最終話 夜明け

一、

「あかねーっ!俺だ、俺が乱馬だっ!」
 乱馬は叫んだ。
 だが、あかねには聴こえないのか、猛突進してくる。力強い拳だ。
 バキッと音がして壁がのめりこんだ。
「外したっ!」
 あかねが気概を吐く。
(流石に馬鹿力だな・・・。よく鍛えこんであらあ・・・。)
 これが通常の組合なら、余裕もあったろう。だが、相手のあかねは己が乱馬ということをわかっていない。ならば、危険だがあかねの懐へ飛び込んで、彼女の鳩尾(みぞおち)に一発食らわせて沈んでもらうしかないだろう。そう思った。

「あかねっ!悪いが、負けるわけにはいかねえんだ。」
 乱馬は目で彼女に訴えた。

「そうはさせぬっ!」
  
 乱馬があかねに取っ付こうと飛び込む前に、羅公が動いた。
(ちっ!奴は俺の考えが読めるんだっけ・・・。)
 はっと乱馬は後ろへ飛び退く。羅公が乱馬目掛けて気を打って来たのだ。
 圧倒的に二対一では不利であった。増してや一人は傷をつけるわけにもいかない。
「涙ぐましい努力だな・・・。」
 面白そうに乱馬を見詰める羅公。
「だが、お楽しみはまだまだこれからだぜ・・・。」
 羅公は再び、玉を翳した。
 と、目の前にあかねが二人、三人、四人・・・と増殖しはじめた。
「な・・・?」
 気が付くと乱馬はあかねにぐるりを取り囲まれていた。
「幻か?」
 いや違った。乱馬を取り囲んだあかねはてんでバラバラに動き始める。
「何だ・・こいつらは・・・。」
 だからといって無闇やたらに攻撃も加えられない。下手に攻撃して、あかね本体に傷をつけるわけにもいかないからだ。
 仕方なく、また逃れるために動き回る。

 あかねたちの向こう側に羅公が笑っている。
 憎々しげに見えた。

(畜生・・・本物のあかねだけでもわかれば・・・。)
 己に繋がっていた糸は見えなくなっていた。暗闇だけが支配する荒んだ世界。
 乱馬は静かに目を閉じた。そして気を澄ます。五感を研ぎ澄ませ、本物のあかねをまさぐった。
(俺にはわかるはずだ・・・。あかねの澄んだ気が。真っ直ぐに向かってくる、素直な気が・・・。)
 目を閉じた心の中に絆が見えた。闇に浮かぶ美しい糸が。確かに真っ直ぐに繋がっている。
 やおら、目を開くと、だっと駆け出した。一人のあかねに向かって。
「あかねっ!目覚めろっ!あかね!思い出せ。俺のこと。本当の早乙女乱馬は、この俺だーっ!」
「ほお・・・。おまえ、本物のあかねがわかるのか。」
「あったりめえだ・・・。あかねは俺の許婚。絆は深いんだ!てめえなんぞには絶対にくれてやらねえ!」
 乱馬はあかねを見た。そう、光る糸は彼女にしっかりと結ばれていたのだ。彼には錦糸が見えた。ありありと見えた。真っ直ぐに繋がる光の糸が。
「だが、あかねがわかったとて、それだけでは太刀打ちできまい。そんな糸など、俺が切ってやるっ!」
 余裕でうそぶく羅公。
「それはどうかな?」
 乱馬は懐の剣へと手を伸ばした。
「剣なら太刀打ちできるかもしれねえぜ・・・。」
「ふん、洒落にもならんわっ!あかね、奴をやってしまえ。愛する者の手で葬られればそれもまた一興だろう・・・。」
「そうはいかねえ・・・。生憎俺はやられる気はねえんでな・・・。」
 じりじりと近づくあかねたちを目の前に乱馬は笑った。
(婆さん・・・。信じるぜ・・・。この剣の力。)
 ギュと柄を握り締める。

(心を無にするんだ。そして闘え・・・。乱馬。)
 胎内から声が聞こえてきた。乱馬は静かに目を閉じた。そして大きく深く深呼吸する。

 その様子を見ていた羅公が叫んだ。
「それ、いけーっ!あかねっ!そいつを殺せっ!」」
 羅公の声に一斉にあかねたちが反応する。勿論本物のあかねもだ。手にはそれぞれ何時の間にか短剣を持っている。

「だあーっ!!」
 乱馬は飛んだ。
 あかねたちが群がるその中を、空へと飛び上がった。

「血迷ったか?貴様っ!!」

 あかねたちの剣の切っ先が乱馬の身体に入ってくる。服は破け、鮮血が飛ぶ。だが、乱馬は突撃を止めようとはしなかった。ある一点に向かって彼は剣をつがえて飛んだ。
「どこを狙っておる。俺はこっちだぞ・・・。」
 的外れな方向へと飛んだ乱馬を見て羅公が笑った。だが、その顔がみるみるうちに強張る。
「し、しまった・・・。」
 慢心が彼をどん底へと突き落とすのに時間はかからなかった。
「おまえの弱点は、これだあーっ!!」

 パリンッ!

 ガラスの砕け散るような音が飛んだ。

 そう、乱馬はコロンから授かった剣に気を込めて、羅公が操っていた玉を貫いたのだ。
 怪かしは全て解けた。乱馬に対峙していたあかねたちも、夢幻の如く消え去る。
 あかねはその場に崩れ伏した。

「くそっ!」

 乱馬の姿をしていた羅公も変化が解けた。
「やっぱりな・・・。てめえのその魔力は全てその砕け飛んだ玉の力だったんだ。そうだろ?」

「ぐ・・・。小僧・・・。」
 
 変化が解けた羅公は元の爺さんの姿に立ち戻った。
「よく見破ったな・・・。だが、それだけではワシには勝てぬぞ。玉がなくなったところで同じことよ・・・。」
 羅公が抜けた歯をちらつかせて笑った。
「勝負だ・・・。爺さん。」
 乱馬は身構えた。これが最後の撃ち合いになるだろう。武道家の彼は潮時を見据えていた。
「良かろう・・・。小僧・・・。」
 気がごごごと唸りを上げて互いの身体の中を貫く。
 蒼白い炎が、乱馬の身体から萌え上がる。羅公も赤い気を背後に溜めている。
 
「羅刹黄竜破っ!」
「飛竜昇天破っ!」

 互いの声が重なり合う。
 それは猛烈な突風となって楼閣を吹きぬけた。
 ごごごと床が盛り上がり、天井までも吹き飛ばす、物凄い突風と竜巻になって波動を広げる。辺りの世界が飲み込まれるように回り始めた。
「くっ!絶対に負けられねえ・・・。あかねを取り戻すまでは・・・。」
 乱馬は飛ばされそうになるのを踏みこたえながら踏ん張った。そして振り上げた拳を前に突き出して、蒼白い冷気の気柱を羅公へと向けた。
 勿論、羅公も同じこと。彼も踏ん張って、赤い炎の気炎を乱馬へと目掛けて打ち下ろしてくる。
 激しい気と気のぶつかり合いだった。赤い炎と、青い気柱と。身体中の気を丹田に込めて打ち抜く。あかねを守る・・・。それだけが乱馬を突き動かしていた。
「うおおおーっ!!」
 乱馬はありったけの気を降り注いだ。彼の気に反応して、蓮華と紫苑から託された魔石が光り始めた。そう、乱馬の真っ直ぐな気に反応しはじめたのである。

「ぐ・・・ワシとあろう者が。こんな若造に・・・。」
 先に音を上げたのは羅公だった。彼の気は尽きかけた。
 手から発せられる炎が緩む。
 乱馬はその一瞬を逃がさなかった。
「くそう・・・。こうなったら、あかねだけでも・・・。」
 羅公の目が妖しく光る。
 倒れているあかねへとその手を伸ばす。
「させるかあっ!!」
 乱馬は叫んだ。
「あかねと結ばれるのは、他でもねえ、この俺だ!あかねは俺の許婚だーっ!!」
 乱馬は残る力を振り絞り、羅公へと最大の闘気をぶちかました。
 崩れる羅公の世界。歪み始めた暗い空間。
 激しく飛び交う気の渦。


「ぐ・・・。・・・。十三夜の月が天井にある限りは、ワシの力は・・・。」
 羅公はまだ諦めないで、乱馬の気を浴びながらも立ち上がろうとした。
「さあ、それはどうかな?」
 乱馬はにやりと笑った。
「月はとっくに西の空へと沈んだぜ・・・。羅公のおっさんよ。」
「な、何?」
 羅公は慌てて周りを見渡した。抜けてしまった天井。そこには海原の上の天が見えた。
「つ、月が・・・。十三夜の月が・・・。」
 月はもう海原へと沈んでしまったのだろう。どこにもこもれる光はなかった。
「残念だったな!羅公ーっ!!」
 乱馬の気が再び弾け飛ぶ。
「ち、畜生・・・。闇の力を受け継ぐ黄幡族の生き残りのこのワシが・・・。こんな若造にやられるなんて・・・。」
 羅公の身体が消えてゆく。
「闇の一族は、闇へ帰れっ!」
 楼閣が崩れ始めた。そこにある世界、全てが闇に帰す。
 乱馬は消え行く世界の中で、倒れ伏していたあかねをさっと抱きあげた。降り注ぐ、壁や天井や床の崩壊から必死で彼女を守って、己の身体の中に抱き留める。ふわっとあかねの纏っていた白い衣が揺れたように思った。
 乱馬が全ての気を使い果たしたとき、世界は元の時限へと引き戻されていた。
「勝った・・・。」
 彼がそう呟いたとき、世界が暗転した。
「あかね・・・。」
 残り少ない意識の下で愛しい名を呼び、そして、満足そうに微笑んだ。



二、

「乱馬っ!」

 訊き慣れた声がした。
「乱馬っ!」
 耳元で強く声が響く。
「あ・・か・・・ね?」
 そう声をかけたところで、抱きつかれた。
「乱馬ーっ!」
「わたっ!くおらっ!な、何すんでーっ!」
 柔らかい体が己の身体にかぶさってくる。軽い目眩を覚えた。
 傷だらけの全身に構わず少女はまとわりつく。
 わなわなと震えるあかねの身体に気がついた。
(泣いてる?)
 この不器用な男は、どんな状況下に置かれても、彼女の宝玉のような涙には滅法弱いらしい。関節中がぎしっと音をたてて固まるのが己にもわかった。
「良かった・・・。息を吹き返してくれて・・・。」
 胸の中で彼女が囁いた。無事を確認して安堵の声に変わる瞬間。
「バーカ・・・。俺がくたばる訳ねえだろ?」
 固まっていた筋肉は、時間と共にほぐれてゆく。ふっと微笑みが自然に浮かんだ。
 愛する者を守り切った満足感が乱馬の上を去来してゆく。緊張が緩んだ瞬間だった。
 辺りは海原。岩のごろついた丘の上に佇む許婚。場所などどこでも良かった。
 遥向こうの闇の空に、淡い光が輝き始める。
 満天に輝いていた星たちは、朝の眠りの中へと吸い込まれてゆく。耳には打ち付ける波の音だけが清らかに鳴り響く。

 夜明け。

 暁色の光が、辺りを照らし始める。

「乱馬・・・陽が昇る・・・。」
「新しい一日が始まる・・・か。」
 まっさらな太陽の光が静かにあかねに降り注ぐ。

 神秘的な美しさだ。纏っていった純白の衣装は煌くように少女の柔肌を包んでいる。
 その美しさに暫し見惚れた。
 自然に手が伸びた。ふわっと細い肩に掛かる。いつか結ばれるこの清らかな少女を、決して離しはしないと、閉じた瞳の中に誓いを塗りこめる。
「乱馬?」
 降りて来た少年に少女は不思議そうに言葉を継ごうとした。だが、言葉はそこで途切れた。
 甘い息が傍で漏れ、重なる柔らかな唇に言の葉を全て封じ込まれてしまったからだ。
 重なる唇と、開いた口へと少しだけ入って来た舌は、あかねの全ての想いを吸い上げてゆく。
 乱馬もまた痺れるような甘い感覚と、言いようのない安堵感に暫し己の意識を全て預ける。身じろきしないで、それぞれ二人、同じ想いに浸っていった。


「乱馬あーっ!!」

 傍らで、甲高い少女の声がした。

「で、シャンプー・・・。」
 慌てて、あかねから離れる。
「乱馬・・・。私見るよろし・・・。そして、恋する・・・。」
 シャンプーの声がそこで止まった。

「やれやれ、一足遅かったようじゃのう・・・。」
 後ろからコロン婆さんの声がした。
「折角、暗示をかけて貰ったのに・・・。乱馬、朝の光の中、最初に私じゃなくて、あかね見た・・・。悔しいねっ!!」
 地団駄を踏んでシャンプーが悔しがっている。
 理不尽なのはあかねであった。
「それ、どういう意味?」
 訝しげな声が響く。
「花梨婆さんが、乱馬に暗示をかけてくれたね・・・。」
 膨れっ面のシャンプーが答えた。
「暗示・・?」
「そうじゃ、朝日の光の中で、最初に目にした乙女に恋するようにな。シャンプーを見せて、婿殿をその気にさせようと思ったのに。よりによってあかねを最初に見てしまうとはのう・・・。」
 コロン婆さんがやれやれというような視線をあかねに向けた。
 それが何を意味するのか、あかねは瞬時に悟った。
「乱馬、じゃあ、今のは・・・。」
 穏やかな表情が怒りに満ち溢れ出す。

「ちょっと、待てっ!ち、違うっ!そんなんじゃねえっ!」

 睨みつけられて乱馬が焦りながらそう口にした時には、既に空へと放り出されていた。
「サイテー男ぉっ!!」
 そう叫ばれながらあかねに蹴り上げられたのである。
 次に来るのは水音。そう、海面へと投げ出されたのである。

「違うって言ってるだろう、ばっきゃろーっ!!」

 波間から乱馬が顔を出して叫んだ。水浸しになって、女に変化を遂げていた。

「もう、水は冷てえ季節なんだぞっ!風邪ひいたらどうしてくれるんだよーっ!」
「ふんだっ!あんたなんか、風邪でもなんでもひいたらいいのよっ!」
「俺が助けてやったんじゃねえかーっ!」
「助けてくれって頼んでないわよっ!」
「かわいくねえーっ!」

 いつもの痴話喧嘩が始まった。

 それを憮然として見詰める目が後ろにあった。
「おっかしいのう・・・。」
 花梨は小首を傾げながら、乱馬たちの方を見やった。
「何が・・・ね?」
 蓮華が声をかけた。
「いや、ワシの今までのパターンから見ると、あんなふうにすぐに惚れの暗示が解けることはないぞ・・・。もっと強引に相手を吸引する力を持つじゃろうし。周りがどうであれ暫くは正気には戻らんはずなのに・・・。奴は、ほら、もう素に戻っておろうが・・・。何故暗示が解けた?」
 あかねと何やら激しく言い合っている乱馬を見て、花梨がずっと唸り続けている。
「最初から暗示にかかって、なかったんじゃないあるか?」
 蓮華は笑いながら花梨を見た。
「いや・・そんな筈はないぞよ!ワシに限ってそんなドジは・・・。ふむ・・・。もしかすると・・・。」
「もしかすると・・・何?」
「あやつら、暗示に影響されぬ、強い絆を持っているのかもしれぬな・・・。ワシの力でも及ばぬような。」
「そうなのでしょうね・・・。元々暗示は人が会するもの。だから、本当に強い絆の持ち主なら、そんな邪まが入り込む余地などありはせぬのでしょう・・・。」
 紫苑がふっと笑いながら二人の果てぬやり取りを見詰めていた。
「あの二人の絆は、やいそれと切れるようなものではないでしょう。あの、仲の良さったら・・・。」
 指差しながらくくっと蓮華が笑った。
「あれで仲が良いのかのう・・・。」
「ええ、とっても・・・。楽しそうに喧嘩してるわ。本当に強い絆は切れはしないもの・・・。信念を貫けばきっと・・・。いつかは。」
「分かり合えるさ・・・。」
 蓮華と紫苑は互いの目を合わせて頷きあった。

「やれやれ、ワシ一人の、取り越し苦労だったか・・・。ま、良しとしよう。羅公は滅んだ。みんな結局は、元の鞘、か。紫苑も蓮華さまも・・・。それも良かろう。」
 花梨ばあさんはそれだけを告げると、ふうっと溜息を吐いて、海辺から立ち去った。

 海辺でやりあっている元気な二人を残して。
 遥か水平線に太陽が昇る。

 




エピローグ

 数週間後、天道家に書簡が届いた。
 差出人は蓮華。
「ほらほら、見て見て。」
 あかねが息せき切って茶の間に雪崩れ込む。
「あん?」
 道場から上がったばかりの乱馬がタオルで汗を拭きながら、はしゃいでいるあかねの方へ目を転じた。
「ほらっ!」
 あかねの差し出した手紙には写真が数枚。
「お、あいつら・・・。」
「結婚したんだって。」
 写真の中には蓮華と紫苑が仲良く正装で写っている。
「ほお・・・。」
「幸せそうね・・・。」

 はらりと落ちた写真が一枚。
 乱馬がは手に取ってたまげた。
「何だ?これはっ!」
 写真には二人のあかねが写りこんでいる。
 花嫁衣裳のあかねと花婿衣装のあかね。何だかちぐはぐだ。
「そっか、こいつら、茜溺泉で溺れた体質、治ってねえんだ・・・。」
 思いっきり苦笑いする乱馬にあかねはさらりと答えた。。
「治さないんだって・・・。」
「はあ?」
「だから、あたしになることで幸せになれたからって・・・。そのまま、ずっと、大切な思い出として日本での経緯を記憶するために。・・・手紙にそう書いてあったわ。」
 
「悪趣味すぎるぜ・・・。」

 つい吐き出した乱馬にあかねの鉄拳が入る。

「いってえーっ!何だよ!」
「たく、あんたって人はデリカシーがないんだからっ!」
「何がデリカシーだっ!俺は思ったまんまを言っただけだろ?夫婦でおめえになる体質なんて、気持ち悪いじゃねーか!」

 睨み合う二人の間をなびきが通り抜けた。
「たく・・・。言ってることが「夫婦の領域」だってことがわかってんのかしら・・・。あの子たち。」

「蓮華ちゃんと紫苑くんが、あたしに変化できるからってヤキモチ・・・。」
「誰が妬くかっ!バカッ!第一、俺はなあ、早いこと男溺泉に入って完全な男に戻りたいんでいっ!」
「いいじゃない、半分女の子のままでも・・・。」
「嫌だっ!」
「何でよ。」
「たく、誰のために男に戻りたいのかわかってんのか?」
「シャンプーやうっちゃんのためじゃないの?」
「おまえなあ・・・。」
「だってさあ、暗示に掛かってキスしてみたり・・・。」
「だから、あれは違うって言ってるだろうがっ!ぐじぐじと蒸し返しやがってっ!俺は暗示になんか、かかってなかったんだ!」
「じゃあ、何でキスなんかしたのよ!」
「何だっていいだろう?」
「よかないわよっ!あんたのキスってそんなに安っぽいの?」
「安い訳ねーだろ!おまえそんな目で俺のこと見てたのか?じゃあ、訊くけど、なんでおまえは拒否しなかったんだよ。受け入れただろうが・・・。え?何でだ?」
「うるさいわねっ!!」

 果てることのない痴話喧嘩。
「犬も食わない・・・か。バカらしい・・・。」
 と一つ溜息を吐くと、さっさとなびきは茶の間を出た。
「季節が変わってゆくわねえ・・・。」
 すっかり葉を落とした柿の木が、橙色の実をつけて揺れている。
 外はそろそろ木枯らし。冬はもうすぐそこに。




 完



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