第七話 綿津見(わたつみ)

一、

 石牢の上に出ると、思ったよりも風が強く吹き荒れていた。
 ゆらゆらと乱馬のお下げが風に煽られて揺らめく。
 月に洗われるように、海面は、光り輝いて見えた。

「どうやって、あかねのところまで行くんだ?」
 背伸びしながら天井の穴を抜けた乱馬は先に上に立っていた、蓮華と紫苑に声をかけた。
「私たちに任せる、よろし。」
 にっこりと蓮華が微笑んだ。
「行き方がわかるのか?」
 当然というような表情を向けられた。
「風、私の友達。彼等に聞いた。」
 すっと立ち上がると、蓮華は沖合いを指した。
「こっちの方向に、黄幡の世界、開けている。気が歪んでいる。」
 なるほど、蓮華の指差した方向をまさぐると、何もないように見えて、不気味な気配が漂っている。
「私と紫苑の力あわせれば、綿津見の軍門、開けられる。」
 静かに言い渡した。
「どうやって行くんだ?」
「これ・・・。」
 蓮華はさっき、取り外したピアスを乱馬に見せた。
「紫苑、あなたのも・・・。」
 こくりと頷くと、紫苑も耳からピアスを外した。二人はそれぞれに違う色目のピアスを、右耳に一つつけていた。
「これは、升麻の魔石で作られたもの。一族の誇りと繁栄の証。これ使う。」
 蓮華はそう言うと、持っていたピンクのピアスを右手の人差し指と親指で軽く摘んだ。それに呼応するように、紫苑もまた、今しがた外した青いピアスを摘み上げる。
「紫苑、同調するね・・・。」
 蓮華の声に紫苑は軽く頷くと、静かに目を閉じた。蓮華は彼に近づくと、右手を差し出して、紫苑の魔石に己の魔石をくっつけた。そして、蓮華もまた静かに目を閉じた。乱馬は黙って、二人の行く末を見届けるように見守った。

 辺りの波が一瞬、音を消したように静かになったような気がした。
 轟いていた波音がピタリと止まる。天空の月の光が揺らめいたように思う。

 がががががが・・・ごごごごごご・・・。

 微かに何かが近づく音が、耳に届き始めた。

 ごごごごごご・・・どどどどどど・・・。

 そいつの音はだんだんと近くなる。
 と、トンネルに入り込んだように、辺りの空間がさあっと動き始めた。
「な・・?」
 蒼や黄色、赤や緑の閃光が、己の周りを走る抜けるような感触に捕らわれる。

 と、ふわっと体が宙に浮かんだ。

「え?ええええっ?」
 つつつっと浮き上がる足元。
 下に暗い海原が見えた。

「開門っ!!」
 蓮華の声が辺りに響いた。

 ぎぎぎぎぎぎ・・・。
 
 鉄の重い門を開くような音が傍でした。

「なっ?」

 音のしたほうへ目を転じると、乱馬は腰を抜かしそうになった。
 天まで届くのではないかというような、大きな門がいつのまにか、傍に立っているではないか。上は暗闇に向かって聳え立ち、天辺が見えない。そんな細長い門がぱっくりと迎え入れようと云わんばかりに開かれてゆく。

「開いたわ。」
 傍で蓮華がにっこりと笑った。
「お、おう・・・。」
 すっかり気後れしていた乱馬であったが、その声に我を取り戻すと、ぎゅっと拳を握り締めていた。
 不思議と恐怖はなかった。だが、この先は異世界だと思うと、武者震いがした。
「ごめんね、乱馬。私たちはここまでしか案内できない。」
 蓮華が申し訳なさそうに答えた。
「俺たちはこれ以上先には進めないんだ。あかねさんと繋がりがないから。」
「繋がり?」
 乱馬は言葉を返した。
「そうよ・・・。この先は綿津見の世界。そう、月が支配する海の底の暗闇の世界。一年で十三夜の日だけ開くことが出来る伝説の大門。」
 蓮華は一気に説明した。
「この先に身を投じられるのは、黄幡族と関係を持ってしまった者だけね。あかね、連れ去られた時点で黄幡族と関係持った。」
「ちょっと待て・・・。じゃ、俺も入れねえんじゃねえか?」
 乱馬は不思議そうに見上げた。
「大丈夫・・・。見て、乱馬。」
 蓮華に促されて足元を見た。
「あ・・・。」
 彼の足先には光る錦糸が真っ直ぐに伸びている。
「何だ?この糸は・・・。」
「乱馬とあかねを結ぶ糸。絆の糸。」
 ふっと微笑んだ蓮華の顔。
「絆の糸?」
「そうだ、乱馬。おまえとあかねは深い縁で結ばれた存在同士。だから、黄幡族と関係を持ったとはいえ、あかねと乱馬はまだ繋がってる。」
 静かに紫苑が受けた。
「あかねと繋がっている乱馬しか、この先へは進めない。私たちが入ることかなわない。」
「だから、乱馬、この先は独りで行く。大丈夫。きっとおまえなら、あかね助けることできるだろう。」
「気をつけて乱馬。きっと羅公はいろいろ仕掛けてくる筈。その絆の糸、切りたがってるのは、羅公、本人だろうから。惑わされないで、乱馬。」

「わかった・・・。」

 乱馬は二人を交互に見比べた。そして静かに言葉を継いだ。

「絶対、あかねを連れて戻って来てやる。どんな野郎にもあいつだけは渡せねえ・・・。」

 門がまだ入らぬかと云わんばかりにゴオーンと風に唸り音を上げた。
「乱馬、行くよろし。時間あまりない。夜明けまでに戻らないと、門は閉じてしまう・・・。そうなると、乱馬、消滅するかもしれない。」
「よし、行くぜっ!」
「乱馬、これ持ってゆくよろし。何かの役に立つかもしれない。」
 蓮華が握り締めていた小さな塊を差し出した。さっき、この世界の扉を開いた升麻族の魔石だ。ピンクと蒼の石が呼応するかのように光っている。
「正しい心の人間、これ持つと、力を出すと言われている。心の動きに呼応しながら石、乱馬の力きっと導き出してくれる筈。」
「よくわかんねえが、ありがてえ・・・。」
 乱馬の掌に移ったとき、石がすうっと光を消した。
「大丈夫・・・。石の力、信じて進むよろし。」
 にっこりと蓮華が微笑んだ。
「再見!」
「幸運を祈る、乱馬。」
 
 それには答えないで、乱馬は親指を高らかに突き上げると、軽くウインクしてみせた。絶対に帰ってくるという意気込みだ。


 交互にエールを送りながら見守る門の外。
 乱馬は後ろ手に手を振ると、だっと門へと吸い込まれるように駆け出した。

「乱馬・・・。頑張って・・・。惑わされないで、真実だけを見て・・・。」
 見送る背中に向かって蓮華は思わず、そう呟いていた。
 風がその言葉を飲み込んで吹き抜けていった。



二、

 門の中は荒んだ世界だった。
 真っ暗な空間に己を導くように続いている光る糸。蓮華によれば、自分とあかねと繋ぐ絆の糸だという。真っ直ぐに糸は乱馬を誘う。
「行くしかねえ・・・。」
 ただひたすらに乱馬は走り続けた。いつ果てるともわからぬ、暗闇の中を。



「ふん!邪魔者め!」
 深き綿津見の奥底で、怪しい瞳が蠢いた。
 手にした緑の玉に人影が映し出された。
 ちっと舌打ちをすると、羅公は掌を翳して玉を覗き込んだ。
「こいつは・・・。。」
 錦糸を手繰って真っ直ぐにこちらに走ってくる人物は、今、目の前の玉に映し出される己と同じ顔だ。
「こいつが早乙女乱馬か・・・。」
 羅公はにやっと笑って見返した。
「う、うん・・・。」
 傍らであかねが寝息を漏らした。
「これは、好都合だな・・・。まさか、奴の方からこちらへ乗り込んでくるとは・・・。」
 赤い舌をぺろりと出して、羅公は乾いた唇を潤した。
「もうすぐ月の魔力が消える。それまでに奴を滅ぼしてしまえば、あかねは永遠に俺のもの・・・。」
 じっと見詰めるあかねの寝顔。
「いや、待てよ・・・。こやつ、あかねと強い絆を持っているようだな。」
 乱馬の先にある、錦糸が羅公にも見えた。
「面白い・・・。殺してしまうには惜しい奴だ。・・・ならば、いっそうのこと。」
 羅公はにやりと笑った。
 
 と、あかねの吐息が漏れ、ゆっくりと目が開いた。
「乱馬・・・。」
 辺りを見回してそう問い掛ける。
「俺ならここに居るぜ。」
 ゆっくりと起き上がると羅公は乱馬の姿で微笑みかけた。
「乱馬・・・。」
 甘ったるい声で名前を呼ぶ。唇を彼の方へと寄せてきた。
「ダメだ・・・あかね。まだ、月が沈まねえ・・・。」
 軽くそれをいなすと、羅公はあかねを抱き上げた。それから、あかねに囁くように問い掛けた。
「月が沈めば、あかね・・・。祝言だ。」
 こくんと頷く小さな頭。
「綿津見の神に誓いを立て、それから結ばれる。いいな。」
 また頭が垂れる。
「おまえは俺に身を任せて、何人もの子を産めばいい。おまえの命が続く限り、俺は子種を与え続ける。そして・・・。再び黄幡族を興隆させて、いつかはこの世を手に入れる。ふふ・・・、早乙女乱馬。奴の身体があれば、それも可能だ・・・。」
 言っている意味を下そうともしないあかねは、虚ろげに羅公をうっとりと見詰めている。
「あかね・・・。俺は誰だ?」
 羅公はあかねの意思に問い掛けるように訊いた。
「乱馬・・・。あんたは乱馬よ。」
「そうだ・・・。いい子だ、あかね・・・。俺が早乙女乱馬だ。」
 ゆっくりと羅公はあかねに暗示をかけていった。


 そんなこととは知らぬ乱馬はひたすら闇を駆けてゆく。己とあかねを、結ぶ糸を信じてひた走りに走り続ける。不思議と疲れも恐怖も身体からは湧きあがらなかった。ただ、あかねを求めて彼は走り続けた。
 と、唐突に闇が開けた。
 霧のような黒い闇がさあっと遠のくように晴れてゆく。
「あれは・・・。」
 思わず歩みを止める。肩で息を切らしながら見上げる前方に、突如として巨大な御殿が姿を現した。中国の楼閣のような建物。柱は朱で塗り篭められて、瓦葺の屋根がずんと己を見下ろしている。いつでも入って来いと云わんばかりに、正面の扉が少し開いていた。

「へっ!勝手に上がって来いってか・・・。」

 乱馬は唾とともに言葉を吐き出す。

「いいだろう、正面切って入ってやる。羅公とやら。あかねは返して貰うぜ。」
 滴り落ちる汗を手で拭うと、乱馬はすうっと深呼吸した。己に気合を入れているのだ。
 楼閣に立ち込める禍々しい気は妖気に満ちていて、おどろおどろしく己を見下ろしている。あかねに続く絆の糸は真っ直ぐに楼閣へと伸びている。この中に彼女が捕らわれていることは明白であった。
 キッと正面を見据えると、彼は楼閣へと吸い込まれるように入って行った。

 楼閣の中はふっカビ臭い匂いがした。
 見渡すと、両壁に木像が立ち並んでいた。まるで寺の中にある、神仏の像のように、睨みつける人々。鬼のような身体つきのものもあれば、穏やかな菩薩のような女性像もある。物凄い数の木像の羅列であった。
 皆、黙して語らない。
「何だ・・・。気持ちわりいなあ。」
 うそら寒さを覚えながらも、乱馬は己を導く糸を手繰って進んでゆく。
 中央の階段に糸は続いていた。
「この上に来いってか・・・。」
 糸は煌きながら乱馬を誘う。木で作られた回廊を、一つ一つ踏みしめながら登る。全身の気を張り巡らせて、来たるべく「魔物」へと備えた。
 だが、乱馬が思っていたものとは様子が違う。どこにも気配はないのだ。黄幡族の長というくらいだ。家来や眷属がたくさん居ても良さそうなものであるが。まるで、何者も居ないように、シンとしていた。罠があるかとも思って細心の注意を払ってはみたものの、ただ、己の他に、人影はない。
 回廊を上り詰めると、広い部屋へ出た。

(誰か居る!)

 乱馬は己の気を集中させた。強大な妖気をそこに感じたからである。

「そんなに固くなるなよ・・・。」

 静かに声がした。
「誰だ?」
 乱馬は全身の気をそば立たせて身構える。
「こっちだよ・・・。」
 声の主は面白そうに、乱馬を誘う。
 乱馬は無言で構えながら、声の方へと歩み寄る。
「この扉の向こうか・・・。」
 固く閉ざされた部屋の観音扉を見上げた。
 カタンと独りでに枷が外れた。入って来いと云わんばかりにだ。
「けっ!面白れえじゃねーか。よし、入ってやる。」
 乱馬は扉に手を触れると一気に中へと開いた。

 ギギギギギィー。
 
 軋む音とともに、扉が開く。

 中から眩しいほどの光が漏れた。

「ようこそ・・・。我々の祝言の場に・・・。」
 
 向こう側の人影が、穏やかに乱馬を導き入れた。

「祝言?」
 訝しげに答えると、乱馬はきっと人影を見た。
「あ、あかね・・・。」
 思わす声に出た。
 目の前にあかねが立っている。華やかな白い装いのそれは、紛れもない、西洋風なウエディングドレス。
「あかねっ!」
 歩み寄ろうとして、何か見えない壁に阻まれた。
「おっと・・・。そう簡単に、あかねに触れさせるわけにはいかねえ・・・。」
 あかねの前にすっくと立ちはだかる男を見て、仰天した。
「おめえは・・・。」

「待ちかねたぜ・・・。乱馬。」
 そいつはにっと笑ってみせた。おさげがゆらりと揺れている。タキシードを着たそいつは、己そっくりに見繕っている。
「てめえ・・・。どういうつもりだっ!」
 乱馬の声がつんざくように叫んだ。
「あかねと祝言を挙げる。それだけだ・・・。」
「てめえ・・・。誰に断わってあかねと祝言なんぞ・・・。」
 わなわなと震える手。乱馬は己を見失いかけていた。この時点で羅公の術中にはまっていたのかもしれない。
「断りなどない・・・。これはあかねの意思だからな。な、あかねよ・・・。」
 あかねはこくんと頷いて嬉しそうに羅公を見詰める。

「あかねっ!そいつは羅公だっ!本当の俺じゃねえっ!」
 だが、あかねは答えなかった。
「ふふふ・・・。無駄だ。彼女には私しか見えていないのだからな・・・。」
 羅公は面白おかしそうにククッと笑うと、これ見よがしにあかねの身体を引き寄せた。ふわりと抱き締められるあかねの顔に笑みすら浮かんでいる。

「野郎っ!」

 次の瞬間、乱馬は羅公目掛けて飛び出していた。

「無粋な奴だ!」
 羅公は懐から玉を出した。

 怪しく玉は光を放った。

「わっ!」
 閃光が乱馬の目に突き刺さる。
「目くらましか?」
 思わず振り上げる両腕。
「遅いっ!」
 羅公が傍で囁いた。
「っと!」
 乱馬は咄嗟に羅公の攻撃から逃れた。
「ふん!ある程度は闘えるようだな。」
 羅公がにやりと笑った。
「るせえっ!」
 
 声と共に掌からドンっとはじけ飛ぶ気砲。
 羅公の傍を掠めて飛んだ。

「ひゅうっ!あぶねえっ!貴様、人間の分際で気を扱えるのか。」
 羅公は寸ででそれを交わすと乱馬に向かって吐き出した。
「ああ、気なら自由に扱えるぜ。」
 右の握り拳を前に突き出しながら返答する。ビリビリと身体から集められた気が右拳の上で音を立てている。
「ますます、気に入ったぜ・・・。」
 羅公はにんまりとほくそえんだ。
「あかねを返せっ!」
 乱馬は弄んでいた気を羅公に放つ。
 
 バアンッ!

 また弾ける爆音。
 
「させるかっ!」
 羅公は高らかに玉を持ち上げた。

「何っ?」
 乱馬の放った気を玉は簡単に吸い上げる。
「ふふ・・・。おまえの気砲のエネルギーは貰った。今度はこっちから行くぞっ!」
 羅公は振り上げた玉へ己の気を集中させ始めた。
 ビリビリと空気が歪んだ。
 と、空間が歪みだす。
「これは?」
 足元がぐらぐらと揺れ始める。と、身体の自由が利かなくなった。
「動けねえっ!」
 乱馬は腕や脚をバタバタとしてみたが、金縛りにあったようにピクリともしない。
「ふふ・・・。どうだ?我が術にはまった感想は・・・。」
「う・・くそおっ!」
 我武者羅に動こうともがいたが敵わない。
「動けなければ反撃もできまい・・・。」
 すうっと羅公が傍に歩いてきた。そして、ピタリと乱馬の傍に立つ。
「潔く負けを認めたらどうだ?」
 羅公は乱馬の咽喉元へ手をあてがった。それから、ふうっと息を吐きつける。黄色い気体が乱馬の周りを取り囲んだ。
「ほうら・・・。身体が痺れてきたろう?これは毒気だ。私の体内に潜むな・・・。」
 足元ががくがくと揺らぎだす。意識がぼうっとしてきた。目の前の世界は揺らぎ始め、奈落の底へ落ちるような感覚を身体が覚えた。
 周りが暗転して、意識が幻覚へと溶け始める。無味乾燥の何もない闇が乱馬の身体を包み始める。



三、

『どうだ?乱馬・・・。その身体、意識ごとワシを受け入れてはみぬか?』
 はるか頭上で聞きなれぬ男の声が響いてきた。己に変身していた羅公の本当の声らしい。少し年寄りじみた皺枯れた声だ。
「嫌だっ!」
 当然の如く抵抗を試みる。
『何故だ?得な話だと思うがな・・・。』
 ゆっくりと相手は乱馬を畳み掛ける。
「何が得なもんかっ!」
『おまえの身体に意識ごとワシが憑依すれば、おまえの意のままに世界は動くぞ・・・。』
「意のままにだと・・・。」
『そうだ・・・。ワシと迎合して魔力を受け入れれば、自在に世界を操る力を手に入れられるぞ。そして、そこに伏すあかねと結ばれて子孫を残すのだ。たくさんな・・・。おまえの熱き血とワシの血と・・・。あかねにたっぷりと注ぎいれて、何人も子孫を残すのだ・・・。そして、ワシをこんな綿津見へと押し込めた人間どもに復讐をする。そうだ、人間の王になればよい。』
「そ、そんなこと・・・。」
『思ってはいないとでもいうのか?人間どもの頂点に立つのじゃぞ・・・。おまえは世界一強い男になりたいのだろう?』
 ゆっくりと暗示をかけるように羅公は乱馬の脳内に声を響かせてゆく。
「世界一強い男・・・。」
『そうだ・・・。素直になればよい。おぬしの愛しきあかねも手に入る・・・。あかねはおまえを愛しておるからのう・・・。』
 傍らに世界が開け、あかねがこちらを向いて微笑んでいるのが見えた。
「あかね・・・。」
『そうだ・・・。ワシの魔力を受け入れて、あかねを抱け。悪い話ではないと思うがな・・・。』
「い、嫌だ・・・。」
『ほお・・・。まだ抵抗するだけの意識が残っているのか?よく聴け、ワシを受け入れれば、おまえの呪いも解けるのだぞ・・・。』
「呪いが解ける?」
『そうじゃ、おまえは呪泉の呪いに侵されているだろう・・・。水を被ると女に変化するじゃろう・・・。そんな半分女を引き摺る中途半端な人間が、彼女を求めて良いものかのう・・・。』
「中途半端・・・。」
『そうだ・・・。ワシの魔力を受け入れれば、呪泉の呪いの力を抑えることもできるぞ・・・。もう、水が掛かっても女にはならん。完全な男の身体へと立ち戻れるのじゃ・・・。完全な男して彼女を抱くこともできるぞ・・・。彼女のために男に戻るのがおぬしの悲願なのじゃろう?』
「悲願・・・。そうだ・・・。完全な男になって・・・。」
『そう、素直になればよい・・・。ワシの魂を受け入れろ・・・。なあに、簡単なことじゃ。』

 目の前がぽおっと明るくなった。

『その玉に触れよ。そして、全てをワシの意識の中へ預けるのじゃ。心配することはないぞ。痛くも痒くもない。いや、むしろ、快楽の園へとおまえを導いてくれる、ありがたい玉だ・・・。さあ、迷うことはない、ワシと同化するがよい・・・。』
 玉が怪しく揺らめいた。
 おいでおいでをするように、光が乱馬の目の前で点灯し始める。
『さあ、おいで、乱馬よ。ワシと共に快楽を漂いながら、世界をその手に・・・。』
 乱馬は右手を差し出す。魅入られるように、玉へ向かって。

 彼が玉に触れようとしたその瞬間だった。

『乱馬・・・惑ワサレナイデ、真実ダケヲ見詰メテ・・・。』

 耳の奥で声がした。
「真実・・・。」
 その声に乱馬ははっと我に返った。

『誰だっ?邪魔する奴は?』
 羅公の声が響いた。
 乱馬の懐から淡いピンクと水色の光が交互に光り始める。
「魔石・・・?」 
 ふっとそれを掌に乗せた。

 ぱあっと世界が開けた。
 元居た、羅公の楼閣。その部屋の中へと立ち戻る。

「ちっ!玉の魔力が解けたかっ!」
 いまいましそうに羅公が吐き出す。

「危ねえところだったぜ・・・。つい、己を見失うところだった・・・。」
 乱馬は魔石を握り締めながら答えた。
(この魔石が俺を目覚めさせてくれたんだ。)
 
「そのまま、俺に意識ごと憑依されれば苦しまずにすんだものを・・・。バカな奴だな・・・。」

「ああ、バカかもしれねえ・・・。」

 ビリビリと二人の乱馬が対峙する。

「容赦はしないぜ・・・。」
「それはこっちの台詞でえーっ!!」

 二つの塊が弾け飛ぶ。
 力は互角。
 まるで己の幻と闘っているようなそんな錯覚を覚える。繰り出される技もその切れも、ほとんど同じだ。
「ふふ・・・。己の幻影と闘っている気分はどうだ?」
「畜生・・・。コピーの分際で。」
 乱馬は拳を握り締めると、火中天津甘栗拳を繰り出そうと身構えた。
「ただのコピーとは違うぞ・・・。おまえの必殺技も使える。それ・・・。火中天津甘栗拳っ!」
 たたたたたーっと流れるような拳。
「くっ!」
 乱馬は必死で避けた。だが、面白いほど避けた方向へと羅公は拳を打ち込んでくる。
「こいつ・・・もしかして・・・。」

「ああ、おまえの考えなど、お見通しだ・・・。」

 ふんっと鼻先で笑う。
「やっぱり、俺の考えが読めるって言う訳か。」
 今の拳で右頬が切れた。血が頬を熱く滴り落ちる。
「まだ、遅くはない・・・。どうだ?俺と手を組まんか?」
「へっ!嫌なこった。」
 乱馬は唾を飛ばした。
「強情な奴よ・・・。ならば、これでどうだ?」
 羅公は玉を翳した。

「な・・・?」

 蒼白い光が部屋中を照らしつける。
 途端、あかねがふわっと起き上がった。
「あかね、奴を攻撃しろっ!」
 羅公の声に反応するように、あかねは乱馬を打ち始めた。
「ふふ、おまえはあかねを打てまい。可愛い許婚だからな・・・。」
 にんまりと羅公は笑った。

「畜生っ!どこまでも汚ねえ野郎だぜ!!」
 あかねは目の前の男が乱馬ということに気がついていないようだ。きっと、羅公の術で、別の人間にでも見えているのだろう。
「乱馬とあたしの仲を裂く禍、許さない。」
 などと息巻いている。
「暫く見物させてもらおうか・・・。あかね、頑張れよ。」
「任せてっ!」

 花嫁衣裳をまくしあげると、あかねはだっと身構えた。
 
(どうする・・・。)
 乱馬はじりじりと壁際に追い遣られていった。



つづく



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