星の数だけ浪漫を 前編(乱馬編)


 さわさわと風、吹き抜けてゆく。
 山から下りて来る風は、都会のそれよりは幾分涼しい。
 満天の星、散りばめられて輝く。
 今日は月が細く、夕方には西の山端へ沈んでしまった。
 頼りなげな蟋蟀、心細げに鳴く。
 まだ、秋の小虫たちは恋を姦しくは囁き合うには早い季節。
 野営のテントからこそっと抜け出してきた。傍では親父が高いびきをかいて、のうのうとパンダのまま眠りこけている。
(たく、いい気なもんだぜ…。)
 俺は親父の傍から抜け出ると、そう囁いた。
 親父の傍を通ったとき、プンと酒の匂いがした。
 表向きは「夏の修業」。その実は暑苦しい熱帯夜ばかりが続く東京を抜けてきただけだ。親父ばかりを攻め立ててはいけないのだろうが、天道家に厄介になってこの方、俺たち父子は随分、いい加減になったと思う。
 いや、俺は決して修業に際してだけは、そんなナマッチョロい考えで臨んでいる訳ではない。だが、実のところ、帰る場所が出来てしまったことに戸惑いつつも、それが決して嫌なことではなくなっていた。そう、天道家はいつしか俺の帰る場所になっていたのだ。
 今回は、天道家の二人も山へ同行してきた。一緒に型を覚えるためだと親父は言い張ったが、どうしたもんだか。どう考えても、早雲おじさんと都会を抜けたかっただけじゃねえのかと俺は思う。早雲おじさんだけならまだしも、あかねまでくっついてきた。
 本当はそれが気に食わない俺。
 夕食は不味いし、何かというと突っかかってくるし。こういった修業の場では最悪のパートナーだ。わがままではないところだけが取り柄かもしれねえ。だが、俺自身の平常心を保つため、頑(かたく)ななつっけんどんとした態度をとり続けなければならない。それが一番厄介だった。
 親たちはどう思っているのかは知らねえが、あかねと俺の間には目に見えない壁が立ちはだかっている。その境界線を越えるには、あかねも俺も、まだガキ過ぎた。
 あかねに興味がない訳ではねえ。いやむしろその逆で、本当は好奇心旺盛。手を伸ばせばすぐに触れられる距離に居る彼女。
 だが、彼女を愛するあまり、手がだせねえ。それも事実だった。
 だから自然と態度が横柄になる。すぐに口をついて出るのは悪態ばかりだ。
 敵もはいはいと従順な少女ではない。
 負けん気の強さは何人にも勝ると劣らないのだ。
 そのおかげで、今のところ適当にいい距離を保ててはいる。

 だが、今日の夕方はいけなかったかもしれねえ。
 あかねの不味いカレーライスを食わされたのだからある程度は仕方があるまい。彼女に唯一致命的な欠点があるとすれば、それはあの「料理のまずさ。」だ。ちょっとやそっとの不器用さではない。
 下手をすると胃腸の調子を崩して何日も立ち直れないような味覚の持ち主。親父たちは異様な気配を察知してふもとの村までとっとと逃げ出していた。後に残された俺は地獄の三丁目。
 あまりの異様な匂いと味に悶絶してしまった俺は逃げ出してしまった。
 心でごめんを呟きつつ。男らしくねえと笑わば笑え。だが、背に腹は変えられねえ。命は一つしかないからだ。多分、あかねは一人残されてブツクサ言っていたに違いねえ。とにかく、夕方からこちら、顔を合わせるのもバツが悪い。
『おまえあかねくんに何をした?』
 麓から帰って来た親父が俺を静かに攻め立てたが、
『何もしてねえよ!』
 と受け答えた。親父も早雲おじさんも、俺一人に押し付けてあかねの不味い飯から逃げ出した後ろめたさがあるのだろう。それ以上は何も言わなかった。

 テントを出ると、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。
 俺は用を足すと、辺りを歩いて見た。傍にはあかねと早雲おじさんのテントがひっそりと立っている。
 星空が映える夜の闇の向こうに、ポオッと暖かな赤い光が見えた。川原に近いその場所は、炊事をしているところ。焚き火なのだろう。
 こんな真夜中にと訝りながら俺はそちらへと足を向けた。
 と、小さな少女の姿が目に入る。あかねだ。
 火の傍で眠っている。
(たく…。無用心だな。いくら人気がねえ山の中だと言っても、誰かがしのんでこないとも限らねえのに。)
 足音を忍ばせて彼女の傍らに腰を下ろした。
 あかねの顔を見てドキッとする。涙が流れた後が見て取れたからだ。
 何とも言えぬ罪悪感が心を過ぎった。結局夕飯は食ってやらずだった。
 と、目の前に置かれたカレーの鍋。流石に焚き火からは外されていた。だが、まだ生温かい。周りには隠し味に使ったのか、調味料が山と転がっていた。
 あれからずっとこの鍋と奮闘していたのだろうか。
 俺は勇気を出して、カレー鍋に差し込まれたお玉を手に取ってみた。どろっと纏わりつくカレー汁。ツンとスパイシーな香り。
 思い切って口へと運んでみた。

「あれ・・?」

 思わず声が漏れた。
 もう一回。口へ運ぶ。

「食える…。」

 それはごく普通のカレーの味がしていた。奇跡だ。
 中の野菜は大きいの小さいの、煮崩れたの、あかねらしくて不揃いだったが、味はしっかりしていた。
 殆ど食べ物を口にしていなかったので、俺は思わず貪りだした。空腹だったからだ。食べられるとなれば食っちまえ。という早乙女流儀。
 と、視線に気がついた。
 じっとこっちを伺っている。
 食うのに夢中になって気配を感じ取れなかったようだ。
(しまった…。)
 と思ったときは後の祭りだ。
 怒ったような視線。いや、笑っている。

「たく、節操ないんだから…。夕方はあんなに不味いって文句言ってたくせに。」
「うるへー。あんほきゃ、ひにほうに、まふはっはんら!」(うるせー!あんときゃ、死にそうに不味かったんだ!)
 口の中を思いっきり頬張ったカレールーが占領していたから、何とも間の抜けた受け答えだ。
 あかねは噴出して笑ってしまった。
「何だよ…。」
 ゴクンと思い切り飲み込んで、俺はあかねを見返した。
「ううん、いいの!食べてて…。」
 何がいいのか一向に意味がわからねえぞ、と言いたかったがやめた。あかねの笑顔、最高に輝いていた。本当はあかね自身のその笑顔も食べてしまいたいと思ったがさすがに口には出さなかった。
 俺は助平心を押し込むと、無心のふりをして彼女手製のカレーを食った。
 実のところ、玉砕した夕飯以来、俺は何も口にしていない。空腹で深い眠りに落ちられなかったと言っても過言ではない。
 とにかく食った。ガツガツと食った。
 ある程度満腹になったところで呟くように言う。
「ごっそーさん!」
 あかねはにこっとまた零れるような笑顔を向けた。
 ギシッと筋肉が一緒にうなる。
「今度のカレーは美味しかった?」
 すかさず聞いてくる。
「ああ…。まあな。」
 愛想もへったくれもなく俺は答える。
「食える代物だった。」
「何よそれ…。素直に美味しいって言ってくれたらいいのに。」
 口を尖らせる彼女を盗み見る。満腹の後の幸福で身体中が満たされている。

「美味かったよ…。」

 愛想もクソもねえ。視線も合わさずにそれだけ言うと、ゴロンと仰向けになった。
 星空が落ちてきそうに開けている。天の川が綺麗だ。あかねも一緒に空を見上げた。
「あ、流れ星!」
 あかねが目を輝かせた。
 きゅんっと流星が走る。
「あ、また…。」
 そう言えば、この季節、毎年思い出したように流星群が来るんだっけ。俺はそれを思い出した。
「流れ星に願いを掛けると叶うんだって。」
 物凄くロマンティックなことを言い出した。
「ふうん…。」
 気のない素振りで答えてみる。
「乱馬の願いはなあに?」
 と訊いてきやがった。

『あかねの料理の腕がせめて胃薬なしで食えるほど進歩しますように!』

 心の声で言ってみる。
 さすがに声に出す勇気は無い。

「別に…。星に願掛けなんかしなくても、俺は自分の力で願いはかなえるさ。」
 と、嘘も方便。
「あたしの願いはね…。もっと器用になることかな。お料理が上手くなるようにって。」
「無理だよ…。おまえには。」
 間髪入れず言ってしまう。言ってからしまったと思う。
 恐る恐るあかねの顔を覗くと、ちょっと物憂げ。まさか機嫌を損なったんじゃねえだろうな…。
「もしさあ、いつかその願い事が叶って、あたしの料理の腕があがったら…。」
 あかねは少し言葉を選ぶような素振りを見せた。
「ご褒美に一つだけ言うこと聞き入れてくれる?」
「ご褒美?何だそりゃ…。」
 腕を頭の下に入れながらあかねを見上げる。

「一晩に星が流れる数だけ、あたしにキスして。」

「あん?」

 俺は驚いてあかねを見返した。
 沈黙が過ぎる。
 多分、真っ赤になって固まってたと思う。
 二の句が継げなかった。目が点。
 なんてこと言い出すんだ、こいつは。

「約束して欲しいな…。」
 あかねの目が輝いている。一緒に俺の心臓が波打ち始める。

「冗談…よ。」

 あかねが笑い出した。

(冗談か…。)
 ホッとしたような残念なような。
(もしかして、担ぎやがったな…。)
 たちが悪いぞ!
「精進しなきゃ、願い事は叶えてやれねえな…。」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小声で吐き出してみる。
 だいたいおめえは不器用すぎる。それに素直じゃないときている。
 キスして欲しいなら素直に言え!素直に…。
 
 あかねはそれ以来黙り込んでしまった。星は何度ともなく、天から零れ落ちる。
 暫し二人で見惚れた。
 勿論俺はぎこちなく、あかねに一つもキスは投げかけてやれねえ。手にだって触れられねえ。
 もしかしてわかっててこいつは…。
 悔しいが、ヒートダウン。

 いつか俺がもう少し大人になったら、そしておまえがもう少し素直になったら、星の数だけ浪漫をやるよ…。今日の約束、覚えておくからな…。

 俺は目を閉じながら、そう心に吐き出す。

 満天の宙は星の海。いつか漂いながら眠りに落ちた。星の数だけの浪漫を夢見ながら。



つづく




いなばRANA家へ
後編はRANAさんが「ぐはっ!」と言ってくださり、半さんがおおお〜と唸った甘さです。
テーマは「乱馬の執念」です(大笑
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