◆ 漣




 漣の音が微かに聴こえる。
 何も迷うことはない。私はずっと…。






 どこかで汽笛が鳴った。出航を告げる合図。
 ふっと、窓の外を見た。見事な夕陽が西のビルの谷間へと吸い込まれてゆく。赤々と燃え上がる陽は茜色に空を染めながら、また来る明日へと名残を留める。
 ざわざわとあたりは人の囁く声。
 ドラの音と共に、船はゆっくりと滑り始める。
「間に合わなかったかな…。」
 頼りなげに口から吐露される溜息の言の葉。
 私は、深く息を吐きながら、傍にあった椅子へと腰掛ける。前を過ぎる人々は、皆、一様にワイングラスを持ち、来たるべく出航の乾杯の用意を始めている。
「何ぼんやりしてるのよ…。」
 背後で聴きなれた声がした。
「なびきお姉ちゃん…。」
 驚いた表情を浮かべて、ふっと顔を上げて話し掛けてきた淑女を見つめた。
「どうしてって聞きたいんでしょ?あたしはね、九能ちゃんと来たのよ。」
「あ…。九能先輩と…。」
 姉は現在、天道家(うち)を出て、きままな学生生活を一人で満喫している。学生とはいえ、立派に企業家として稼いでいるのだからたいしたものだ。事業のスポンサーはあの、九能帯刀先輩だった。何のかんのと言っても、結構、姉とこの九能のコンビネーションは馬が合う。その気があるのかないのか、両人の様子からは知れないが、最近は対で行動していることが多いようだ。
「浮かない顔して…。ははーん。待ち人が来たらず、で、物足りないか…。」
 わかったような口を利く。
「そんなんじゃないわ…。だいたい、最初っからあてになんかしてないんだから。」
 と、いつもの強がりが堰を切る。
「その割には、浮かない顔をしてるじゃないの。…たく。乱馬くんも乱馬くんよね。確かに修業は大切かもしれないけど、こんな可愛い許婚に待ちぼうけを食らわせるなんて…。」
「だから、あたしと乱馬はそんなんじゃないわよ…。第一、今日のことだって、上手く伝わっていないかもしれないし…。」
「そうよね。ここんところ、ずっと天道家(うち)には戻ってきてないし。長いこと会ってないんでしょ?」
 姉は私を覗きこんだ。図星である。

 乱馬は高校を出ると、大学には進学しなかった。武道家になるために真剣になったのだ。天道家(うち)に塒(ねぐら)は置いているものの、殆ど不在で、日本国中、いや、世界中を又にかけて修業三昧の日々を送っている。帰って来たと思うと、さあっと次の修業場へと行ってしまう。そんな生活が続いてきた。
 私はというと、お決まりのように短期大学へ進学し、ごく普通の学生生活を堪能しながら今日まで来た。気がつくと、乱馬と出会って五度目の夏を迎えていた。
 その間、彼との仲は、五十歩百歩。劇的な進展もなく、高校生の頃とそう変わらない関係を維持していた。顔を付き合わせると、喧嘩腰。タメ口の張り合い。そして、互いに言いたい放題。
 乱馬のまわりは相変らず賑やかで、事あるごとに、シャンプー、右京、小太刀の三人娘に尻を追いかけられている。水を被れば女に変化する体質も、現在のところはあのまま放置されたままだ。
 変わったところといえば、彼の身長が伸びたことと、私の身体の線が丸くなり始めたこと。そう、身体だけは成長を続け、大人へと変化を遂げてしまっている。

 私の長い沈黙をどう受け取ったのか、姉はこんなことを口にした。
「どうせだから、今日は他の男性(ひと)を相手にしてみたら?気分転換になっていいかもしれないわよ。来ない恋人を待つよりも、新しい恋ってね…。」
 無責任な言葉だ。
「でも…。」
「あかねは、奥手だからいけないのよ。たまには、他の男を手玉に取ってさ、乱馬君に一泡吹かせてやんなさい。その様子だと、あんたたち、ファーストキッスもまだなんじゃないの?」
 コロコロと笑う姉。
 さすがにファーストキスは済ませてはいるものの、私たちの奥手ぶりは変わっていない。デート一つまともに出来ていないのかも。
「じゃ、お姉ちゃんはどうなのよ…。毎日のようにキスの一つや二つは貰ってるの?」
 と言葉が滑った。
「さあね…。教えて欲しかったら、一万円くらい寄越しなさいな。さて、こうしちゃいられないわ。そろそろカジノも営業開始ね。稼ぐわよ…。と、九能ちゃん、こっちよ!」
 姉はそう言い残すと、扉の向こう側へと消えていった。
 姉が居なくなるとまたひとり。
 周りで、ひとりを持て余しているのは私くらいのものだろう。老若男女、皆、大概は二人連れで船内を歩き回っている。
 当たり前といえば当たり前のこと。今夜は船上でパーティー気分を楽しみながら仲秋の名月を愛でる催し。早乙女のおばさまには悪いけれど、折角手に入れて貰った、豪華客船のクルーズチケットは一枚ふいになったようだ。
 この日のために装ったワインカラーのイブニングドレスも、母の形見の真珠のイヤリングもネックレスも、全てが色褪せてしまっている。
 修業に出てしまった許婚。もうかれこれ、数ヶ月も会っていない。お盆にすら帰って来なかった。今夜こそ彼に会えると思って、念入りに化粧もしてみた。普段よりも大人っぽい、真紅のルージュも、淡いピンクのチークも、薄紫のシャドウも、全てが脱色したように思えてならない。
 会えば会ったで似合わないだの、可愛くねえだの、ごねられるのは目に見えてはいたが、それでも、彼の気配が有るのとないのとでは、雲泥の差がある。

 あの唐変木はどこでどうしているのやら…。

 夕陽は残照を残して、消えてしまった。岸壁を離れてしまったクルーズは、東京湾内へと誘われる。人々は飲み、食べ、歓談し、そして船上から月を愛でる。
 カルテットの気品ある弦楽の調べも、煌くシャンデリアの明かりも、着飾った衣装も、今の自分には、無味乾燥。艶やかな会場とは相対して、暗くて場違いのあたしがそこにポツネンと佇んでいる。


 何度、溜息を吐いたろう。
 ここは船の上。あと数時間は陸(おか)へも上がれない。
(来るんじゃなかったかな…。)
 そう思ったとき、一人の青年があたしの前に立った。
「一人?」
 そいつは嫌に親しげに話し掛けてきた。
 何となくキザっぽくて嫌な感じがした。というのも、オーデコロンの匂いがツンと鼻を突いたからだ。我が家にいる男連中は、みんな香水の類は使わない。
 今風に染め上げた長めの髪と、日に焼けた肌と。上背はあり、決してルックスは悪くはなかったが、ただ「それだけ」という感じの男だった。
「え、ええ。まあ。」
 相手する気もなく、そぞろに返事。これがいけなかったようだ。
「なら、僕と一緒にどお?」
 ときた。
「遠慮しとくわ。」
 気のない返事を繰り返した。
 でも、そいつはちょっとやそっとでは手を引かなかった。何かと愛想好く私に話し掛けてくる。
 適当に生返事。元々付き合う気もないのだから当然だ。
 痺れを切らしたのか、散々いろいろモーションを賭けて来たそいつが、一言。
「たく…。ガードが固いお嬢さんだな。仕方ないや。僕は諦めるから、ほら、一杯。君の瞳に乾杯させてくれよ。」
 無下に断わるのも気が引けたので、
「一杯ならいいわ。」
 と相槌を打った。
「じゃあ、ワイン。赤でいいよね?」
 そいつは、近くのボーイからワイングラスを受け取ると、私に一献差し向けた。
「君の瞳に映る、蒼い月に乾杯!」
 たく…。何てキザな奴なの。
 半ば呆れつつも、勧められたワイングラスを一緒に、少しだけ引き上げた。そして、口へと運ぼうとした時、後ろから誰かに手を捕まれた。

「何やってんだよ!」

 不機嫌な声。
「え?」
 振り返ると彼が居た。
 黒のタキシードに身を包み、エンジ色の蝶ネクタイを締めたいなせな野郎。後ろにはおさげ髪が揺れている。

「何だ?君は。僕たちの乾杯の邪魔をして。」
 キザ野郎がきびっとそいつに言葉を吐いた。
「何が、僕たちだ!たく…姑息な手を使いやがって。」
「姑息な手?」
 私はきょとんと彼を見上げた。
「本当におめえは、お人好しというか、何も考えてねえというか…。」
 聞き捨てならない語駄句を並べ始めた。
「何よ!」
 私はいつものように彼に食って掛かろうとした。だが、彼はそれを言葉で制した。
「そんなだから、こんな野郎の毒牙に引っ掛かるんだ。おめえはっ!」
「さっきから何だ。失礼じゃないか。君は!」
 喧嘩腰だ。
「失礼なのは貴様の方だろっ!このワイングラスに何を仕込みやがった?ええ?」
 空気が一瞬澱んだ。目の前の彼が発する闘気は、誰をも圧巻する。
「そ、それは…。」
 相手が口篭った。
「失せなっ!」
 彼はアゴでキザ男を駆逐した。
 すごすごと引き下がるキザ男。並々ならぬ闘気を目の前の男から感じ取ったのだろう。
 見事なまでに均整の取れた美しい肉体。それは、服の上からも容易に想像できた。張りこんだ幅広い肩、ばねがありそうな長い手足、そして何よりも発散する気の大きさと、ぎらぎら輝く野獣の瞳。
 下手に手を出すと無事ではいられまい。危険な香りがする彼。

「たく、本当におめえは無用心なんだから。」
 開口一番悪たれ。
「何よ、それ…。」
「その分だと気がついてないな。野郎、怪しげな薬を仕込んでやがったんだぜ。」
「薬?何よそれ、何のために?」
「あーあ、これだからおめえは…。何のためっておめえを自分の物にするために決まってるだろうが。大方、薬で眠らせて、介抱する振りをして、どこか個室の客室にでも引っ張って行くつもりだったんだろうよ…。」
 そう言いながら私から取り上げたワイングラスをボーイに戻した。
「何よ…。恩着せがましく言ってくれちゃってさ…。誰のせいだと思ってるのよ…。」
 何だかわからないが、感情がわあっと高まってきた。何時の間にかポロッと零れ落ちる涙。
「あわわ…。泣くなっ!」
 背格好に似合わずに、焦りだす彼。
 こういう場合の女の子への扱い方は、全然慣れていないんだから。思わず私は泣き笑い。
「その…。悪かったよ。出航すんでに滑り込んだんだ。着替えも何も、修業着で着の身着のままだったからな。中々中へ入れてもらえなかったんだ。オフクロが正装を預けてくれていたから、それに着替えて、それでやっとこ、ここへ来れたんだぜ。その…。待ったか?やっぱり…。」
 ぼそぼそと歯切れの悪い言い訳。
 照れているのか、それとも、目の前の私の「らしくない」涙に困惑しているのか。
「許したげる…わ。ちゃんとあたしをエスコートしてくれるならね…。」
 泣いた烏はもう笑った。
「ちぇっ!厳禁だな…。」

 だってそうじゃない。
 たまには許婚孝行しなさいな。
 いつも、いつも、私は待ちぼうけ。
 もう、何ヶ月ほったからしておけば気が済むのよ。
 待つことに慣れるってことはないんだから。
 喩え格闘オタクでも、私は普通の女の子。こと恋愛に関しては。

 言いたいことは山ほどあったけれど、私は言葉を継がなかった。いえ、継げなかった。
 目の前に居る彼が、許婚が、一際大きく見えたから。
 久しぶりに会う、彼。
 いつもと違う井手達に、実はくらっときていた。ドキドキと高鳴り始める心臓の鼓動。
 悔しいけれど、今夜は私の負け。完敗よ。
 何十日間か溜め込んできた「想い」が、一気に上り詰めてゆく。

「どうした?」

 急に黙り込んだ私を見て、彼が言葉をかけてきた。
「ううん…。何でもないわ。」
 私は気取られるのが嫌で、ふっと一笑してみせた。
「そうか…。」
 納得したのかしないのか、乱馬もじっと私のほうを見詰めてくる。
 そんな柔らかい表情で見詰めてこないで。深い夜の海の輝きにも似た、ダークグレイの瞳。
 それまで抱いていた、寂しさや恋焦がれた感情は、最早何処かへ消えうせて、今はただ、寄せては返す波も穏やかに、心は月影を照らし出して澄み渡ってゆく。
 私は一人の恋する乙女に立ち返る。
 伸びてきた逞しい腕が私を掴んだ。
「踊ろう。せかっくのオフクロのお節介だ。楽しもうぜ…。」
 はにかみながら囁く青年。彼もまた、幾分かいつもと違う私に緊張してくれているのだろうか。
 静かな音楽にあわせながら、ステップを踏む人々に紛れて、私も静かに舞い始める。
 今日は私、シンデレラ。彼は王子さま。
 暫し夢に酔いしれていたい。
 でも私たちのドリームナイトはそう長く続かなかった。


 バタバタと慌ただしい足音が駆けて来る。
 かなりの人数の怒声と悲鳴。
 折角の舞踏会はそこで途切れた。 

「何があったんだ?」
 傍にいた紳士がボーイに尋ねようとしたとき、乱暴にバタンと船室のドアが開いた。
 そちらへ目を向けた人々は一瞬で凍りつく。ご婦人方の悲鳴が轟く。
 
「静かにしろっ!」

 男は乱雑な言葉を吐いた。顔はすっぽりと覆面で覆われている。手には散弾銃。
 きっと、乗客に紛れていたのだろう。犯人たちは皆、覆面にはそぐわないタキシード。良く見れば違和感バリバリで変な格好の犯人たちだけれど、ここは笑って居る場面じゃない。
 何がなんだかわからない状態で、客たちはパニック。私も思わず乱馬のタキシードの袖を引いた。
 彼の手はすっと私の腰を引く。逞しい手が混乱したわたしに冷静さを取り戻せと促す。

「この船は我々が乗っ取った。逆らう奴は容赦しねえ。この銃を食らわせて海底へ沈めてやる。」
 男の一人が唸った。
『シージャック。』
 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 乱馬は黙って目を閉じていた。何かをまさぐっているような感じ。
「一人、二人…。三人、四人、五人…。か。ちぇっ!厄介だな。」
 ぶつぶつと口篭る。ひょっとして、ハイジャックの人数を数えてる?
 私も同調して気を探ってみた。確かに…。三人までは確認できた。今しがた私たちに銃を向けている痩身の男とその連れの太っちょと。それからドアの外に一人居る。見張り役だろうか。でも、後の二人は?
 そう思ったとき、船のエンジン音がフツンと途絶えた。
(そっか、操舵室に二人居るのね。)
 私は乱馬をこっそりと見上げた。彼は私より数段強い。私の場合気をまさぐるのは、せいぜい、ここのドアの外くらいまでだけれど、乱馬は船全体の気を肌で感じ取っているのだろう。
(どうするの?)
 無言で彼を見上げる。

 と、犯人たちがゆっくりと船内に入って来た。
「さて…。皆様には人質になっていただく。これだけ金持ちが揃っていれば身代金は取り放題だからな。」
 銃を構えた痩せっぽっちの口元がにっと笑った。
「なあに、大人しくしていれば、怪我はしねえよ。」
 ぐるりと辺りを見渡すと、銃を構えたまま、もう一人の太っちょをアゴで促した。太っちょは頷くと、客人たちを一通り見渡す。
 と、私と目が合ってしまった。
「おい、そこの女、こっちへ来い。」
 彼は私に命令する。私はどうしたものだか躊躇した。彼をのしてやってもいいけれど、相手は銃を持っている。ここは大人しく言うことをきいた方がいいかと、彼の言うなりになろうとした。
 と、乱馬の手が私を引っ込める。
『行かなくていい。奴らの言うことなんか聞くな!』
 腰に当てられた手はそう囁いているようだ。
「何ぐずぐずしてやがる。」
 男は苛立ちの声を荒げる。そしてずかずかと私に向かって歩いてくる。

 乱馬はじっと男を見据えた。
「何だ?この野郎は…。そうか、おまえの彼女かあ?へへ…。なら尚更面白えや。」
 私は次に来る男の末路を思って目を閉じた。
「あかねは渡さねえ…。」
 乱馬の声は落ち着き払っている。その声の下には、確かに彼が気を丹田に溜め込んでいるという確証が私には伝わってきた。
「ふざけるなっ!!」
 そう男が吐いたのと、彼が動いたのは一緒だった。
 乱馬に不用意に近づいた太っちょは、次の瞬間、どおっと床に倒れこんでいた。乱馬が物凄い蹴りを一発、彼の脳天にぶち込んだのだ。
「野郎っ!」
 その一部始終を睨んでいた痩せっぽっちが銃を構えた。

「遅いぜっ!」
 胸の前に右手で握り拳を作って、それがブーメランでも投げつけるように乱馬の前で弧を描いたとき、烈風が銃を構えた男に向かって飛んでいった。銃声よりも早く、彼の気が飛び出した。鋭敏な気砲を男に向かって浴びせ掛けたのだ。
「うがあ…。」
 男は前のめりに倒れ込んだ。乱馬の壮絶な気をまともに食らったのだ。無事で居る訳がない。
「どうしたっ?」
 もう一人ドアの外に居た、見張り役の男が雪崩れ込んできたときは、もう、勝敗は決していた。
 彼も乱馬の敵ではなかった。電光石火、彼もまた、床へと沈められていた。

「さて…もう一仕事…。」
 彼は呆気に取られているギャラリーの花道を通り、今度は真っ直ぐに操舵室へ。
 私も一緒に同行する。普通、そんな危険な場所へは、女の子なんて連れてゆくのはナンセンスなのだろうが、彼は違う。背中は付いて来いよと囁いている。
 見慣れないタキシードの男が女と一緒に歩いてくるのだ。
 犯人たちは、何だというような表情をこちらへ手向ける。操舵室の賊は、確かに二人だった。彼の気の洞察力の鋭さに、改めて私は脱帽した。そう、彼が数えたとおり、賊は五人。
 
「止まれっ!そこの二人連れ。」
 男たちが操舵室から叫んだ。
 だが、私も乱馬も歩みを止めない。
 乱馬は気を全身から丹田へと巡らせていた。勿論、言われるまでもなく、私もまた、丹田へと気を込め始めていた。
「止まらないと撃つぞーっ!」
 賊たちは物怖じしない私たちを恐れたのか、そう叫ぶ。銃口をこちらへ突きつけたまま。
 思わず彼らが身構えたとき、私と乱馬は真っ直ぐに彼らに向かって気を飛ばしていた。
 乱馬の蒼い気。そして、私の赤い気。融合しながら飛び出してゆく。

 ドゴーンッ!!

 気が前方で弾けた。と、乱馬は猛ダッシュして、犯人たちへとダイブしていた。銃が上に向けて数初暴発した。だが、次の瞬間、男たちは無残にも、操舵室のドアの下に白目を剥いて転がる。抵抗など、もうできるはずもない。
「終わったぜ。」
 乱馬は拘束されて、震えていた船長へ合図を送ると、つかつかと甲板へと上がってゆく。それからは、船の中は大騒乱。賊たちはあっさりとお縄に付いた。
 

「たく…。無粋な連中だぜ…。」

 夜風に吹かれながら乱馬はぶすっと吐き出した。
 波止場に打ち付けられる波は飛沫を上げて飛んだ。

 シージャック騒動で、呆気なくクルーズの夜は終わってしまった。それだけではない、港に曳航されると、報道陣や警察が雪崩れ込んでくる。こういう場は嫌いな彼はとっととそれをすり抜けて、私をここまで引っ張ってきた。喧騒に揉みくちゃにされる途中で脱げてしまったヒールの靴。片一方私は裸足だ。まるで、ガラスの靴を忘れてきたシンデレラ。違うのは目の前に王子様が一緒に居てくれること。
 さっきまで乗っていた船は、対岸に接岸している。タグボートやヘリコプターがそれを囲む。
 目撃者が多いから、いずれ、彼の所業とわかるのだろうけれど、兎に角、今夜はこれでいいかと思った。
 月が海の上を明るく照らしつけて笑っている。

「大丈夫か?怪我してねえか…。」
 ここまで思いっきり引っ張ってきた彼がふっと振り返った。
 月明かりに照らされて、彼の顔が柔らかく浮き上がる。はっとするほど穏やかな笑顔。一瞬見惚れてしまった。
「う、うん。」
 思わず浮き上がる私の言葉。心臓がどっどっどと走り出したのが自分でもわかる。
「何、緊張してるんだよ…。」
 気を探ったのだろう。乱馬が面白そうに笑った。
「緊張なんかしてない…。」
 思わず逸らす視線。このままだと彼に拿捕されてしまう。気持ちが焦った。
「嘘…。」
 にっこりと微笑むと、彼の手が伸びてきた。思わず引こうと後ずさったが、無駄な抵抗。次の瞬間私は彼の広い腕の中に沈められていた。
「ダーメ、逃がしてやんねえ…。」
 意地悪な、でも嬉しそうな声。
 私は彼の胸の中でジタバタ。身体に力を入れようとするが、想いとは裏腹に力が抜けてゆく。
 完全に捕えられてしまっている。
 懐かしい腕の中。久しぶりに出会うこの暖かい感触。独り占めにしたい思いと、ずっと彼の帰りを待ち侘びていた思いが、私を覆い尽くしてゆく。それを優しく包む彼の暖かな気。
 いつか彼の腕の中で、自分の鼓動の向こう側に、もう一つ、脈打つ鼓動を見つけた。乱馬の鼓動。押し付けられた彼の胸から伝わってくる響き。やがてそれらが一つに溶け合った。私と乱馬の心臓は一緒に波打ち始める。
 この高鳴る時めきは、もう、止められそうになかった。

「あかね…。」

 甘い囁きと共にやがて降りてくる、なだらかな静寂。
 シンデレラは王子さまに身を委ねる。
 月明かりを背に感じながら、
 静かに…。
 そしてゆっくりと目を閉じた。


 漣の音が微かに聴こえる。
 何も迷うことはない。
 私はずっと、あなたと一緒に…。



 完




おまけ

一之瀬と乱馬くんの脳内会話

乱馬「で、この作品は、どの世界観に帰属するんでい?」
K子「帰属なしの短編のつもりなんやけど…。」
乱馬「なるほど…。だから設定が今までのどの作品とも違うのか…。それで、テーマは何だったんだ?」
K子「RANA家企画の海小説部屋へ何か書こうかとネタ振ったのが最初だったような…。「カッコいい乱馬くんあっさり目」それを目指したかったかなあ。強いて言うなら。」
乱馬「なるほどなあ…。でも、この作品、何となく、元ネタがあるのがプンプンと匂ってくるんだけどよ…。」
K子  ギクッ!
乱馬「てめえ、らんまの他にも好きな漫画とかアニメとかあんだろ?その世界観、混入さしてねえか?」
K子「そらまあ、ねえ…。あははは…。」(鋭いッ!)
乱馬「おらおら、白状しなっ!」
K子「すいません。北条司さんの「CITY HUNTER」の雰囲気などをちこっと取り入れてます。というか、脳内にイメージが湧いてきてそのノリで描いてました…。あはは、「都会のシンデレラ(原作版)」のね…。」
乱馬「くぉら、おれは、あの作品のあいつみたいに「女ったらし」じゃねえぞ!」(ジロリ)
K子「己ではそう思ってへんかもしれんけど、結構もてること鼻に掛けてるところあるやんか。シャンプーとか右京とか小太刀に追いまわされて…」(ぼそぼそ)
乱馬「あん?」
K子「こっちのことですがな。」(汗)
乱馬「で、最初に宣言してた作品としての手腕は成功したのかよ?」
K子「さあ…。甘めなことは甘めだと思うけど…。あんた、どう思う?」
乱馬「まあ、俺はどんな描かれ方してもカッコいいからな。」
K子「で、あの後どうなったんです?あかねちゃんと…。」(逆に聞いてやるぜ…。)
乱馬「内緒。」(含み笑い付き)
K子「あ゛〜、ずっこいっ!」
乱馬「知りたかったら、勝手に妄想してまた書けよ!」
K子「あはは…。そう来るか…。」
乱馬「ベタ甘歓迎するぜ。あかねを思いっきり可愛らしく描けよな。」
K子「それって私へのプレッシャーかい?」
乱馬「まあ、そういうことかな…。」
K子「……。いつか思いっきり「暗い乱あ」描いちゃろ…。」(ぼそっ!)
乱馬「あん?」
K子「あたっ!こうしちゃいられんや…。次の投稿作、とっとと仕上げへんとあかんねん、じゃ〜ね、乱馬くん!」

密かに暗いプロットで乱馬を追い詰めて、それで甘く切ないの書いてやろうと、また妄想に入る、どうしようもない作者であった…。

ちゃんちゃん!


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