◆勝利の女神



 割れんばかりの大歓声が、その光の向こう側から溢れ出してくる。
 ワールドカップの地区予選大会。

「頑張ろうぜ…。あと一つでワールドカップの切符が手に入るんだからな。」
「ああ…。勿論だ。」
「ゴールはおまえに任せたからな。」
 と、俺の肩を叩いてゆくチームメイトたち。
 試合前の緊張感は、否応なしに高まってゆく。

 怖い。
 この観客の大声援の中、ゴールを守れるのだろうか。
 一抹の不安が過(よ)ぎってゆく。
 
 畜生!こんなことじゃあ、ゴールは死守できないぞ!

 俺は自分に言い聞かせるように吐き出し、気合を入れる。
 心臓の鼓動は静かに俺の体を脈打っている。
 このまま逃げ出したい心境を持っていると知ったら、チームメイトたちはどう思うだろう。
 と、虚空で声がした。

『夢は逃げていちゃあ何時まで立っても捕まえられねえ。勝利の女神は自分で掴み取るもんだ。』

 空耳?
 聞き覚えのある張りのいい声。

「勝利の女神は自分で掴み取るものだ…。」
 心で反芻してみた。
 どこかで聞いたことがある懐かしい台詞。いつだったのだろう…。
 俺はチームメイト立ちのユニフォームへ目を転じた。真っ青なユニフォーム。いつからか、ジャパンブルーと言われるようになったチームカラー。紺碧の空と海の色。
 じっと緊張をほぐすように目を閉じた。少年の日の記憶が蘇る。
 周りの喧騒から目を閉じて世界を遮断してしまうと、そこには、懐かしい青い空が広がり始める。
 
 そうだ…。あの、片田舎でボールを蹴っていた頃に聞いた言葉。
 勝利の女神が言っていた言葉だ。
 あれは確か、ワールドカップが日本で初めて開かれた暑い夏のことだった。
 

 俺の記憶は、ガキの頃へと巡り出す。


 
 地域の少年サッカーチームに所属していた俺は、その日、泥だらけになってボールを追っていたのだ。顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 俺は少年の頃からゴールキーパーというポジションに居た。体が他の子供らより少し大きいという単純な理由でゴールへと貼り付けられた。
 あの頃の俺はへっぽこキーパー。気の弱さから、何度も敵にゴールを許していた。
 そう、あの日も、ボロボロに負けて、泣くに泣けずに、皆が帰ったグラウンドで一人、ボールを蹴っていたのだ。悔しいというより情けなかった。同じ小学生でありながら、相手チームは強かった。何度もボールは俺の頭上を通り越えて、ネットへと突き刺さる。誰も口には出さないが、止められない俺への非難の目は厳しく俺に突き刺さる。
 監督は何も言わなかった。
 ただ、次の試合からレギュラーを外されることを事務的に告げられただけだ。
 勝負の世界は厳しい。
 皆が帰った夕暮れのグラウンドで俺はただひたすらボールを自虐気味に蹴り続けていた。きっと涙で顔はぐしゃぐしゃになっていたと思う。

「泣いてたって始まらねえんじゃねえか?」

 背後で人の声がした。

 振り返ると、グラウンドの脇の木から一人の高校生くらいの少年が俺の方を見下ろしていた。
「誰?」
 俺が問い掛ける間もなく、彼はタンと木から飛び降りて俺の前に立ちはだかる。見かけない少年だった。背中にはおさげ髪が揺らめく。長髪をしている少年。くすんだ白の柔道着を着ていた。帯は黒。精悍な目はぎらぎらと輝いていた。
 物珍しげに俺は見詰め返した。
「サッカーかあ…。」
 少年はひょいっと俺の足元からボールを掬い上げた。靴を履いていない素足に彼はそのボールを器用に絡めた。と、軽くドリブルした。何をするのかと目を見張ると、彼は徐に素足でボールを蹴りあげた。
「え?」
 躊躇する間もなく、ボールは真っ直ぐにゴールへと突き刺さように飛び込む。
 見事なアーチを描いて飛んだ。
 蹴りだしたのは素足にも関わらず、ゴールネットを引きちぎるのではないかと思えるような球圧。
「凄い!」
 子供心に釘付けられた。
「おめえ、さっきの試合、ボロボロにゴールを奪われてたな…。」
 少年は俺を見て呟くように言った。
 俺は俯いてこくんとうな垂れた。また涙が頬を伝う。
「悔しいか?」
 またこくんと相槌を打つ。
「じゃあ、大丈夫だ。」
 彼はそういうとにっと笑った。
「何が大丈夫なの?」
 おそるおそる訊き返した。
「向上できるってことだよ。」
「コウジョウ?」
「ああ…。悔しいっていう気持ちがあれば、もっと上手くなれるってことだ。よっし…。蹴ってみな。俺が相手してやる。」
 少年はそう言うと、ゴールへと入った。
「来いっ!思いっきり蹴ってみな。」
 俺は促されるままに、少年に向かってボールを蹴った。絶対取れないだろうコースへ狙いを定めて、ボールをゆっくりと蹴り上げる。

 バシッ!

 鋭い音がして、少年は難なく俺の蹴ったボールを正面から捕まえていた。
「もう一丁!」
 また俺は蹴りこむ。今度はゴールの上を狙った。
 少年は俺の動きにまるで吸い寄せられるように反応してボールを遮断した。
「もっとよく狙ってみろ。」
 俺は意地になっていた。何度も何度も促されてボールを蹴り続ける。だが、一本のシュートも決まらない。少年は面白いほどコースを読んで俺の蹴りこむボールをシャットアウトしてしまう。
「凄い…。」
 息を切らしながら言うと、少年は呼吸一つ乱さないで言った。
「ボールのコースを読めばいい。気配を感じることができるからな…俺は。」
「気?」
「ああ…。おめえの飛ばしたいと思う方向へ、体が自然に反応するんだよ。」
「そんなことができるの?」
 俺は夢中になっていた。見知らぬ少年の不思議な魅力に蹂躙されはじめていた。
「修業を積めば誰だってできるさ…。よっし…。夕方暫く相手してやるよ。まだ一週間くらい、あの山に籠る予定だしな…。」
 少年はそう言うと、ボールを持った。
「練習するにも相手が要るだろ?おめえはキーパーなんだしな…。」

 こうやって俺とこの不思議な少年の秘密の特訓が始まった。

 毎日サッカーの練習が終わり、皆が帰宅したあとにこっそりとする特訓。彼はいつも定刻にやってきては小一時間、俺に付き合い、そして日暮れと共にまたどこかへ行ってしまう。訊けば、武道の修業のために学校裏の山に籠っているのだと言う。それだけでも世間離れしている少年だったが、まだガキだった俺は、それ以上の疑問も持たずに、ただ、サッカーの上手い兄ちゃんという風に接していた。
 名前は確か、乱馬と言った。武道家の玉子だという。
 サッカーをやっている訳ではないのが不思議だった。
 俺が小学生、相手が高校生というハンディーを除いても、彼のサッカーセンスは並大抵のものではなかった。選手にならないのが不思議なくらい、動きが良い。
「本当にサッカー選手じゃないの?」
 俺は屈託なく彼に問い掛けた。
「違うぜ…。」
 サッカーなど体育の授業と昼休みの校庭でしかやったことがないという。
「なる気もないの?」
「ああ…。」
「どうして?お兄ちゃんの腕ならどこのフィールドだって引っ張りだこだろうに…。」
「俺は武道家だからな。サッカーをやりたい訳じゃねえ。俺のことはいいから、特訓!」 
 
 精悍な身体は武道家のそれらしく、筋肉に溢れている。そのしなやかなばねのような体から蹴り上げられるボールは、とても素人とは思えないほど美しく飛ぶ。
 彼は年下の俺に対しても容赦はしなかった。年齢のハンディーなどお構いなしだ。手加減なしに俺に向かってボールを蹴りこんでくる。
「真剣勝負に年齢なんか関係ねえからな…。」
 そう呟きながら。
 彼のボールは速い。かろうじて受け止められても、痺れで暫く身体が動かなくなるほど気力に満ちている。俺は毎夕、必死で彼のボールを追い続けた。
 何日か彼の前でボールを受けるうち、だんだんとその力とスピードに慣れてきた。彼と対峙しているときは感じなかったが、チームの練習でチームメイトを相手していると、己の鍛錬ぶりがわかるのである。
 レギュラーたちのボールが止まって見えるようになっていた。
 きっと乱馬という少年の動きを追っているうちに、動体視力が洗練されてきたのかもしれない。
 だんだん動きが俊敏になる己を感じていた。
 一週間後。俺は再びチームメイトの中に入ってゴールを守ることになった。俺と交代を命じられてレギュラー入りした奴が、怪我で退場を余儀なくされたからだ。

 ラストチャンス。

 俺はレギュラーの座をライバルに奪われたくない一心で試合に臨んだ。
 だが、そういう気負いは、精神的に未熟な俺を返って萎縮させた。
 こういう気負いは得てして失敗を呼び込む。一つの小さな失敗が、やがて傷口を大きく広げて、俺に牙を向いて襲い掛かる。
 そう、いつも以上にボロボロに打ちのめされた。相手が県内トップを誇る、クラブチームだったということが事態をますます悪化させる。
 面白いほど相手チームのフォワードから打ち込まれるシュートは、俺の身体を擦り抜けて白いゴールへと突き刺さってゆく。焦りと気負いは、いつか、俺の精神を内部崩壊させてしまったのである。
 気がつくと、試合が終わっていた。
 スコアボードには五点の失点。
 あれほど練習したのに…。あれだけ人より頑張ったのに…。
 チームメイトたちは仕方がないと言わんばかりの冷たい目で俺を振り返りもせずに立ち去ってゆく。
 夕焼け雲が西の山間を真っ赤に染めていた。
 泣くに泣けず、ただぼんやりと重く垂れ込める曇った空を見詰めていた俺。
 
 もう辞めよう…。俺には才能がない…。

 弱気が幼心に充満しはじめる。
 期待もされない、歓ばれもしない。
 夕闇が涙で霞み始めた頃、彼はやってきた。 
 無言で俺の前に立っていた。

「また負けちゃった…。」
 俺はぼそっと試合の結果を報告した。
「そっか…。」
 少年はそう吐き出した。
 慰めるでもなく、罵るでもなく、じっと傍に立っていた。
「俺…。もう、サッカー辞めようかって思うんだ。」
 沈黙に耐えられずそう切り出した。彼の肩がピクンと動いた。
「何でだ?」
 厳しい声だった。
「だって…。練習しても上手くならないし、それに俺には才能がないから…。」
 小さな声で呟くように答えた。
 彼は黙ってしまった。
 そん沈黙は重苦しく、俺はそっと彼を伺った。
 彼は怒鳴るでもなく、静かに口を開いた。
「サッカーを極めるのに、才能なんか要らねえ…。大事なのはおめえがどれだけサッカーを愛しているかだ。おめえ、サッカーが嫌いになったのか?」
 俺はブンブンと頭を横に振った。
「嫌いなんかじゃない!」
「じゃあ何でそんなことを言い出すんだ?おめえのサッカーへの情熱はそんなナマッチョロイ物なのか?」
 俺は黙った。彼の静かな熱情が、幼心にも伝わってくるのだ。
「俺は武道家だ。誰になんと言われようとその意志は曲げるつもりはねえ。俺は武道で世界の頂点に立つ。そう決めていた。ガキの頃からな…。」
 彼の体が大きく見えた。
「おめえの夢は何だ?」
「俺の夢は、サッカー選手になって、ワールドカップのフィールドに出ること。カーンみたいなゴールキーパーになること…。」
「諦めるのか?一度や二度くらいの失敗が何だ?才能がない?…才能は努力に付いてくるものだ。おめえのサッカー人生はまだ始まったばかりじゃねえか。」
「でも、俺は…。」
「でもじゃねえっ!そんな弱気じゃあ、おめえに微笑む勝利の女神も逃げちまうぞ…。」
「勝利の女神?」
 彼の厳しい口調に思わず聞き返していた。
「ああ…。勝利の女神だ…。見せてやろうか。」
 彼は懐を何かもぞもぞとやっていた…。
「これ…。」
 差し出されたそれは一枚の絵葉書だった。
 顔のない翼を持った彫刻が鮮やかに浮き上がる。
「この前のワールドカップで知り合った外国人に貰った絵葉書だ。」
 何故少年がこんな絵葉書を出してきたのか、俺は意図もわからずに戸惑っていた。
「この彫刻、勝利の女神「ニケ」の像なんだそうだ。」
「勝利の女神?」
「ああ…。ギリシャ神話に出てくる、勝利を導いた女神だ。エーゲ海で発掘されたときはすでに顔がなかったそうだ…。なあ、おめえ、勝利の女神はどんな顔をしていると思う?」
 唐突の問いかけに、まだ幼かった俺は沈黙した。顔のない女神像の絵葉書は、それだけ強烈なイメージとして俺に迫ってきた。
「勝利の女神は気まぐれだ…。だけど、必ずおめえの傍にも居る。彼女が微笑んでくれるかどうかは、おめえの努力次第だよ。」
「お兄ちゃんの傍にも勝利の女神は居るの?」
「ああ、いるさ。一等、気が強い、でも直向(ひたむき)な女神がな…。」
 一瞬優しい目になった少年は、写真をしまいこみながら言った。
「おめえにもきっと勝利の女神は微笑んでくれるだろう。その顔は恋人かもしれねえし、母親かもしれねえ…。俺の場合は許婚…っとこれはどうでもいい。だが一つだけ言える。」
 少年は真っ直ぐに暗灰の瞳を俺に下ろしてきた。
「勝利の女神を呼び込むためには、逃げてちゃだめだ。夢は逃げていちゃあ何時まで立っても捕まえられねえ。勝利の女神は自分で掴み取るもんだ。だから、失敗を恐れちゃいけねえ…。増してや夢を諦めることもな…。おめえも男だろ?」
 
 今にも泣き出しそうな空。雨の匂いが立ち上る。ぽつっと雨粒が俺たちの上に下りてきた。

「雨か…。行かなくちゃ。今日でおめえとの特訓は終わりだ。だが、諦めちゃいけねえ。おめえのでっかい夢、その手で、いやその身体で掴みとれ。勝利の女神の降臨を信じて…。またいつか会おうぜ。」
 少年は一度だけ微笑むと、降り始めた雨の中をくるりと交わして駆け出した…。
「お兄ちゃん?」
 目の錯覚だろうか。彼の身体はみるみる縮んだ。そう、男だと思っていた身体がひとまわり小さくなったのだ。
「女の人?女神?」
 駆け出した少女は振り返らなかった。

 俺は降り出した雨の中、遠くなる人影を見送った。

 そう、彼女は俺を叱咤激励しに来た「勝利の女神」だったのかもしれない。
 きっとそうだ。俺は、幼心にそう確信した。

 あの日から俺は、諦めずに努力した。何度も挫折しそうになっては、あの日の絵葉書の女神像と立ち去った女神の影を思い出しながら。
 本当の勝利の女神の微笑みを掴み取るために。
 俺は、今、ワールドカップへの出場を賭けてここに立つ。オールジャパンのゴールキーパーとして。

『夢は逃げていちゃあ何時まで立っても捕まえられねえ。勝利の女神は自分で掴み取るもんだ。』
 俺の傍で再び女神が囁いた。
 不思議とさっきまで気負っていた心が軽くなった。緊張した身体の底から、力が溢れ出してきた。
 どんなボールでも止めてみせる。俺は滾る力を全身へと張り巡らせた。


 時は満ちた。
 大歓声が俺たちを出迎えようとしている。

「さあ、行こう!フィールドが俺たちを待ってる。勝利の女神を俺たちに降臨させるんだ。そして、世界へ出よう。大いなるワールドカップを手にするために!」

 俺は閉じていた目を見開くと、チームメイトたちに語りかけた。
「おー!」
 どこからともなく共鳴の雄叫びが聞こえた。




 西暦二〇一七年。
 今まさに幕が上がる。俺たちオールジャパンの熱い戦いが始まろうとしていた。



 完





「勝利の女神」有翼の女神、又は、サモトラケのニケ。
フランス・ルーブル美術館蔵。


一之瀬的戯言
 妄想の洪水に見舞われて、叩きだした一作。
 非乱あ作品は珍しいです…。でも、結構気に入ってます。
 こんな情景が或いは展開されたかもしれないと…
 きっと、彼らの子供たちも、この試合を見て熱中した・・なんて。妄想は止まりません。
 サモトラケのニケ…不思議な彫像です…。一度見てみたいっ!!

乱馬は絵葉書を、どうやら、決勝リーグにて件のイタリア人に貰ったらしい…。その絵葉書が一人のサッカー少年を伝説の名選手(ゴールキーパー)に育てた…。凡て私の妄想の中での話なりけり。


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