えられていた。
 神主は玉串をとると丁寧にそれを祭壇へ供えた。そして一礼すると「大祓詞」(おおはらえのみことのり)を唱え始める。手馴れたもので声も良く通る。
 乱馬とあかねは前へ鎮座してひたすら詞が終わるのを待った。
 それから、教えられたとおり、舞を舞い始める。静かに鈴の音色だけで舞われるこの舞楽。あかねは不器用なだけあって、何度か裾を踏んで前のめりになりそうだったが、乱馬がさりげなくそれを助けた。どんな上手な舞人たちにも負けぬくらい息だけは合っていた。
 衣擦れの音と鈴の音と。決して上手とは言えなかったが、即席の舞としては上出来だっただろう。

「ご開帳の儀式は滞りなく終わりました。後は我ら三人にお任せして、皆さまはお引き上げください。」
 神主は厳かにそう言った。
 そう、これからが性根の入れ時なのである。
 夜明けまでご神事が続くという。体力が居るというのは長丁場の儀式に耐えるためなのだろう。
 早雲や玄馬は後は頼むと言っただけでそそくさと山の上の社を後にした。大方明日、乱馬とあかねが下山するまで酒を酌み交わし飲んだくれるのであろう。
 女主と女将も下がる。ぞろぞろと集まってきた里の人や、少しの観光客も立ち去った。
 後は神主と巫女姿の乱馬とあかねだけである。

「さて…。良いかな…。」
 神主は改まって二人に対峙した。
「私の卜占では、やはり、凶事が差し迫っていると卦が出た。何か大きな陰謀、いや、闇がこの山に渦巻いているのをひしひしと感じるのじゃ…。或いは禍に巻き込まれるかもしれぬ。で、改めて聞く…。神事を続けられるか?」
 あかねは黙していた。彼女もそれなりに何かを感じているのだろうか。
 乱馬はじっとあかねを見た。
『いいか?あかね…。』
 彼の瞳は凛と燃えて輝いた。
 あかねはそんな乱馬の視線を感じたのだろう、こくっとひとつ頷くと、じっと拝殿の奥を見詰めた。
 乱馬もあかねが頷いたのを受けて、改めて手を付いた。
「元々覚悟はできている。俺もあかねも武道を強く志す者。どんな苦境にも耐えて見せます。満願の儀を始めて下さい…。」
 その言葉は少女のそれではなかった。胸を張って仁王立つ男漢そのものだった。
「合い分かった、ではこれより禁断の間へ…。」
 まだ奥があるのだろうか。
 神主は二人を厳かに案内した。
 拝殿の奥に小さな祠が祭ってある。
 結界の注連縄がここぞとばかりに張り巡らされた小さな石の洞穴の入口だった。
 大きな錠が掛けられている。思わせぶりな鉄の錠前だった。
 神主はそれを鍵でこじ開けた。
 錆付いた錠前がぎしっと音をたてて外れる。重苦しい空気が中から湧きあがってくる。

「ここから先は、おぬしら巫女しか入れない。男は進めないのだ…。」
 神主はそう言うとにこっと笑った。
 下から生温かい風が吹き上がってくる。
「何か異様な空間だな…。ここは。ずっと下まで続いてるみてえだな…。」
 乱馬はあかねを見返した。緊張した面持ちであかねはそこに居た。
「言い伝えでは、ずっと下にはお雪さんを封じた棺(ひつぎ)があるって。」
「棺?」
 凡そ穢れを嫌う神社には似つかわしくない代物だ。
「昔、雪女を封じたとき、時任何某という武士(もののふ)が己の許婚を依り代にしたという悲劇が伝わってるのよ…。」
 乱馬はびくんとした。
(時任…。そうだ、あの声の主はそんな氏(うじ)を名乗ったぞ…。)
「依り代?なんでそんなことおめえが知ってるんだ?」
 あかねへ聞き返した。
「だから、女将のゆきえさんに聞いたんだってば…。」
 あかねはむすっと答えた。
「この奥はな、荒れ狂った雪女の霊魂をそのまま許婚の身体に封じたという秘儀が行われた洞窟だそうじゃで…。里を守るためには犠牲を払うしかなかったという悲しい伝説ですがな…。」
 あかねの代わりに神主が返事した。
 許婚に封じた悪しき魂。それが復活を目論んでいるというのだろうか。
「で、その武人はどうしたんだ?許婚を封じた後…。」
 乱馬は神主を振り返って尋ねた。
「さあ・・。一説では旅の僧侶に身をやつし、見知らぬ地で果てたとも、ずっとこの地に残って、許婚の傍で果てたとも…。いずれにしても払った犠牲は大きかったと伝え聞くでな…。今は昔の話じゃがのう…。」
「でも、なんでその時任何某の武人だったんだ?他にも僧侶とか神官とか居たろうに…。」
 乱馬はぶすっと聞き返した。
「さあのう。伝えによれば、時任康成は霊能力のある侍だったとも言われておるでのう…。陰陽に通じた。」
「それが仇になったってわけか…。人が良かったんだな。己やその許婚を犠牲にしてしまうほど…。」
「自己犠牲を払ってまで倒さなければならない相手だったのよ、きっと…。」
 あかねがそう言った。
「そっかな…。時の権力者に利用されただけかもしれねえし…。何か他に理由があったのかもしれねえ…。ま、昔のことはわからねえことの方が多いがな…。」
 
 やりきれない思いが二人の上に去来した。
「にしても、他に方法はなかったのかよ…。」
 乱馬はぼそっと吐き出していた。今朝方現れたのは、許婚を犠牲にしてしまった時任何某の魂だったのかもしれない。彼の口にした言葉が脳裏を過ぎる。
(まさかとは思うが…。)
 乱馬は悪い予感を拭えないで居た。
 そしてあかねをじっと見詰めた。
(おまえは俺が守るっ!絶対に、守りきってやるっ!!)
 悲愴な決意だったかもしれない。
 ここまで来た以上はもう引き返せない。武道家としての誇りがある。

「で、俺たちに具体的には何をしろと?」
 乱馬は率直に神主に問うた。
「祠の一番奥には、お雪の身体ごと封印した祭壇が設けてある。その上には、封印の証として刀が一本突き刺されてある。その刀を魔物から守って欲しい。」
「というと…。その刀を取られなきゃいいんだな?」
 乱馬の鋭い視線が老人を捕えた。
「そうじゃ…。その刀を抜けば、封印は解かれる。それを阻止して欲しい。それがおぬしらの役目じゃ。」
「そっか…。分かり易いな…。」
「それともう一つ。」
 神主は言った。
「魔物はその祭壇の周りに張り巡らされた結界から中へは入れぬ。その結界を中から解かぬ限りは…。」
「ふうん…。」
「ただ、長年、地に潜ったままの結界の注連縄だ。ぼちぼち朽ち果てるやもしれぬ。気をつけよ。結界を越えられるものは、清き心の乙女のみ。」
 神主はきっぱりと言い放った。

「兎に角、ワシはここで結界を張っていかなる霊気の侵入も流出もなきように守り通す…。それがワシの最大の使命じゃて…。」
 神主はそう言うと、ドンと座して祠へと対峙した。
 お神酒を振り掛け、塩を四隅に盛り、玉串を捧げ、そして中央へ座る。
「いいか、あかね。絶対に俺の傍を離れるんじゃねえぞ…。」
 乱馬は真剣な面持ちであかねを見た。
「うん…。わかった。」
 あかねもこくんと頷く。彼女の武道家の本能も、只事ではない妖気を感じているのだろう。身の毛も弥立つような妖気。その中心へと出向く。
「御神具は持ったかの?」
 神主はちらりと見やった。
「カンザシも、清めの砂も、玉串も持った。」
「ならば、これも…。」
 神主は供物の皿から何かを差し出した。
「腹が減っては戦はできぬからのう…。糒(ほしいい)じゃよ。それと、竹筒に入った水じゃ。」
 手軽な弁当という訳だ。
「こんなんで力出るのかな…。」
 乱馬が苦笑すると
「何を言うっ!これじゃからきょう日の若い者は…。有り難きご神前の糒じゃ。巫女が喰らえば霊力も高まると言われておる。」
「ふうん…。ま、いいや、何もないよりはましだな。あかね、持っとけ!」
 乱馬は神主から巾着を受け取るとあかねに託した。
「なあ…。この下にあるのは、封印された祭壇だけか?なんか物凄く異様なくらいむんとしてるみたいだぞ…。」
 数少ない中の情報を少しでも得ておこうと乱馬は更に神主に問い掛けた。
「この里の湯脈がこの地中に流れているらしいがのう…。大方熱気はそれが放つエネルギーかもしれぬ。」
「湯脈?」
 あかねが聞き返す。
「温泉の源泉じゃよ…。」
「ほお…。源泉があるのか・・。」
「おぬしらが昨夜泊まった雪見荘の脇に噴出した源泉を今では使って湯を引いておるが、元々はこの穴から噴出す温水だったそうじゃ…。お雪さまを鎮めてからは、ぱったりとその湯はここからは沸かなくなったというが…。」
「ふうん…。湯が湧き出す源泉があるのか…。」
 乱馬は反芻した。
「兎に角、頼みましたぞ…。お雪の封印を狙いし者どもはどんな形で襲い来るか予想だにできぬ。また、何事もなく終わるかも知れぬ。明日の夜明けの朝日が昇るまで…。しかと、封印と結界を守ってくだされ。」
「任しとけっ!」
 乱馬はどんと胸を叩いた。
「では…。封印の扉を超えて降りていかれよっ!」
 
 神主は封印の注連縄をたくし上げた。そして、それを潜って乱馬とあかねは結界の内側へと侵入する。
「じゃ、爺さんっ!また明日な…。夜明け前に…。」
 乱馬はにっと笑うとあかねの手を引いた。
「行くぞっ!あかねっ!」
「うんっ!」
 元気良く二人は広がる闇の奥へと消えていった。

「何事もなくば良し…。いや、そうあって欲しいがのう…。」
 神主の爺さんは乱馬とあかねが消えた祠の外に佇みじっと目を凝らした。
「さてと…。後はこの結界を守るのがワシの役目じゃ…。今のところはのう…。」
 そう言うと神主はどっかと腰を下ろし、お払いをはじめる。
 どこからともなく吹く風は大きな唸り声を上げて、この古い社を包んだ。まるで地下深くへ降りてゆく二人への鎮魂歌を奏でるように。



つづく



c)Copyright 2000-2011 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。