第三話 あかねパニック

一、

 昼休みの校庭は平和だった。
 そこここで運動部の連中が練習の声を上げているかと思えば、部活をしていない男子たちはサッカーや野球に独自に昂じている。また別の場所では、穏やかな秋の木漏れ日の中、お喋りに熱中する女生徒たち。
 それぞれの青春の風景が広がっている。
 教室に居るのが勿体無くて、あかねは蓮華と連れ立って校庭へと出た。
 まだ、色付くには少し早い銀杏が校舎の脇にさわさわと葉を風に靡かせている。
 先程教室の窓辺でふと吐いた蓮華の言葉があかねは少し引っ掛かっていた。
「ねえ、さっき、風がどうとか言ってたけど・・・。」
 歩きながらあかねは蓮華を見た。
「ああ、あれ。風がざわついていたの。」
「風がざわつく?」
「私、時々、五感で普通の人間わからないもの感じること、できる。あのとき、風が何かを囁こうとしていた。それ、感じただけ。」
「へえ・・・。蓮華ちゃんって霊感か何かあるんだ。」
「霊感とかそんなものじゃない。升麻族、中国奥地の自然の中に有る一族。だから、自然と仲良し。風はいろんなこと教えてくれる。例えば、嵐や地震のこと。」
「なるほど。自然の中で育っているうちに、風と仲良くなったのね。」
「そういうこと。」
「で、風は何て言ってたの?」
 気になるところだった。
「わからない。ただ、何か警告してきた。でも、今は風止んでいる。警告も今はない。多分、私の勘違い。きっと、日本来ていろいろあって、感覚鈍ってるか疲れてる・・・。日本、せわしない国。人も多い。」
 あかねにはなんとなく蓮華の言おうとしていることがわかるような気がした。大自然の中に悠々と育った蓮華にとっては、東京のような大都会は肌に馴染まないのかもしれない。吹き抜ける風も中国の大地とは根本的に違うだろう。どんよりとした青空が端的にそれを物語っている。

 と、蓮華は校舎の片隅でふと足を止めた。
「ねえ、あかね、あの水溜り何ね・・・。」
 金網越しに指差したのは、プールだった。
「あれ、プールよ。」
「プール?池のことか?」
「ううん、日本の学校ではね、体育の授業で夏になると皆で泳ぐのよ。そのための施設とでも言うのかな。」
「ふうん・・・。皆で泳ぐのか。」
「蓮華ちゃんたちの所じゃあ、きっと、天然の池や川で泳ぐんでしょう?」
「まあね・・・。」
 蓮華の顔が少し強張った。
「今は涼しい季節になったから、もう水泳部だって泳いじゃあいないけれどね・・・。」
「でも水張ってあるのか・・。」
「ええ、年がら年中、水があるわ。」
 誰も居ないプールサイドはシンとしている。だが、水面が太陽の光に照らされて輝いていた。
 プールはオールシーズン、水が張ってある。というのも、水を抜くと、プールの底は浮き上がるという。水が張った状態で平で安定するようにできているものなのだそうだ。下手に水を抜こうものなら、プールとしての機能は働かなくらしい。そんなことを物理の先生に聴いたことがあるあかねだった。

「ちょっと見学していってもいいか?」
 蓮華はあかねに言った。
 プールなど珍しくもなんともないものだと思ったが、蓮華には極めて面白く映ったのかもしれない。
「いいんじゃないかな・・・。」
 とあかねは気安く応じてしまった。
 金網の扉は錠前が掛かっておらず、容易に開けられた。今はシャワーも更衣室も閉ざされたままだ。
「ここで水着に着替えてシャワーを浴びてそれから水へ入るのよ。」
「水着?」
「ええ、泳ぐための衣装ってとこね。」
 水は思ったより綺麗に見えた。まだ水苔も生えておらず、見た目には透明な水がゆらゆらと揺れている。

 風が吹いてきて、ざわざわと二人の上を通り抜けた。
 ヒョーオッっと一瞬、風が唸り声を上げたように感じた。

 と、まるでそれを合図にしたかのように、蓮華が水際へと静かに歩き始めた。

「蓮華ちゃん?」
 あかねはふっと呼び止めた。
 だが、蓮華は無言のまま歩んでゆく。

 何かに魅入られるように、蓮華は焦点定まらぬ目をしている。あかねはギョッとして更に強く呼び止めた。
「蓮華ちゃんっ!!」

 ドッボンッ!
 水柱が上がる。
 次の瞬間、蓮華はプールの水の中へと身を投じていた。
 それだけではない。蓮華は泳ごうとせず、ぶくぶくと水の中へと沈んでゆくではないか。

 あかねは慌てた。
 一緒に飛び込んで蓮華を助けようとした。
 だが、水際で足がすくんだ。そう、あかねは泳げない。己が飛び込んだところで蓮華を助けられる訳はない。
 あかねは出来うる限りの大声を上げた。

「誰かーっ!誰か来てーっ!!」

「どうしたっ?」
 背後で乱馬の声がした。
「早くっ!蓮華ちゃんを引き上げてっ!沈んじゃう。」
「な、何だって?」
 だっと金網を飛越えると、乱馬はプールサイドへ向かってひた走った。
 あかねに促されプールを見ると、確かに、少女が水の中に揺らめいていた。
「蓮華さまーっ!!」
 乱馬に続いて紫苑も走り込んで来た。
「は、早くーっ!乱馬ーっ!紫苑くんっ!!」
 悲鳴にも似たあかねの怒声がプールサイド一杯に響いてくる。
 
 ドボン、ドボンッと二つの水柱が同時に上がった。
 そう。乱馬と紫苑が水へと飛び込んだのだ。
「お、おい・・・。て、てめえ・・・。」
 先に飛び込んだ乱馬が水の中でぎょっとした。そして驚きの声を上げた。みるみる紫苑の身体が縮んでいったからである。
「おめえ、まさか・・・。」
 女に変化した乱馬。彼が変化するのは呪泉の呪いのせいだ。そして。今、また紫苑も変身を遂げた。思いも寄らぬ姿にだ。
「蓮華さまーっ!!」 
 乱馬の声を諸共にせず、紫苑は懸命に水底で見え隠れしている蓮華をがばっと引き上げて抱え込む。「しっかり、お気を確かにっ、蓮華さまっ!!乱馬さん、手伝ってっ!早くっ!」
「お、おう・・・。」
 今は躊躇している暇はない。紫苑の変化を咎めるより、目の前に沈んだ少女を引き上げることが先決だ。
 無我夢中だった。ぐったりとして、気を失っている、あかねに変化した蓮華を、二人がかりでプールサイドへと引き上げた。

 幸い、蓮華はそう水を飲んだ風もなく、息も脈拍もしっかりしていた。ホッと胸を撫で下ろす彼らに、急場を駆けつけたひなちゃん先生は驚きの声を上げた。
「天道さん?ええ?何故、そんなにたくさん、天道さんが・・・?」
 そう言うなり絶句する。
 蓮華が水であかねに変化していた。それは乱馬もあかねも合点していたことだ。だがしかし、目の前には信じられない事実があった。そう、もう一人、あかねが水を滴らせてそこへ佇んでいたからだ。

「紫苑、おめえ・・・。おめえも、茜溺泉に溺れたのか?」
 乱馬はようやく、重い口を開いた。
 紫苑はこくんと頷いた。
「何故?あなたまで・・・。」
 あかねも驚愕を隠せなかった。
「蓮華さま、茜溺泉に身を投げた。」
「!!」
 二人は思わず紫苑を見返した。
「呪泉郷に来たとき、蓮華さま、死ぬつもりだったらしい・・・。蓮華さま泳げない。水、幼い頃から怖がっておられた。だから、泉がたくさんある呪泉郷、死地に選んだらしい・・・。」
「何だって?」
 乱馬が険しい目を向けた。
「何で蓮華ちゃんが死を選ぶ必要があるって言うの?」
 あかねも驚いて紫苑を見詰めた。あかねと同じ顔をしている、紫苑。
「蓮華さま、婚礼を嫌がっておられる。黄幡族の羅公さまに輿入れされるのを、心底。それから、逃れるには、死ぬしかない。そう思いつめておられた。」
 紫苑はぎゅっと手を握り締めた。
「それで、茜溺泉へ身を投じたんだな。」
 乱馬は確認するように言った。
 こくんと頷く紫苑の頭。
「あかねさまの姿になる泉、特別に選んだわけじゃない。たまたま蓮華さま飛び込んだ泉、茜溺泉だった。」
「そして、目の前で溺れた蓮華を、てめえが助けた・・・。」
「そうだ、蓮華さま、死なせるわけにはいかない。蓮華さま、死なせてと一言呟いたが、私、できなかった。気が付いたら私も茜溺泉、飛び込んでいた。」

「そうだったの・・・。」

 あかねは溜息を吐いて紫苑を見返した。
 溺れた蓮華を助けに、無我夢中で飛び込んだ紫苑。彼もまた、あかねに変化するようになったのだ。

「天道あかねが溺れたというのは本当かぁ?」

 そこへガラガラと乱暴に扉が開いて雪崩込んできたのは九能であった。
「まじい、厄介な奴が来たぜっ!」
 乱馬はジロリと目を向けた。
「おお、溺れたのか、天道あかね・・・。」
 九能は眠り込んでいるあかねの姿をした蓮華を見て、思わず抱きつく。
「九能先輩っ!あたしはこっちですけど。」
 あかねはつんつんと九能を呼んだ。
「おお、やっぱり、天道あかねが二人に分化しておるのか。」
 今度はあかねに抱きつこうとした。
「やめてーっ!」
 あかねはいつもの調子で九能に蹴りを入れていた。
「たく、いつもいつも、こいつは・・・。」
「おお。おさげの女ぁ〜!!」
 今度は女に変身していた乱馬にすりつく。
「やめろーっ!」
 ぞわぞわと逆立つ鳥肌。
「何だこいつは・・・?」
 紫苑が呟いた。
「おお?そこにも天道あかねかあーっ!!」
 今度はあかねに変身した紫苑に抱きつく。節操のない奴であった。
「ん?ということは、そこに寝ているのも天道あかね、僕を蹴ったのも天道あかね、で、ここに居るのも天道あかね・・・?天道あかねが、天道あかねが・・・天道あかねが三人ッ?」
 九能は目を剥いた。
「そして、おさげの女・・・。」
 あたりをキョロキョロ見渡すと、九能は一気に言った。
「おお〜!まとめて面倒を見てやろうぞ!」
「要らんわいっ!」
 気を失っている蓮華以外のあかねたちと乱馬は思わず、窓の外へと九能を蹴り上げていた。乱馬も紫苑も心なしか肩の域が荒い。おそらく、九能に思い切り抱きつかれた後遺症だろう。

「とにかく、このままじゃ不味い。男に戻ろう!」
 紫苑は傍にあった水筒のポットを己と乱馬へ注いだ。もしもの時に備えて、紫苑は湯を入れたポットを持ち歩いているようだった。もくもくと湯煙があがり、共に元の姿へと変化する。
 流石にまだ目を開かない蓮華に湯を浴びせ掛けることは気が引けた。
「先生・・・。頼む。俺たちのことは黙っててくれ。また面白がって大騒ぎになるとも限らねえし・・・。」
 乱馬は元通りに戻ると、ひなちゃん先生に懇願した。
「何か事情がありそうだわね・・・。いいわ。任せておきなさい。」
 ひなちゃん先生はそう言うと、持って来たタオルケットを深々と蓮華に掛けた。周りから見えないように顔を包んで保健室へと連れてゆく。
 ずぶ濡れになった乱馬と紫苑は、男の姿に戻っていた。


「ほほ・・・。効果てき面じゃったな・・・。」
「ふふ・・・。第一段階はクリアじゃ。」
 誰も居なくなったプールの更衣室の屋根の上から、一部始終を眺めていた目が四つ。
「どうやって蓮華の心を操ったんじゃ?」
 コロンが花梨を見返した。
「なあに、簡単なこと。自己暗示に掛けたんじゃよ。」
「自己暗示?」
「そうじゃ、光る水面を見て、この笛で送った合図を聴き取れば、水に入水するようにな・・・。蓮華さまの耳は風の音を聞き分けるくらい良いんじゃ。それを逆手に取ったわけじゃよ。これなら、紫苑の奴目も気付くまいて。ほっほっほ。」
 花梨は掌にも入るくらいの小さな笛をコロンへと見せた。
「なるほどのう・・・。自己暗示を掛けるとは・・・。おぬし、相変らずあくどいのう。」
 コロンが花梨を見詰め返した。
「今朝方、天道家に行った時に、暗示を掛けたんじゃよ。水へと導くように。」
「でも、これでは紫苑が警戒して片時も蓮華の傍を離れないのではないのかな?」
「それでいいんじゃよ。返ってその方が紫苑に不審がられぬわ。まだ、蓮華さまに自殺願望が強いと思わせておく方が得策なんじゃよ。ふふ。」
「何て奴じゃ・・・。おぬしも悪じゃな・・・。で、決行は?」
「明日じゃ。手筈は整えておく。今晩当りから月の魔力が増し始める。羅公が交わる娘御を求めて現れるのは今晩辺りじゃろうからな・・・。」
「そして、あかねを羅公へ差し出すというわけか・・・。」
 コロンはにやっと笑った。
「そういうことじゃ。あかねが居なくなれば、乱馬はおまえんところのシャンプーの婿になるのだろう?それに、蓮華さまも紫苑と・・・。」
「持ちつ持たれつということじゃな。」
「ふふ。せいぜい、コロンちゃんもしっかりとやっておくれ。」
「任せておけ・・・。」



二、

「へええ、そんなことがあったの。」
 なびきがふうんと乱馬と紫苑を見比べた。
「大変だったんだぜ・・・。たくう・・・。」
 やれやれと云わんばかりに乱馬は溜息を吐く。
「にしても、本当に、自殺願望があるのか?蓮華には。」
 乱馬は紫苑を見返した。
「ああ・・・。多分。」
「無理強いされる結婚から逃れるために自殺かよ。わかんねえな。そんなに嫌なら逆らっちまえばいいだろうが・・・。」
「一族の掟、これ絶対。」
 紫苑は静かに言い放った。
「掟ねえ・・・。おめえたち升麻族といい、シャンプーの女傑族といい、迷惑な連中だな。」 
 己と戦って勝った男を婿にするという、ハチャメチャな掟をシャンプーたちの一族が持っていることを思い出して乱馬は苦笑いをした。
「でも、何でそこまでして、入水自殺なんか図ったのかな・・・。蓮華ちゃん。もしかして、好きな人が居るとか・・・。」
 あかねがぽろっと口を零した。
「好きな男が居たら、尚更、強引に結婚を拒否すればいいじゃねえかっ!」
 乱馬は合点がいかないという顔をした。
「短絡的ねえ・・・乱馬くん。」
 なびきが割って入った。
「あん?」
「仮にしも、蓮華さんは升麻族の未来を一身に背負い込んじゃってるんでしょ。聞けば、その黄幡国の羅公って奴、強大な力を持ってるってさっき紫苑くんが言ってたじゃない。その気になれば、升麻の里を滅ぼせるくらいの実力者だって。」
「そうよ・・・。だから、無下に断わるわけにも行かず、蓮華ちゃん、悩んでるのよ。じゃないと死のうなんて思わないだろうし。きっと報われない恋してるのよ。乱馬みたいな単細胞には理解できない話なのよ。元々ね。」
 あかねが姉に同調した。
「あんだよ。それ。まるで俺が馬鹿みたいな言い方だなっ!」
「違うの?」
「何ぃっ?」
「二人ともやめなさいって・・・。それより、蓮華ちゃんだけど・・・。どうするの?」
 
 鼻息が荒い乱馬とあかねの間に、なびきは割って入った。

「さっき、花梨おばばさまに今日のこと報告したら、明日は海にでも行けばいいと手配してくれたそうだ。」
「海ぃ?」
「水が一杯あるところじゃないの・・・。大丈夫なの?そんなところに蓮華ちゃんを連れて行って・・・。」
 驚いてあかねが聞き返した。
「大丈夫。もう、片時も、私、離れない。」
 紫苑が無表情に言った。
「それに、蓮華さま、海に浮かぶ月、見てみたいと前に言ってた。」
「海に浮かぶ月?」
 あかねが問い返した。
「升麻族、中国大陸の内陸の奥地に生きる一族。だから、海、見たことない。それゆえに昔から伝わる。海に浮かぶ望月見れば、きっとその人幸せになると。恵まれた結婚できると。」
「へえ・・・。ロマンチストなんだ。升麻族って。」
 なびきが頬杖をつきながら笑った。
「海に浮かぶ月か何かにすがって幸せになろうって根性が俺には気に食わねえけどな・・・。」
「もおっ!黙りなさいっ!」
 憎まれ口を利く乱馬にあかねがバシッとやった。
「だから、あかねさん、乱馬、あなたたちも私たちについて来て欲しいある。」
 紫苑が頼み込んだ。
「あたしたちも?」
「あん?」
「ええ。是非そうして欲しいと、花梨さまも宿を手配してくれた。」
「ほお・・・。手回しがいいな・・・。」
 気に食わないという表情を乱馬は差し向けたが、今度は口を噤(つぐ)んだ。これ以上あかねに殴られたくないと思ったからだ。
「いいわよ。明日は丁度、学校も休みだし。二連休だから。」
 あかねはにこっと笑って紫苑を見返した。
「良かった。蓮華さま、あかねさんと仲良くしてもらって、少しは和んでる。私、それ、良くわかる。あかねさんに付き合っていただければ、私も蓮華さま、守りやすい。」
 紫苑の顔が緩んだ。
「役にたたねーかもしれねえぞ・・・。こいつも。カナヅチだしよ。」
 ポカッと拳骨が乱馬に飛んだ。
「るっさいわねっ!シーズンオフなんだから、海で泳ぐこともないでしょうっ!!」
「てっ・・いってえなあーっ!強暴女っ!!」

 やれやれという表情をなびきがこの許婚たちに手向ける。
「仲がいいんだか悪いんだか・・・。」
 溜息が漏れた。


三、

 ややあって、蓮華が目覚めた。
「大丈夫?蓮華ちゃん。」
 あかねの問いかけに蓮華はこくんと頷く。
「私、プールとかいう水溜りで意識失った。それから、溺れたのだな?」
 蓮華はあかねを見詰めて言った。
「そうよ・・・。あれは事故だったの。疲れてたのね。」
 あかねは諭すように蓮華に言った。まさか、自殺しようとしたのね、などとは訊けまい。
「あかね、助けてくれたのか?」
「ううん、あたしじゃないわ、紫苑くんと乱馬がね。」
「そうか・・・。迷惑かけたな。」
 少し愁いた顔を紫苑に手向けた。あかねはその表情を見逃さなかった。
(もしかして・・・。)
 確信にも似た思いが駆け抜ける。恋する乙女の直感だった。
「迷惑だなんて・・・。それより、ちょっとこっちへ来てみない?」
 あかねは蓮華を誘って外へ出た。
 天上には丸い月がぽっかりとこちらを照らしつけていた。良く見ると、端が少し欠けている月だ。だが満月はもう二三日中に来るだろう。

 何を思ったのかあかねがいきなり蓮華に攻撃を仕掛けた。

「あかねさんっ!?」
 
 その様子を見ていた紫苑が何をするかと、慌ててあかねを止めようとした。
「待てっ!あいつには何か考えがあるんだろうぜ。」
 飛び出しそうになった紫苑を乱馬がぐっと止める。
「まだ、蓮華さま、目覚めたばかり。」
「大丈夫だ。あかねだってそのくらいはわかってるさ。」
 乱馬は暗がりでにっと笑った。
 あかねに任せておけ。そういう目で紫苑を見返した。



 辛うじて避けた蓮華の服の襟元があかねの拳ですぱっと切れた。寸でのところで蓮華はあかねを交わす。
「あかねっ?」
 対峙したまま、蓮華は驚きの声を上げた。
「まだ、昨日の決着ついてない。いくわよっ!」
 あかねはそう吐き出すと、更に攻撃を加えてゆく。勿論、二人とも道着ではない。Gパンにトレーナーのあかねと、制服姿の蓮華。ひらひらと蓮華のスカートが揺れる。
「でやーっ!」
 あかねは息を思い切り吸い込むと、蓮華に向かって気合を入れた。
 
 蓮華も勿論、易々とやられてしまうほど弱くはない。
「はあーっ!」
 彼女もまた、気合を入れて打ち返す。
 火花がぱっと二人の間に散ったような気がした。互いの勢いで、ザンッと庭の芝生が鳴った。
 あかねは構えていた身体をすっと元に戻した。殺気立っていた気も体の中にすっぽりと収める。そして力を緩めると笑った。
「やっぱり、蓮華ちゃんも武道家ね。ちゃんとどんな体制からも打ち込んでくる。」
 あかねの真意を図りかねて蓮華は戸惑いの表情を手向けた。月が彼女の全身を蒼く映し出す。
「ごめんなさい。ちょっと試してみたかったのよ。」
 あかねからはもう、殺気だったものは消えうせて、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「ねえ、月を眺めよう。訊きたいことがあるの。」
 あかねはだっと道場の脇の柿木に上った。
 乱馬や紫苑の耳を避けたかったからだ。
 たわわに実をつけている甘柿の木の枝を掴むと、ひょいっと昇り始めた。枝ぶりもしっかりしている。そこからひょいっと道場の屋根の上に出た。ぽっかりと浮かぶ月は、飄々と照らしている。
 あかねを追って、蓮華も上に出た。中国奥地の荒野で駆け巡っている彼女には造作もない木登り。

「ねえ、蓮華ちゃん・・・。あなた、一族のために結婚を強要されているって本当?」
 あかねはポツンと問い掛ける。瓦はひんやりとしていた。
「紫苑喋ったのか?」
 こくんと頷いた。
「確かに私、黄幡の羅公に人身御供(ひとみごくう)に差し出される事決まっている。」
「人身御供?穏やかじゃないわね。」
「それで良いんだ。だって羅公、人間ではない。」
「え?」
 あかねは驚いた。
「羅公、仙人ね。」
「仙人?」
 言葉に詰まっていると、蓮華が淡々と話し出した。
「いつの頃から生きているかわからぬ仙人という話ね。誰もその本当の姿知らない。時々いろんな物に化けて人里へ降りて来る。そして、娘御を嫁に差し出せと言ってくるらしいある。羅公、たまたま升麻族の里へ来た。そしていろいろと崇りをなした。それで、私、嫁に出されることに決まった。」
「何ていい加減な話なの。」
 あかねは憤慨しているようだ。
「蓮華ちゃんはそんな話受けるつもりなの?」
 蓮華の言葉が詰まった。
「受けなければならない。これ、私の運命だから。」
 ぎゅっと握られる拳。
「運命・・・。冗談じゃないわ。そんなの!」
「羅公、恐ろしい術使う化け物。黄幡の里、もともと謎の小惑星現す言葉。その里に行かなければ、禍、そこら中に起こる。」
「そんなの迷信よ。」
 ゆっくりと蓮華は頭を横に振った。
「迷信ない。実際に奴、言うことを聞かせるために禍起こした。升麻の村、水が枯渇して大変だったね。」
「水枯れ?異常気象じゃないの?」
「羅公、水操る巧み。彼の求め父が応じることにしたら災害は止んだね。」
「まさか・・・。」
「事実だから仕方ない。」
「それで、蓮華ちゃんは、本気で嫁に行くつもりなの?」
 あかねは蓮華を見返した。
「運命なら受け入れるあるね。」
 ポツンと答えが返って来た。
「いいの?蓮華ちゃん・・・。紫苑くんのこと好きなんじゃ・・・。」
 はっとした表情を蓮華は手向けた。
「あかね?」
「ごめん、何となく伝わってきたのよ。ひょっとして、あなた、紫苑くんのことが・・・。」
「皆まで言わないで。そうね・・・。でも、それは終わったこと。」
「終わったこと?」
「私と紫苑、乳兄妹ね。」
「乳兄妹?」
「私、母幼い頃亡くした。それで私の乳は、紫苑の母が分けてくれていた。だから、私たち、幼い頃からずっと一緒に育った。」
「幼馴染・・・かあ。」
「すぐ傍にある親しさが愛情に変わることはよくあるね。私の父、紫苑と結ばれること望んでいた。羅公が現れるまで、私たち許婚だったあるよ。」
「許婚。」
「そう、あかねと乱馬みたいに、タメ口ばかり言い合ってきた。でも、羅公が現れて全てが変わった。紫苑、前みたいに親しく話してくれなくなった。彼、私に距離を置くようになった・・・。言葉遣いも、気遣いも全て。そう、「近衛」としてしか私を見なくなっていた。」
「でも、愛情ってそんなことで簡単に消えることじゃないでしょ?」
「わからない・・・。紫苑の気持ちも、自分の気持ちも。情けないね。」
「ううん。そんなことはないわ。紫苑くんだってきっと、蓮華ちゃんのことをまだ想って・・・。」
「いいんだ。あかね。それは。」
 蓮華は言葉を途中で止めた。
「私、本当に一度だけ死のうと思った。呪泉郷を訪れていたときに。呪いの泉と知らずに、適当に飛び込んだね。」
「それが・・・。」
「茜溺泉だった・・・。私、呪泉郷のガイドさんに窘められたね。命無駄にする良くない。私が落ちた泉に最初に溺れた少女、あかねは強い少女だったと。愛する人のため、身を差し出せる勇気持った少女だと知った。それについ最近出来た呪いの泉ということも知った。だから、ここへ来た。自分の運命を変えるために。」
「蓮華ちゃん・・・。」
 真正面に照りつける月は雲間に隠れる。さっと暗くなり風が靡く。
「大丈夫。私、最後まで闘う覚悟できた。己の運命は己で変えてみたいと、思うようになった。これも茜溺泉に溺れたおかげ。紫苑、私のことどう思っているかわからない。自分もどうしたらよいか、まだ、わからない。でも、運命には立ち向かうね。羅公と刺し違えても。」
 風が止まった。
「あかね、明日一緒に海行ってくれるね・・・。私、もう一度自分で決意固めたい。海に浮かぶ月を見て。」
 あかねはこくんと頷いた。この小さな体に溢れる情熱をあかねはびしびしと感じ取っていた。
 まさか、この海行きに己に向けられた刃が潜んでいようとは、微塵も感じ取ることはできなかった。
「明日も晴れるといいわねえ・・・。」
 あかねは小さく隠れた月のくぐもった光にそう呟きかけていた。秋の夜は長い。


つづく



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