◆雪


 外は雪が降りしきる。
 都心ではこの冬初めて見た雪。

 もう、乱馬ったら全く情けがないんだからっ!!

 あかねは湯飲みになみなみと注がれた緑茶を揺らしながらふっと溜息を吐き出した。
「また乱馬くんと喧嘩したんだろ…。」
 その様子を見て、愉しげに東風先生が声を掛けてきた。
「べ、別に、そんなわけじゃあないですけど…。」
 見透かされたような気がして慌ててあかねは否定しにかかった。
「そうかな…。あかねちゃんの顔には乱馬くんと喧嘩中だって書いてあるけど。」
 東風は笑いながら答えた。
 
 そう。
 帰り際、乱馬とまた喧嘩になった。
 原因はまたシャンプーと右京たち。
 今日は朝から二人で帰りにパフェを食べに行こうと約束していたのだ。珍しく自分の方から「パフェが食いたいっ!」と誘って来たくせに、さて下校時間となると、シャンプーが乱入してきた。
 シャンプーが入ってくると、右京も黙ってはいない。
 互いに袖を引っ張り合って、譲ろうとしない。そんな中、早くパフェを食べに行こうなどとは、とても言い出せずに、
「あたし、先に帰るからねっ!」
と自分の方から旋毛を曲げてしまったあかね。
 折角の午後の一時は無に帰した。 
 多分、カッコつけやのか彼のことだから、店に入ると途端に女に変身してパフェをがっつくつもりだったのだろうが、あかねとしては彼の形体が男だろうと女だろうと一向に構わなかった。他愛ないお喋りをしながら一緒に過ごせる…それだけで満足するつもりだったのに。
 帰り道、ひとりとぼとぼ歩いていると、買い物帰りの東風先生にばったり会って、美味しいお饅頭をいただいたからたまにはお茶でも飲んでいかないかと誘われたのだった。

「君たちもなんだかんだと言って、仲がいいんだね。」
 東風先生はお茶をすすめながらあかねに話し掛けた。
「私は乱馬なんか。別に…。」
 言葉の端を噛み殺しながらあかねはぶっきらぼうに返答をする。
「ああ、雪がまた激しくなってきたね。」
 東風は窓の外に目を転じて微笑んだ。
「積もるかな…。」
 昼過ぎから冷え込んできて、帰る頃には降り出していた雪。始めはボタン雪で大きな結晶の塊だったのだが、だんだん細かい粒に変わってきたような気がする。
「もう、ぼちぼち積もり出してるよ…。」
 東風は湯飲みを持ち上げながら答える。
「あたし、ぼちぼち帰ります。先生、お饅頭美味しかったです。ありがとうございました。」
「いやいや、こちらこそ、お茶の時間に引き止めて悪かったね。早く乱馬くんと仲直りしてね。」
 東風先生の声に、あかねは持っていたマフラーを首に巻きつけてコートを着込むと、接骨院の扉から表へ出た。
「冷たいっ!!」
 風が容赦なくあかねを吹き付けてくる。 
 車道はまだ行き交う車や人でそうでもなかったが、道端の草の上や屋根の上は薄っすらと雪が積もり始めていた。辺り一面の銀世界とまでは修飾できなかったが、雪に霞むいつもの風景は、別の街に見えた。
 思わず身震いして立ち止まったが、あかねは意を決するように傘を広げると、黙って歩き出した。
 雪は音もなく静かに空から舞い降りてくる。時折吹き付けるように、風とともに舞い散る淡雪。
 その時、不意に冷たい雪の塊があかねを目指して飛んできた。 
 気配を感じてさっと避けると、目の前の電柱に当たって雪の塊が砕けた。
 あかねは振り返りざまに飛んできた方へ視線を移すと、フェンスの上に見慣れた笑顔が乗っかってこちらを見下ろしていた。
「ちぇっ!上手いことかわされたか。」
 そう言って笑顔の持ち主は、よっ、とフェンスの上から地面に降り立った。乱馬だ。
「何よ…。」
 あかねは見るからに不機嫌な顔をして、ソッポを向いた。
「なんだよ…約束してあったのに、先に帰っちまいやがって…。」
 乱馬はそばに立つとあかねの顔をしげしげと覗き込んだ。
「約束を反故(ほご)にしたの、乱馬の方じゃない。」
 あかねは不機嫌な言葉を投げつけた。
「俺は悪くねえぞ…。あいつらが勝手に乱入してきただけで…。」
 とうとうと弁解じみたことを言いはじめる。
 …そうなったのも、あんたがだらしがないからじゃない…
 あかねはそう言葉を継ごうとしたが止めた。乱馬に惹かれていること自分の方から認めるような言い草になると思ったからだ。乱馬にぞっこんな自分を知られるのが、とても嫌だった。
「今からでも行こうと思えば行けるけど…。」
 乱馬がそう言いかけたのをあかねは遮った。
「駄目よ…。あたし、東風先生のところでお茶とお菓子頂いて、もう夕食まで何も食べたくない。」
「ちぇっ!可愛くねえの…。」
 あかねは乱馬のことを無視するように、先に立って歩き出した。乱馬もつられるように寄り添って後ろから歩き始めた。
 赤と青、二つの傘がゆらゆらと雪の中を彷徨いはじめる。
「お、おい。家はこっちの方だぞ…。」
 あかねがてんで明後日の方向へと歩みだしたので、慌てて乱馬が口を挟むと、
「いいの…ほっといてっ!」
 あかねは自分からずいずいと歩みを進めてゆく。戸惑いを覚えながらも、乱馬はあかねの後ろをずっと着いていった。

 ものの四、五分も歩いただろうか。
 あかねはとある学校の門を潜った。
 乱馬も、不信に思いながらもその後を突いて行く。
 あかねが入ったのは小学校の校庭だった。
 児童たちは下校してしまったのだろう。しかし、何人かの子供たちが、放課後の校庭で降り出した雪と戯れる様子が寒々しく目に映った。
 校舎と校舎と繋ぐ渡り廊下に入るとあかねは傘を畳んで下ろした。
「変わらないと思ってたけど…。やっぱり変わってゆくのね…。」
 あかねはそう言って一つ白い息を吐き出した。
 あかねの言葉の真意が飲み込めずに、乱馬は黙って同じように傘を下ろす。
「だって…。ほら、子供の頃って、もっと運動場が広く見えなかった?あの鉄棒も、滑り台もブランコも、子供の頃はもっと大きくてしっかりした遊具に見えなかった?なのに…ほら、今見ると校庭も遊具もあんなに小さく頼りなく感じるのはどうしてなのかしら…。」
 あかねの視界の先には無邪気に雪合戦をして遊ぶ子供たちが映し出されていた。
「ここって…おまえの…。」
 乱馬が重く垂れ下がった口を開くと
「そうよ…。あたしやお姉ちゃんたちが六年間通った小学校…。あれからまだ五年もたってないのに…。目に映る風景は変わっちゃった…。」
 あかねが寂しそうに言葉を紡いだ。
「そっか…。ここはおまえの母校か…。」
 乱馬は穏やかにそう言うと、ふっと息を吐き出した。
「良く走り回って、転んで擦りむいたわ。あのジャングルジムから落っこちそうになったことだってある。」
 懐かしそうにあかねが呟く。
「あの頃は何も心配事も悩みも知らずに、ただ、愉快に跳ねて転げて走り回って。だから、校庭も、それに続く大空も無限大に見えたのかもしれないわね。」
 あかねの言葉とともに白い息が辺りを染める。
「それだけ、大人になったってことさ…。広い空間が狭く見えるようになったのも。身体がでかくなった分、目線だって変わったんだよ…。おまえも俺も。」
 なんとなくあかねの云わんとしていことがわかったような気がして乱馬は答える。
「あの頃は、そう、この雪のように純真無垢でとっても素直だったのに…。いつから素直じゃなくなったのかしら…。私…。」
 あかねはぽつんとそんな言葉を吐き出した。乱馬はわざときこえない振りをして黙って空から下りてくる欠片を見詰め続けた。
 降り積もった雪で、グラウンドの土ももう見えなくなって、白い空間が頼りなげに広がっていた。夕暮れも近くなり、遊んでいた子供たちの姿もいつの間にか夢の如く消えていた。
「なんで、ここに?」
 乱馬は静かに言葉を開いた
「理由なんてないの。ただ何となく…。雪が降ったから来て見たくなったの。」
 あかねはそう呟くと、不意に雪の中へと躍り出た。
「ねえ、子供の頃って、こうやって口で雪を受けて食べなかった?こうやって追いかけて…」
 子犬のようにあかねが上を向いて跳ねていると、雪に足を取られて滑った。
「あ、あぶねえっ!」
 乱馬は咄嗟に身体を前に投げ出して、バランスを崩したあかねを受け止める。
「ばかっ!気をつけろっ!!」
 乱馬は雪にまみれたあかねを辛くも抱きとめた。
「ごめん…。素直じゃない私で…。ごめんね。」
 思わずあかねが口にした言葉。
「何もあやまることはないよ…。」
 乱馬は静かにそれに答えた。
 …素直じゃないのは俺だって同じだから…。
 その先の言葉は飲み込んだ。そして、
「足、捻らなかったか?ドン臭いなあ…。」
 とわざと明るく問い掛けた。涙が薄っすらとあかねの頬を伝うのを見たような気がしたからだ。
「ん…。」
 あかねははにかむように腕の中で微笑んだ。
「帰ろう…。か…。」
 乱馬が静かに促すと、あかねは黙って首を垂れた。
 乱馬は渡り廊下に立てかけた傘を手に取ると、ポンと広げた。
 あかねに赤い傘を差し出すと
「一緒に入っていい?」
と、戸惑いながら尋ねてきた。
「ああ…。」
 そう答えると、乱馬はあかねの肩にそっと手を置いた。

 暗くなり始めた雪空の下で、一つの傘の下に二つの影が寄り添う。
 音もなく降り積もる雪の中で…。



 完




一之瀬的戯言
 子供の頃は大きいと思っていた学校の遊具、大人になって改めて見ると、そんなに大きくなかったという経験は誰しもあるものではないでしょうか。背の低い子供の目線は低いものですものね…。


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