第五話 あかね危機一髪

一、

 ひたっ、ひたっとしたたる水滴の音であかねは意識を取り戻した。
「ここは?」
 柔らかな物が肌の下に触れた。
「あたし・・・。」

 と、奥から人の気配がした。

「誰?」
 
 はっとしてそちらを向いた。
「ふふ・・・。蓮華さま、黄幡の砦へようこそ。」
 のそっと現れたのは、白い髭を貯えた爺さんだった。手には燭台を持っている。
「あなたは?」
「蓮華さまの婿御にございまする。」
 あかねはギョッとして見返した。
「婿って・・・。」
 そうだ。蓮華に仕立てられてここへ連れてこられた。全ての記憶が蘇る。
「御生憎さま、あたしは蓮華じゃないわ。」
「口から出任せを言っても始まりませぬぞ。」
 爺さんはギロッと目を向けた。
「あたしは、あかね。天道あかね。それが証拠に、中国語なんてこれっぽっちも話せないんだから。」
「どういうことじゃ?」
 みるみる爺さんの形相が変わる。そして、ぐっとあかねのアゴを掴むと、己の方に手向けた。口元に手が伸びたので、あかねは言葉を発することができない。
「どうら・・・。」
 爺さんはあかねの額に手を当てた。
 それから目を静かに閉じる。傍らで掌ほどの玉が妖しく緑色に光っている。
 沈黙が暫く二人の上を流れた。

「そういうことか・・・。升麻族のおばばめ。ワシを誑かしおったか。」
 ふっと息を吐く。どうやら、あかねの脳裏を読んで、一部始終を飲み込んだ様子だった。
「わかったなら、あたしを、元の世界に帰しなさいよ。」
 あかねはきっと彼を見据えた。
「ふふふ・・ふあーふぁふぁ。」
 急に爺さんが笑い出した。
「何よ・・・。」
 ギョッとして見返すと
「まあよい・・・。相手がどんな女御であろうとも、ワシは子孫を残せたら良い訳じゃからな・・・。」
 とじろりとあかねを見据えた。鳥肌が立つのを覚え、思わず後ずさる。
「じ、冗談じゃないわっ!あんたとなんか・・・。」
 じいさんはずいっとあかねににじり寄った。そして再び、あかねのアゴをくわっと掴む。
「ほお・・・。こんな爺さんとは結ばれたくないというのか?」
「あ、当たり前でしょっ!」
 あかねは険しい目を向けた。
「ワシはおまえで良いと思っておるがの・・・。あかねとやら。」
 名前を言った気はないのに、爺さんはそう付け加えた。
「イヤッ!近寄らないでっ!舌を噛み切るわよ。」
 あかねは果敢にも畳み掛ける。
「おうおう・・・。その気の強さ。おまえなら、今度こそ、ワシの毒気にも耐えられるかもしれぬな。ますます気に入ったぞ。」
 冷や汗があかねの額に流れ落ちた。
(乱馬・・・。) 
 そう念じた。
「ほお・・・。乱馬・・・。そやつがおまえの愛人か。」
 にやっと爺さんが笑いかけた。
(こいつ、考えが読めるの?)
 あかねは爺さんを見返した。
「読めるぞ・・・。ふふ、考えておることは手に取る様にな。この玉を通して。」
 爺さんは掌ほどの玉を透かして見せた。
 あかねは身体中に力を入れた。なんとかして逃れようと彼女なりに必死だったのである。
「そう固くなるな・・・。何もすぐに交わろうなどと無粋なことは言わぬ。十三夜月が沈まぬと、ワシの毒気は体から抜け切らんでな。だが・・・。」
 爺さんはにやりといやらしい笑みを浮かべた。
「おまえを虜にだけはしておいた方が良かろう。おまえとて、愛する人から引き離されて、ワシの嫁になるのも嫌じゃろうて・・・。」
 パンっと爺さんは手を叩いた。
 それから、さっきの玉をやおら取り出すと、うやうやしく上に手翳した。
 さあっと蒼い光が天上から満ちてくる。
「十三夜の月明かりよ・・・。魔力をワシに。こやつの思い人へと転化させておくれ。」
 そう言うと、何やら怪しげな呪文をブツブツと唱え始めた。
「え・・?」
 あかねの目の前に、発光が注いだ。と、途端、爺さんの姿が乱馬に変化したではないか。
「こやつの身体となら、交わっても良かろう?これもワシの愛情と思えば・・・。」
 乱馬の声が咽喉元から響いてくる。
「何を馬鹿なことをっ!たとえ乱馬に化けたところで、あんたは・・・。羅公でしょ?」
「贅沢な奴だぜ・・・。ったく。」
 口調まで乱馬になる。
「何とでも言いなさいっ!」
 睨み据えるあかねに、乱馬に化けた羅公は、さっきの玉を取り出して見せた。
「これを見てもそう言えるか?あかね・・・。」

 怪しい緑色の光が玉からあかねに突き刺さるように輝いた。
「そら、時めきの光だぜ・・・。あかね・・・。」
 あかねはぎゅっと目を瞑ろうとした。だが、緑色の光は既にあかねを捕えていた。
「無駄だぜ・・・。この光を見ちまったんだから・・あかね・・・。」
「ら・・・ん・・・ま・・・。」
 あかねの口が少し開いて彼の名前を呼び始めた。
「そうだ。俺は早乙女乱馬だ。おめえの許婚のな・・・。」
 乱馬に化けた羅公の目も同じように緑色に光り始めた。
「乱馬・・・。あなたは、あたしの許婚の・・・。」
「そうだ・・・。あかね。」
「乱馬・・・。」
 あかねの目も同調するように緑色に光り始めた。
「いい子だ・・・。あかね。それでいい。他のことは忘れて、おめえの愛情を俺だけに注げば、おめえは幸せになれる。永遠に夢の中に意識を塗りこめてしまえ・・・。」
 うっとりとした目をあかねは乱馬に手向けると、彼の腕の中に身を沈めた。
「ふふ・・・。月が西に沈んでしまうまで、暫くまどろんでいればいいさ。月が沈めば、祝言だ。あかね・・・。その時はたっぷりと。まだ毒気が強すぎて、おまえの唇にも触れることはでねえけどな・・・。」
 寝入ってしまったあかねをそっと柔らかいベットに寝かせると、偽乱馬、もとい、羅公はにんまりと笑っていた。
「朝まで寝顔を眺めさせてもらうぜ・・・。可愛いあかね・・・。」
 ちろっと舌なめずりをすると、羅公は満足げに微笑みを浮かべた。



二、

 遠くで汽笛の音がする。
 微かに響くのは波の音。
 つんと鼻に突くのは磯の香り。

「う・・・。」
 乱馬はふと意識を取り戻した。いったいどのくらい意識を失っていたのだろう。
「ここは・・・。」
 薄らぼんやりとした記憶を手繰り寄せながら、己が置かれた状況を判断しようと、五感が働き始める。まずは途切れた記憶を辿る。 
 そう。蓮華をさらいに来た、羅公と対峙するために、砂浜で戦おうとしていた。その時、コロンの婆さんに不意を突かれたのだ。
 己がばあさんたちの姦計にはめられたことを急激に思い出す。
「あかねっ!」
 さらわれた許婚のことを思い出して、思わず身体を動かそうとした。
 だが、身体の自由が利かないことを知る。よく見ると、壁からつら下がる鎖に両手首がそれぞれ固定されてある。ジャリっと金属の音が弾けた。
 渾身に力を入れてみたが、虚しく音がするだけ。そう、己は捕縛されてしまっていた。
 それでも何度か鎖から逃れようと、力を入れてみたが、固く壁に固定された鎖はびくりともしない。

「無駄ね・・・。どんなに力入れても、今の乱馬、ここからは出られない。」

 聞き慣れた甲高い声が響いた。

「シャンプー・・・。」

 乱馬はその声の主をじっと見据えた。
「何の真似だ?」
 低い声で唸った。
「知れたこと。乱馬逃げ出せないように監禁している。」
 にやっと笑居ながら、シャンプーは乱馬の傍に近寄ってきた。
「おめえも、グルだったのか?」
 多分。物凄い形相で睨みつけていたのだろう。
「俺を解放しろ、シャンプー。」
 低い声で迫った。
 ふふんとシャンプーは鼻先で笑った。
「それはできない。」
 静かに言い渡した。
「何故だ?婆さんに言われたからか。」
 シャンプーは一呼吸置いて乱馬に話し始めた。
「今乱馬離すと、あかね助けに行くつもり、違うか?」
「あたりめえだ。」
「だから、解放できない。」
「何故だ?」
「知れたこと。乱馬、私と結婚するため。」
 重い空気が二人の上を流れてゆく。
「そのためにまず、邪魔者消さねばならない。」
「それであかねを羅公にさらわせたのかか・・・。蓮華の身代わりに。」
 こくんとシャンプーは頷いた。
「言っとくがな、俺はどんなことになろうとも、おまえと結婚する気はねえぜ。それだけははっきり言っておいてやる・・・。」
 シャンプーは余裕の表情を浮かべて乱馬を見下ろした。
「大丈夫・・・。乱馬、あかねのこと、きれいさっぱり忘れて、私だけ愛すようになるね・・・。」
「どういうことだ?」
 自信に満ちたシャンプーの言葉に乱馬は思わずきびすを返していた。
「ここ、海の端の秘密の洞窟。誰も来ない。見るあるね。あそこの小窓。」
 シャンプーは正面に見開いた岩の裂け目を利用した鉄格子を指差す。
「あれが何だ?」
「あっちの方角、東ある。そう、太陽が昇る方向。」
 シャンプーの言わんとしていることがイマイチ要領を得ずに、乱馬はじっと見返した。
「今はまだ夜の闇に包まれている。でも、十三夜の月が沈んで、朝日が昇ると、乱馬、あかねのことすっかり忘れて私に恋するある。」
「けっ!どうやって俺の心を操るんってんだ?」
「ふふ・・・。乱馬、そうなるように、暗示掛けられている。」
 何っというような顔をシャンプーに手向けた。
「俺は暗示なんか掛けられた覚えねえぞ・・・。」
「花梨婆さん言ってた。夕刻、乱馬に強い暗示かけたと。朝日がここを照らした時、最初に見た乙女に乱馬、恋する。何もかも忘れて、乙女の身体、抱くように暗示かけられたね。」
「な・・・?」
 思い当たる節があった。夕刻、トイレに立ったあの時。一瞬、記憶が白んだような気がした。確かに花梨に出くわしたような・・・。そんな微かな記憶が過(よ)ぎった。
「乱馬、朝日が昇るまで、ここでそうやって捕らわれの身。朝日が昇れば、乱馬、ここで最初に私のこと見る。乱馬が最初に見る乙女はこの私。そして、後は、ここで、私の身体抱く・・・。何もかも忘れて、乱馬、私に永遠に恋する。」
「おめえ、自分が言ってることの意味わかってんのか?暗示でおめえに恋したところで、それは俺の真意じゃねえんだぜ。」
「わかってる。私、乱馬が手に入るなら、どんな状況でもいい。たとえそれが暗示でも、乱馬、私を抱けば、それが真理になる。乱馬、私の愛人。夜が明けるの楽しみね・・・。あ、あかねも同じ頃、羅公に抱かれるね。あかねもう二度と戻らない。乱馬、あかねとは結ばれる運命なかったと諦めるね。」
 何て奴だと呆れた表情を乱馬はシャンプーに手向けたが、彼女は動じない。それよりも、乱馬が己に恋するように暗示を掛けられたことを喜んでいるように見えた。
(畜生っ!何としてでも、ここを抜け出してあかねを助けに行かねえと・・・。)
 力をこめて縛られている鎖を引っ張ってみるがびくともしない。

「あ、言っておくけど乱馬。その鎖の先、升麻族の魔石、組み込まれてあるね。」
 シャンプーが振り向きざまに言った。
「魔石?」
「何でも、繋がれた人の力、吸い取ってしまう力ある魔石だそうね。曾ばあちゃん言ってた。だから、ここから抜け出す、絶対無理ね。乱馬、私と結婚する。これしかない・・・。朝来るの楽しみね。私、一眠りするある。乱馬も休むよろし。」
 シャンプーはあくびを一つして伸び上がると、隣の部屋へ行ってしまった。

「くそ・・・。」
 何度も力を入れたり、気をぶつけてみたが、確かに、手かせの何処かに力が吸収されてゆくようだ。思ったほどの手ごたえが返って来ない。
「あかね・・・。」
 海の音を聞きながら、乱馬は失われた半身を求めて、足掻き続けた。喩え、身体がボロボロになっても、ここから抜けてやると、気概を篭めて。



三、

「おばばさま、言われたものを揃えてまいりました。」
 浜辺の旅館に、紫苑が息を切らせて駆け込んで来た。
「おお、紫苑か。思ったより早かったのう・・・。」
 蓮華の蒲団の袂に座っていた花梨が、じろっと紫苑を見返した。
「勿論、蓮華さまの一大事とあっては・・・。それに、ここ、日本、夜遅くまで灯火点って開いている店、あちこちにあった。これ、便利。」
 紫苑はそう言うと、両手に抱え込んできたポリ袋を花梨に差し出した。
「さあ、一刻も早く、蓮華さまに気付け薬を煎じて欲しいね・・・。ばばさま。」
 だが、促されても、花梨は腰を上げようとしなかった。それどころか
「今日はもう、夜も更けた。明日の朝、仕込んでやるで。」
 と心外なことを言う。いつもであれば、花梨は、二つ返事で蓮華さまのために働くのにである。
 紫苑は不思議そうに花梨を見詰めた。
「何だか疲れてしまってのう・・・。悪いが先に休ませて貰って、明日朝一番で煎じてやろうぞ・・・。」
 あふあふと花梨は大あくびしてみせた。
「まって、花梨さま。なら、私が煎じる。だから、煎じ方、教えて欲しいね・・・。」
 花梨は眠そうな目を紫苑へ向けた。彼女の動きが一瞬止まる。
「しょうがない奴じゃのう・・。言い出したら聞かぬか。まあ、いいだろう。おぬしに出来るとも思えぬが・・・。ここに煎じ方が書いてある。この通り順に鍋で煎じてゆけば良いじゃろう。だが、おまえさんの腕で、きちんと煎じ薬を作れるかどうかはわからぬぞ・・・。まあ、失敗したときは、ワシが明日にでも作り変えてやるがのう・・・。ほっほっほ。」
 これ以上、拒否をして、下手に紫苑に勘ぐられると不味い。そういう牽制が花梨に働いたようだ。
 紫苑は腑に落ちなさを感じながらも、花梨かた気付け薬の煎じ方を書いた紙を持つと、材料を持って、旅館の厨房を借りにいそいそと外へ出て行った。

「良いのか?花梨ちゃんよ。紫苑が薬を作り出して・・・。」
 コロンが心配げに花梨を見た。
「なあに・・・。何もわからぬよ。蓮華さまはずっと眠ったままでおられるし、気付け薬で起き上がられたとしても、何も覚えてはおられぬ。ワシの暗示は完璧じゃからな。・・・。それより、おまえのところの婿殿はどうじゃ?」
「さっき、覗いたところ、抵抗できずに悔しそうにしておったわい。でも、それも夜明けまでのことじゃ。ほーっほっほ。」
「そうじゃな。夜が明けて太陽が昇れば、おまえの曾孫に一目惚れ・・・という寸法かのう。どら、そろそろワシらも休むとしようか。明日は夜明け前には起き出さねばならぬでな。紫苑と蓮華さまも、目出度く祝言を挙げていただけるというダブルお目出度な日じゃからなあ。」
「そうじゃな。夜更かしは肌に悪いと相場が決まっておるでな。」
 婆さんたち二人は顔を見合わせて笑った。

 一方、紫苑は、旅館の厨房を借りて、古今奮闘していた。
 ぐらぐらと煮え立つ湯の中に、指定された材料を順番に入れてゆく。店で手に入れた市販薬は勿論、路傍に咲く花や怪しげな生き物の死骸などが、次々に放り込まれてゆく。
 小一時間も煮詰めたろうか。
「できたっ!」
 散々に煮詰められてどろどろになったどす黒い煎じ薬。異様な匂いが鼻にツンと突く。
 紫苑は、一目散に階段を駆け上がって、蓮華の前に立った。

「さて・・・。どうしたものか・・・。」
 暫し、蓮華の寝顔を見ながら思案に暮れる。
 薬は出来た。多分、思い通りの効果が出る筈だ。だが、問題は、これをどうやって蓮華に飲ませるかだ。
 現在蓮華は蒲団の上に横たわっている。息は乱れることなく続いているが、こちらの言うことに反応はしない。気を失っているのだから当然である。そんな彼女に薬を飲ませる手立てはあるのだろか。
 いや、一つだけ思い当たったことがある。
 「口移し」だ。
 己の口に薬を含み、蓮華に直接飲ませる。
 気を失っている彼女にそんなことをするのは、流石に気が引けた。
(この場合、やっぱり慎むべきか。)
 生真面目な紫苑は、嫁入りが決まっている蓮華に口移しで薬を飲ませることは、元許婚とはいえ、不埒な行為に思えてならなかった。
 蓮華の福与かな唇が、薄く開いている。
 ブンブンと首を何度か横へと振るわせた。
(だが待てよ・・・。)
 紫苑は更に考えを巡らせて行く。
(花梨婆さんが仮にこの場にいたとすると・・・。気付け薬は誰が飲ませるんだ?」
 あらぬ方向へと思考が向かい始める。
(花梨ばばさま・・・。そんなことするだろうか・・・。コロン婆さま。この人も却下だろうな・・・。)
 考えるだけで身の毛が弥立った。
(あかねさん・・・。)
 いくら何でもそこまでは頼めないな。
(なら、乱馬さん。)
 大きくまたブンブンと首を振る。
(じ、冗談じゃない!何てこと考えてるんだ!想像するだけでもおぞましいじゃないかっ!)
 じっと湯飲み茶碗に注がれた液体を見詰める。黒っぽい液に己の顔が照らし出される。
(やっぱり、私が飲ませるしかない・・・か。)
 心臓が跳ね上がる。いくら、従者とはいえ、本当は心から愛している蓮華なのだ。それに紫苑は真面目すぎた。
(どっちにしても、私が飲ませるしかないか・・・。)
 紆余曲折の末、紫苑は結論を導き出す。その時、月がふっと隠れたようで、さあっと月明かりが暗くなる。
(ええい、ままよ。どの道、誰かが飲まさなければならぬものなら・・・。)
 紫苑はぐいっと湯のみから気付け薬を吸い上げた。なんとも云えない妙薬の味が広がる。
(蓮華、ごめん・・・。)
 その時、紫苑は、蓮華のことを呼び捨てていた。何故、そう思ったのかわからないが、従者としての意識を一瞬弾き飛ばしていたのである。

 そっと蓮華の唇へと触れた。その勢いで軽く開いた唇へと、無我夢中で己の口を押し当てて、中からどろっとした液体を蓮華へと注ぎ入れる。
 蓮華の吐息がすぐ傍で艶かしく漏れたような気がした。
 慌てて紫苑は、繋がっていた唇を離した。

「う・・・ん・・・。」

 ややあって、蓮華が放された口を開いた。
(目覚めるっ!)
 紫苑がそう思ったとき、蓮華の目はゆっくりと天井を見詰めながら開いていった。

「紫苑・・・。」
 蓮華は傍に居る青年に言葉を掛けた。紫苑はただ、真っ赤になって俯いている。この辺り、乱馬と同じくらい奥手で恥かしがり屋なのだ。
「ありがとう・・・紫苑。」
 蓮華はにっこりと微笑を向けた。最高の笑顔だ。
 一瞬和んだ末に、蓮華は今度は真剣な表情へと趣を変えた。
「それより、紫苑、あかねさんたちは?」
 紫苑は初めてはっとした。
「あれ・・・?そう言えば、乱馬もあかねも居ないあるな・・・。」
「やっぱり・・・。」
 意外な言葉が蓮華から漏れた。
「どうかしたあるか?」
 蓮華の様子がおかしいので、思わず声を上げる紫苑。
「待って・・・私が感じたことが真実かどうか、風に聞いてみるから。」
 蓮華は耳元にある、赤いイヤリングへそっと手を触れる。この升麻族に古来から伝わる石の力を借りて、己の持っている自然聴講力を増大させたのである。
 みるみる蓮華の表情が険しくなった。

「紫苑、これから私言うこと良く聞くね。あかねさんと乱馬、窮地に立たされてる。」
「え?」
 紫苑は何を言い出すかという表情を蓮華に向けた。
「これ、海吹いてくる風に訊いたこと。嘘じゃない。あかね、私の代わりに羅公にさらわれた。それから、乱馬、ここから少し離れたところにある、岩場に捕らわれている。」
 紫苑は半信半疑ではあったが、蓮華の言うことを信じようと思った。何故なら、彼女は「風を感じる能力」を持ち合わせていることを知っていたからだ。ほんの僅かな風の変化を嗅ぎ取る。そんな能力を彼女はその愛らしい身体に秘めていた。
「な、何のために?あかねさんを羅公へ・・そして、乱馬さんを捕えている?」
 紫苑の表情も険しくなった。
「これ、花梨の姦計らしい・・・。」
「おばばさまの?」
 こくんと蓮華は頷いた。
「私を羅公から守るため、取った措置だろうけれどね・・・。」
「じゃあ、乱馬さんは?何で捕らわれる必要がある?」
「これ以上は自分で確かめるよろしと風が凪いだね。何か邪悪な強大な力が、この暗黒の海の傍にあるね。」
「強大な力?」
「羅公、この近くに潜んでいる。あかねと共に。」
「やっぱり、この場合、我々は・・・。」
「勿論、二人助ける!」
「でも、蓮華・・・さま。」
「紫苑、何躊躇っている?私が危険に巻き込まれること心配しているか?」
 蓮華はじっと紫苑を見据えた。紫苑は言葉なく一度だけ頷いた。
「なら、その心配、撤回するよろし。升麻族、誇り高き情の厚い一族。友人の危機、これ、放置することできない。違うか?」
 蓮華の目は厳しかった。
「それに、私、羅公に嫁ぐ意志はない。それをきちんと言うつもりだった・・・。あかねが私の身代わりになる必要も、勿論ない。あかね、乱馬が好き。そして、多分、乱馬も。」

「わかりました。私もお供いたしましょう。」

 静かに紫苑が言い放った。穏やかな響きであったが、凛とした決意が声色の中に塗り篭められている。
「手伝ってくれるか。紫苑。」
 蓮華は嬉しそうに答えた。
「蓮華さまと私は一蓮托生。」
 そう言ってにっと笑った。
「ならまず、私の作戦、聞くよろし。」
 蓮華はこそっと紫苑に己の考えていることを耳打ちした。
「な・・・?そんなこと・・・。」
「いいえ、紫苑。このくらいやらねば、この窮地、脱出できない。相手、一筋縄ではいかない。花梨婆さんとコロン婆さん。曲者。」
「だからと言って・・・。」
「躊躇している暇はない。紫苑。」
 蓮華の真摯な瞳に、紫苑は折れた。

「あかね、待ってて。乱馬助けて、きっと救い出すね。この、命を賭しても。」

 蓮華は夜の海に向かってそう呟いていた。


つづく



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