◇猫叉   前編


一、
 真冬の月は冷たい感じがする。空の上から白い光で照らしつけてくる。
 あかねはとぼとぼと歩きながら家路を急ぐ。 
「すっかり遅くなちゃったな…。」
 学生かばんを持って見上げる空には煌々と月が輝く。
 一陣の風が渡ってゆき、思わずその冷たさに身震いした。
「早く帰ろう…。」
 あかねは足を一層速めた。とその時、道先の土塀に一人の男が空を眺めながら腰掛けているのが見えた。白い着物の上に薄い灰色の羽織。今時珍しい和装の青年だった。
 …変な人。
 あかねは不審に思いながらも、急ぎ足でそこを通り過ぎようとした。
「もし、お嬢さん。」 
 傍らを行過ぎたとき、不意に呼び止められた。
 あかねは立ち止まるのもなんだか気が引けて、そのまま気付かぬふりをして強引に通り抜けようとした。途端、男が塀の上から舞い降りてきた。
「え…?」
 唐突の行為に、思わず足を止めてしまった。
 音もなく地上に着地した男は、あかねの方を向いてにっこりと微笑んだ。
 切れ長の目に透き通るような白い肌。すらりと伸びた背。半世紀前と見まごうような井出達。
「これを落とされましたよ。」
 そう言って青年はあかねに光るものを差し出した。
「あ…これ。」
 あかねは上気しながら落とした物を手に取った。
 銀色のネックレス。
 珍しく乱馬が差し出した彼からの贈り物だった。商店街へ御使いで買い物に行ったとき、たまたま福引で引き当てたからおまえにやると今朝方真っ赤になりながら差し出してきたものだった。
 そんな大事なものを落としたなんて。
「ありがとうございます。」
 あかねは丁寧に礼を述べた。
 青年はにっこりと笑ってあかねを見据えた。
「綺麗だ…。」
「え?」
 あかねはその声に思わず訊き返していた。
「いや…君はとても美しい…。」
「は、はあ…。」
 青年の意図がわからずにあかねは戸惑いの表情を向けた。
「名前はなんと言われる?」
 青年は唐突にあかねに問いかけた。
「あかね…天道あかねっていいますけど…。」
 躊躇いながらもあかねは自分の名を告げていた。
 青年の目の奥で不気味な光が射した。しかし、あかねは残念ながらそれに気づくことはなかった。
「あかね…。良い名だ。とても緋色が似合いそうな…。」
 そう言って青年は目をますます細めた。
「あの…。」
 青年の真意が汲み取れないあかねは戸惑うばかりで言葉が継げなかった。
「また、お会いしましょう…是非にでもね。」
 そう青年はあかねに問い掛けると、くるりと背を向けて、あかねが来た方を向いて歩き始めた。
 それを見送る間もなく、一陣の空風がまた通り抜けてい。道端の落ち葉が風と共にカラカラと音をたてて舞った。思わず身を竦め、風が凪ぐのを待った。
 その間に青年の姿は辺りから消えていた。
 手に残ったのは乱馬から贈られた銀のネックレス。
「変ね…落とすなんて。ちゃんと鞄に入れていたのに…。」
 あかねは合点が行かなかったが
「ま、いいか。早く帰ろう。」
 そう口に出すと、また道を急ぎ始めた。
 身の上に大変なことが起きようとは、その時点ではまだ何もわからかったのだか…。


二、

「たくよー。こんな時間まで、学校で何やってたんだ?」
 家に帰り着くと、乱馬が不機嫌そうに玄関先で出迎えた。
「だって、仕方ないじゃない。試合の助っ人頼まれちゃったんだから。」
 靴を脱ぎながらあかねが答えた。
「とにかく…宿題手伝ってくれるっていう今朝の約束事、忘れんじゃあねえぞ…。」 
 乱馬は念を押すと、奥へと消えた。
「もう…身勝手なんだから。何で私が、居眠っててくらったあんたの「特別メニュー」に付き合わないといけないのよ…。」
「ああ言ってるけど、乱馬くん、あんたの帰りが遅いってずっと心配してたんだからね。」
 学生鞄を傍らに置いて玄関へあがると、階段の上から声がした。姉のなびきだった。
「まあ、もう少し言いようはあるんでしょうけど。あれが精一杯なのよ。彼。」
 そう言いながらなびきは一階へ降りてきて、茶の間の方へと去っていった。
 心配されて嬉しかったが、言い方があまりに素っ気無い。しかしまた、それが乱馬だろう。
 
「先に自分の宿題済ましちゃうから。呼ぶまで自分でやっときなさいよ。」
 夕食後、あかねは隣の乱馬に声を掛けた。
「ちぇっ!最初っから全部教えてくれてもいいじゃねえか。」
 乱馬は三膳目のご飯を托しこみながら答えた。
「何言ってんの。少しくらい自分で考えないと、頭が使えなくなるでしょう。世の中はそんなに甘くは無いの。」
 あかねは自分の食器を片しながら答えた。

 自分の部屋へ入ると、さっき落としたネックレスを摘み上げた。
「何で落としたんだろう。」
 ネックレスをしばらく見詰めた後、あかねはそれを首にかけてみた。
 福引であてたから…という曰くつきのものでも、あかねにとっては大切な乱馬からの贈り物だった。たとえわざわざ買ってくれたものでなくても、あかねには充分嬉しかった。照れながらそっと差し出した乱馬は真っ赤になっていた。
「代わりに、昨日貰っちまった宿題やるの手伝えよ…。」
 乱馬は正面を向くのも恥ずかしいのか、口ごもりながらそんな言葉を吐き出したのだった。ネックレス絵をプレゼントしてくれる理由付けに「宿題」を持ち出したようだが、本当のところは違うのではないかとあかねは勝手に思っていた。いや、そう思いたかった。乙女心というものは、そういうものだ。
 ネックレスがあかねの胸元でさやさやと揺れた。
「さ、手っ取り早くやっちゃおっ!」
 そう気合を入れると、あかねは机に向った。そして宿題をやり始めた。 
 あかねは優等生の部類に入るだろう。根が真面目なのである。学業の方は俄然乱馬より優秀だった。
「今日は冷え込むわね。」
 手元のリモコンで部屋に据え付けてある暖房器を入れた。天道家はもう随分のボロ屋だ。日本家屋の特長よろしく、そこら中から隙間風が染み渡る。
 かじかんだ手を擦り合わせながら、あかねは問題集を開いて解き始める。
 カタカタ…コトコト…。
 窓ガラスが鳴る音がした。風が出てきたのだろうか。
 ガタガタ…ゴトゴト…
 窓ガラスの振動は次第に強くなる。
「何?」
 あかねはひょっと窓辺に目をやった。
「え…?」
 窓の外を覗いて驚いた。さっきの青年が窓の外で笑っていた。
 ここは民家の二階。瓦屋根に上がらない限り、覗けるはずが無い。
 あかねは目をこすってみた。
 …なんだ。気のせいか。
 窓には何も写っていない。ただ、夜の闇が広がっていた。
 ほっと息をついてもう一度椅子に深々ともたれかけた。
 あかねの肩を誰かが掴んだ。
 ぎょっとして振り返ると、いつの間に忍び込んだのか、青年が立っていた。
 悲鳴をあげようとして、あかねは身をよじったが、びくとも動かなかい。声も出ないのだ。
 青年は動かないあかねの頬をそっと撫でながら、妖しく笑みを浮かべていた。 
「随分、探しましたよ。天道あかねさん…。」
 小気味よさそうに彼はあかねに気安く話しかけてくる。
 何故かあかねは体中に虫唾が走るのを感じずにはいられなかった。
 …乱馬…
 動かない身体と出ない声で必死に彼を呼んでいた。
「だめだめ、誰も来やしませんよ。それより、私の嫁になりなさい。」
 青年は耳を疑うようなことを口にし出した。
 …え?
 あかねは出ない声を空に放ちながら、青年の方を向きやった。青年は不気味な笑みを浮かべていた。
「私の名は猫叉。この国に棲む聖猫(せいびょう)です。ちょうどこの前から嫁御を探していたところなんですよ。」
 あかねは力を振り絞って、必死に逃げようと身体を捩った。
「嫌だとでも?」
 余裕のある笑みを浮かべながら猫叉はあかねを舐めるように見詰めた。
「気が強いんですね。あなた。この私にふさわしい…。ますます我が嫁にしたくなりました…。私と結ばれれば永遠の若さを保つことができるんですよ。悪い話ではないでしょう?」
 愉快そうに猫叉が笑う。
 あかねは必死に動こうと抵抗をしていた。全身で拒絶しようと悶えるようにあがいた。 「聞き分けがないようですね。いいでしょう。ふふ。一時だけ考える時間を上げましょう。良く考えて返事をしてくださいな。あなたが拒否することが出来ないように、呪いをかけておきますけどね…。悪いと思わないでくださいよ。」
 そう言うと、猫叉は懐から土鈴を取り出した。そして、ころころとあかねの上で鳴らした。
 あかねは鈴の音色を聞くうちに、目の前の猫叉が大きくなるような錯覚にとらわれた。いや、自分が縮んでいったのだ。
「ほら…。あなたが承諾しないと、もう、人間の姿形に戻ることはないんです。一生猫のまま過ごすか、私と結ばれて永遠を手に入れるか。考えるまでもないでしょうけれどね…。」
 猫叉はきっと睨むあかねに問い掛けた。
「にゃあ…。」
 あかねは叫んだ。意識はしっかりとしているものの、何を喋っても言葉にならない。
「私は婚礼の準備にでもとりかかりましょうや…。のちほど返事を伺いにきますからね…。ふふふ」
 そう言って猫叉は闇夜に消えていった。
 取り残されたのは、猫に変化(へんげ)してしまったあかね。


三、

「何やってんだよっ!」
 その時、ドアの外で乱馬の声がした。
「おいっ!宿題先に片すって言っておきながら、おまえ、眠ってんじゃあねえだろうな…。」
 乱馬はそう声をかけてドアを叩く。
 一向に呼びに来ないあかねに痺れを切らしたのである。
「くおらっ!返事しろ。あかね」
 バタンと乱暴にドアが開いて乱馬が入ってきた。
「あかねっ!?」
 彼の目に最初に飛び込んできたもの。それは、白い猫。
 
「うぎゃーっ!!!」
 
 猫嫌いの乱馬はありったけの声を搾り出して、叫んでしまった。
  
「何だ?何だ?」
「どうしたの?」
「乱馬くんっ!」

 勢い良く、階下から天道家の住人たちがバタバタと駆け上がってきた。
 乱馬は白い猫を指差したまま、口をぱくぱくさせていた。情けないことだが、乱馬は猫が苦手、いや、怖くて溜まらないのである。幼少時、父に施された過酷な荒修行で猫嫌い、猫恐怖症になってしまったのである。
「まあ、可愛いネコちゃん。」
 かすみがそう言って猫を抱き上げた。
「みゃあ…。」
 あかねは自分の存在を示すべく、必死で声を上げたが、猫の身の上。人間の言葉は喋れなかった。漏れ聴こえるのは猫の鳴き声だけ。
「女の子ね。」
 なびきが脇から覗いてそう話し掛けた。
「乱馬、情けないのう…。こんな猫一匹に恐れをなして腰を抜かすとは。」
 かんらからと玄馬が笑った。 
「誰のせいでこうなっちまったのか考えたことあんのかよっ!」
 乱馬は半べそをかきながら、部屋の隅で震えていた。
「あかねが連れてきたのかね…?」
 早雲が言う。
「そういえば、あかねちゃんが見当たらないわね。」
 のどかも後ろからひょっこりと覗いていた。
「窓が開けぱなしになってるから、この子きっと屋根を伝って紛れ込んだのよ。」
 かすみがそう言って笑った。
「大方、そんなところだろうよ…。」
 玄馬がまだ怖がる息子を横目で一瞥しながら答えた。
「あら?この子、変なものしてるわね…。」
 かすみが抱き上げた手をかざして言った。
「ほんとだ。ネックレスなんかしてるわ。」
 なびきも同時に覗き込んで答えた。
「ネックレス?」
 我を失って怖がっていた乱馬に急に血の気が戻った。恐々と猫の方を見やった。猫の首には見覚えのあるネックレスが吊り下がっているではないか。
「な?そのネックレスって…。」
 恐る恐る猫に近寄って乱馬は己の目で確かめてみる。
「そ、それは…。」
 …俺が今朝方あかねに差し出した銀のネックレスじゃねえか…。
 そう言葉を飲み込んで猫の方をじっと見詰めた。
「な、なんで、おめえ、そんなもん持ってんだ?」
 猫が怖いということをしばし忘れて乱馬は彼女に近寄った。
 その時乱馬は猫の向こうに微かにあかねの幻影を見たような気がした。
「お、おめえ、ま、まさか。あかねか?」
 猫の瞳を見つめて、乱馬は思わず口走った。
「にゃあ…。」
 猫はそうよとでも言いたげに乱馬を見つめ返して一声鳴いた。
「何を口走っとんだ?おまえは…。」
 後ろから玄馬が頭をこついた。
「だって変じゃあねえか。なんでこいつが、あかねのネックレス持ってんだ?」
「あかねのネックレス?何よそれ。」
 なびきが横目で乱馬に問い返す。
「ネックレスがあかねのものとして、何でおまえがあかねくんの物だと知っておるんだ?え?」
 玄馬も突っ込んできた。
「あ、いや、その・・俺が今朝、あかねに…。んもう、そんなことはどうでもいいっ!とにかく、その猫がつけてるネックレスはあかねの物なんだよ。」
「寝ぼけるなよ…。乱馬。あかねくんが猫になるわけ無かろうが。」
 玄馬がしょうのない奴めというように言い含めた。
「良く見ろよ。こ、こいつ、やっぱりあかねだ…。目の光なんてあかねそっくりじゃあねえかっ。」
 乱馬はそう言って抱きつこうとしたが、目の前の物体が猫であることを再認識してしまい、そのまま、固まってしまた。
「だ、だめだ…。あかねだったとしても、こいつは猫だ…ち、近寄れねえ…。」
 情けない話であるが、乱馬はそのまま後ずさりした。
 猫は勢い込んで、乱馬に飛びついてきた。あかねにしてみれば、猫の形になってしまても、乱馬が見分けてくれたことが嬉しくてたまらなかったのだ。
 しかし…。乱馬は情けないことに、猫に飛びつかれてそのまま気を失ってしまった。恐怖心が限界に達したのだろう。
 
「ちょっと乱馬くんっ!」
 なびきが乱馬に声を掛けたのと同時に、近くで鈴の音が鳴った。



つづく




「猫叉」は「ねこまた」と読みます。
 猫の夜叉・・そう、猫の鬼、化け猫といった意味合いの言葉になります。


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