第五話  囚虜

一、

「では、行くかのう。」
 のどかが帰った後で、伊吹は乱馬を顧みた。
「行くって、何処へ?」
「決まっとる、修業場じゃ。」
 伊吹は細い目を笑顔に溶かしながら乱馬に言った。
 乱馬は伊吹の修業を受けることになった。こんな都会の真ん中では修業は不可能ということだろう。乱馬も良く、己の肉体と精神を鍛えるために山へ入る。山を掛け野を掛け修行をするのだ。
 大方どこかの山へ入るのだろうと彼自身も曽祖父の言葉に頷いた。
「ついて来るが良い。」
 伊吹はそう言って何も手に下げずに立ち上がると、さっさと草履を履いて玄関へと立った。
「早く来い。一週間しか期限はないんじゃからな。」
 にっと笑って見せて伊吹は乱馬を促した。
 乱馬は伊吹の後に続いて家を出た。
「ついて来られるかのう?」
 伊吹は一言そう言うと、疾風のように街を駆け出した。
「あ、おいっ!爺さんっ!」
 あまりに急に駆け出したものだから、乱馬の方が焦ってしまった。
 己の曽祖父だ。悠に七十歳は越えているだろう。そんな肉体で急に走り出したら。
 が、予想に反して、伊吹の身のこなしは軽かった。
 乱馬の心配など物ともせずに、軽やかに走ってゆく。
(何だあっ?)
 乱馬はキツネにつままれたような表情を向けながら、一緒について走り出した。
「ほーっほほ、もっと飛ばすかのう。」
 乱馬がついてくることを確認すると、伊吹はペースまであげ始めた。マラソン選手並のスピード、いや、それ以上のハイペースで駆けて行く。
「爺さんっ!そんなに飛ばして大丈夫なのかよ?」
 乱馬は背後から声をかけた。
「なあに、心配せんでいい。これでも抑えておる。」
 そういながら笑っている。乱馬は背筋にぞくっとするものを感じていた。
(やっぱりこの爺さん、只者じゃねえな・・・。)
 後ろにくっついて走りながらそんなことを考える。きっとこれからの修業は、予想よりも遥かに大変に違いない。そんな予感が脳裏を掠める。
 物の二、三十分も走ったろうか。
 気がつくと良く見る町並みへと入って来た。 
 そう、ここは天道家からそう遠くない場所だ。
「爺さん、何処へ行く気だよ?」
 乱馬は背後から声を掛けてみた。
「すぐそこじゃよ。目的地はな。」
 伊吹はそらっと云わんばかりにまたスピードを上げる。
「待てよっ!」
 追いかけるようについてゆく。
 と、見慣れた立派な門構えの前で伊吹は急に足を止めた。一瞬ぶつかるとおもった乱馬だが辛うじてそれを避けた。
「ここは・・・。」
 乱馬は驚きの表情を隠せずに伊吹を見た。
「修業場じゃ。」
 そう言うと伊吹はたっと玄関から中へと入ってゆく。
「お、おいっ。修業場って・・・。ここは九能の家じゃねえかよっ!!」
 臆さずにずかずかと入っていく伊吹の後ろから乱馬は慌てて声を掛けた。

「何奴っ?」
 
 案の定、中から鋭い聴きなれた声がして、ヒュンと手裏剣が飛んできた。
「袋小路伊吹じゃっ!」
 伊吹は飛んでくる手裏剣を顔色一つ変えずにたっと交わした。
「おお、これはこれは伊吹殿。お待ちしていたでござるよ。」
 そう言ってひょいっと顔を出したのは、九能家のお庭番、葉隠佐助であった。
「おろ?そちらに居るのは早乙女乱馬ではないか。貴様何の用だ?」
 佐助は乱馬の存在に気がついて鋭く声を上げる。
「よおっ!なんだかしらねえけど、この爺さんについて来たら、ここへ入っちまったんでいっ!」
 乱馬はぶすっとして答えた。
「なあ、爺さん、どういうつもりなんだ?」
 乱馬は訝しげに伊吹を見た。
「ほーっほほほ。おぬしだけではなく、ここの御曹司も修業をお望みでな。何、場所が欲しかったから、来たまでのこと。それに、おぬしも修業するのに相手があったほうが良かろうて。そうか、知り合い同士じゃったか。」
 そう言うと、
「只の知り合いではないっ!恋敵じゃっ!!」
 手前から声がした。九能帯刀だ。
「おぬしか。格闘剣道袋小路流の先々代というのは。ふん、良かろう、修業を受けてやる。」
 相変らず高慢な態度である。
「おまえさんが九能帯刀か。なかなかの男ぶりではないか。ほお、乱馬とは恋敵じゃったか。これは愉快。」
 面白そうに伊吹は笑い続けている。
「何で爺さんが九能を知ってるんだよ。」
 乱馬はこそっと佐助に聞耳を立てた。
「いやあ、格闘剣道といえば、名にし負う古剣法の一流派。特に我々お庭番のような裏世界に精通するものにとっては憧憬の古剣法なのでありまするよ。それに、聴けば帯刀様は次代家元の大和とかいう小僧にのされたというではありませぬか。だから。」
「なるほど・・・。九能は九能なりにこの前のされたのが堪えてやがるって訳か。それで大和を倒すために修業しようと。」
「わしが伊吹殿を探して引っ張ってきたのでござるよ。それなのに、何故、伊吹殿はおぬしと一緒なのでござる?」
 佐助は合点がいかぬという視線を乱馬に投げつけた。
「ちょっと俺の方も訳ありでよ。大和と渡り合わなけりゃいけねえことになってよ、それでおふくろが爺さんを引っ張り出してきたんだ。」
 乱馬はこそっと佐助に言った。
「じゃ、何でござるか?帯刀殿と組んで修業する相手というのは乱馬殿のことだったわけで?」
「九能と組むだって?」
 乱馬が素っ頓狂な声を上げると、脇から声が飛んだ。
「僕は嫌だぞ。おまえみたいな狼藉者。一緒に組んで修業するだなんて。断わるぞっ!」
 九能は会話を聴いていたのだろう。ぎゅっと拳を握り締めて伊吹を睨みつける。
「つべこべ言うでない。格闘剣道は対で修業するのが一番良いのじゃ。どら、これで文句はなかろうて。」

 バッシャといきなり水が乱馬に浴びせ掛けられた。庭先の手水桶に溜まっていた水である。大方、のどかあたりに変身のことを聞いて知っていたのだろう。

「冷てえっ!何しやがるっ!」

 案の定、乱馬は女へと変身を遂げた。
「あややっ?そこにいるのはおさげの女。」
 佐助が目を見張る。
「おおっ!おさげの女、会いたかったぞっ!!」 
 九能が両手を広げて乱馬を抱擁し、頬ずりをすりすりとなすりつけてくる。
「や、やめろっ!気色悪いっ!!」
 乱馬は一撃で九能をのしあげる。はあはあと肩で息をしながら、げしげしとのしあげた九能を踏みつける。それから伊吹を睨みつけて言った。
「何のつもりでいっ!いきなり水なんか引っ掛けやがってっ!!」
 かなり堪えたのであろう。乱馬は大きな声で言い放った。

「何を興奮しておる。おぬし、一週間で格闘剣道の奥義をきわめたいのじゃろ?だったら、わしの言うとおりに修行することじゃな。でないと、おぬしに未来はないぞよ・・・。ほほほ。」
 伊吹は満面の笑みを讃えながら乱馬を見返した。そうはっきり言われてしまっては元も子もない。
「ちゃんとわかるように説明しやがれっ!!」
 それでもハラワタが煮えくり返っているのだろう。乱馬の語気は強い。返答によっては容赦しねえという荒さが感じられた。
「言ったとおり、格闘剣道を身に付けるには二人以上の乱稽古が一番なのじゃ。それに、のどかに聴けばおぬし、呪泉の呪いでおなごに変化するそうではないか。それを最大限に生かさずに何とする。女の身軽さ、非力さで激しい修業をこなせば、男になって闘う時に有利に決まっておろうが。それもわからぬのか?バカ曾孫よ。」
 カチンとくる言い方だった。
「バカとはなんでいっ!バカとはっ!九能と一緒にするんじゃねえっ!!」
「ならば、そのまま修業をするな?でなければ、とっとと尻尾を巻いて帰れっ!大和に一生掛かっても勝てぬわ。」
 ぐっと咽喉が詰まりそうになって乱馬は拳を握ったまま暴れ出したい心境を耐えた。
 確かに一理はある。
 女の形のまま九能や佐助と渡り合うのは男のときよりも体力的にも技量的にもきついものがあるに違いない。ましてや剣道は殆ど初心者みたいなものだ。組合の相手が九能ならば不自由はしないだろう。
「わかったよ。言うとおりにすればいいんだろ?」
 乱馬は九能を足蹴にしながら渋々そう切り替えした。
「ほほ。わかればよいのじゃ。さてと、九能帯刀とやら。」
 そう言うと伊吹は乱馬の足元でへばっている九能へ声を掛けた。
「このおなごが一緒でも良かろう?」
「おお、おさげの女と修業か?いや・・・。断わる。」
「何故じゃ?」
「女は男が守るべきもの。なのに一緒に仲良く修業だなんて、合点がいかぬ。」
 九能は砂埃を払いながら格好をつけた。
「けっ!俺に負かされるのがこわいんだろ?」
 乱馬はむっとして九能を見返した。
「それなら、これでどうじゃ?修業の後の自由時間は好きにするがよい。この乱馬ちゃんを襲おうが、手篭めにしようが、いちゃつこうが・・・。どうじゃな?」
 飴とムチのような刺激的な言葉であった。

「な?じじい、それはどういう意味だ?」
 九能は目を瞬かせた。
「そうだっ!どういう意味だよ?」
 乱馬も再び語気を強めた。
「だから、こちらの修業が休憩に入った時間は、おぬしの好きにすればよいと言っとるんじゃ。」
「そんな・・・うれしいこと。」
 九能はぱっと表情を明るくした。
「待ていっ!俺は九能なんかとじゃれ合う気はねえぞ!!」
「ならば、九能殿の魔の手をかわせばよかろう?嫌なら逃げれば良いのじゃから。それとも何か?おぬし、九能殿から一週間逃げ遂せる自信がないのかな?」

 無茶苦茶な展開であった。
 だが、伊吹がこういった無理難題を平気で条件に出してくる。これも修業の一貫だと思った方が納得がいくだろう。
 それに、伊吹の言葉は勝気な乱馬を刺激するに十分な言葉であった。
「よっし、いいだろう。九能から一週間、逃げ遂せてやる。だが、ここの屋敷にはもう一人、小太刀と言う根性悪娘がいるんだぜ?朝駆夜駆けして九能と俺がざわついて平静でいられるとは思わねえが・・・。」
「小太刀さまなら、大丈夫でござるよ。何しろ、格闘新体操部の合宿で一週間留守でござるから。」
 佐助がひょこっと顔を出した。
「決まりじゃな、乱馬よ。」
 愉快そうに伊吹は宣言した。

「言っておくが、わしが修業を行う間は、じゃれあいは禁止じゃ。真剣にやれ。そして、修業が終わった時間は、おぬしらの好きにすればよい。いいかな?」
「わかっておるわ!ふふ、一週間楽しく修業をしようぞ。おさげの女あっ!」
「くっつくなーっ!!気色悪いっ!!」

 悲惨な修業が始まった。


二、

 とにかく、休む暇がない。
 伊吹が中間にあって修業している時間は、予想以上に厳しいものだった。
 竹刀を持って対峙する。まずは剣道の基本の型から習得してゆかなければならない。その上で格闘剣法へと移らねばならないのだ。
 実際、九能は良い相手であった。
 流石に子供の頃から剣の道に親しんでいるだけのことはある。
 その切っ先も剣さばきも、一流であった。大学選手権でもかなり上位の方へ行くと思われる。初心者の乱馬にとってはありがたすぎるほどいい組み手であったことは言うまでもない。
 最初は嫌がった防具も、つけろと言われて渋々つけた。面も小手も胴も七面倒臭かったが着用した。
 これは経験したものはわかるだろうが、汗臭い。
 九能は慣れているからというので何も身につけずに、乱馬目掛けて軽く打ち下ろしてくる。
 バンバンと最初はそこら中に当たっていた竹刀も二日もする頃には当たらなくなった。
 
 あれこれ考えている余裕もなく、只ひたすらに剣を構えた。短時間でどのくらい鍛錬できるかはわからなかったが、こうなってはやるしかあるまい。
 あかねを自分の手元へ奪還する。
 それだけが彼を突き動かしていた。
 流れる汗を諸共とせずに、九能や佐助、そして伊吹自身の剣を受けて受けて受けまくった。
 休憩に入ると、九能は下心ぶりぶりで乱馬ににじり寄ってきた。
 女から男へ戻ることは伊吹によって固く禁じられていたので、寄るとさわると、九能は乱馬を己の物にしようと飛び掛ってくる。
 その際は剣で牽制しろと伊吹は乱馬に申し渡していた。だから彼の横にはいつも木刀が置かれていつでも手に出来るように準備されていた。
 もし、剣ではなく拳で九能を突き上げようものなら、傍から伊吹の剣が容赦なく彼を襲ってきた。
 とにかく剣に慣れ、奇襲に耐える。
 これが伊吹流の乱馬の鍛え方であったに違いない。

 そして四日も経つ頃には乱馬の剣が九能にも自在に入るようになっていた。
「やはり血筋かのう・・・。格闘剣道の素質は十分に持ち供えているようじゃのう・・・。後は、格闘剣道の極意を身につけるだけじゃ。どうら・・・。わしがじきじきに体感させてやろうかのう・・・。」
 と伊吹は乱馬を見ながら目を細めた。
 そう、今まで見知らなかったとはいえ、血は繋がっているのだ。
「構えてみいっ!」 
 そう言って伊吹は乱馬を見据えた。
 乱馬は促されるまま、胴着のまま、伊吹と対峙した。
(強えっ!てんで隙がねえっ!!)
 防具の向こうに見える伊吹が大きく映った。強い相手とは喩え身長が己より小さいにしろ、浮かび上がるほど大きく勇壮に見えるものだ。
 乱馬はじっと伊吹を観察した。
 伊吹はにっと笑うと、一気に打ち込んでくる。
「やあっ!」
 乱馬は身を翻してそれを避けた。寸でのところで切っ先を交わした。 
 己はそう思っていた。
 だが、
 
 バシンッ!

 鋭い音がして気がつくと剣が己の咽喉元へと突き立てられていた。
(やべえっ!)
 更に彼は後ろへと飛んだ。軽い女体の体だ。後ろ向きに宙返りして身を交わす。
「遅いっ!!」
 伊吹は容赦なかった。
「うわっ!」
 着地と同時に再び突いてくる。隼のような速さであった。ようようなんとかその攻撃を凌いだ。
「ふふ、良く避けたな。では、これはどうかな?」
 伊吹は木刀を野球のバットのように身構えると、大きく振りかぶった。
「な?」
 そのとき乱馬は見た。彼が操る切っ先から蒼白い炎が立ち上がるのを。
「あれは?気の渦か?」
 乱馬が一瞬目を瞬かせた。その場に怯んだその期を伊吹は逃がさなかった。
「格闘剣法、雷鳴両断っ!!」
 伊吹はそう叫んだ。
 蒼白い気炎をなびかせた剣が目に留める間もなく、乱馬目掛けて打ち下ろされる。

「うっ!!」

 次の瞬間、乱馬の右小手に伊吹の剣が入った。
 雷鳴が轟くような光が乱馬の目の前に飛び散ったような気がした。

「一本っ!勝負あった。」
 九能が高らかに伊吹の勝利を宣言した。
 乱馬は蹲ったまま、暫く呆然と立ち尽くしていた。
 今確かに見えた一瞬の気の燃焼。そしてこの痛み。

「ふふっ・・・。おぬしならわかるじゃろう・・・。今の技に、何が込められていたのかは・・・。これが格闘剣法の極意じゃ・・・。これがわからねば大和には勝てぬ。」
 伊吹は小声でそう嘯(うそぶ)いた。

「ちぇっ!生傷だらけだぜ・・・。」
 乱馬は湯舟に漬かりながら柔肌を撫でた。
 唯一、男に戻ることが許されている時間。
 それは入浴中であった。
 このときだけは女体から解放される。湯浴みすれば男に戻るのだからこればかりは伊吹とて言及できるものではない。
 湯に漬かっている間だけは本当の己に戻れるのであった。
 だが、それもつかの間。
 九能は入浴中でも容赦せずに乱入してきた。
 この日もそうだった。

「おさげの女あっ!背中を流してあげようぞ。」
 ガラガラと引き戸を開いて、羞恥心なく飛び込んでくる。
「おとといきやがれっ!!」
 乱馬は湯をばしゃっと九能へ浴びせ掛ける。
「おまえは!早乙女乱馬っ!さては、おさげの女と湯舟の中で・・・。」
「けっ!どこにおさげの女がいるって言うんだよっ!!」
 湯煙の中辺りを見回すと
「何処へ隠した?」
 と詰め寄ってくる。
「隠せるかっ!アホっ!」
「ところでおぬし、何故ここにいる?」
「何でもいいから。俺は湯を楽しんでるんだ。おさげの女ならあっちへ行った。さっさと出てゆけっ!!」
「おお、そうか!じゃっ!」
 九能は右手を挙げて浴室を駆け出した。

「ふう・・・。」
 乱馬は大きな溜息を吐きながら九能を見送った。

「格闘剣道か・・・。大和の剣さばき、それにあの爺さんの身のこなし・・・そして、剣・・・。」

 九能が出た後、再び静けさを取り戻した浴室で乱馬はじっとさっき穿たれた傷を見ていた。
 九能や佐助に打たれた傷や夕方までの爺さんの剣とは根本的に違っている。今まで受けた傷は所謂「打身」。青じんだり、赤みを帯びたり。打撲症状であった。
 が、先ほど爺さんにやられたと思われる傷はケロイドのような症状になっていた。強いて言うならば「火傷」。
「もしかして・・・。格闘剣道の奥義って言う奴は・・・。」
 乱馬は疲れた身体を癒しながら、昼間しこたま伊吹に打ち込まれた右肩と見比べた。
 さっき右の小手に打たれた傷。そう、軽く触れただけでこの威力、破壊力。油断していたとはいえ、一番深く突かれた傷かもしれない。
 痛みは打身というより、気砲を浴びたときのそれに近かった。
 
「格闘剣道の極意・・・。気砲と同じなのかもしれねえ・・・。きっとそうだ。とすると・・・。剣を通じて気技を使うのか。」
 確信にも似た思いが乱馬を通り抜けた。湯舟の中に拳を握り締め、体内の気を手へと集中させる。そしてぱっと水際で開いてみた。軽い気の炎が上がり、湯がはじけた。
「俺たち無差別格闘流は高めた気をこんなふうに掌から放つ。・・・剣道でそれをやろうとすると・・・。そうか、剣か。木刀や竹刀へ気を同調させて気技を使うんだ。」
 微かだが何かが彼の中で弾けた。
 バシャっと湯から上がると、乱馬は思い切り水を頭から被った。
 逞しい身体は丸い女体へと変化を遂げる。
「試してみてえっ!!」
 
 乱馬はだっと浴室を駆け出した。


三、

「目覚めましたか?」

 傍らで大和の声がした。
 あかねはビクンとして振り返る。
 薄いカーテンの向こう側から大和が柔らかに微笑んでいるのが見えた。
(乱馬じゃなかったのか・・・。)
 あかねはふうっと深く溜息を吐いた。
(えっ?なんで彼がここにいるのよ。)
 あかねはがばっと起き上がると大和を睨み返した。

「大丈夫ですよ。ここからあなたの寝顔を覗いていただけですから。」

 あかねはどぎまぎしながら大和へ言った。

「本当?何にもしてないでしょうね?」
 かなり語尾が荒い。
「約束したでしょう?誕生日までは触れないと・・・。それとも何かして欲しかったとか?」
 くくくと大和は軽く笑った。
「ば、バカにしないでよねっ!そんなこと思うわけないでしょっ!!それより。なんであんたがあたしの寝室にいるわけ?」
 あかねは大和を睨みつけた。
「嫌だなあ・・・。ここは僕らの寝室になるんですから。それに今日が初めてじゃないんですよ。ずっとあなたがここへ来てから毎日こうやって寝顔を拝見してたんですけれど・・・。気がつきませんでしたか?」
 と楽しそうに笑っている。
 また馬鹿にされているのかと思いあかねは目を瞬かせる。確かにベットはたっぷり大きい。ダブルサイズである。
「あんた、毎晩ずっとここへ寝てたの?」
 あかねはどぎまぎしながら大和へ尋ねた。
「まさか・・・。こっちのソファですよ。嫌だなあ・・・。」
「あ、そうか・・・って、何、ずっと同じ部屋で寝てたの!!?」
 語尾を上げてあかねは目を剥いた。当たり前である。乱馬とて同じ部屋で寝たのは右京が押しかけて来て仕方なく同室となったときくらいで、同じ屋根の下に住みながら、寝顔など殆ど曝すことはなかったのであるから。
「仕方がないですよ。母さんが気を回しすぎて・・・。緊急事態がない限り、出るなって毎晩ロックまでかけてくれてるんで・・・。今朝はまだロック解除されていなかったもので、いつもより長めにあなたの寝顔を堪能させていただきました。」
 大和は楽しそうに言った。
「あんたの母親って何考えてるのよ。いやらしいっ!!」
 あかねは真っ赤になって抗議する。その言い方が可笑しいのか大和はくすくすと笑っている。
「母さんはあなたと祝言を挙げる前に契りを交わしてもいいって思ってるらしい・・・いや、それを望んでいるみたいですけどね。」
「なっ!!」
 あかねは絶句してしまった。そして思わず身を固くした。
「そんなに緊張しなくてもいいですよ。あなたが望まない限り、僕は手出しなんかしませんよ。手を出そうと思ったら今日に限らず、いつでも出せたんだから・・・。それに、もうじきあなたは僕の物になるんですから。」

 その言い方にカチンときたあかねは食って掛かった。

「あたしは物じゃないわ。ましてや子供を作る道具でもない。あたしは自分の意思で相手を選ぶし、誰の指図も受けないわ。」
 きっぱりと言い放つ。
「その気の強さ・・・。いいですねえ。うん、袋小路家の嫁にはもってこいだ。」
 何を言ってもこの大和には無駄らしい。すらりすらりとかわしてゆく。
 あかねはムキになっている自分がだんだんバカらしくなった。
「いつまであたしをこんなところに閉じ込めておくつもりなの?」
 あかねは質問の矛先を変えた。今は手出しはしないと宣言している大和であるが、どこまで本気かもわからない。ましてや二人っきりのこの環境で彼をその気にさせてしまうのは不味いと判断したのだ。彼は強い。それに乱馬と違って妙に長けていて、ウブではない。 
 乱馬なら、こういった状況下に置かれても絶対に近寄りはしないだろうし、からかうようなこともするまい。ただ、固まってぎこちなく対するくらいだろう。彼は汚れを知らぬくらい「純情」なのである。 
 だが、大和は違う。鋭い洞察力と底知れぬ不気味さを持っている。いつ狼へと豹変するとも限らない。

「明後日、早乙女くんと勝負します。」
 大和は途端険しい顔つきに変わった。声のトーンも落ちた。
「乱馬と勝負?」
 あかねは思わす身を乗り出していた。
「そうです。どちらがあなたに相応しいか、真剣勝負をします。」
「そう・・・。乱馬が勝負を。」
「でもご安心なさい。僕は必ず早乙女君に勝って、あなたを手に入れます。」
「あたしが嫌だと言ったら?」
 あかねは大和を見上げた。
「嫌だなんて言わせません。」
 大和はあかねの横へと腰を下ろした。
「あなたと契るのを嫌だと言ったらどうするの?」
 あかねは臨戦態勢に入りながらきっと大和へ言葉を投げた。
「そのときは、力ずくで・・・。望むと望まないとも、祝言を挙げた暁には、逃がしはしません。覚悟を決めていただきます。あなたも武道家の端くれでしょう?どうしても嫌ならばその手で僕を倒しなさい。」
 大和は涼やかに言い放った。
 あかねは背筋に冷たいものを感じた。

 もし、もし乱馬が負けてしまったら、己は、ここから、彼の呪縛からは逃れられないだろう。

 そう戦慄が駆け抜けた。大和と己では格が違う。そう思ったのだ。
 乱馬が本気で迫ってもおそらく逃れられないのであろうが、彼は、大和は根本的に何かが違った。
 乱馬は己を曲げてまであかねを物にしようとはしまい。時が熟し、自然の流れに任せるまま、「そのとき」を迎えるに違いない。乱馬はそんな性格だった。それが二人の恋愛のあり方だと疑わずにずっとここまで来た。優柔不断な彼も、奥手な彼も全てあかねは愛していた。
(彼は、乱馬は絶対、己を倒せとは言わない。そう、一緒に強くなろうと言う筈だ。共に武道の、無差別格闘流の高みに登りつめようと・・・。)
 
 あかねはゴクンと唾を飲み込んだ。
「わかったわ・・・。それはそうなった時に考えましょう。」
 と震える声で継げた。
「いい子だ・・・。あかねさんは。」
 大和は舐めるようにあかねを見るとふっと立ち上がった。
「何処へ行くの?」
 あかねは見上げた。
「冥想に入ります。気を高めて、早乙女君を迎え打ちます。彼に負ける訳にはいかない。あなたを得るためにも、母さんのためにも、そして僕自身のためにも・・・。早乙女流を倒すことは我々、袋小路家の悲願ですから・・・。裏切り者の家系を廃絶するためにね。」
「大和君?」
「勝負の日に会いましょう。あかねさん。彼がこの僕に沈められる姿を見せてあげます。」
「乱馬は、そんなに弱くはないわ。乱馬は勝つわ、きっと・・・。」
 それには答えないで大和は部屋を出てしまった。

 あかねはその姿を見送ると、一言窓の外に向って吐き出した。

「乱馬・・・。あたし、信じているから。きっと勝つって・・・。」


 青く澄み渡る空を切るように、一筋の飛行機雲が棚引いて真っ二つに空を切り裂いていた。



四、

「よし、いつでも良いぞ!」

 伊吹は乱馬へ声を投じた。
 修業最終日。明日はいよいよ大和とあかねを巡って死闘を展開しなければならない。
 乱馬は静かに伊吹と対峙していた。沈んでしまった太陽が煌々とその日最後の残照を萌え上がらせる夕暮れ。
 二人は九能家の庭先で燐光と睨みあっていた。
 静かに摺り足で動きを探る。
 傍では二人の静なる気を、まんじりともしないで見詰める九能と佐助、そして母のどかの姿があった。のどかは仕上げにかかるという連絡を伊吹から受けたのだろう。夕刻前に颯爽と九能家へ現れた。手には時々抱えて歩く早乙女家の刀袋がしっかりと手に納められている。
 乱馬はまだ女体のままだ。
 ずっと、この姿で修業をしてきた。身体には数多(あまた)の傷が白い柔肌から浮き上がって痛々しく見えた。
 ずっと付けていた防具や胴着はなく、身軽なチャイナ仕様のいつもの拳法着姿の乱馬であった。

 乱馬は大きく息を吸った。そして丹田に力を込める。
 ぼっと蒼白い光が乱馬の身体から持っている木刀へと伝わり始めた。息吹もまた己の気を高め、手にした木刀へと迸らせる。
 さしもの九能も、言葉はなく、じっと二人の対峙を見守っていた。

 伊吹はにやっとひとつ笑みを浮かべると、木刀を握り直した。
「来いっ!どのくらい成長したか、試してやる。」
 乱馬はぎらぎらとした視線で答えると、大きく息を吸った。

「でやーっ!!」

 乱馬の肢体が伸びやかに動いた。
 伊吹の真正面へと木刀は振り下ろされる。
「まだまだっ!」
 伊吹はそれを正面で受けた。
 バンッ!と木刀が激しいぶつかり合う音がした。どちらも後ろへは引かない。
 ぎりぎりと乱馬は持っている手に力を込める。
 ごごごと地面が同調して唸りを上げ始める。二つの塊からは蒼い炎が立ち上がった。
「おおっ!」
 九能が感嘆の声を出したのと、乱馬が伊吹の木刀を力でのし上げてのは同時だった。
「やっ、たーっ!!」
 乱馬は腹から声を出すと、伊吹の木刀を見事に掬い上げた。
 そして己の切っ先を伊吹へと向けた。

「勝負あった!」

 伊吹はそう言うと、乱馬をにっと見上げた。

「くおら!爺さん、わざと手を抜きやがったな。」
 乱馬は木刀を手にしたまま伊吹を睨みつけた。
「馬鹿者っ!明日は大事な勝負の日じゃ。これだけの動きを見せてもらえれば、ワシとてどのくらいおぬしが成長したかはわかるというもの。それともおまえは、明日の勝負のことなど計算しておらぬほど呆けておるのか?」
 伊吹は恫喝した。
 乱馬は面白くないという顔を一瞬見せたが、渋々と持っていた木刀を腰に納めた。
「強くなったのう・・・。たった一週間でここまで格闘拳法の奥義を極めるとはのう・・・。おぬしも格闘剣道の流儀を新たに建てるというのはどうじゃな?」
 かかかと伊吹は乱馬へ話し掛ける。
「断わるっ!あくまで今回の修業はあかねを奪還するためのものだからな。俺の流儀は無差別格闘早乙女流だ。」
 乱馬は低い声でそう明言した。
「ふふ、その意気よ。そうじゃ、おぬしはあくまでも己が道、己が武道を突き進むが良い。その心を忘れぬ限り、大和と同等に闘いぬけるじゃろう。勝負は時の運。女神がどちらに微笑むのか、ワシには予想はできぬが、明日は己を信じて存分にやれば良い。」
 それは曽祖父としての餞の言葉であった。
「言われなくてもそうするさ。おめえの曾孫を完膚なきまで叩きのめしてやらあ・・・。それでいいんだな?」
 乱馬もにっと伊吹を流し見た。
「ほほほ、おまえもワシの曾孫じゃろうが・・・。ふあっはっはっ!」
 伊吹は顔中を皺だらけにして乱馬を見詰めた。初めて対峙して稽古をつけた曾孫。その並外れた素質に十分満足しているかのように見えた。

「ところで、のどかや。頼んでおいたものは持って来たかね。」
 伊吹はのどかを振り返った。

「はい、ここに用意してきました。」
 のどかはうやうやしく持って来た刀袋を差し出した。
 伊吹はそれを両手で受け取ると紐解いた。
 中から出てきたのは一振りの刀剣。
 それを確かめるように一瞥すると、乱馬へ差し出した。
「明日はこれで闘うがよい。」
 乱馬は黙したままそれを受け取った。
 そして鞘から引き抜いた。
「お、おい。この刀は・・・。」
「ほほ、そうじゃ。真剣ではない。」
 伊吹は目を細めて笑った。
「早乙女家に代々伝わる名刀「むらさき」の映し刀の木刀です。」
 のどかは静かに言った。
「まさか、早乙女家の刀は全てこんな竹光じゃねえだろうな?貧乏すぎて売り払ったとか。」
「失礼なことを言うものではありませぬっ!これは名刀と共に作られた精巧な竹光。刀剣と同じくらいに立派な鍛冶師の念が込められているのですよっ!」
 のどかは息子を叱責した。
「のどかの言う通りじゃ。稀代の名竹光じゃぞ。これなら、明日の勝負に持っても劣りはしまい。恐らく大和は袋小路流の名刀「菊水丸」の竹光を用いるじゃろうからな。それ相応の木刀でなければすぐに折れてしまうでな。」
 伊吹は続けた。
「この刀にはおぬしら早乙女の家から脈々と伝わる武道家の魂が込められておるわ。この光り方。ただの竹光とは格式が違うでな。」
 言われて竹光を見ると、確かにそんな気にもなってくる。古いだけの木刀ではないようだ。質素ではあるが鞘も柄も本物の刀とそう違わずに丁寧に細工されている。
「気を集中してみいっ!」
 伊吹に促されて乱馬は剣を取った。そしてさっきのように己の気を刀剣へと集中させた。
「わっ!何だ?この気の融合は・・・。」
 少し集中させただけで、竹光からは乱馬の気が迸るように流れ始めた。
「どうじゃな?」
 伊吹は満面に笑みを湛えながら乱馬を見やる。
「す、すげえ・・・。まるでこいつに俺の気が同調するように増幅されてる・・・。そんな感じだぜ。」
「じゃろうて・・・。この木刀はおぬしのもう一つの血筋、早乙女家から伝わるものだからのう。その嫡子であるおまえにとって、最良の武器となろう・・・。じゃがな・・・。」
 伊吹は言葉を思わせぶりに止めると、一呼吸あけて言った。
「じゃが、大和も先祖から伝わる名刀の竹光を持って勝負に臨むということを忘れてはならぬぞ。そう、我が袋小路家に伝わる由緒正しき名刀のな・・・。わかって居るとは思うが、それが何を意味するか・・・。」
「へっ!奴も本気で俺を倒しにくるって言う訳か。」
「そうじゃ・・・。或いは殺す気かもしれぬ。いや。そう思った方が自然だろうて。あやつとその母親のほのかはのどかさんやおまえを憎んでおる。袋小路流を裏切ったワシの息子以上にな・・・。春日一族、いや、早乙女一族をな・・・。だが、憎しみだけでは武道を正しく伝えることは不可能じゃ。憎しみは何も生み出しはしない。それがわからぬうちは、袋小路流も歪曲して使われるだけじゃ。」
 ふっと伊吹は寂しげな瞳になった。
「乱馬よ。後はおぬしに任せたぞ。」
 そう言うと伊吹はくるりと背を向けた。
「爺さん?」
「さてと・・・。ワシはもう帰るかのう・・・。」

「待ていっ!まだ僕との勝負が残っておろう?」

 傍でじっとしていた九能が立ち上がった。
「おぬしら、僕の存在を忘れては居らぬか?あん?元々この僕が修業に招いたおまえだぞ?何が面白うて、おさげの女ばかりの肩入れをするのだ?」
 このオオボケ日本男児は、事の成り行きが全く見えていないらしい。
「ほほ・・・。おぬしは刺身のツマみたいなものじゃったからのう・・・。」
 伊吹は九能を顧みずにそう言葉を投げた。
「ツマだと?失敬なっ!そこへ直れっ!手打ちにしてくれるっ!!」
「帯刀さまっ!!」
 九能は雷光石化の如く伊吹へと襲い掛かった。
「まだおぬしの腕前は恐るるに足らず!喝っ!!」
 伊吹は後ろ向きのままたっと剣を木刀を振り上げた。
「な、何っ?」
 九能はどっと前のめりに倒れた。
「たっ、帯刀さまっ!!」
 佐助の悲鳴が上がる。
「たく・・・。世話の焼ける野郎だぜ・・・。己の器を知れって言うんだよ・・・。」
 乱馬は白い目で倒れた九能を見据えた。

「おさげの女・・・。交際しようぞ・・・。」

 九能は白目をむきながら、見当違いの言葉を吐いた。そして、にゅっと腕を伸ばして乱馬の手を掴み引き寄せた。
「おわっ!止めろっ!!気色の悪いっ!!」
 乱馬は思わず持っていた木刀で、九能を叩きのめしていた。
「おさげの女あ・・・。」
 がっくりと九能はうな垂れた。
「ご臨終でござるか・・・。」
 やれやれといった目付きで佐助は九能を見下ろしていた。
 その騒ぎのうちに、伊吹は姿を眩ましていた。

(爺さん、ありがとうよ・・・。絶対俺は勝ってみせる。)

 伊吹が気配を消したことに気付いた乱馬は、そっと夕暮れた空に向ってうそぶいた。



つづく



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