◆虫パニック


 ほんの悪戯心だった。

 ほら、よくあること。どこにでも居る奴。
 好きな子に悪戯ばかりする悪餓鬼。で、最後に泣かせてオロオロする悪戯坊主。

 その日は快晴で、空は青く澄み渡っていて。暑くも寒くもない初夏の昼下がり。こんないい季節はすぐ過ぎてしまう。もう暫くすれば梅雨になって、じめじめして、それが明ければギンギン太陽の夏。
 ちょっと都会を離れて、山へ入っていた。
 特に修業へ来たわけではなく、家族とバーベキュー。
 川原でわいわいがやがや。腹が膨れたから、腹ごなし、退屈しのぎに周りから外れてみる。別に何をしようという訳ではなかったが、折角来た山の中。俺の中の野性の血が奥へと導きたがるのかもしれない。
 小走りになって軽く汗を流してみる。
 じっとしている分には汗はかかないが、動くと少し浮いてくる。額や首回り。じとっと濡れてくる。まだ盛夏のような不快感はない。渡ってゆく谷風が心地良く濡れた肌をひんやりと通り過ぎてゆく。
 生い茂るように両側から垂れ込んでくる木々。その下を細いハイキングコースの土の歩道が続いている。人工的というより、獣道が進歩したくらいの土の道だ。
 木立を抜け、少し山へ入ったところでふうっと息を付いて周りを眺めた。

「ん?」

 俺は傍の木に目が行った。

 ごそごそごそ・・・。がさがさがさ・・・。

 何か居る。
 僅かだが気配がある。
 俺はじっと目を凝らしてみる。
 と、のっそりと前の桑の葉の間から、大きな立派な毛虫がにゅっと顔を出した。

「ほお・・・。」

 俺はそいつをじっと見た。そいつは俺の気配を感じたのか、もしゃもしゃと動かしていた口を止めて息を潜める。

 と、背後から人の気配がした。

「乱馬ぁ・・・。もう、どこへ行っちゃったのよぅ・・・。みんな心配してるわよ。そろそろ帰るわよって。」

 あかねの声だ。

 俺はほんの出来心で、ちょっと彼女に悪戯してやろうかと思い立った。そして、ガサッと目の前の毛虫のくっついた枝葉を少しだけ折った。

 パキン。
 と、乾いた音がした。

「そこに居るの?」
 あかねは案の定こちらへ歩みを向けてきた。枝を折る音が聞こえたのだろう。
 俺はさっと木の後ろ側へと回り込んで、隠れた。
 こんな山の中だ。隠れるところはそこら中にある。ちょっと鬱蒼としていて暗いから、息を潜めて気配を立てば、同じ武道家の卵のあかねからだって隠れ遂せる。俺は折った枝を握り締めてにんまりと笑う。

「乱馬、乱馬ったらあ・・・。居たら返事くらいしなさいよね!」
 あかねはなかなか表れない俺に痺れを切らしたのであろうか。少しご機嫌斜めな感じ。
(もう少し・・・。)
 俺は心でわくわく。ちょっとあかねを脅かしてやろうと思っていただけ。でも、こういう企て事は子供でなくてもちょっとドキドキするじゃねえか。
 はやる気持ちをぐっと堪えて、じっと潜んだ。

「乱馬ぁ・・・。何処よ・・・。居るのわかってるんだから・・・。」
 傍であかねが声を荒げる。てんで違う方向を探していた。
(しめしめっと・・・。)
 俺はぱっと繁みから飛び出して、あかねの目と鼻の先に、さっき手折った枝葉を後ろからたらりと下げた。その枝先には立派な毛虫。

「きゃあーっ!!」

 案の定あかねは一発大きな悲鳴をあげやがった。
『何すんのよっ!乱馬の馬鹿ーっ!!』と当然次に来る言葉を予想して俺は笑いながら身構えた。
 が、俺の予想は外れた。
 あかねは突然の招かれざる毛虫に余程驚いたのか、あろうことか後ろでにやついていた俺にひしっとしがみついてきやがったのだ。
 俺は予想だにしなかったあかねの行動に、しどろもどろ。だって、そうだろう、いきなりあかねの細い腕が俺の首の周りを締め付けてきたんだぜ。
「お、おいっ!!」
 情けねえことに今度は俺が固まる番だ。

 悪いことはできないもので、その弾みで、バランスを崩してしまった俺。只でさえ、悪い足場。湿った枯れ落ち葉の地面、見事に滑ったのだ。
「わっ!」「きゃっ!!」
 二人して軽い悲鳴を上げて後ろ側に投げ出される。

 ガサガサ、ごそっ。

 後ろは繁みだった。下草が生い茂っている。幸い、柔らかい木の枝だったので、たいした傷にはならなかった。少し折れた枝葉で服を汚してしまったくらいだろう。
 俺は仰向けになり、覆い被さってくるあかねを抱きかかえたまま沈む。そんな風になっていた。無意識にあかねを守りたいという防御本能が傾いたのかもしれねえ。すっぽりと両腕で彼女を抱え込んで体ごと胸板に沈めていた。
 いつもならこのあたりであかねの鉄拳が一つか二つ、飛んでくる。しかし、今日は違っていた。
 そう、あかねに突っかかってくるだけの余裕がなかったらしい。
 何しろ、山の中の繁みだ。毛虫や蟲の類がウヨウヨしている。
 そんな虫たちが一瞬にして彼女の目に入ったらしい。

「いやあーっ!!ダメーっ!!」

 あかねのパニクリ方は俺の予想を遥かに越えていた。

「いやいやいやーっ!!」

 涙声になりながら、構わず俺の体に擦り寄ってくる。
 俺はあかねを抱えたままゆっくりと起き上がった。
 起き際に見ればあかねの服の周りに、木の葉と共に、何匹かの可愛らしい毛虫。中にはあかねの洋服にくっついてもぞもぞと動いているやつも。

「ちょっと、こら、あかね・・・。」
 あかねの必死の抱擁に、俺はドキドキしながらなだめすかす。
 俺の悪戯の計算違い。そう、あかねが女の子だということをすっかり忘れていたのである。一匹ならまだしも、ある程度の団体さんで毛虫を見せられて、それが身体にくっついているならば、大抵の女の子は不能な状態に陥ってしまう。あかねもそうだった。
 普段の気の強さ、意地っ張りなところはすっかりぶっ飛んでいる彼女。俺の胸の中でパニくっている。構わず擦り寄ってくるあかねの柔らかい身体。その怖がり方。
 不覚にも「かわいい!」と思ってしまった。

「お願い取ってーっ!!」
 小さな声を震わせながら懇願するあかねに
「しょうがねえなあ・・・。たく・・・。」
 己がやった仕打ちはすっかり棚に上げて、俺は左手をそっと彼女の背中に回し、柔らかく抱いたまま、右手で丁寧に一つ一つ、あかねや己の身体にくっついていた毛虫や青虫を払う。
 あかねはその間中、ずっと俺の胸に顔をうずめてひっくひっくやっていた。
(こいつも女の子だったんだな・・・。)
 変に感心した俺。あかねはいつも勝気だから、毛虫の団体くらい何ともねえと思っていたのに。
 なんだかそう思うと溜まらなく愛しくなった。男なんてそんなものだろう。

「終ったぜ・・・。」

 俺はそう軽く言うとふっと微笑んだ。そして、まだ顔をあげようとしないあかねの髪の毛を右手で少しかき上げて、微笑んだまま額へくちづける。
(悪かったな・・・。もういいから、落ち着けよ・・・。)
 心でそう詫びていた。
 ふわっと風が通り過ぎた。上から木漏れ日が俺たちを淡く照らしつける。
 一瞬和んだ山の空気。

 そのままそこへ溶け込んでいくようにじっと抱き合っていた。




「お取り込み中悪いんだけど・・・。」

 急に前から声がした。
「わっ!」
 俺は慌ててあかねを身体から引き離す。あかねもドキッとしたのだろう。真っ赤になったまま俯く。
 声の主はなびきだった。
「そろそろ帰りのバスの時間なのよね。お二人さん。」
 俺たちの抱擁の一部始終を見てたわよと云わんばかりの流し目であった。
「お、おう・・・。」
 俺は徐に起き上がって、木の葉を払った。
 あかねも黙ってそれに続く。
 さっきまで澄んでいた空気が重くなって降りてくる。
 黙って戻る山道。


「あ、あかね、毛虫。」
 なびきが言った。そしてあかねの背中を指した。
「いやーっ!」
 あかねはまたパニくる。思わず傍に居た俺の腕をひしっと掴む。
 俺は俺で固まってしまう。
 緊張が走って止まった俺たちの空間。
 それを緩和させるように次の瞬間なびきはぷっと吹き出した。

「嘘よ。」

 吐き出された一言に、きつねに摘まれた俺たちが担がれたと事態を把握したとき、なびきはとっとと先に歩き出していた。

「早くいらっしゃいよー。」
 振り返らずにそう言い放って。

 午後の山の空間。俺たちは二人で見詰め合った。緊張は緩和され、ふっと二人微笑む。
 再び俺たちの時が動き始めた。



 完




一之瀬的戯言
 いなばRANA家へ貢いだ短編。
 これ書いてから、いろいろ身体的理由により、精神状態が崩壊し、暫く停滞し泥沼に陥った奴は私です。

 その後、パソコンの折り重なる「熱暴走」にも関わらず「夏幻想」として、同時期に脳内に描いていた蟲プロットが日の目を見ました。
 かく言う私も蟲(特に節足動物や毛虫)が苦手です。だから、生駒に住むのはとっても辛いです…。のどかではありますが、軒先庭先そこら中に虫やら小動物がぞーろぞろと…ひえ〜!


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