◇雪山奇譚

第一話 発端



 あかねの笑顔が遠ざかる。
 吹雪が辺りを閉ざしている。
「あかねっ!しっかりしろっ!!あかねっ!!」
 乱馬は叫んだ。抱き締めるあかねの身体はみるみる熱を失い蒼白へと変化し始める。
「あかねっ!起きろっ!あかねーっ!!!」







 蒲団を撥ね退けて乱馬は起き上がった。
 ぐっしょりと寝汗をかいている。息は荒く、咽喉はカラカラだ。心臓は激しく鼓動を波打つ。
「ゆ、夢か…。」
 そう知ったとき、彼は大きく息を吐き出した。
「それにしても…。やな夢だったぜ…。」
 雨戸越しに朝の光が差し込んでくる。もう充分に陽は昇り切ったようだ。
 乱馬は汗で濡れたシャツを着替えようと手を伸ばした。

「乱馬…。起きてる?乱馬…。」
 障子越しに少女の声がした。
鈴の鳴るような可愛らしい声の主は、さっき夢の中で抱き締めた少女だ。
「ああ…。」
 乱馬は気のないそぶりで低く返事した。
「だったら、早く降りてきなさいよっ!支度できてないのはあんただけよっ!!」
 さっと障子が開いてドカドカと少女が入ってきた。
「くおらっ!まだ着替え中だっ!!」
 上半身裸体を曝していた乱馬が慌てて叫んだ。
「何カッコつけてんのよっ!見られるのがそんなに嫌ならさっさと起きなさいよね。」
 あかねはそう言いながらガラッと雨戸を開け始めた。
「いい天気…。絶好の旅行日和ね…。」
 あかねは真冬の太陽に向かって声を上げた。太陽光線と共に冷たい空気が流れ込む。
「ちぇっ!結局おめえも来るのかよ…。」
 乱馬はいつものチャイナ服に袖を通しながらあかねをちらっと見やった。
「うん…。お父さんたちがしつこいし…。ま、たまには四人で出掛けるのもいいかなって思ってさ。」
 あかねは新鮮な朝の息吹を吸い込みながら答えた。
「たく…。なんでおじさんだけじゃなくっておめえまでついて来るんだよ…。」
「あ…。それってあたしが居たら邪魔ってことかな?」
 あかねはちょっと睨みながらそう聴き返した。
「ああ、邪魔だよ。おめえが居ると足手まといにしかならねえじゃねえか…。」
 前のホックを留めながら乱馬は不機嫌に吐き出した。
「もお…。一度決めたんだからあたしは絶対行くからねっ!!さっさとご飯食べちゃわないと、置いてくわよ。」
 あかねはあかんべを差し向けるとたったと部屋を出て行った。
「可愛くねえ…。」
 その背中に投げかけるいつもの言葉…。
 乱馬は苦笑しながら傍らのリュックへと無造作に物を詰め込み始めた。着替え、タオル、懐中電灯、マッチ、洗面道具セット…。慣れた手つきで詰め込んでゆく。
 黙々とこなす作業。何故か気乗りしないのは起き抜けに見た悪夢のせいだろうか。
(考え過ぎだな…。)
 彼はそう呟くと、リュックの紐を縛った。

 二月の連休。
 二泊三日の予定で彼は父親の玄馬と、居候で厄介になっている天道家の家長、早雲とその末娘あかねの四人で出かけることになっていた。
 「修業」と称していろいろな所を行脚してきた乱馬と玄馬だが、天道家の二人と一緒に出掛けるのは久しぶりかもしれない。
 無差別格闘早乙女流と天道流。機動性、実戦を重んじる早乙女流、力技に重きを置く天道流と若干の違いはあるが、基盤にある理念は同じである。そう、兄弟流派だ。天道流を継承するあかねとは許婚同士。
「久しぶりだね…。こうやって出掛けるのは…。」
「そうだね…。天道くん。のんびりとやろうよ…。」
 るんるん気分で軽やかな足取りの父親たちを尻目に、乱馬は一人浮かぬ顔をしていた。ずっと黙りこくってついて行く。
 あかねはそんな彼を不思議そうに見詰めるものの、くだらないことを言おうものならまた喧嘩になってしまいそうなのでじっと我慢をしていた。「喧嘩するほど仲が良い。」それを地でゆく許婚同士だったが、今日くらいは平穏に過ごそうと家を出るときから決めていた。
 折角の楽しい気分の旅行なのだから。
 あかねはふうっと溜息を吐いた。

 上野駅から東北方面へと列車の旅。北へ行くほど、雪景色となる。ゆらゆら揺られて数時間。そこから乗合バスで更に奥地へ。
 やっと着いた頃にはもうすっかり日暮れに近かった。
「遠かったわね…。」
 あかねはバスの降り際に荷物を背負い上げながらぼそっと言葉を吐いた。
「たく、親父たちのわがままに付き合うのも大変だぜ…。」
 乱馬が閉ざしていた口を開いた。列車の中でもずっとだんまりを決め込んでいた彼は、ほうっと長い溜息を吐く。
「ほらほら…。天道くん、いやああの時のまんまだよっ!!」
 玄馬が嬉しそうに指差した。
「おやおや、本当だね…。早乙女君。」
 どうやら父親たちは以前にもこの奥地のひなびた温泉地へ来たことがあるらしい。凡そ世間の喧騒から忘れ去られたような雪中の温泉地。名前すら知らない人が多いだろう。
 村の入口には「歓迎」の看板が錆び掛けていた。人影もまばらだ。本当に好きな人しか湯治に来ないような温泉地なのだろう。
 旅館も数えられるくらいしかない。それも、殆どが木造の時代物だ。平成の御世から取り残された建物ばかりが雪中に並んでいた。
 黒と白の世界…。そう表現できる、なんとも侘しい温泉地だった。
 バスを見送った後、玄馬がにっこりと乱馬たちに言った。
「さてと…。やっと目的地に着く訳だが…。その前にっと…。」

 ばしゃっ!!

 あかねの目の前で水が弾けた。
「ち、ちめてえっ!!な、何しやがんだっ!!クソ親父っ!!」
 乱馬が怒鳴った。
 水が頭から滴り落ちる。そう、玄馬に頭から冷や水を浴びせ掛けられたのだ。この寒空に水だ。掛けられた方は溜まったものではない。
「ちょっと、おじさま。乱馬に水を掛けるなんて…。」
 一緒に居たあかねも目を白黒させながら玄馬を見返した。
「いやあ、ちょっと事情があってなあ…。悪いがこの温泉郷に居る間は乱馬には女で居てもらうでな…。」
 玄馬がからからと笑いながら乱馬に向かって言い放った。
「聞いてねえぞっ!!んなことっ!!何でわざわざ俺が女にならなきゃならねえんだよっ!!」
 乱馬が怒鳴る。
「仕方あるまい。御招待を受けたのは我々の娘っ子二人なのだから。」
 玄馬が眼鏡を輝かせてそう言った。
「ご招待ですって?」
 あかねが目を瞬かせた。
「当たり前だよ…。あかね。そうじゃないと、わざわざこんな温泉郷まで出向くこともないし…。ねえ、早乙女君。」
 事情を察しているのか早雲は動じない。合点がいかないのは変身を余儀なくされた乱馬だ。
「くおらっ!!ちゃんと事情説明しやがれっ!!クソ親父っ!!」
 そこへ風が吹いてきた。小雪が空から舞い降り始める。
「こんなところにずっと立ってたら風邪ひいちゃうわよ…。事情は後でとくと聞くとして、お父さんたち、先に宿屋へ入りましょうよ…。」
 あかねが促した。
「そうだな…。風邪をひいたら溜まらないな…。ここはひとまず宿へ行って、それからだよ、早乙女くん。」
「ああ、そうしよう。今夜はしばれるな…。一献やるのが楽しみじゃわい!」

 宿屋へは一本道。
 奥深い山裾へと広がる谷の温泉郷。
「雪見温泉郷」。朽ちかけた看板は辛うじてそう読めた。
 あかねはきょろきょろと辺りを見回しながら先を行く父親たちに付いて言った。乱馬はまだ不機嫌で、ぶつぶつと文句を言い続けている。
「わあ、綺麗…。」
 あかねはふと脇にある山への登り道を見つけて指差した。宿屋から少し脇にそれて道が二股に分かれており、その片一方の道には階段があった。見上げると崩れかけた石の鳥居が脇に立っている。石灯籠の代わりに、階段に雪が固められ、そこに灯篭が灯してある。
 それが、奥に続くだろう社殿まで等々と続いているようだ。夕闇に照らされて、なんとも言えぬ情感が漂っていた。
 
「お雪さまの灯篭ですのよ…。」

 背後で女性の声がした。
 振り返ると、和服を着込んだ上品そうな大人の女性が一人、雪の中を佇んでいた。年の頃なら二十代後半といったところだろうか。
「見かけない方々ですが、湯治にいらしゃいましたの?」
 女性はおっとりと一行を見詰めながら答えた。
「あ、まあ、そんなところですかな…。」
 玄馬が頭を掻きながら答えた。明らかに照れている。早雲もどことなくそわそわしていた。それもそうだろう。そのくらいなんとも言えぬ美しさを持つ女性だった。
「どちらのお宿へ?宿と言っても五軒しかないような小さな温泉地ですけれど…。」
 女性は笑いながら一行へ問い掛けた。
「雪見荘です。」
 早雲が答えた。
「まあ、じゃあ、ひょっとして東京からいらっしゃった武道家さまたちかしら。」
 女性は目を輝かせて覗き込んだ。
「ええ、そうです。二十四年ぶりにご招致を受けた武道家どもです。」
 玄馬が競うように答えた。
「これはこれは、私、雪見荘の若女将のゆきえでございます。先代がとてもお世話になりましたそうで…。そうですか、あなた方でしたか…。ご案内いたします。どうぞ…。」
 女性はしげしげと一行を見比べた。
「綺麗な人ね…。」
 あかねはごそっと乱馬に話し掛けた。
「そだな…。おめえとは全然違っておしとやかなタイプだな…。てっ!何しやがるっ!!」
 あかねは乱馬の言い様にカチンときたのだろう。いきなり持っていた傘で乱馬の頭をポカリとやった。
「その、おめえとは全然違ってってどういう意味よっ!!」
「言葉どおりだよっ!!くそーっ!この凶暴女めっ!!」
 乱馬は頭を撫でながらあかねを見返す。
「こらこら…。喧嘩は止しなさいっ!二人とも。みっともないぞ!」
 早雲が嗜める。
「まあ、こちらが娘さんたちですのね…。」
 おかみはにっこりと二人を見詰めた。
「私の娘のあかねと早乙女君の娘の乱子くんです。」
 早雲はしゃあしゃあとそう答えた。
 どうあっても、乱馬を女に仕立てたいらしい。
(何企んでやがんだ?親父たち…。)
 愛想笑しながら頭を下げたあかねとは一線を画して、乱馬は訝しがって父親たちを見た。
「ほうれっ!あかねくんはちゃんとごあいさつしとるぞっ!乱子っ!!」
「いてっ!!」
 玄馬に頭をぽかりとやられた。
「おほほ…。元気の良い娘さんですわねえ…。」
 若女将が笑った。
「さあ、日が暮れてしまいますわ、こちらへどうぞ…。」
 そしてそう続けると先に立って案内し始めた。

 通された宿は、一番奥にあった。多分、この温泉郷では一番古株の老舗なのだろうか。どっしりした田舎作りの木造で作られた立派な宿屋だった。
「ほうら、皆さまお客様よ。東京の早乙女様と天道様のお着きです。」
 おかみは玄関先からそう呼ばわると、ごそごそと従業員たちが奥から数名現れた。
「これはこれは、早乙女様に天道様。お待ちいたしておりました。どうぞ、奥へ…。」
 老婆が一人、奥から一行を迎えに出てきた。
「おお、これは、セツ婆さま、お久しゅうございます!」
「お元気そうで何よりです。こたびはお招きくださいましてありがとうございます。」
 玄馬と早雲は老婆に愛想良く挨拶した。
「どうやら、タダで泊まりにきたらしいな…。」
 乱馬はごそっとあかねに舌打した。
「そうみたいね…。」
 あかねも一緒に頷く。
 それもそうだろう。わざわざ東京から出向くのだ。何やら曰くつきの匂いがするのは当然だろう。
 通り一遍の挨拶が交わされて通されたのは畳の奥座敷。
 外からの光景と一変して、近代設備が行き届いている。エアコンも完備されていて、部屋の中は居心地が良かった。
「お部屋はお二つ用意してありますから…。殿方はこちらで娘さんたちはあちらへ…。お荷物は回させて頂きました。宜しければ今夜はゆっくりとおくつろぎくださいませ。今夜、こちらの館では宿泊客さまは皆さまだけですので、ごゆるりと…。お湯はいつでも入れますゆえに、ご自由にお浸かりくださいませ…。」
 若女将はそう丁寧に言うと下がっていった。
 
「で…?」
 若女将が下がると、乱馬は急変して玄馬ににじり寄った。
「何で俺が、女にならなきゃならねえんだ?説明してもらおうじゃねえかっ!ええ?親父ぃ…。」
 玄馬の道着の襟元を掴んでぐぐぐいっと迫った。
「あははは…。仕方ないじゃろう…。娘二人とご一緒にとご招待を受けてここまで来たのじゃから…。」
 玄馬は息子に襟首を掴まれてあたふたしながら答えた。
「だから、何で娘なんだ?ええっ?」
 乱馬はぐいっと掴んだ手に力をくべる。
「あ、まあ、穏便に、ここはひとつっ!乱馬くん!」
 早雲が慌ててとりなしに入る。
「そうよ…。お父さん!ちゃんと説明してよ!!」
 あかねもぐいっと父親を睨んだ。
「悪い話じゃないんだよ…。あかねっ!乱馬くんっ!!実はわし等はずっと前、二十四年前にもここへ来たことがあるんだ。」
 早雲はぼそぼそと話し始めた。
「来たことがあるって?」
「ああ…。あれは我々がまだ紅顔の美少年だったころのことじゃ…。」
 玄馬が目を輝かせながら離し始めた。
「何が、紅顔の美少年だよ…。中年親父が…。」
 乱馬はしぶしぶ手を離した。ちゃんと説明を聞くためだ。
「この里にはねえ、雪女伝説が誠しやかに残ってるんだ。」
 早雲が説明を始めた。
「雪女って、あの雪と氷の世界を手塩にする妖怪の?」
 あかねはきょとんと父親を見た。
「昔この地に雪女が迷い込んで人間どもの精気を吸って生きていたそうだ。ずっと前に彼女は一人の武将によって退治され、この裏山に葬られたそうだ。それを神事にして十二年に一度、祭の秘儀が営まれこの地で雪女の舞というのが奉納されるそうなのだ。」
「何でも、そのご神事は少女が二人対になって踊られるというのじゃ。それを奉納して、この里の新たなくくりの十二年の安泰を祈るというのじゃよ。それを欠かすとこの村は滅びるという訳じゃ…。」
 玄馬が早雲の後を受けて説明し始めた。
「それが俺の変身とどう関わるんだ?え?」
 乱馬はきっと父親たちを睨んだ。
「その神事を勤められる年頃の娘がこの里にはもう一人も居ないそうなのだよ…。だ、だから、わしらに打診がきたのじゃよ…。」

「そのとおりですじゃっ!」

 急に障子が開いてさっきの老婆が入ってきた。
「あ、驚かせてすまんのう。お茶を入れてきましたで…。」
 老婆は皺だらけの顔をほころばせてそう話した。
「本来なら、この村の娘で舞えばよろしいのじゃろうが…。このところの不景気ですっかり過疎の温泉郷と成り果てて、今回は他所の御方に縋ろうということになりましてな…。過去の宿帳を頼りに隣町の神主さまに卜占してもらいましたのじゃ。そうしたら、東京の天道様のところに行き当たりましてな…。」
 老婆はにっと笑って一行を顧みた。
「で、あたしたちが呼ばれたのね…。」
 あかねが父親を見た。
「ああ…。前に来た時にたまたまそのご神事を拝ませてもらったが、なかなか美しい巫女じゃったなあ…。サエさんでしたっけ…。その方はどうしておられます?」
 玄馬は老婆を見た。
「生憎…。前回の神事の前後に、そう十二年前に行方不明になりまして…。帰らぬ者となり申した…。山へ入った登山者が着ていた服だけ見つけてくれましてな…。大方山へ入って事故にでもあったのでしょう。」
「それは、失礼…。」
 玄馬はバツが悪そうに言い直した。
「あの時はまだ十四だった娘ですが…。」
「じゃあ、先ほどのおかみさんは、サエさんではないのですね…。なるほど、面影はなかったですなあ…。」
 早雲がそう言うと、老婆はこくりと頭を垂れた。
「サエの十二年後に巫女を務めてくれたゆきえさんですじゃ。私の妹の子でしてなあ…。この宿の跡目を継いでもらうことになりましたじゃ…。」
「そうですか…。人生いろいろですなあ…。」
 しみじみと早雲が茶を啜りながら答えた。
「ほんに…。流石に武道家さまの娘さんだけあって、二人とも鍛えておられそうじゃのう…。どうらっ…。」
 老婆は目を細めて笑った。その背後から殺気が流れ始める。乱馬ははっと身構えた。あかねにそれを視線で促す。
「たっ!!」
 急に老婆は二人に向かって何かを投げつけた。

「はっ!」
「とっ!!」
 二人は、身を翻してそれを避けた。二人の居た場の畳にトスン、トスンと刺さったのは赤と白の二つのカンザシ。

「婆さんっ!何しやがんでぃっ!!」
 乱馬はあかねより一足先に攻撃態勢に入って身構えた。
「ちょっと、冗談にしてはやりすぎよっ!」
 あかねも呼応する。乱馬の機転でなんとか避けられた。
「ほほほ…。試したまでですじゃ。ほんに二人とも良く鍛えておられる。これなら申し分なくご神事は勤まりましょう。」
 老婆の気は穏やかに戻っていた。
「この里の者はの、雪女を退治した武将の血を引いておるものばかりでそれはそれは、美しさの中にも逞しさを兼ね備えておったものですじゃ。この私も合気道、柔道、ともに有段者として鳴らしておりました。娘のサエも剣道の有段者でしたじゃ…。先ほどの若女将のゆきえもかなりの使い手ですじゃ…。ゆきえも前回の、そう十二年前のご神事で巫女を務めましたですからのう…。ですから、ある程度鍛えておる女子(おなご)でなければ神事の巫女も勤まりませぬ。そこで、昔よしみの武道家たちに方々打診しておりました訳です…。どうか、この神事、それも六百年の満願の最後のご神事をつつがなく行えるようにお力をお貸しくだされ。」
 老婆は深々と頭を下げた。
「ということじゃ、乱馬…あ、いや乱子よ、あかねくんとしかと勤めあげてくれまいかのう…。」
 乱馬はあかねと顔を見合わせた。
「仕方ないんじゃない…。そこまで頼まれたら…。」
「だろうな…。ここまで来ちまったし…。ちぇっ!面倒くせえけどよ、やるか…。」
 そう言って表情を緩めた。
「ありがとうございます…。それで、そのカンザシは我が家に代々伝わるご神事の巫女のものでございます。赤い巫女はそちらの短い髪の娘さんに、白い巫女はおさげの娘さんに託すつもりでございますので、尽く終わりますまでお守りとしてお持ちくだされ…。さて、長居してしまいましたのう…。今夜は旅の疲れを落としてくださいませ…。明日は朝から忙しくなりますで…。お湯に浸かってさっぱりしてくださいませな…。」
 老婆はそう言うと丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。

「ははは…。乱馬っ!あかねくんっ!しっかり頼んだぞっ!!言い伝えでは、なんでも雪女復活を永遠に封じる満願の六百年のご神事だそうだからのう…。」
「さて、風呂へ行こうか、早乙女くんっ!!」
「そうだねっ!天道くんっ!!」
 そそくさと部屋を後にする父親たちを見送ると、二人ははあっと溜息を吐いた。
「おえめも風呂へ行けよ…。俺は後で入るから…。」
「でも…。」
「今は女の形してっけど、元は俺は男なんだ。わかってるだろ?」
「それもそうね…。じゃ、先に入らせてもらうわ…。」
 あかねは素直に乱馬の申し入れを受けることにした。
 あかねが支度して部屋を立ち去ると、乱馬は窓を全開して暗くなった辺りを見回した。
(……。さっき、ここへ上がって来るときに並々ならぬ気配、いや、邪気を感じたのは気のせいか…。)
 じっと外の景色へと目を凝らす。参道へと続く蝋燭の雪明りが美しく夜空に映える。
 その先にあるのはお社(やしろ)と相場は決まっている。この暗闇では社は見えまい。
 と、乱馬は山の上がぽうっと光を放っているのを見つけた。
(あれ?何だ?)
 山のてっぺんあたりが蒼白く光っている。妖しげに、揺らめきながら。
 が、次の瞬間、雪が横殴りに空から降り始めた。まるでその光を隠すように。うねり声を上げながら夜空を雪で染めてゆく。
(満願の神事か…。何事も起こらなきゃいいが…。)
 乱馬はほっと息を吐き出した。
(ふっ!取り越し苦労かな…。こんな田舎で何事も起こる訳ねえか…。大方雪女だって伝説だろうし…。どうかしちまったかな、俺…。今朝方あんな夢見ちまったからな…。)
 乱馬は白い息を闇へと吐き出すと、がらりと引き戸の窓を閉めた。
 その気配を伺う一つの白い影があったことに、彼ほどの修練者にも見抜けなかった。うかつだったかもしれない。




『この闇の恨み…。晴らしてやる…。必ず、復活して…。見ているがいい。忌々しい人間、いや、武道家どもめっ!!くくく…まずはあの巫女たちを血祭りに上げてやる。そして我らは復活するのだ…。ははははは…。』

 そいつの視線は冷たく乱馬たちの泊まる旅館を見上げていた。
 止んでいた雪が再び舞い始める。風が冷たく山の木々を揺さぶる。
 これから起こる禍のプレリュードを奏でるように、風は音を立てて鳴り始めた。



つづく



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