◇Beachside Lovers 1


一、

「下着泥棒っ!!」
「いやんっ!痴漢よーっ!!」
 
 つんざくような悲鳴が海岸を響き渡った。
 ここは湘南の海水浴場。
 広い波打ち際にたくさんのスイマーたちが集まる。

「こんの、不良じじいっ!」
 人波を掻き分けて進んできた塊(かたまり)に、一人の少年が蹴りを入れた。
「何をするっ!」
 その塊は少年に向かって啖呵(たんか)を切った。
「それはこっちの台詞でいっ!たく、おめえは女性の下着にしか興味がねえのか。」
 少年は塊の胸倉を掴んで唾を飛ばした。
「ささやかな老人の楽しみを…貴様はふいにしてしまうつもりか?」
 塊は老人であった。手にしていた風呂敷から、たくさんの女性の下着がばさっと落ちた。
「てめえ…。これは立派な犯罪だろうが…。」
 少年は老人を睨みつける。
「もうっ、おじいちゃんたら…。ダメですよ。こんなに下着を持ってきちゃあ。皆さんにお返ししましょうね。」
 背後で穏やかな女性の声がした。
「おお…。かすみさんがそう言うのなら…。返してやってもいいぞ。その代わり、乱馬よ…。」
 老人は、にたっ、と笑った。
 嫌な殺気を感じた少年は身を交わそうとしたが、老人の方が一瞬早かった。
 老人は懐から水鉄砲を取り出すと、ちーっと少年目掛けて水を飛ばした。
「て、てめえーっ!何しやがる!!」
 少年はみるみるうちに少女へと変化を遂げる。
「らんまちゃーん、久しぶりだのう!」
 老人は少年から変化した少女の胸元へと飛び込んですりすりはじめた。
「でえっ!やめろっ!気色悪いっ!!」
 老人の奇襲に鳥肌を立てながら抵抗するが、なかなかどうして。老人はしぶとい。
「もお、おじいちゃんったら…。」
 そう声がして、背後からショートカットの少女がじょぼじょぼとやかんの湯を注いだ。すると、湯煙とともに少女はまた少年へと変化を遂げる。
 この不思議な少年、名は早乙女乱馬。呪泉郷の呪いの泉のせいで、水と湯で自在に性別が入れ代わってしまう、奇特な体質になってしまっていた。
「そうら…。男に戻っちまえばこっちのもんだ…。どうら…。もっとすりすりしたいか?え?」
 少年はがしっと老人の身体を抱え込むと、男に戻った胸板へと老人をなすりつける。
「男の身体はきらいじゃーっ!!」
 老人はジタバタと苦しみもがく。
「おとといきやがれーっ!!」
 少年は老人を見事に投げ飛ばしていた。
「おぼえておれーっ!!」
 老人は天高く突き飛ばされてみるみる小さくなった。

「ふう…。たく…。面倒くせえ体質だぜ…。」
 乱馬は息を吐いた。
「仕方ないじゃない。そんな体質になっちゃったんだから…。」
 少女は笑った。
「海に来たってなあ…。女にならねえと泳ぎもできねえし…。うざったい…。」
 そう言いながら砂浜へどんと倒れこむ。夏の太陽がギンギンと天上から照らしつける。
「泳がないの?」
 少女は隣りに腰掛けながら声をかけた。
「いちいち女に変身するのもなあ…。飽きちまった。」
 太陽から視線を反らせて乱馬は吐き出す。
「おめえは?水浴びしねえのか?」
 そう言いながら目を少女の方へと向けた。健康的な少女の身体は、引き締まっている。赤い花柄の水着が眩しいほど似合っている。白い身体が艶かしく見えた。
 少年は少し赤らむと、彼女から目を反らせた。
 彼女の名は天道あかね。乱馬の許婚だ。
「水浴びねえ…。あたし、泳げないから…。」
 少し寂しげな表情を海へ向けながらあかねは呟いた。そう、彼女はカナヅチだ。十七歳の今日に至るまで、ずっとカナヅチを通してきている。その、水泳センスはそん所そこらのカナヅチとは違う。浮き上がることさえできない、不器用さ。
「また皆に迷惑かけても悪いし…。」
 歯切れが悪い。
「まあな…。またさっきみてえに溺れちまったら顰蹙(ひんしゅく)もんだしな…。」
 ぶすっと少年は言葉を投げた。
「乱馬はいいじゃない。泳げるし、サーフィンだってお手の物でしょう?やってきたらいいのに…。」
 砂浜の貝殻を手に取るとあかねはふつっと言葉を掛けた。
「折角、海に来たんだから…。」
 そう続ける。
「別に来たいから来た訳じゃねえしな…。皆にくっついて来ただけだ…。あー。どうせなら、男のままで思いっきり泳ぎてえや。」
 大の字になって乱馬は上を向いた。
「去年も来たんだよね…。この海岸。」
「ああ、そうだな。」
「腕輪騒動大変だったね…。」
 あかねは去年の記憶を巡らせているようだ。去年の夏、家族揃ってこの海岸へやって来た。と、「惚れ薬騒動」が持ち上がったのである。シャンプーの婆さん、コロンからさっきのスケベ老人、八宝斎が盗み出した腕輪。それに付いていた惚れ薬を巡ってドタバタが繰り広げられた思い出の海岸である。
「たく…。おめえはよう、修業が足りねえから、惚れ丸薬なんか飲み込んじまうんだよ。」
 相変らず機嫌悪そうに乱馬は吐き出す。
「あんたに言われたくないわよ…。」
 ムッとしたあかねはそう言い返す。
「あんただって、一瞬玉、飲み込んじゃったじゃない。大騒ぎだったのよ…。コロン婆さんに求愛しちゃってさ。」
「へっ!あん時は油断しちまったけどな…。おめえみたいに、一生玉飲んで大騒ぎってところまでは至らなかったぜ。」
「何よ。たまたまあたしが飲まされたのが一生玉だっただけでしょう?もし、あのとき、あんたが一生玉を飲んでいたら、今頃はコロンさんが奥様よ。」
「気色悪いこと言うな…。思い出したくもねえ…。」

「何が気色悪いのかのう…。」

 背後で声がした。
 驚いて振り返ると、コロン婆さんがにょっと顔を突き出していた。
「けっ!出やがったか、妖怪ばばあ!」
 そう吐き出した乱馬の脳天を、コロン婆さんは持っていた杖でコンっと殴った。
「誰が妖怪ばばあじゃ。」
「また、今年もこの海岸へ出張営業ですか?」
 あかねは目を丸くしながらコロンを見返した。
「まあな…。ビジネスチャンスはしっかりと捕まえておかねばのう…っほっほ。」
「ちぇっ!業突く張りが…。」
 コンと乱馬の頭上でまた音がした。
「じゃあ、シャンプーやムースもこの海岸に?」
「いや、シャンプーは本店の方を切り盛りしておるわい。あっちはあっちで繁盛しておるからのう…。だから今年はわしがこっちへ支店を出しておるんじゃ。」
「良かった…。トラブルメーカーは来てねえんだな…。」
 乱馬はぼそっと吐き出した。コロンの孫娘、シャンプーは中国から乱馬を追ってやってきた。そして、彼に倒され、逆に「婿候補」として追いかけられるハメに陥っている。のべつまなしにくっついてくるものだから、彼女が近くに居ると、あかねの機嫌が悪くなり、さらに、とんでもないトラブルに巻き込まれるのが常だったからである。実際、去年の惚れ薬騒動にも、シャンプーはかなり部分で絡んでいたことは間違いない。
「それはさておき、婿殿もまた、性懲りもなくこの海岸へ今年も泳ぎに来たのかのう…。」
 コロンは切り返してきた。
「まあな…。天道家の馴染みの宿があるから、リゾート兼ねて来たんだよ。」
「ほお…。それで、ハッピーも一緒なのか?」
「じじいにも会ったのか?ああ。くっついて来ちまった。ギャルをナンパするとかふざけたこと言いやがってよ…。蓋を開けてみたら下着泥棒行脚だ。とんでもねえ妖怪じじいだぜ…。」
「ほお、なるほどのう…。」
「おまけに、じじいだけならまだしも、九能先輩や良牙までくっついて来ちまった。」
 目を投げると、九能が海岸でなびきとスイカ割りショーをやっているのが目に入った。
「さしずめ「お邪魔虫」がいっぱいといったところなのかのう…。」
 ほっほっほとコロンが笑った。
「ところで、婆さん。何か俺に用でもあるのか?」
「用って?」
 あかねがきょとんと乱馬を見返した。
「ほお、勘が良いな…婿殿は。」
「ああ、商売にしか興味がねえ婆さんが、用もないのに、海岸をウロウロと岡持も持たずに俺たちの元へ来ることもなかろう?大方、俺たちの影が見えたからここまでやってきたんだろうが…。」
 乱馬はにっと笑ってみせた。
「察しのとおりじゃ。ちと気になることがあったからのう…。」
「気になることって?」
 あかねもずいっと身体を伸ばしてきた。
「何のことはない。ハッピーのことじゃよ。」
 婆さんはゆっくりっと話始めた。
「さっき、露天のゴミ置き場から、ハッピーがにやにや笑いながら出てくるのが見えたんじゃよ。大方婿殿に悪さでもして、ゴミ置き場まで蹴り飛ばされたのだろうがのう…。」
「ああ、確かにさっき、思いっきり蹴り飛ばしてやったが…。」
「その折にでも見つけたのであろう。手に気になるものを持ちながらブツブツ言っておったんじゃよ。
「気になるもの?」
 二人はコロンの顔をしげしげと見詰め返した。
「我が家に伝わりし惚れ薬が仕込んであった腕輪じゃよ。去年、おぬしらもこの海岸で騒動に巻き込まれたであろう。あの腕輪を持ってブツブツ言っておったもんでな。」
「どんなこと言ってやがったんだ?」
「この惚れ薬で、乱馬に一泡ふかせてやると、それはそれはニタニタとしておったぞい。」
「惚れ薬って、去年の騒動で使っちまったんじゃあ…。」
「待って、一日玉だけ残ってたじゃない。」
「あーっ…。」
「そういうことじゃ。あのハッピーのことじゃ。ゆめゆめ油断はせぬようにな…。それに、一年もこんな海水浴場の砂浜のどこか埋もれでもしていたのであろう。雨ざらしになったことは間違いがないからのう…。どんなふうに、薬の効用が変化しているとも限らん。飲まされたりせぬように、せいぜい気をつけるのじゃぞ…。良いな。ちゃんと忠告はしたからのう…。何かあったら、ほれ、あそこの猫飯店のワシの所まで来い。何事もないことを祈るがのう…。相手がハッピーじゃとなると手強いでな。」
 コロン婆さんはそれだけを言い置くと、また商売へと戻って行った。

「ねえ、きいた?」
「ああ…。じじいめ…。」
「惚れ薬、飲まされないように注意しなきゃね。」
 あかねは気になったのか、乱馬を心配げに見詰め返した。傍若無人なあの八宝斎のことだ。大方、薬を乱馬に飲ませて女に変化させ、一日弄ぼうとでも企んでいるに違いない。惚れ薬は飲み込んで最初に見た異性に効き目が現れるという。効用は昨年乱馬で実証済みであった。
「へん。去年の俺とは違わあっ!たとえ飲み込んじまったって、絶対、薬の言いなりになんてならねえさ。」
「それはどうかなあ…。去年のあんたのことを思い出したら、そうも悠長なことも言ってられないと思うわよ。」
「はん。たとえ俺が飲み込んで最初におまえを見ちまっても、ぜーったい、絶対、ぜーったい、惚れはしねえだろうよ。」
「それ、どういう意味?」
「どういう意味も何も…。おめえみたいな色気のねえカナヅチ女には手も出さねえってことだよ。天地神明に誓ってもな。」
 あかねはギロッと目を向けると、思い切り蹴りこんだ。

「そこまで、言うことないでしょう?乱馬のばかーっ!!」

 見事に砂浜をぶっ飛んでゆく乱馬。

「この乱暴おんなーっ!!」

 蹴り上げられながら乱馬は虚空でそう叫んだ。

 平和なビーチであった。
 だが、確実に暗雲は彼らに襲いかかろうとしていた。

「乱馬め…。見ておれよ…。この薬を使って、あかねちゃんを我が物にしてくれるわ。ふふふ…。」
 じいさんの目が怪しく光り輝いていた。


二、

「それで、おじいちゃんが惚れ薬を持ってるってわけ?」
 なびきがスイカをぱくつきながらあかねを見返した。
「うん…。お婆さんによるとそうなのよ。」
「だから、絶対大丈夫だって言ってるだろう?」
 乱馬は余裕であかねを見返した。
「究極の惚れ薬ねえ…。」
 目の前で九能が、やっとーやっとーと、まだスイカを割り続けている。
「あたしがお爺ちゃんなら、乱馬くんは狙わないな。」
 となびきは吐き出すように言った。
「え?」
 きょとんと姉を見返す。
「例えば、あたしなら、隙がない乱馬くんじゃなくって、あかねに飲ませるわね。」
「な、何を…言い出すのよ。お姉ちゃん。」
「だって、そうじゃない?乱馬くんよりあかねの方が隙が多いから飲ませやすいじゃない。現にあんたは、去年も飲み込んで大騒ぎになっちゃってるし。それに、あかねがお爺ちゃんに喩え一日でも惚れ込んだら、乱馬君に与えるショックはとてつもなく大きいでしょうし…。」
 なびきはスイカの皮をトンと地面に置いた。
「それに、あのスケベ爺さんのことだから、自分に惚れてしまったあかねに、いろいろと手出ししてくることも考えられるわよお…。」
「ちょっと、いい加減にしてよねっ!お姉ちゃんっ!!」
 真っ赤になってあかねが怒鳴った。
「そのくらい油断も隙もない爺さんだって言ってるのよ…。まあ、せいぜい気をつけるのね。相手があの八宝斎の爺さんなら、そのくらいの覚悟しておかなきゃ。」

 余計なお世話だとあかねは姉に向かって言っていたようだが、乱馬は黙って腕組みをして聴いていた。
 あかねの目前なので、下手な言葉は継がなかったが、なびきの言うことに一理があると思ったからだ。何も八宝斎が狙ってくるのは、己とは限らない。或いはなびきが言うように、あかねを狙ってくることも十分考えられる。そう思った。
「へっ!俺がしっかりとしていれば問題はねえ。じじいが襲ってきたら、そんな物騒な丸薬を取り上げちまえばいいんだ。」

 彼の誤算は、八宝斎が燃える下心がある場合、どんなことをしても、その欲求を成就させようとするその行動力を甘く見ていたことにあったのかもしれない。
 とにかく、昼日中は襲ってこないつもりか、油断をさせようとしているのか、すぐにはリアクションを起こしてこなかった。
 昼を過ぎ、食事を猫飯店で済ませ、また、海辺のリゾートを楽しむ天道家の家族たち。 
 親父二人組は、海へざんぶと入って、古泳法で水と戯れていた。なびきは相変らず九能とスイカ割りでギャラリーを集め荒稼ぎをしているようだ。
 かすみはこれまた一緒にくっ付いてきた東風先生と仲良くボケながら、遊泳を楽しんでいる。
 のどかはお稽古があるからと東京に残った。
 一緒にくっついてきたP助はちゃっかり変身を解いて、どこで合流したのか、あかりちゃんと仲良く水遊びをしていた。彼もまた、水に濡れるとPちゃんに変身してしまうので、少し離れたところでランデブーを決めこんでいるようだ。とにかく、変身をあかねに見せては不味いと思っているのだろう。
 そして、乱馬はあかねから離れずに、ぴったりとくっ付いていた。水際で遊ぶ程度であかねは己から、苦手な水へ深く入ろうとはしなかった。
 泳げないあかねは、寄せては返す波を相手に、子供の水遊び程度のことを繰り返して、彼女なりに水を楽しんでいた。
 
「乱馬、泳いできなよ…。」

 あかねはひんやりとした水に足をつけながら、少し離れた水のかからない場所に佇んでいる乱馬に声をかけた。
「いいよ…。女物の水着に着替えるのも面倒だし…。このままで。」
「日射病にかかちゃうわよ。波打ち際の太陽は激しいんだし…。」
「別に、このくらい大丈夫だぜ…。修業で鍛えてるしな…。」
「あたしになら遠慮しなくっていいわよ。」
「遠慮なんかしてねえよ。乗り気がしねえだけだよ。」
「お爺ちゃんのこと、気になってるの?」
「全然。あんなエロじじい、気にしたって始まらねえ。」

 そんなゆったりとした会話を続ける二人の傍らを、子供たちが走り抜けてゆく。

「ねえ、アイスでも食べよっか…。」
 あかねは水から足を抜くと乱馬のほうへと歩み寄った。
「ああ…。いいぜ。」

 二人並んで売店へと熱砂の上を歩く。サンダルがないととても歩けない午後の砂浜だ。
 アイスクリンと書かれた暖簾をくぐり、冷えたアイスを手にすると、二人は松林の袂へと座り込んだ。
 波打ち際から少し奥まった砂浜に目を転じると、いるわいるわ。結構目のやり場に困ってしまうカップルたちが。ビニールシートを広げて日光浴を楽しんでいる。
 二人の周りは、そんな熱いカップルたちがいちゃついている姿が目に入った。
「平日なのに…。人が多いわね。」
 あかねはぼんやりと水平線を眺めながら乱馬に声をかけた。
「ああ…。」
 周りの高温に照れているのかドキドキしているのか、乱馬は無愛想を決め込んでいた。こっちを見て羨ましそうな視線を投げかけて通り過ぎてゆく同じ歳頃の少女たち。
 そう、この二人も、何処から見ても仲の良いカップルに見えるだろう。その距離は決して遠いものではなかった。腕こそ絡ませていないが、傍らにある安心感は何とも言い難い心地良さがある。もう少し、乱馬に勇気があるならば、あかねの肩を抱いていたかもしれないが、この不器用男は、ただ、隣りにある安心感だけに満足していた。
 あかねも同じ気持ちであった。
 手一つ繋ごうとしない、この不器用な少年は、だからこそ信頼できるし、傍にいるとその存在だけで一等の安らぎを与えてくれる。
 アイスの冷たい感触が咽喉元を通り過ぎてゆく。
「たまには都会の雑踏を離れて、こういうのもいいもんだな…。」
 ぽつんと乱馬が言った。
「そうね…。こんな何にもない時間も、本当は大切なのかもしれないわね…。」
 さわさわと風が傍を通り過ぎる。磯の匂いを含んだ湿っぽい熱風には違いなかったが、それでも、心地良く感じられた。
 手を伸ばせば触れられる、そんな近くに、許婚がいたが、彼は敢えて触れようとはしなかった。
 『何もない悠久な時間』その贅沢を楽しもうと、周りのカップルたちは静かに木陰で佇んでいる。
 解放された空間では、男と女の距離も近くなるのが常というもの。
 だが、周りの熱にほだされることもなく、マイペースなこの二人。ただ、並んで座っているだけのカップル。
 もう少し大人になって、素直に気持ちを行動に移せる術を覚えたら、もっと安穏とした安らぎを得られるのかもしれない。互いにそんなことを思い描いてはいたが、今ある姿に満足もしていたのである。
 口に出しては何も言わないが、本当は八宝斎の魔手から自分を守ろうと努力してくれている乱馬にあかねは感謝していた。

 アイスを食べ終わった頃、目の前を何かが横切った。

「ねえ、乱馬、あれ…。」
 ヤドカリ宜しく、タコツボがごそごそと砂浜の上を這いつくばっている。
「相手にするな…。じじいだろうよ…。」
 砂の上をそいつは自在にガサガサやている。
 傍にいたカップルが悲鳴を上げた。
 当たり前だろう。化け物宜しく、そいつは女性の柔肌をつるりと撫でて通る。
「ねえ、ほっておいていいの?」
 傍若無人ぶりを咎めたあかねが乱馬の腕を突付く。
「あいつの狙いはおめえか俺だろうからな…。動かねえほうがいい。」
 苦虫を噛み潰したような表情で乱馬は答えた。
 ここまで捕まえにきてみろと云わんばかりに、タコツボは乱馬たちの前を行ったり来たりしている。
「気だけは溜めて置けよ。」
 乱馬はぼそっとあかねに言った。
 目指す二人が全く動こうとしないことに業を煮やしたのか、タコツボは更に悪乗りをエスカレートさせてゆく。カップルだけではなく、あからさまに女性たちを狙い打ち始めたのだ。
 きゃあきゃあとそこら中で悲鳴が上がる。

「何事っ!?」
 浜辺の異変に気がついたのか、早雲とパンダ親父が水からだっと駆け上がってきた。
「お、お師匠様?」
 親父たちは砂浜の上を這いつくばるタコツボを見て、愕然とした。
『こら、貴様っ!何とかせんかっ!』
 タコツボの挑発に耐えて砂浜に座っていた乱馬の後頭部を玄馬パンダが看板でバコンと殴りつけた。
「いってえーっ!何しやがる!」
 乱馬が玄馬にくってかかろうとしたその僅かな隙に、タコツボはあかねへと触手を伸ばした。
「きゃあっ!」
 傍らのあかねが溜まらず悲鳴を上げた。
 タコツボはこともあろうに、あかねの可愛らしいお尻を至近距離からすっと撫でたのである。
「このエロじじいっ!」
 怒った乱馬がタコツボを蹴り上げた。
 だが、蹴り上げたタコツボはもぬけの殻。
「しまった、身代わりの術っ!?」

 そう思った瞬間、ボンッと音が弾けて、もうもうと煙幕が立ち上がる。
 周りが一瞬のうちに白んだ。
「あかねっ!無事か?」
 乱馬は咳き込みながらも許婚の安否を気遣って声をかけた。
 だが、返事がない。

「くそっ!謀られたかっ!」

 煙幕が途切れたときに、己の失態を知ったのである。
 あかねの姿は忽然と消えていた。
「じじいっ!何処へ行きやがった?」
 辺りをキョロキョロと見回してあかねの気配を探った。
「乱馬くん、あれっ!」
 早雲が海辺の方を指差した。砂浜の向こうに、あかねを拉致したタコツボが、にょろにょろと駆け出しているのが見えた。
「あかねっ!」
 乱馬がそう叫んだとき、背後に居た玄馬が看板宜しく、思いっきり乱馬を叩き上げた。
『ゆけっ!息子よっ』
 そうしたためられた看板で、乱馬を殴り飛ばしていたのである。走っていたのでは間に合うまいと判断した玄馬が、力任せに乱馬を前へと飛ばしたのだ。
「わわーっ!!」
 空を行きながらも乱馬はあかねを襲うタコツボへと狙いを定めた。

 ドオオーン!

 彼の放った気砲がタコツボへと命中する。
 砂が舞い上がった。
 だが、悪いことに、彼の放った気砲はタコツボだけではなく、あかねをも弾き飛ばしてしまったのである。
 
 ドボンッ!

 水音がして、あかねが海へと投げ出されていた。

「しまったっ!」

 乱馬は空中から地面へと立ち上がると、己の失態を悔いた。
 狙いが定まったのは良かったが、傍に居たあかねも一緒に飛ばしたのだ。それも海中へと。
 彼女は泳げない。

「ふふ。計略どおりよ。それ、あっかねちゃーん!気付け薬を飲ませてあげるからねーっ!」

 飛ばしたはずのタコツボがそんな言葉を吐いた。
「何っ?」
 タコツボは待ってましたと云わんばかりに、投げ出されたあかねの水飛沫の方へと泳ぎ始めた。一緒に飛ばされたのだ。水際に居る乱馬よりはあかねに近い位置に居る。
「あいつっ!溺れたあかねに丸薬を飲ませるつもりか?」
 閃いた時は遅し。だが、手をこまねいて見ているわけにも行かず、乱馬はだっと駆け出して海へと飛び込んだ。
 水飛沫とともに、彼の身体は女体へと変化する。
「乱馬くん、しっかりっ!!」
 いつの間に追いついたのか、あかねの父、早雲が声を振り絞った。

 あかねは岸から少し沖合いのところで暫くあっぷあっぷやっていたが、悲しいかなカナヅチ。力尽きて水中へと飲み込まれてゆく。

「あかねーっ!!」

 気が気でない乱馬は、必死でその姿を追って泳いだ。

「あかねちゃんはわしのもんじゃいっ!」
「そんなこと言ってる場合じゃねえっ!あかねが溺れて沈んじまうっ!」
 じじいと少女の一騎打ちが始まった。



つづく




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