第四話  因縁

一、

「結局、あかね、帰って来なかったわね。」
 なびきは茶の間へ眠そうに目をこすりながら入って来た。
 茶の間には天道家の人々が朝食をとるためにずらっと並んでいる。
 どの顔にも血色がない。そう、あかねは大和の家から帰宅しなかったのである。大和の家から夕方、あかねは調子が悪くなり、そのままそこへ泊まらせるからと電話の連絡があっただけで、その後音信は途切れていた。
「何があったのかしら・・・。」
 脳天気を地でゆくような長姉のかすみも流石に心配らしく浮かぬ顔をしていた。早雲は落ち着かずにずっと電話口を行ったり来たりしている。こちらから電話しても留守電に切り替わるだけで一向に要領を得ないのである。
 なびきも思い出したように電話口へ行き、あかねに貸し付けた自分の携帯へとダイヤルを回してみたが、
「ダメだわ。電波が届かないところに居るみたいね。」
と溜息を吐いた。
「ま、あの子のことだから間違いはないとは思うけれど・・・。」
 そう言いながら乱馬を盗み見る。
 乱馬といえば、昨日からずっとだんまりを決め込んでいて、真一文字に口を結んでいるだけだ。「不機嫌」なのは誰の目にも良くわかった。
 玄馬は早雲と対をなして、一緒におろおろするばかりで何の役にも立っていない。
 のどかはのどかで無関心と言う訳ではないのだろうが、心配顔の一向から少し距離を置いて、自室で夕べから何やらごそごそとやっていた。大方、お稽古事の教室が立て込んでいて忙しいのだろう、と誰一人のどかへと声を掛ける者は居なかった。
 何度目かの電話が空振りに終わったあと、なびきは乱馬に向って言った。
「こうやってじっとしていてもあれだから、乱馬くん。直接大和くんの家まで行ってみたら?」
 ごく自然な提案だった。
 だが乱馬は黙したままそれには答えず、黙ってご飯を口に運んでいた。
「こりゃ、乱馬!おまえはあかねくんの許婚だろうが!!」
 傍で玄馬が文句を言った途端、彼は持っていたコップの水を投げた。
「うるせーっ!あいつくらいの腕なら戻って来られるだろうぜ。それを戻ってこねえんだ!ほっときゃいいんだよ。ほっときゃあっ!幼稚園や小学生のガキじゃあるめえし・・・。」
 と言ってまた沈黙してしまう。
 やれやれというような視線をなびきは投げた。
 この天邪鬼は、内心は穏やかではないらしい。それが証拠に持っている箸が上下、逆になっている。それに気がつかないで食事をしているのだから、なびきは可笑しくてたまらなかった。だが、これ以上何か物を言おうものなら、もっと彼は頑(かたく)なになるに違いない。

(まあ、言われなくても様子を見に行くわね・・・。この調子だと。)

 なびきの読みは正しかった。
 朝食が終わって一息ついた頃、乱馬はそっと天道家を抜け出していた。
 今日はゴールデンウィークの初日。四月最後のウィークエンドだ。
 従って学校の授業はない。勿論、登校日でもない。
 乱馬はさりげなくなびきが寄越した情報を持って、あかねが居るであろう大和の家を目指した。
 四月の青空が陽気を通り越して眩しい光を照らしつけてくる。朝の冷気はもうとっくに何処かへ行っており、そろそろ暑くなる季節を予感させるような気温の上がり具合だった。ちょっと走ると汗が流れる。
 彼は半袖のチャイナシャツと薄手のスラックスという軽い井手達で家を出た。そして時々、鉛筆でしたためられたメモを見ながら見慣れた街を駆け抜けた。
 途中、河川を渡り、線路を越え、そしてやってきたのは邸宅が並ぶ山手の住宅地。
 ずっと走り続けてきたので、身体は既に汗まみれになっていた。
 ふうっと息を吐いて見上げると、目的地らしい白亜の建物が目に入った。
(あれか・・・。)
 乱馬はじっとその建物を見上げた。
 
 門の前に来ると、徐に呼び鈴を鳴らした。
 応対の女中らしき人物へ大和へ合いたいということと自分の名前を告げる。と、電動式の門が静かに開く。
「どうぞ、中へ。大和坊ちゃまがお待ちでございます。」
 低い男性の声が乱馬を中へと導いた。
 乱馬は辺りをきょろっと一瞥すると、すうっと一つ深呼吸して足を踏み入れた。
 開いた門はゆっくりと閉じられてゆく。まるで只では帰さないぞと言っているように乱馬には思えた。
「さあ、こちらへ・・・。」
 中からはいつも大和の送迎をしている運転手が顔を出した。
 乱馬は相変らず無表情で先導について屋敷の中へと入っていった。
 通された所はあかねが最初に通された応接室だった。
 暫くして大和が現れた。

「やあ、早乙女くん。そろそろ来ると思ってたんだ。」
 大和は着物を着流していた。なかなかの好男子である彼は、普段から着付けているのだろう。羽織袴姿がごく自然に見えた。
「てめえ・・・。あかねはどうしてる?」
 乱馬はきっと視線を射た。
「まあ、そんなに興奮しないで。大丈夫。まだ手は出していませんから。」
 大和は余裕の笑みを浮かべる。
「それはどういう意味だ?あかねは自分の意志でここへ残ったんじゃねえのか?」
 返答如何によっては容赦はしねえ。
 乱馬は瞳の中にそういう光を込めて言葉を投げつけた。
「結論から先に言います。あかねさんとあなたの許婚の仲を解消していただきたい。」
 大和は涼やかに乱馬を見返した。その瞳の輝きは、おまえなどに負けはしない。そういう誇り高き光を感じた。
「何を訳のわからねえことを・・・。」
「あかねさんからお聞きしました。あなたとあかねさんは親同士が決めた許婚だそうですね。」
「それがどうした?てめえには関係ねえことだろう?」
 乱馬は不快感を露わにした。
「それがそうも言っていられないんです。端的に言うと、僕があかねさんを嫁にしたい。母もあかねさんのあの気高き強さに感服して許してくれました。後はあなたときれいさっぱり縁を切っていただければ全て丸く収まります。」
 大和はじっと乱馬を見据えた。口元には不気味なほど穏やかな笑みを浮かべている。
「あかねはどうなんだ?承知しているのか?」
 乱馬は腹の底から低い声を出して大和を見た。
「そうですね。あかねさんに寄れば、あなたは「親が決めた許婚」ということですから。そうはっきりおっしゃいましたからね。」
 大和はわざともったいぶって答えた。
 二人の上に沈黙が流れた。
「そうか・・・。あかねの奴はそう言ったのかもしれねえが・・・。俺は承服できねえ。」
 乱馬は静かに言った。
「これは面妖な。あなたはもしかしてあかねさんに気がおありなのですか?」
 大和はゆっくりと乱馬を舐めるように見ながら尋ねた。
「そんなことはおめえには関係ねえ。俺があいつのことをどう思っていようと、おまえにはな。ただ・・・。」
 乱馬は静かに息を告ぎながら己にも言い聞かせるように、答えた。
「ただ?」
「ただ、あいつの父親や姉貴たちがおめえとあかねの婚儀を認めないだろうからな。あかねがおめえを選んだのであれば身を引いてもいいが、そうじゃねえんだろ?あいつが望んでいない以上は、俺も認めるわけにはいかねえ。」
 穏やかではあるが、乱馬は激しい気炎を上げていた。
「あかねさんが望んでいないとどうしてわかるんですか?」
 大和は挑発するように問い掛ける。
「なんとなくだ・・・。だてに俺は許婚を長くやっているわけじゃねえからな。あいつの口から訊くまでは納得しねえ。だから、あかねに会わせろ。いや、あかねを返せ。」
 乱馬はそう言って大和を睨み返した。

「返す訳にはいきまへんなあ・・・。」

 大和の背後でどすの利いた女性の声が響いた。

 誰だという目を乱馬が向けると、大和の母が着物姿でそこへきりっと立っていた。
「あかねはんは、大和の嫁としての最有力候補どす。あれだけ気高く美しい娘はんはそうおりまへんからなあ・・・。大和の子を宿して頂くにはもってこいのおなごはんどす。どうどす?手切れ金に三千万ほど用意させていただきまひょ。」
 大和の母は涼やかな目を乱馬へと投げかけた。
「断わる。」
 乱馬は即答した。
「そんなものはいらねえ。第一、あかねは品物じゃねえ。」
「これほど穏やかに話してもあきまへんか・・・。」
 ほのかはふっと唇を上へと引き上げた。
 とたっと何かのスイッチを押した。

「うわっ!」
 
 乱馬の足元が崩れ、奈落の底へと投げ出された。
 だが、乱馬とて一角の武道家。すぐさま空中で体勢を立て直すととんっと床へと足をついた。
「力ずくでもってことか。へっ!おもしれえっ!」
 目の前は真っ暗だった。だが、彼の野性は暗闇など物ともしない。そう、動じなかったのだ。


二、

「姑息な手段を使ってくれるじゃねえか。大方あかねにもこんな手を使ったんだろう。」
 乱馬は暗闇の先に視線を投じた。
 そこに気配があることを知っていたからだ。彼が投げ出されると同時にまた大和もここへと下りてきている。彼は瞬時にそれを察知していた。
「さすがですね。早乙女くん。そして物分りも早い。」
「で、力比べして勝った方があかねをということか。」
 乱馬は中腰で身構えながら牽制するように声を出した。
「ええ、どちらがあかねさんと結婚するにふさわしいか、ここで決着をつけようではありませんか。」
 ゆっくりと暗闇から大和の姿が浮かび上がってきた。
 だんだんこの薄暗さに目が馴染んできたのである。
 大和は木刀を持って目の前に立っていた。
「ここで勝負ってことか・・・。」
 乱馬は負けじと大和を見返した。
「ほほほほ・・・。大和は強(つよ)おすえ。格闘剣道袋小路流といえば、天下を轟かせた裏剣道の流儀。知る人ぞ知る、古流剣法。止めはるなら今のうちですえ。」
 いつのまに下りてきたのか、ほのかが傍で笑っていた。
「けっ!ただの格闘剣法じゃねえか。小道具を用いねえとさしでやりあえねえんだろ?」
 乱馬も負けじと言い返す。
「いえ、同じ条件でないと面白くありませんからねえ・・・。さあ、あなたもそこの木刀を持てばいいでしょう。」
 乱馬の横に置いてある木刀を大和は持つようにと促した。
「けっ!そんな武器なんかいらねえ。無差別格闘早乙女流は姑息な道具は一切用いねえんだ!」
「そんな戯言が通用すると思ってるんかえ?ほほほほ・・・。」
 ほのかはちゃんちゃら可笑しいと云わんばかりに高笑いした。
(バカが・・・。こちらの思う壺にはまりよって。これであかねはんは大和のもの・・・。)
 心中そう吐き出してにやっと笑った。

「しゃらくせえっ!さっさとケリをつけようじゃねえかっ!!」

 乱馬はぺっと唾を吐きながらそう言い放った。

「いいでしょう。ここで白黒はっきりさせようじゃありませんか。」

 大和は木刀を逆手に構えた。
 そして足を踏み入れようとした瞬間だった。

「お待ちなさいっ!!!」
 背後で女性の甲高い声が響いた。

「何奴?」
 ほのかがギロッと目を剥いた。
 構えていた大和はふうっと息を抜いて緊張を緩和させた。
「五島っ!誰や、そのおなごは?」
 まずほのかが非難の声を上げた。
「申し訳ございません。奥さま、そのご夫人が、刀を振り回されて、乱馬に会わせなさいと言われるもので・・・。」
 五島と呼ばれた老紳士がそう言っておろおろと言葉を返していた。
「あれほど邸内に人を入れるなと言っておいたのに。」
 ぶつくさとほのかは勝負を邪魔されたことへの矛先を向け損なって独りごちる。
 暗がりがぱあっと明るくなって電灯が点った。と、侵入者の姿がそこへと浮きあがった。
「お、おふくろ・・・。」
 驚いて声を上げたのは乱馬の方であった。
 そこには何と、己の母ののどかがすっくと立っていたからだ。
「何でここへ?」
 乱馬はキツネにつままれたように母を見やった。

「おふくろとな?もしやそなたは・・・。」
 きっと流されるほのかの視線。その中をのどかはにっこりと笑って答えた。
「お久しぶりでございます、お姉さま。」

「お姉さま?」
 予想だにしなかった母のその言葉に乱馬は凍りついた。
 一瞬、得も言い難い緊張感が乱馬の母のどかと大和の母ほのかの間に揺らめいた。
「そなたから姉呼ばわりされる云われはあらしまへんっ!」
 ほのかの視線がのどかを射抜いた。
「いいえ、喩えあなたが認めらっしゃらないとはいえ、私たちは半分は同じ血が通った姉妹ですわ。お姉さま。」
 乱馬の母も負けじと言い返した。
「ふん、盗人猛々しい、春日の一族が何を言わはり出すことやら・・・。」
 ほのかは鼻先で笑った。
「それは、あなたも同じではありませんか。」
「何やて?」
 また緊張が流れる。
「あかねさんは乱馬の許婚。それを横から奪い取ろうだなんて。盗人と同じことではありませんか。」
 流石に乱馬を生んだ母だけあって、のどかも語気は負けてはいない。
「だからこうやって勝負で決めようとしたまでのこと。あんさんにぐたぐた云われる筋合いはあらしまへんな。」
「そうでしょうか?乱馬には剣道の心得はありませぬ。ましてや格闘剣道も知りはしませぬ。それを丸裸で立ち向かわせようとは・・・。あなたの計略ではありませんの?お姉さま。」
 のどかはわざと「お姉さま」の部分を強調して言った。
「何が言いたい?」
 ほのかはじっとのどかを見返した。
「だから、今の段階の勝負は乱馬に圧倒的に不利だということですわ。」
 また沈黙が流れる。重苦しい空気であった。
「ほお・・・。では何か?尻尾を巻いて逃げ出したいとでも?」
 ほのかは心を落ち着かせてのどかへと言葉を開いた。
「いいえ。出来れば乱馬にも時間を貰いたいのです。格闘剣道という流派を知るための・・・。だって、あかねさんを出汁に、無差別格闘流を調べ尽くしたあなたがたと、何も事情を知らぬ乱馬とではあまりに不公平ではありませんか。このような大事な勝負には「対等」ということが一番大切なのではないですか?それとも格闘剣道袋小路流は姑息な剣法に成り下がったとでも?」

(おふくろは胴に入っている。)
 乱馬は今更ながら、母親の凄さを心に刻み込んでいた。母は武道の心得はないが、極意だけは見事に捉えて、相手の急所へと言葉でぐいぐいと迫っている。ある意味それは凄いことだと感心せずには居られなかった。

「では、訊きまひょ。具体的にどうしたいのどすか?」
 目論みどおりの言葉をほのかは返したのだろう。のどかはにっこりと笑いながら言い含めた。
「こちらに、乱馬に、一週間のお時間を与えてくださいな。きちんと格闘剣道への対処方法を身に付けさせてからこの勝負にのぞませとうございます。」
 そう言って軽く頭を下げた。 
 こう礼を尽くして頼まれたとなると、ほのかとてその条件を認めないわけにはいかないだろう。

「僕ならそれでもいいけど、母さん。」
 背後で大和がそう言って笑っていた。
「一週間の時間で袋小路流を見切れるとは思わないけれど、こっちだって卑怯呼ばわりされたくないからね。あかねさんだって真っ向から早乙女くんを負かせば納得するだろう。力がある者が嫁として彼女を娶る。それでいいじゃないか、母さん。それに一週間後は僕の誕生日だからね。」
 そう言いながらにっと笑った。
「あんたがそこまで言うのやったら・・・。よろしおす。仕切りなおして、一週間後にここであかねさんを賭けて改めて勝負どす。」
 ほのかは渋々承服した。
「ありがとうございます。」
「その代わり、その勝負でこちらが勝ちましたら、あかねはんは、その日のうちに大和の嫁として祝言を挙げさせますさかいな。」
「どうぞ、ご自由に・・・。でも、それは大和さんが勝たれてからだということをお忘れなく。」
 
 二人の夫人は互いに火の粉を散らして対峙しあっていた。

「お邪魔致しました。乱馬、帰るわよ。」
 のどかはそう言うと、乱馬を軽く促した。
「でも、あかねが・・・。」
 そう言葉を継ごうとすると、ほのかが割って入った。
「あかねはんなら大丈夫どす。袋小路家の嫁になるための教育をしながらちゃんと丁重にお預かりしますさかいに・・・。要らん心配はご無用どす。そうそう、あかねはんのご家族の方も勝負にはお招きしますさかいに。乱馬はんがうちの大和に打ちのめされる所を存分に見ていただこうやおへんか。ほほほほ・・・。」
「乱馬はそう簡単には倒せませんわよ・・・。では、失礼。」
 のどかはそう穏やかに言うと、乱馬をちらっと見た。早く来なさいと云わんばかりに目はギラギラと輝いている。
 乱馬は後ろ髪を引かれる思いで、母に従った。
「五島、お客はんがお帰りどす。玄関まで見送りなはれ!」
 ほのかは五島にそう申し付けると、くるりと背を向けて奥へと消えていった。

「早乙女くん。一週間後を楽しみにしているよ。せいぜい袋小路流に対抗できる拳法を編み出してきたまえ。尤も、そんなものあるかどうかはわからないけれどね・・・。ふふふ。」
 乱馬は大和を食い入るように一瞥すると
「待ってな・・・。あかねは必ず俺が奪い返してやるから。それまであかねには一指も触れるなっ!わかったな!」
 と言い捨てて母の後について歩き始めた。


三、

「おふくろっ!どういうつもりなんでいっ!!」
 帰りの道すがら、乱馬は憤然とのどかへ語りかけた。
「あのまま、勝負したって俺は負けなかったのによ・・・。」
 そう言ったときだった。
「お黙りなさいっ!」
 のどかは静かだが、激しい口調で乱馬を一喝した。
 ビクンと肩を上げて乱馬は厳しい顔を向けている母親を見返した。
「格闘剣道袋小路流を知りもしないくせに、そんな軽々しいことを言うものじゃありません。」
 のどかの表情は険しかった。その厳しさに、乱馬は思わず返そうとした減らず口を失った。
 のどかは歩きながら乱馬に語りだした。
「あなたにもきちんと話しておくべきときが来たようね・・・。乱馬。」
 のどかは息子をじっと見た。
「何か複雑な事情があるみてえだな・・・。袋小路家と俺たちと・・・。」
 乱馬は母の隣りを歩きながら言葉を吐いた。
「実は私の父、春日飛鳥は袋小路流の十六代目の跡取りだったのよ。」
「え?」
 乱馬はのどかを見上げた。
「私の父、そしてあなたのお爺さまは、袋小路飛鳥というのが本当の名前だった。袋小路家にはね、代々跡目は一八歳で嫁をとるの。そして、跡取りを作る。それが綿々と受け継がれてきた。」
 のどかは静かに語り始めた。
「お父さまもそうだった。一八歳の時に先々代のお婆さまが見つけてきた相手と無理矢理婚姻を結ばされたそうよ。でもね、父にはそのとき愛していた人が別に居たの。一度は家のしきたりを受け入れて結婚した父だったのだけれど・・・。」
「忘れられなかったのか?」
 乱馬は言葉を区切らせた母に訊いた。
 母は首を軽く前へ垂れた。
「父は聞いてしまったのね・・・。政略結婚させられて暫くたった頃、捨てた母のお腹に子供が宿っていたことをね・・・。父は矢も盾も溜まらずに袋小路家を飛び出した。そして、母の元へと来たのよ・・・。地位も家も何もかも捨てて、その身一つでね。そして生まれたのがこの私だった。そして二度と袋小路家の敷居はまたがなかった。・・・」
 乱馬は返す言葉もなくそのまま母の話を黙って聴いていた。
「でもね、政略結婚した相手にも子供が出来たのよ・・・。それが、さっきの、ほのかお姉さま。」
 のどかはふうっと溜息を吐く。
「おい、でも、それじゃあ時間的なことが良くわからねえぞ。だって、爺さんは婆さんを捨てて袋小路家で結婚したんだろ?それでおふくろが出来たからって飛び出して・・・。おふくろの方が姉貴っていうのならわかるけど、妹だっていうなら辻褄が・・・。」
「それは、残してきた袋小路の奥さまが正常に子供を産んでいた場合の話でしょ・・・。」
 乱馬は言葉を途切らせた。母の言っていることにピンと来なかったので母を見据えた。
「袋小路家に残された正妻さんはね、父が飛び出したショックで早産したそうなのよ・・・。予定日より三ヶ月も早くにね。それがほのかさんなの。そして産後の肥立ちが悪くて、すぐさま他界したのだそうよ。早産と父を失ったことが相当ショックだったみたいね。それからほのかさんは祖父母と曽祖父母の四人に育てられたそうよ。」
(ああ、そういうことか。)
 乱馬は心で言い返していた。
 そう、だから後でお腹に入ったとはいえ、先に生まれ出たほのかが「姉」になるのだ。そして、おふくろや俺、別腹の母の家系へと連なるものを排斥しようとしていたのだ。大和がその経緯を知らぬ訳がない。だから、あかねに近づいて拉致し、婚儀を結ぶことに固執するのだ。そう納得できた。
「だからね、ほのかさんが父や異母妹の私、そしてあなたを快く思わないのも当然のことなのよ・・・。男女の仲には理屈だけで割り切れない弊害がいっぱいあるものですからね。」
 のどかはどこか寂しげな表情を浮かべた。だが、すぐさまそれは再び強い母へと立ち戻った。
「乱馬、あなたはあかねちゃんに寂しい想いをさせてはいけないわ。」
「へっ!俺は別にあいつのために戦う訳じゃあ・・・。」
 そう言いかけて再び遮られた。
「そうかしら?あかねちゃんは現時点では「あなた」のことを一番気にかけているんじゃないのかしら。そして、乱馬、あなたもね。少なくともあなたはあかねちゃんを子孫を残すための道具としては捉えていないでしょう?」
 オフクロにはかなわねえと乱馬は思った。
 奴の、大和の一番気に食わないところは「あかねを子孫を残す道具」として捉えているところだったかもしれない。そう、乱馬にはそれが腹立たしく思えてならなかった。と同時に、そんな奴にあかねを盗られてなるものかといきり立った。
 彼にとってあかねは共に高みに昇る最良の相棒、いや、人生を全うするための伴侶としての想いが強かった。彼女は己の半身であることを信じて止まない。二人揃って初めて完全体になれる、そんな気がしていた。恐らくあかねも同じ想いを持っていると確信していた。愛の言葉一つ交わしたわけではなかったが、そんなものは不要なほど、誠実な愛情に満ち溢れていた。

 乱馬は想いを巡らせてのどかと歩いていたが、見慣れぬ町へと足を向けていたことに気がついた。
「オフクロ?天道家はあっちだぜ・・・。」
 帰り道が違うことに気がついた彼はのどかへそう声を掛けた。と、のどかは穏やかな微笑を息子へ返しながら言った。
「こっちでいいのよ。」
「こっちは武蔵野の方だぜ・・・。」
 乱馬は不思議そうな顔を向けた。
「いいから黙ってついていらっしゃい。」
 のどかは先に立ってどんどんと歩いてゆく。
 乱馬は訳が分からずに只ひたすらに母親について歩いた。川を越え、線路を越え、黙々と太陽の下を歩き続けた。着物姿で歩いているのどかだが、一向に疲れを見せる気配はなかった。
 小一時間くらい歩いただろうか。
「着いたわ。」
 そう言って初めてのどかは息子を見て笑った。

 促されて顔を上げると、三軒長屋が立ち並ぶ、一昔前の空間のような下町。そして狭い路地裏のこれまた古き良き時代を彷彿とさせる瓦屋根の平屋の長屋であった。
「ごめんください。」
 のどかは引き戸に手をかけて、ガラガラと開けると中へとたち進んだ。
 知り合いの家なのだろうか。
 乱馬は表玄関で躊躇していると、のどかが来なさいと手招きした。

「ほーい!どなたじゃな?」
 薄暗い中から、一人の老人が現れた。身長は高くもなく低くもなく。だが、精悍な体つきは人目で武道の心得があるものだということが良くわかった。
 乱馬はじっと老人のしわがれた顔の真ん中にギラギラと輝く瞳を食い入るように見つめ返した。
「ほお、これは珍しい人が尋ねてきたものじゃ。」
 老人はのどかを知っているのだろうか。欠けて落ちた歯を並べてにっと笑った。
「ご無沙汰しております。」
 のどかは玄関先で丁寧に両手をついた。
「これ、乱馬もご挨拶なさい。」
 促されて乱馬はぺコンと頭を下げた。
「おお、この子が乱馬かのう。めんこいのう。」
 老人は目を細めた。
「はい。初めてお目にかけますね。」
 のどかはちらりと後ろの息子を振り返った。
 乱馬は訳が分からずに、老人と母親を見比べていた。
「曾孫の早乙女乱馬です。お爺さま。」
 母の口からこれまた信じ難い言葉が漏れた。
 えっという表情を乱馬は老人へと向けた。
「あなたの曾お爺さま、そして、袋小路流の先々代、袋小路伊吹さまよ。」
 のどかはきょとんとしている息子にそう告げた。
「曾爺さんだって?」
 乱馬はただただ驚愕を隠せずにいた。
 己のルーツのことなどこれまで考えてきたこともなかったからだ。ましてやあかねをさらった張本人の袋小路大和と己が血縁ということも、未だ信じられずにいた。
「そんなヘビに睨まれたような顔をするでない。」
 伊吹はそう言って笑った。
「で、この子を鍛え上げればよいのじゃな?」
 伊吹はのどかを顧みた。
 こくんとのどかは頷いた。
「お、おふくろ・・薮から棒に。」
 そう言いかけた途端、伊吹はいきなり隠し持っていた木刀を振り下ろしてきた。

「何しやがる!!」
 乱馬は咄嗟にその木刀を白刃取りで受けた。
「ふふ。思ったより身のこなしが軽いではないか。おぬし。それに素手でワシの剣を見切るとは。これは愉快じゃ。鍛え方如何では一週間で十分、大和と格闘剣道でも同等に闘える使い手になるかもしれぬて・・・。」
 愉快そうに伊吹は笑い飛ばした。それを木刀の下で乱馬はむすっとして聞き入っていた。
「ご無理なお願い事申し訳ございません。そんな義理立てなどお爺様にはありませんのに・・・。」
 のどかが恐縮すると
「いやいや、大和とて、自分と同等の相手が現れたら、これから先ももっと気合を入れて修業するようになるじゃろうて。井の中の蛙ではあやつも大きくはなれぬ。祖父飛鳥の二の舞になるばかりじゃ。聞けば、そやつ、無差別格闘流のかなりの使い手だそうじゃないか。我が袋小路流の未来のためにも、こちらから勝負を頼みたいくらいじゃで。ほーっほっほ。」
 爺さんは高らかに笑った。
「乱馬、修業なさい。そして格闘剣道の極意を身に付けるのです。あなたも格闘家の端くれ。そして、あかねちゃんを己の手に取り戻しなさい。」
 のどかの目がきらりと光った。
「言われるまでもねえ。」
 乱馬はまだ木刀を手で持ったまま答えた。
「では決まりじゃな。だが、先に言っておくが、わしの修業は厳しいぞよ。」
「望むところだっ!!」

 こうして乱馬は格闘剣道を身に付けるべく、曽祖父の元で激しい修業をすることになった。



つづく




弁解
のどかさんの家系などは全て私の創作物ですのでお間違えなきよう・・・。
原作、アニメともに言及はありません。勿論、「春日」も私、一之瀬けいこの勝手な命名です。

キャラクターファイル
袋小路 伊吹(ふくろこうじ いぶき)
乱馬と大和の曽祖父。祖父でありのどかとほのかの父、袋小路(春日)飛鳥は他界している。
のどかとほのか、二人の孫のことには何らかの責任みたいなものを感じているらしい。
この爺さん、年の割には達者で元気。流石に乱馬たちの血筋という場面もこれから出てくるかも・・・。
格闘剣道、袋小路流の十五代目当主であった。
現在は隠居して、東京の真ん中で悠々自適中・・・らしい?


(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。