◆乙女心と秋の夕暮れ


一、

 学園祭の準備のためにワイワイと賑やかな風林館高校。あかねたちのクラスも多聞に漏れず、模擬店のチケットやら出し物の打ち合わせやら、各セクションごとに花開く放課後を過ごしていた。
 みんなで材料に使えそうなものを倉庫から運び出していた。ガサガサごそごそやるうちに、
「ねえ、こんな写真が奥から出てきたわ。」
ゆかがふいっと何枚かの煤けた写真を持ち出した。
「これって…。」
「あたしたちの入学式の時の写真よ。」
 いつのまにかゆかの後ろには生徒たちが群がり始める。
「なんで写真が倉庫なんかに…。」
「きっと記録用のが何かの弾みで紛れ込んだんじゃない?」
 口々に言葉を投げ掛ける。
 ゆかが持って来た写真には、色々なクラスの集合写真やら、スナップ写真が数枚。周りのクラスメイト達はゆかから一枚いちまい、写真をまわしてもらいながら懐かしげに覗きこむ。
「まだ、あれから一年半しかたってねえけど、風体が変わった奴もいるなあ…。」
 大介が楽しそうに話し掛けてきた。
「どれどれ…。」<
「これは1年F組の集合写真やな…。」
 そう言いながら目線を落す。
「なあ、乱ちゃんおらへんやん。なんでや?」
 ややあって、右京が不思議がった。彼女は興味本意から乱馬を探していたらしい。
「いるわけねえよ…。俺は転校生だからな…。」
 乱馬がぼそっとそれに答えた。
「え?乱ちゃんも転校してきたんか?」
 右京の問いにゆかが答えた。
「うっちゃん、知らなかったの?乱馬くんも転校生だったのよ。」
「へえーっ。乱ちゃんもウチと同じ転校生かあ。そうか…そうやったんや・・だから写ってへんのか。そやなあ。入学式からサボる奴、普通いいひんもんな。」
 右京はわざと「ウチと同じ」という言葉を強調して言い含めた。後ろではそんなクラスメイト達のさざめきを聞こえない振りをして、あかねがせせこましく作業をしていた。
「入学式ふけるなんて、いくら乱馬でもそこまではやらねえよな。」
 ひろしがちゃちゃを入れる。
「あのな…。どんな目で俺を見ているんだよ。」
 乱馬はプイッと横を向いてしまった。
「でも、あかねちゃんもおらへんみたいやけど…。」
 右京はあかねも見当たらないことを不審に思ったようだ。見当たらない筈はない。あかねはちゃんと入学式には風林館(ここ)にいた。
「ちゃんといるわよ…ほらここに。」
 さゆりが指をさした。
「えっ?なんやぁ?これあかねちゃんかっ?髪の毛えらい長いやんか。」
 右京が転校してきたとき、あかねは既に髪の毛を短くしていた。だから、あかねの髪が長くてふさふさと後ろに靡いていたことを彼女が知る由もない。
「あかねちゃんの髪、こんなに長かったんや。ウチと同じくらい、いやそれ以上に。ふーん。でも、えらいもったいないなあ。失恋でもしたんか?」
 右京は後ろのあかねに聴いて来た。乙女が髪の毛を切るときは「失恋したとき」と相場が決まっているからだ。冗談めいていたとはいえ、右京の口からも、通り一辺倒なそんな言葉が流れ出した。
 右京の何気ない問い掛けに、一瞬、あかねの表情が強ばった。
『失恋でもしたんか』
 右京の言葉が、心にズシンと響いてきたのだ。
 あかねは、すぐに表情を軟化させ、他の者には心の動きを悟らせなかった。彼女の表情の変化に気付いた者はいなかった。そう、一人を除いては。
 乱馬だけは、あかねの表情が一瞬変わったのに気付いていた。
「そんなんじゃあ、ないわよっ!もう、忘れちゃったわよ。それより、みんな手伝ってよ。私一人じゃあ教室まで運び込めないわ。」
 あかねは気のない素振りをしながら、右京の問い掛けをはぐらかした。そして、一人、大きな木材を担ぎ上げると、さっさとその場を退散しにかかった。
「なんや…?なんか悪いことでも訊いたんかなあ…。」
 右京はあかねの後姿に猜疑心を抱きながら写真をゆかに返した。
「無理ないわよ…中学生のころからずっと伸ばしてた髪の毛、乱馬くんたちに切られちゃったんですもの…あかね。気にしてない訳ないわ。」
 ゆかが写真を受け取りながらほっと溜息を吐いた。

 そうだった。
 まだ、乱馬が天道家に来て間無しの頃、彼の決闘に巻き込まれ、あかねの緑なす黒髪は良牙の投げたカッターのように鋭いバンダナの餌食となった。そう、大衆の面前で無残にもバッサリと切られてしまったのだ。<

「ふーん。そんなことがあったんか。知らへんかったなあ…。でも、それっきり、あかねちゃん、伸ばしてへんのやな。また、伸ばしたらええのに…。」
 右京はそう言って、立ちあがるとさっさと自分に割り当てられた仕事に戻っていった。  

…あかねの奴、まだ気にしてるんだな…
 乱馬はあかねの後ろで木材を運びながら、じっと彼女の後姿を見詰めていた。
 そう、あの事件は「己が播いた種」であった。
 直接的には良牙がやったことには相違なかったが、その良牙は自分を追って乗り込んできた。そしてあの始末。
 バッサリとやられた後のあかねの放心した姿は今も眼の奥に焼きついている。
 それから、彼女は二度と髪を伸ばそうとはしない。そして、もう、忘れ去ったかのように、触れようともしないのだった。心の奥底に深く沈めた初恋の思い出とともに。
 すっかり忘れていた「あかねへの呵責」を右京の言葉の中に思い出してしまった乱馬だった。 その時、前を歩いていたあかねのバランスが崩れた。
「あっ!」
 ややあって、あかねは木材ごと、前へとつんのめって倒れ込んだ。
「あかねっ!」
 乱馬は木材を下へ置くと、すぐさま彼女の元へと駈け寄った。
「あいたた…。」
 あかねは腰を打ったのか、地面にへたり込んで、さすっていた。
「大丈夫か?おいっ!怪我してねえか?」
 乱馬は一応、あかねを覗き込んで尋ねてみた。
「平気。ちょっとバランス崩しただけだから…。」
 あかねは舌をペろっと出すと、再び、木材を持ち上げた。
「ドジ…。」
 乱馬はわざと聞こえるように言い放った。
「うるさいわね…。」
 あかねは答えながら前に進んで行った。
「ぼーっとしてるからだよ…。」<
 乱馬は聞こえないくらいの声であかねの後姿に言葉を投げ掛けた。


二、

 夕暮れの帰り道、夕陽に影を落としながら、乱馬はいつもの川辺リのフェンスの上からあかねを見下ろしながら歩いていた。
「たあく…ドジなんだから。おまえは…。 」
「大丈夫よ…。」
「また、そうやって我慢する。結構強く腰を打ったはずだぜ。東風先生のことろへ寄ってけよ。」
 乱馬は表情一つ変えること無くあかねに言い放つ。
「あんたなんかに言われなくてもわかってるわよ。」
 あかねは、ちょっとムッとした表情を乱馬に手向けた。が、内心、乱馬の洞察力に舌を巻いていた。平気を装ってはいたものの、乱馬の言うように「我慢」していたのだ。
 あかねは迷うこと無く小乃接骨院へと入っていった。
「久しぶりだね、あかねちゃん。」
 東風はいつもの笑顔であかねを迎えた。
「こいつ、学校でドジってさあ、腰を打っちまったんだよ。東風先生。」
 あかねより先に乱馬が答えた。
「何よ…失礼ね。で、なんであんたがここにいるのよ。」
 診察室について入ってきた乱馬に口を尖らせながらあかねが診察台に横たわった。
 口先では悪態ばかり吐いている乱馬だったが、内心はあかねのことが心配で堪らなかったのだ。東風はそのあたりも良く心得ていて、
「乱馬くんは、こっちに座って待っててね。」
 と、あかねから見えない位置に置いてある円形の椅子へ導いた。
 乱馬がふと横を見ると、玄馬パンダが居た。
「おいっ!オヤジ…何やってんだ?こんなところで…。」
 乱馬はビクッとしながらパンダに話し掛けた。
「ああ、玄馬さんね。今でも週に一回手伝いを頼んでいるんだよ。看護婦さんがお休みを取る木曜日だけね…。」
 そう言って東風はあかねの身体に手を置いた。
「あん?…てめえ、まだここでバイト続けてやがったのか…。」
 乱馬はこそっとパンダ親父に言い放った。
『ワシだって少しくらい金を稼ぐわい!』
 玄馬は看板を掲げて息子に抗議した。
「ふむ、少し骨盤がずれてるようだね。」
 東風はあかねを触診しながら、にこやかに話し出す。
「大丈夫だよ…すぐに良くなるから。」
 東風はあかねに向き直ると
「少し痛いかもしれないけど我慢してね。あかねちゃん。」
「はい…。」
 東風は両手を広げると、慣れた手つきであかねの腰を掴んで力を込めた。
パキッ!ポキッ!
 ホネが鳴る音がして、あかねは一瞬顔をしかめた。痛かったのだろう。
「ほら、終わったよ。もう大丈夫。立ってごらん。」
 東風はあかねの腰をポンと叩くとにこりと笑った。
「ほんと…やっぱり、来て良かった。ありがとうございます。東風先生。」
 あかねは立ちあがると腰を振って見せた。

「ああ、そうだあかねちゃん。ちょっと待っててくれる?」
 東風は何かを思い出したらしく、そう言うと、奥へと入っていった。
「さすがだなあ…東風先生は。」
 乱馬は感心したように言った。
「当たり前よ…名医だもの。」
 あかねは自分が誉められたかのようににこにこしながら微笑んで見せた。小さい頃から慣れ親しんできた東風先生だ。恋破れた今も、東風のことが大好きなあかねだった。

「ほら、これ…。」
 東風は奥から何かを取りに行っていたらしく、あかねに手にしてきた「もの」を差し出した。
 そこには薄ピンクのリボンがふわっと握られていた。
「あかねちゃんのリボンだろ?ずっと前に忘れて行ったのを、昨日整理していて見つけたんだ。」
「え…?」
 あかねはきょとんとリボンを手に取った。
「一年以上前の忘れ物だよ。覚えてないかな?」 
 あかねはまじまじと手渡されたリボンを見詰めた。
「ほんと…これ、私のです。そうか…ここに置き忘れてたんだ。でも、良く私のだってわかりましたね、先生。」
 東風は笑いながら答えた。
「だって、ウチにそんな若い子向きのリボンをしてくる患者さんはあまりいないもの。年寄りの婆さんが多いからね。」
「でも、かすみおねえちゃんのだって思わなかったんですか?」
 あかねは訊き返してみた。
「いや…これは、かすみさんがしているリボンじゃあないってすぐにわかるよ…その、なんだ、かすみさんのは見ただけでわかるんだよ。」
「ひょっとして、先生、かすみさんのは全部、覚えているとかぁ?」
 乱馬はからかうように言ってみた。
「え…あ、あの…。ま…そんなところかなあ…あはははは…。」
 東風は後ろ手に頭を掻きながら答えた。多分、乱馬が指摘したことが当たっていたのだろう。
 後ろで玄馬パンダが看板を掲げていた。
『そのとおリ。』
 好きな人の物は、例えそれが髪飾り一つでも、ちゃんと記憶にインプットされているのだろう。だから、東風はかすみのものではないとはっきり断言できたのだ。あかねのものだと断定した訳ではなかった。
 あかねは、ちょっと寂しげな顔をしたが、すぐに笑顔を作ってのけた。
 そして、
「もう、イヤだなあ…先生ったら…。」
とわざと明るく言い放った。 あかねにとって目の前の東風先生は憧れの男性(ひと)だった。いつから好きになったのだろう。生傷の絶えないお転婆娘だったあかねの擦り傷や打ち身を、ずっと前から診続けて治療してきてくれた頼もしい人だった。
 最初は年長の兄のような憧憬から出発したと思う。あかねの成長とともに、東風への感情もいつしか成長をし始めていたのだろう。気付くとそれは「恋」となって心の中を泳ぎ始めていた。
 でも…。あかねは失恋した。
 ライバルはかすみお姉ちゃん。
 叶う筈がない。東風もかなり前からかすみの面前ではチンプンカンプンを演じていた。極度の上がり症はかすみの前だと頂点に達するのだ。
 そんな、東風の豹変ぶりを、幾度となく、複雑な想いで見つめつづけてきた。<
 傍で見詰めているだけで、東風が誰を好きなのかは一目瞭然だったから。
 報われぬ恋ほど辛いものはない。
 その傷みがあかねの心に甦ってくる。もうとっくの昔に心の奥に沈めてしまった恋なのに…。


三、

 秋の夕暮れは釣瓶落し。
 接骨院を出ると、いつのまにか、太陽は西へと沈みかけていた。空行く雲は夕日の残照を受けて紫色に棚引いていた。すっかり暗くなるのも時間の問題だろう。
 あかねは暮れゆく道を黙ったまま歩いていた。
 その後を、乱馬があかねの薄い影を追いながら歩いた。目の前に写るあかねの背中は寂しげだった。あかねの手には、さっき東風から返してもらった「薄ピンクのリボン」。風に靡いてゆらゆらと揺れていた。一緒に握っている学生鞄の紺色に美しく栄えて、そこだけ光が集まってくるように見えた。
 返してもらったところで、リボンを結わえる髪はもう存在しない。短く刈った髪型にリボンは不用の長物だ。
 あかねは黙って、失った恋のことを思い出していた。過ぎ去った日々に思いを巡らせても何も進歩しないことは重々承知していたが、それでも、つとつとと想いは溢れ出してくる。

 …「初恋は実らないもの」と相場は決まっている。あの時の私は、それでも一縷(いちる)の望みにかけていたのだろうか?ううん、もう、とっくに諦める覚悟はできていた。ただ、踏ん切りがつかなかっただけ。

 髪を切られたとき、内心背伸びしなくて澄むとホッとした。お姉ちゃんとは勝負にならない。はじめからわかっていた。
 九能先輩のせいで、世の中の男連中にほとほと愛想が付き掛けていた高校入学当時の私。毎日が男たちとの勝負の連続だったから、生傷も絶えなかった。東風先生は大人だった。いつも、優しい言葉を私に、ううん、みんなに平等にかけてくれる、温かい人だった。男の子に対して不信感しか抱いていなかった私が、父親以外に気を許せたのは東風先生だけだったから。
 真剣だった…あの頃は。想いを伝えることは叶わずに終わった一つの恋。

 ピンクのリボンをぎゅっと握り締めながら、あかねは夕空の果(は)たてを見上げた。涙が零れそうになるのを堪えたのだ。
 乱馬はずっと黙ったまま、あかねの後を静かにつけていた。あかねの背中は「そっとしておいて。」と言っているようで、声を出すのも気後れがした。
 放課後、右京に『失恋でもしたんか?』と声をかけられてからあかねの様子が変わったのを、乱馬はちゃんと見極めていた。きっと、なくした恋を思い出したのだろう。そんな、あかねの切なさが、乱馬にも伝わってくる。
…あかねの、ばか…
 あかねの後姿に向かって、そう、呟きかける自分が惨めだった。
 慰めてやることができない。ことが東風先生への失ってしまった想いだと、自分の出る幕はないとわかっていた。いつもなら湯水のように涌いて出る「悪態」も今日ばかりは形を潜めていた。

 終わっちまったことを思い出すなんて。俺が傍に居るのに…それだけじゃあ不服なのか。いつだって、おまえのことを見詰めているのに。昔のことを思い出したところで、何の足しにもならないじゃないか。後退するより前進しないと新しいことは始まらないじゃないか。
 おまえらしくない…。

 乱馬には微妙なことで揺れ動く乙女心は理解できなかった。身体は半分、女に変身できても、心まで性が入れ替わる訳ではない。どこまでいっても、どんなに身体が変化しても、彼は彼。彼女にはなりきれなかった。
 当然、あかねの移り行く心情に想い巡らせられる訳もなく…。
 見守るだけしか術がない自分の不甲斐なさを恨めしく思った。

 その時、一陣の風が二人の傍を吹き抜けていった。

 道端の上に掛かる電線は、風のざわめきに大きくたわむ。
 風とともに、あかねが手にしていたリボンがふわりと宙に舞った。
 あかねが小さな声を上げる前に、リボンが乱馬の方へと飛ぶ。乱馬は手を広げると、飛んできたリボンを受け止めた。
「乱馬…。」
 後ろに侍っていた人影を見て、あかねははっとして呟いた。接骨院を出てから、すっかり彼の存在を忘れていたあかねは、驚いたように目を見張る。

 沈黙が二人の上を緩やかに流れた。 乱馬はあかねが落したリボンを無言のまま差し出した。その瞳は曇り一つなく粒らで真っ直ぐあかねを見詰めていた。あかねは、視線をまともに受けることができずに、目を反らした。
 そして、言った。
「要らない…。」 
 と。
 乱馬の表情はあかねの答えに、少し険しくなった。そして、フッと息を吐き出して低く唸るようにきびすを返す。
「おまえのもんだろ…。折角、東風先生が返してくれたんだろ?ちゃんと持ってけよ…。」
 彼の声は厳しかった。
「いいよ…。もう、使うこともないし…。」
 あかねは駄々をこねる子供のように言い捨てる。
 堪らなくなった乱馬は、あかねの手をぎゅっと掴んだ。無理にでもリボンを持たせようと試みたのだ。
「離してよ…。」
 あかねは甲高く乱馬の手をなぎ払おうとした。
「俺は…気に入ってんだから…。」
 乱馬はあかねに方向が見えない言葉を投げ掛けてきた。
「だったら、乱馬が持ってたらいいじゃない。そんなリボンっ!」
 あかねはますますヒステリックになって声を荒げた。
「だから…これって、あの、入学式の写真の時に付けてたリボンだろ?思い出みんな棄てちまう気かよっ!」

 あかねの動きが、乱馬を覗き込みながら止まった。
…え?

「だから…あの写真のリボン…棄てちまうことねえじゃねえか。ばか。」
 あかねはさっきの写真の光景を思い出していた。
 そう、彼が指摘したとおり、このリボンはあの時につけていたもの。かすみお姉ちゃんがこれがいいと言って選んだ色のリボン。東風先生も似合っていると言ってくれたあの入学式の帰り道の光景が甦る。
 あかねにもお気に入りだったリボン。
「乱馬…。」
 冷たく凍りかけていた心に温かいものが流れてきた。
…乱馬はあの写真を一目見ただけで、同じリボンと見切ってくれたんだ。
 そう思うと無性に嬉しくなった。
「棄てちまうなんて、勿体ねえよ…。いくら壊れたとは言っても、それはおまえにとってちゃんと次への糧となってるだろ?」 
 乱馬の瞳は真っ直ぐにあかねを見詰めた。そして、聞こえないほどの小さな声で言葉を継いだ。
「それに…俺はあの写真の笑顔…好き…だぜ。」
 そう言いながら、リボンを再び差し出した。
「うん。」
 あかねはリボンを静かに受け取ると、胸の前に両手で握り締めた。そして、今度は落とさないように、しっかりと鞄の取っ手に蝶結びで括りつけた。
あかねは心が少しずつ、呪縛から解き放たれてゆくのを感じていた。温かい乱馬の心が、自分の心に重なるように流れ込んでくる。
 そう、初恋は失ったけれど、それ以上に大切な愛情が芽生えていたことに改めて気付かされたのだった。
「要らない…なんて悲しいこと言うなよな。思い出は思い出だ。例え失恋の悲しい思い出でも。いいじゃねか…大切にしていたら。」
 乱馬はあかねに諭すように言い含めるとくるりと後ろを向いた。
 そして、
「帰るぞ…もう、こんなに暗くなっちまった…。」
 ポケットに両手を突っ込むと、先にたって歩き始めた。
「うん…。」
 あかねはその左手の輪の中に、自分の右手を絡めると、一緒に歩き出した。乱馬の肩は急に伸びてきたあかねの手に少し固くなったが、満足げに空を見上げながら黙って家路についた。
「ねえ、どうしてわかったの?あの写真と同じリボンって…。」
 あかねは少しはにかみながら乱馬に尋ねた。
「そりゃあ…わかるよ…。おまえのことだからな…。」
 今度は乱馬は独り言を呟くように小さく答えた。

『好きな人の持ち物はちゃんと覚えているのが男としての常だよん!』
 玄馬パンダがおどけて掲げた看板の文字が鮮やかにあかねの目の中に甦った。
「ありがとう…乱馬…。」
 あかねは心の声でそっと傍らを歩く乱馬に囁いていた。  街路の電灯が、二人の未来を照らすように、順番に点灯し始めた。道端の草むらでは虫の声。
西の空は鮮やかな夕焼けの残照が棚引く。きっと明日も晴れるだろう。



 完




一之瀬的戯言

 蒼葵さんのHP(閉鎖)への開設祝いに作った小説。
 初期作品の中では気に入っている作品です。

 テーマは「あかねの乙女心と乱馬の困惑」。
 秋という季節はいろいろと複雑な心を映し出すもの。そんなシーンを二人に重ねたくて描いた風景。
 お気に入りの短編作品のひとつです。 古今集から気に入っている和歌をひとつ
   ゆふぐれは 雲のはたてに 物ぞ思(おもふ)
       あまつ空なる 人を恋ふとて
 作者の意訳
  夕暮れには雲の果てを眺めて物思いにふけるのです。遥かな空にいるようなあの人を恋焦がれて。


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