Beachside Lovers 2


三、

「あかねーっ!!」

 前方の波間にあかねがアップアップしながらばたついているのが見える。
 それに向かって乱馬は必死にクロールを続けた。
 無我夢中。
「あかねちゃん!助けるのはワシの方じゃ。」
 タコツボも一緒に叫んだ。
「させるかっ!!」
 互いに牽制しあうように、その行く手を阻もうとする。
 悠長に戦いを繰り広げている場合ではない。
 それはわかり切ったことである。だが、このタコツボは、周りの状況が見えていないらしい。
(あかねが沈んじまうっ!一刻の猶予もねえっ!)
 乱馬は必死だった。不埒な八宝斎タコツボとは根本的に違うところだ。
「じじいっ!どけーっ!」
 形相も変わりつつある。
「うるさいっ!あかねちゃんを助けて、マウス・ツー・マウスをするのは、ワシじゃいっ!」
「ふざけてる場合じゃねえぞっ!あかねが沈んじまうだろうがっ!!」
「ワシは真剣じゃ。おまえこそ、手を引けっ!乱馬よっ!」
「なにをっ!」

 互いにあかねの元へは行かせまいと、邪魔をしあう。八宝斎はどうあっても譲らないつもりのようだ。

「じじいっ!いい加減にしろっ!」
 業を煮やした乱馬は最終手段に出た。そう、気砲を八宝斎目掛けて打ち込んだのだ。
このまま手をこまねいていたら、あかねは水底へ飲み込まれてしまう。湖や池とは違ってここは海。波は容赦なく、彼女の肢体を、かっさらって沖合いへ流してしまうかもしれないからだ。そうなっては、助けようがない。
 彼は焦っていた。
 目の前に見えていたあかねは、何時の間にかアップアップを止め、吸い込まれるように波間に消え始めていた。
「あかねーっ!!」
 つんざくような怒号を浴びせると、乱馬は八宝斎に向かってありったけの気を打ち込んだ。
「じじいっ!成仏しろーっ!!」

 ざばざばと波間を縫うように、乱馬の放った気は八宝斎のタコツボ目掛けて飛んでいった。

 バキッ!

 鈍い音がして、八宝斎を包んでいたタコツボは弾けた。

 粉砕したタコツボから八宝斎が飛び出してくる。それを見越して二発目をぶっ放した乱馬。だが、八宝斎の思う壺にはまることになった。

「残念じゃったなっ!乱馬よっ!」
「な?」
「そっちは囮よっ!」
 背後から声がした。
「しまったっ!」
 乱馬は狙いを定めた手を引っ込めようとしたが、一瞬判断が遅く、彼の右手から、二発目の気泡が既に宙目掛けて飛び出していた。

 ドオーンッ!ドンッ!!

 二発、激しい音がして、目の前で弾けた。

「八宝、うつし身大華輪、ワカメ縛りじゃっ!」
 勝ち誇ったように八宝斎は前方で笑っていた。
 バラバラとタコツボの陶器の破片が乱馬の上に落ちてきた。乱馬は目の前で弾けた大華輪の爆風で水面に叩き付けられた。そして、そこへ大華輪と共に仕込まれていたワカメが網目宜しく、乱馬の身体に纏わりついて動きを封じた。

 その隙に八宝斎はあかねの身体をがっしと掴んだ。そう、溺れて気を失ない、がくりと頭を垂れているあかねを、難なく虜にしたのである。

「畜生っ!あかねを返しやがれっ!!」
 叩き付けられた波間から乱馬は顔をあげて言い放った。身体中に纏わりついたワカメはその動きを封じ込んでいる。
 それを外そうともがいたが、ぬめぬめしたワカメは、身体にべっとりと張り付いて、なかなか言うことをきいてくれそうにない。
 溺れないように足を動かすのがやっと、そういった状況だった。
「ほっほっほ、動けまい。あかねちゃんはワシのもんじゃあっ!一日意のままに扱ってやるんじゃあっ!ほうら…。あかねちゃん、人工呼吸をするついでに、この一日玉を飲ましてやろう。」
「じじいっ!貴様…。」
「おぬしはそこで指をくわえて見ておれっ!はーっはっは。」
 八宝斎はここぞとばかり、懐から一日玉を取り出した。その玉は血の色をして、妖しげに太陽の光を受けて光り始める。

「あかねーっ!!」

 乱馬の悲鳴とも言える叫びが、その口から飛び出した時。異変が起こった。


 八宝斎が立ち泳いでいる場所から程遠くない辺りで白波が湧き始めた。最初はブクブクと泡が立つ程度に。だが、それは一瞬にして大きなうねりとなって海面を揺るがし始めた。

「な、なんじゃっ?」

 あかねを抱えていた八宝斎も異変に気付いた。
 と、何かが八宝斎の身体を強く掴んだ。
「ひ、ひゃーっ!」
 八宝斎は己に絡み付いてきた大きな塊に、思わず悲鳴を上げていた。

「あ、あれは…。」
 乱馬は波間を漂いながら、八宝斎に起こった異変を眺めていた。

 ザバーッと波飛沫と共に、海中から、見事なオオダコが姿を現した。
 オオダコは八宝斎を絡め取ると、何かに憑かれたように、うっとりとした目を向けた。
「間違いねえっ!あのタコ…。去年の大騒動で一生玉を飲んじまったオオダコだ…。」
 そう、あかねが咳と共に吐き出した「一生玉」をたまたま飲み込んで、最初に八宝斎を見詰め、彼の虜になったあの大きなメスダコそのものであった。彼女は八宝斎に惚れている。
「そっか…。八宝斎の気配を感じて、海から飛び出してきやがったのか。」
 八宝斎はオオダコの足にしっかりと捕らわれてジタバタしていた。その手に抱かれていたあかねに気がついたオオダコは、一瞬にしてあかねを彼から引き離した。そして、ゴミを捨てるように、ポイッとあかねの身体を投げ捨てた。
「あかねっ!」
 乱馬は絡みついたワカメをようようのことで解くと、あかねが投げ込まれた方へ向かって一直線に泳いだ。
 気を失って力が抜けている状態が良かったのか、あかねは沈むことなく上を向いて波間を漂っていた。
 乱馬はようやくあかねに泳ぎ着くと、その腕に確かにあかねを抱え込んだ。
 
「ふうっ!」
 安堵の溜息を吐くと、オオダコのほうへと目をやる。オオダコは八宝斎をうやうやしく抱えあげると、ゆらりゆらりと沖合いの方へ泳ぎ始めた。
「やめろーっ!放せーっ!ワシはおまえなんか嫌いじゃーっ!」
 八宝斎はそんな事どもをわめきちらしている。だが、がっしと吸盤の付いた足に絡められて抜け出すことさえできない。
 ジタバタしている八宝斎を抱えたまま、オオダコはご機嫌で遠ざかってゆく。これで、あの妖怪じじいも暫くは、戻っては来れないだろう。
「ザマアミロ…。あかねに手出ししようとした天罰でいっ!」
 乱馬はオオダコと八宝斎の影を見送りながら、そう呟いた。



四、

 八宝斎を見送った乱馬は、あかねを抱えて、岸辺に向かって泳ぎ始めた。
 かなり沖合いまで流されていて、海水浴場が遥か向こうへ見えた。気を失っているあかねを抱えて泳ぐのは、さすがの彼でも骨折りだった。だが、こんなところで油を売っているわけにもいかず、乱馬は行くべき岸を見定めると、手足を力強く蹴り始めた。
 泳ぎが得意とは言っても、今は男から女へと変化を余儀なくされている。男のときより数段、力も劣っている。
(地道に泳いで辿り着くしかねえか…。)
 そう思ったとき、一隻のボートがこちらに向かってやってくるのが見えた。

「やあ、そこを泳いでいるのは、おさげの女ではないか。ややや、あかねくんも。」

 聞き覚えのある声だ。
「九能先輩…。」
 乱馬はボートの上の人物を認めた。
「助けに来てあげたわよ。」
 九能の横にはなびきが笑いながらこちらを見ていた。
「助かったぜ…。このまま、岸まで泳がなきゃならねえかって思ってたからよ。」
「へへ、まあね。あんたとお爺ちゃんが沖合いでバタバタやってるのが見えたからね。それに、可愛い妹を溺れさせる訳にはいかないし。たまたま浜に繋いであったボートを拝借してきたってわけ。あ、お代は安くしておいてあげるから…。」
「お、おい。金を取る気かよ…。」
「嫌なら下りてもいいわよ。」
「わかったよ、払えばいいんだろ、払えば。」
「大負けにまけて二人で三千円でいいわ。」
「高いっ!もっとまけろ。」
「いいわ、二千円。」
「もう一声っ!」
「もう、これ以上びた一文まけないわよ。」
「わかった、後で水着の写真撮らせてやるからよ…。それでどうだ?」
「本当?やった…。ぼちぼちニューモードの写真、欲しかったんだ。いいわ。それで手を打ってあげる。」

 無茶苦茶な話である。

 乱馬はなびきに文句の一つでも言いたかったが、さっきの八宝斎とのやり取りで体力を使い果たして疲れ切っていたので、渋々言いなりになった。
 商談が成立したところで
「ほら、あがんなさいな…。」
と魯(ろ)を差し伸べてもらって、乱馬はあかねと共にボートの上へと引き上げられた。
「おさげの女も遊泳しに来ていたとは…。奇遇な。それにしても、早乙女乱馬はどこへ行った?あやつ、あかねくんを八宝斎の魔の手から守るとか言って海に入ったらしいが…。さては…。恐れをなして逃げよったか。」
 九能が岸に向かって魯を動かしながら、二人の水浸しの少女を見詰めながらそう話し掛けた。
(たく…。こいつは…。まだ、俺と早乙女乱馬が同じ人物の変身体だということに気がついてやがらねえのか。お目出度い奴だな。)
 乱馬は苦笑いしながら九能を見返した。
「う、ううん…・。」
 と、あかねが息を吹き返した。
「あれ…。ここは?乱馬。お姉ちゃん、九能先輩も。あたし、お爺ちゃんに海へ引っ張り込まれて…。」
「大丈夫。妖怪は乱馬君が退治してくれたわよ。」
 なびきがにこっと微笑みながら、むすっとした表情で座っている乱馬へと目を移した。
「あ、ありがとう…。」
「おお、あかねくん。正気付いたか。良かった良かった。」
 九能はにこにこと微笑んでいた。彼にとっては両手に花。あかねやなびきだけではなく、おさげの女まで同じボートに乗っている。いずれ劣らぬ美少女たち。上機嫌なのも頷けるだろう。
「折角だ、少し沖合いへ散歩でもしないかね?」
 九能は少女たちに話し掛けた。
「却下っ!早く帰らないと、ほら、嵐が来るかもよ…。」
 なびきが沖合いの入道雲を見上げながら言った。真夏の空は変わりやすい。気まぐれなのだ。この季節、入道雲が湧き立って、夕立を連れて来ないとも限らない。
 なびきが言うとおり、何となく、白い入道雲ではあったが、もくもくと空へ勢力を強めている。上空の大気が熱気のせいで不安定なのだろう。
「仕方あるまいな…。」
 九能はしぶしぶ魯を岸に向かって漕ぎ始めた。
 いいところを見せようというこの男。波乗り越えて、岸辺へと引き返す。
 乱馬は腕に抱いていたあかねから、何気に手を引っ込めた。女に変身しているとはいえ、目の前に居る少女の笑顔は眩しい。
 と、ボートが大きく右へゆらりと揺れた。
「きゃっ!」「何だ?」
「ブイに当ったようだな。」
 九能は気にしていないのかマイペースで答えた。傍を見ると、海水浴場の境界線ともいえる、沖合いのブイが浮き沈みしていた。
「お、おいっ!気をつけろ…わたっ!」
 また勢い良くぶつかった。
「荒い漕ぎ方しやがって…レディーが乗ってんだぞ…レディーが。」
 自分のことは棚に上げて乱馬は九能を見上げた。
 と、コロンと何かが船底に弾けて落ちた。
「あ…。」
 どうやら落としたのはあかねのようだった。
 何が落ちたのかと、床に目を投じる。と、船底の上をコロコロと転がる赤いビー玉のような玉が見えた。妖しげに光って九能の傍で止まった。
「おお、これは…。」
 乱馬が取ろうと身を捩る前に、九能がその玉をさっと手に取り上げた。
「何だ、飴玉か。」
 手に取った玉をじっと見詰めながら九能は呟いた。
「あれは…。まさか…。」
 はっとして乱馬は九能が手にした玉を見た。
「一日玉…。」
 そうだ。さっき、八宝斎が手にしていたあの物騒な妙薬である。
「乱馬、一日玉って…。」
 あかねの問いかけにこくんと頷きながら乱馬は言った。
「ああ…。間違いねえ。さっき、八宝斎の野郎が懐から出してた。きっとおめえにくっついてきたんだろうな。」
「だとしたら、やばいんじゃあ…。」
 あかねに指摘されるまでもなく、乱馬は九能を見上げて言い放った。
「こら、九能先輩、返せっ!おめえが持つような代物じゃねえ…。」
 そういう風に言ったのが仇になった。
「おお…。おさげの女はこの飴玉を所望か。ならば、ほれ…。」
 唐突であった。
 見上げたまま言葉を継ごうとした乱馬の口へ、ぽいっと突っ込んでしまったのだ。

 ごっくん!

 いきなり異物を咥えさせられた乱馬は、抵抗する間もなく、その玉を飲んでしまった。
 いや、正確には、乱馬の口内へ入れられた玉が、己の意志を持ったかの如く、咽喉へと入っていったと言った方がいいかもしれない。
「乱馬…。」
 あかねの表情が凍りついた。

 暫く、目を白黒させていた乱馬の瞳の輝きが、次の瞬間、ぱあっと見開いたように明るくなった。

「九能先輩っ!」

 そう言ったかと思うと、乱馬は九能へとびたっと張り付いていったのである。
「ちょっと…。乱馬君?」
 その異様な光景に、さすがのなびきも凍り付いてしまった。
「どうしたの?あかね…。さっき何か咥えてしまったようだけど…。」
「不味いわ…。乱馬、一日玉…そう、惚れ薬を飲んじゃったみたい。その薬、飲み込んだが最後、初めに目に入った異性に首っ丈になってしまうのよ…。」
「何ですってえ?」
 少女二人が呆気に取られていることなど素知らぬ風に、乱馬は九能へと擦り寄る。

「ねえ、先輩っ!いちゃいちゃしましょう!」

「お、おさげの女…。そ、それはちょっとやりすぎというものだ。あかねくんやなびきが見ているではないか…。」
「いいの。誰が見ていたって、愛があればそれでいいのよ。」
「うおおお…。可愛い奴じゃ、おさげの女あーっ!!」
「先輩っ!キスしてっ!」
「おお、積極的な。そうか、僕の魅力がわかったのか…。おさげの女。」
「先輩っ!早くぅ…。」
「良かろう…。あかねくん、それに天道なびきよ。悪いが一瞬、あっちを向いていてくれ。」

 ボートの上で繰り広げられる「修羅場」。乱馬と九能の濡れ場と化す。

「あかね、これっ!念のために持って来たのよ。」
 なびきがあかねにステンレスポットを放り投げた。
「これ…。」
「お湯が入ってるわ。さあ、早くっ!手遅れにならないうちに…。」

 あかねは姉の心尽くしのポットを受け取ると、蓋を開いて、乱馬に向かって投げかけた。

 ざばっと熱湯が乱馬に降り注いだ。
「あ、熱いっ!何しやがんでいっ!!」
 瞬時に男に戻った乱馬。
 そこへ九能の唇が乱馬目掛けて飛んできた。
「うげっ!九能っ!気色悪いことするなあーっ!!」
 九能に抱きつかれて、乱馬はあたふたと手足を動かした。
「おまえは…早乙女乱馬ではないか…。おさげの女は?どこだ?…どこへ隠した…。貴様、さては、おさげの女が僕に愛を語らうのを嫉妬して…。」
 九能は乱馬ににじり寄った。
 と、またブイへとボートがコツンと当った。また、水飛沫が上がって、乱馬は女に。
「九能せんぱあい!」
「おお、おさげの女。早乙女の魔の手から逃げ出したか…。」
「先輩っ!結婚してーっ!!」

「いい加減になさいっ!!」

 あかねは再び、じょぼじょぼと熱闘を女乱馬の上に注いだ。

「くおらっ!凶暴女っ!!」
 乱馬はあかねをきっと見上げた。

 風がボートの上をさあっと通り抜けた。
「あ…かね…。」
 乱馬の口がそう象って止まった。

「乱馬?」
 乱馬の目の輝きが一瞬、己の上で静止した。そんな錯覚を覚えたあかねは、言葉途切れた許婚の方を見返した。

「たく…おめえは…。熱闘を注ぎ込みやがって…。」
 乱馬は何事もなかったように、言葉を継いだ。
「うるさいわねっ!あんたが一日玉を飲み込んじゃうからいけないんでしょっ!」
 あかねは何時もの調子で捲くし立てた。
「そうか…。一日玉を飲みこんじまったのか。」
 乱馬の動きがまたそこで途切れた。
「くおら〜さおとめえっ!おさげの女はどうした、おさげの女わあっ!!」
 堪らないのは、キスの寸止めを食らわされた九能であろう。涙目になって乱馬ににじり寄る。
「知らねえよっ!おとといきやがれーっ!!」
 
 どっかーん!!

 哀れ九能は海の中へと蹴り飛ばされていった。

「あんた…。一日、女に変身しない方がいいわよ…。」
 あかねは乱馬を振り返った。
「節操なく、九能ちゃんへ愛想を振りまいていたから…。九能ちゃんもその気になってるでしょうしね…。キスだけで済むかどうか…。」
 なびきがぼそっと乱馬に言った。
「あ、ああ…。わかってら…。俺だって、九能とだけはラブシーンを繰り広げたくねえ…。」

 九能が居なくなった後の漕ぎ手は乱馬。
 勿論、難なくすいすいと進む。注意することはただ一つ、不用意に水に掛かって女に変身しないことだろう。砂浜に乗り上げる所までボートを引っ張っていって陸(おか)に上がった。
 海水を浴びないように、波打ち際にも気をつけていた乱馬だったが、陸に上がった途端、気が緩んだようだ。彼としては珍しいことに、ステンとすっ転んだ。
「乱馬っ!?」
「テテテ…。」
 ビーチサイドには結構、ゴミが溜まっている。案の定、転んだ位置が悪く、硝子の破片でしっかり腕に傷を負っていた。
「大丈夫?」
 あかねが近寄ると
「大丈夫…。これくらい…。」
 と、いつものように強がることも忘れない。だが、相手はガラス片。みるみる手から血が滴り落ちる。
「あたし、東風先生を連れてくるわ…。」
 なびきがそう言うと、天道家の皆がのびやかに休日を楽しんでいるビーチサイドの方へと走っていってしまった。


五、

 さわさわと吹き渡る風。
 渚の喧騒から少しだけ離れた砂浜。潮の流れのせいで、この辺りには、海岸のゴミが打ち上げられている。乱馬が怪我をした辺りには、ゴロゴロとプラスチック容器や硝子片、紙袋といった人工物が積み上げられていた。
 その中に突っ込んだのだ。
 乱馬らしくない行動だった。
 だが、あかねもなびきもそこまでは考えるに及ばなかった。大方、八宝斎とあかねを巡って戦い、変な丸薬を飲み込んだせいで、いつもになく彼自身が動揺しているのだと、そんな程度にしか状況を捉えていなかったのである。
 
「たく…ドジなんだから。」
 あかねは乱馬の傷口を見ながらそう言葉を告いだ。
「悪かったな…。ドジで…。」
 憮然とした表情で受け答える。
「でも、本当はおめえのためだったんだけどよ…。」
 風の空言か、そういう言葉が続いたようにあかねには聞こえた。
「え?何か言った?」
 思わず訊き返して見たが、
「あん?何か聞こえたか?俺は何も言ってねえぞ…。」
 乱馬は愛想なく答えた。
「だって、今、おまえのためだったとか言ったような気がしたけど…。」
 乱馬の眉間がふっと動いた。
「ああ。だってそうだろ?俺だってさっきはおまえが溺れちまうかって焦りに焦ったんだからよ。」
 澄んだ瞳があかねを捉えた。
「まあ、いいさ…。おめえが無事だったんだし。」
 にこっと笑って乱馬が手を差し出してきた。
 彼のその「らしくない行動」に、どきっとあかねの心臓が唸った。
 乱馬の瞳がすぐ傍に下りて来る。あかねはそのまま固まってしまった。
 と、ぷっと吹き出した乱馬。
「何身構えてやがんだよ…。冗談だよ、冗談。」
 乱馬は笑っていた。が、そのとき、左腕から血がポタリと滴り落ちていた。乱馬の顔がみるみる歪む。痛いのだろう。
「痛むの?」
「ああ…。少し深く切っちまったかな。」
 乱馬はぐっと唇を噛むようにして言った。

「おーい。あかねちゃん!乱馬くん!!」
 急場を聞きつけてきた東風が、薬箱を持って走ってくるのが見えた。

 東風の見立ては、少し深く切り込んでいるとのこと。
「硝子片はちょっと厄介だからね…。応急手当しかしてないから…。医療所できちんと消毒しておいた方がいいかな…。今回はもう、泳いじゃダメだよ。」
 乱馬はこくんと頷いた。
「でも、君らしくない傷だね…。君くらいの達人なら、受け身を取って、咄嗟にこれくらいの硝子片は避けられたろうに…。何かに気を取られていたかどうかかな?」
 乱馬はそれには答えなかった。
「東風先生が一緒に来てくれててよかったわよね…。」
 あかねは心配げに乱馬を見詰めた。
「あ、そうだ…東風先生。もう一つ厄介ついでに…。」
 あかねは乱馬が「一日玉」と称される惚れ薬を飲んだことを東風に言った。
「ふうん…。そんな物騒な薬なんかあるんだ…。吐き出してしまえないのかい?」
 一通り聞き終ると東風はそんなことを言った。
「そう言えば、あたしは、吐き出して効力が消えたんだっけ…。乱馬…。吐いてみない?」
「おいっ!急にそんなこと言われてもよ…。できるわけねえぞ…。それに、嫌だ。」
「何で?そうすれば厄介事から直ぐにでも解放されるじゃないの。」
「他人事みたいに言うなよ…。たく。おめえが飲んだのは一生玉だったから、あの場はそれが最良の方法だったんだろうけど。俺のはたかだか一日玉だぜ…。乱暴なやり方は却下だ却下。」
「もお…。」
「まあ、仕方ないよあかねちゃん。一日たてば効力も消えるんだったら、女にならないように注意だけしていればいいんじゃないかな?」
「そうね…。ゲロゲロやられても、あまり気持ちの好い物じゃないもの。あかね、いざとなったら、あんたが乱馬君の貞操を守ってあげなさい…。許婚なんだから…。」

 その場はそれで落ち着くことになった。

 夕刻、天道家の人々は宿屋に入って食事を共にした。
 だが、その場に九能と八宝斎の姿はなかった。二人とも、夕食時に宿へ戻ってこなかったのである。
 気になることは気になったが、トラブルメーカーが居ない方が良いと、考えていた天道家の人々は、二人が居ないことに対して、何も意見めいたことを言わなかった。
 そんな、一家なのである。
 乱馬も別段変わったことはなく、普通に夕食を摂った。
「たく…。おめえも焼きが回ったな、乱馬。怪我なんかしちまうなんてよ…。」
 良牙が口を挟んだくらいだ。
「てめえに言われたかあねえよ…。」
 むしゃむしゃとご飯を流し込んでゆく。
「で…?今晩はどうする?寝ずに俺が守ってやろうか?」
「ちょっと俺に考えがあるんだ。」
 乱馬は食事を済ますと、東風に言った。

「東風先生…。鎮痛剤持ってねえか?」

「痛むのかい?」
「ああ…。ちょっとな。これじゃあ、良く眠れないかと思ってさ。」
「もう寝るの?」
 なびきがチャチャを入れた。
「果報は寝て待てってな…。寝れば、女に変身することもないだろうし…。」
「油断していていいのかな?九能先輩だけじゃなくって、お爺ちゃんも居ない所を見たら、二人でつるんでくることも考えられるわよ。」
 あかねが心配げに見返した。
「十分あり得ることじゃなあ…。お師匠様は人の嫌がることを率先してなさるし…。」
 早雲が腕組みをしながら答えた。
「そのとおりじゃ。昼間の仕返しを、絶対に、やって来られるじゃろうて…。」
「九能ちゃんもしつこいわよ…。それに、女に変身したら、あんたも、無意識に言い寄っちゃうんだから…。」
「だから先に休養を取っておくんだよ…。まだ宵の口だろ?あいつらがつるんでるなら、皆が疲れて寝静まった頃を狙い定めてきやがるさ。だから、痛む腕を抱えた身体を少しでも休めておきてえんだよ。その間くらいは見張ってくれるんだろ?」
 乱馬は良牙を見返した。
「ああ…。そのくらいなら、協力してやらぬでもないが…。」
「あたしも、協力するわ。」
 あかねも口を挟んだ。
「なるほど、そういうことなら…。丁度眠くなる副作用がある鎮痛剤を持っているから、それを使うといいよ。」
 接骨医でもあり、医者の資格を持っている東風が処方箋を用意してくれた。
「軽い睡眠効果もあるからね。乱馬君。」
 東風はそう言うと錠薬を渡した。
 乱馬は食事を済ませると、鎮痛剤を飲んだ。
 それから
「先に休むぜ…。」
 とそう言って、自室へと引き上げた。
 あかねと良牙が続きの隣り部屋で襖一枚で付き添うことにして。



つづく




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