◇夢幻香   その四


十、

 らんまは女の格好のまま、花嫁の支度係の責任者を命じられたなびきの元で働くことになった。
 控え室は明るく、純白のウエディングドレスが中央に飾られていた。
 らんまはそれを見上げて、複雑な心境になっていた。ふと、あの時の光景を思い出す。そう、呪泉洞から引き上げて間もない頃、見た純白なドレス姿のあかねの微笑を。
 餓鬼だった自分は(今でも充分まだ餓鬼には違いなかったが。)、素直に嬉しさが表現できなくて、『らんま、あたしのこと好きなんでしょう?』と向けられた笑顔に『そんなこと言ったっけ?。』と切り替えした。あかねの怒った顔。
 ふとそんな思い出が頭の中に交差した。

「そのままじゃまずいでしょ?これに着替えてね。」
 なびきがらんまに服を持ってきた。メイド服。良牙をからかった「ねえや」の洋装に似ている。頭にレースの飾りなどつけて、何処から見ても「メイド」だ。
「似合うじゃん。」
 なびきは悪戯っぽく微笑んだ。
 それには答えないで、らんまは流れてダランとした髪を慣れた手つきで編み始めた。おさげを作ったのだ。髪が背中に靡いていると、何か自分ではないような気がした。おさげを編むと落ち着く。
 なびきはおさげを編み終えたらんまに言った。
「奪還作戦に移るのは式場の方がいいわよ。みんなに油断が生じるし。それに今、侵入者をシラミ潰しに探している最中だから。逃げにくいからね。」
 そう言って釘を刺す。
「それとこれ。忘れないでね。さっき、庭先で拾ったのよ。あんたのでしょ?」
 なびきはさっと小さなポットをらんまに差し出した。確か、ここへ紛れ込む前になびきが渡してくれたポットだった。
「あ、もちろん、報酬は後でいただくからね。」
 ちゃっかりしているなびきだが頼もしく見えるから不思議なものだ。

 ややあって、あかねが入ってきた。
 たくさんの取り巻きが支度を手伝いにやって来る。かすみやのどか、シャンプーや右京までいる。みんな穏やかな笑顔をしていた。
(こいつの描き出す世界には争いごとや、いがみ合いはねえのかもしれねえな…。)
 らんまはぼんやりそれを眺めていた。
「さあ、殿方は出て行ってね。これから支度をはじめるんだから。」
 なびきが言ってムースや九能、良牙をたたき出す。
(あ、俺…。)
 らんまは戸惑いながら部屋をウロウロしていた。女の形をしているとはいえ、元は元気な男子。あかねの着替えなど見据えられるものではない。
 花嫁の支度は多忙を極める。髪をすいたり、着付けをしたり。化粧をしたり…。らんまはドキドキしながら、その様子を人垣の後ろから眺めた。
「ほらほら何やってんの。忙しいんだから。きびきび働いてよね。」
 なびきがからかい半分、らんまをこき使う。
 らんまはあたふたと指示されたとおりに動き回る。傍の姿見に映し出されるあかねを覗いて、思わず漏らす溜息。小一時間かけてあかねのウエディングドレス姿が出来上がった。
 ただ、気になったのは、あかねの目がずっと虚ろだったこと。きっと香の魔力に捉えられて、己を見失っているのだろう。

 そこへ偽乱馬が現れた。きちんとタキシードを着こなしている。
 あかねの表情が和らいだ。らんまはそれを苦虫を噛み殺したような表情で見据えた。
 何か一言二言囁き合うと、二人はドアから外へと出て行った。

 気になったらんまは、用事があるふりをして、こそっとそれに従った。

 あかねと偽乱馬は中庭の方へと歩き出す。あかねの歩みは夢遊病者のように頼りなく見えた。
 傍にあるのは天道家の古い家。現実世界と殆ど様子が変わらなかった。しかし、道場のある位置あたりには白い建物があった。どこか現実世界と違う。ちぐはぐで変だった。そのあたりがあかねの描き出す夢の世界の限界だったのかもしれない。
 ただ、白い建物の奥には天道家にない赤い薔薇園があった。血の滴るような見事な薔薇が垣根のように広がっている。彷徨うように薔薇園の中を歩く彼女の後姿が、らんまには儚げに見えた。
 らんまは全身の神経を空間に広げて、二人の気配を追った。

 薔薇園に足を踏み入れたとき、つんと鼻についたのは花の香りだった。いや、正確には香炉の香と同じ匂がした。
 らんまは薔薇園の奥の方から漂ってくる妖気に満ちた気配を感じていた。気を探ることは武道家としてごく当たり前のことだった。嫌な匂だった。自分が自分でいられなくなるような目眩を覚えた。
 と、前を歩く二人の姿が歪んで見えた。
 煙がうっすらとらんまの身体に巻きつき始める。
 らんまは思わず身を屈めた。
 武道家の闘争本能が彼をかきたてる。

『ふふ…。やっと見つけたぞ…。早乙女乱馬。』
 背後で声がした。
「誰だっ?」
 らんまは振り返って構えた。声の方を向いて気配を貪る。
 背後に何か蠢いている。あかねを取り込もうとしている黒い影かもしれない。
 らんまは煙の向こうの気配を必死で探った。


十一、

『そんなに構えなくてもいいよ。いや、構えても無駄だ…。貴様はもう囚われて動けまい。』
 声は不気味に笑った。
 らんまの足元が固まってしまったように動かない。手を挙げることも叶わなかった。
 ゆっくりと香の煙がらんまの身体に巻きつく。その煙に囚われてしまったようで、体が金縛りにあったようにびくともしない。
 気功破を打とうと掌を広げたが、虚しく空を舞うだけで、飛ばすことができない。
『抵抗したって無駄なこと。あかねはもう、きみじゃなくて、あそこにいる乱馬の虜なんだから。』
「くそっ!そうはいくか…っ!」
 らんまはもがいたが、体がピクリともしなかった。汗が額から流れ落ちる。
『諦めの悪い奴だな。まあいい。ならば、これを見るがいい。』
 
 らんまの目の前が急に開けた。煙がさっと下へと沈んだ。
 すると、あかねと偽乱馬が目の前に現れた。
「あかねっ!」
 らんまは叫ぼうとしたが、声の自由までも奪われて、あかねの耳には届かない。

 目の前のあかねは偽乱馬にありったけの笑顔を振り撒いている。彼女たちの会話が耳元へ聞こえてくる。

「あかね。俺のあかね。きれいだよ…。」
 その男はあかねに話し掛ける。歯の浮くような台詞をとうとうとあかねに話し掛けている。男の背後に揺れるもの、それは自分と同じおさげ。
 あかねの方へ偽乱馬の手が伸びた。
 それに絡められるようにあかねはうっとりとした表情をそいつに向けていた。
「嬉しい…。」
 そいつの賛美の言葉に彼女は身を預ける。

 らんまの心がズキンと痛んだ。
…そこにいるのは俺じゃねー。乱馬じゃねーんだぞっ!…。
『ふふ。果たしてそうかな?今のあかねには彼が早乙女乱馬。優しく、凛々しく、そして何もかも包める理想の乱馬だ。おまえより何倍も優れた。』
 声は耳元で嬉しそうに囁く。

 偽乱馬の手があかねに触れた。
 そして優しく彼女を抱きしめる。
「もう離さないからね…。あかね。君はぼくのものだ…。」
 あかねの目はうっとりとそいつを見詰めた。
「ねえ…。あたし。可愛い?」
 あかねはそいつの胸に顔を埋めながら囁くように尋ねた。
「ああ、可愛いに決まってるだろ?どうしてそんなことを訊くの?」
 乱馬は柔らかく彼女のベールを撫でた。
「だって、乱馬。あたしのこといつも『可愛くねえっ!』って叫んでたじゃない。」
 あかねは伏せがちに答える。
「そんなこと、俺は思ってないし、この先、おまえに言うつもりはないよ。あかねは可愛い。だからそんなことは忘れておしまい。」
「ほんと?」
 あかねが見上げて訊き返す。
「あかねは可愛い…。」
 二人の影は互いをきつく抱き寄せて重なる。

 らんまはそんな行状を見せ付けられて、心臓が張り裂けそうなくらい苦しく唸るのを感じていた。
『ほら、あかねは嬉しそうじゃないか…。おまへは彼女をいつだって困らせたり悲しませたりするような言葉しか吐けないだろ?でもあいつは違う。あかねが望みどおりの甘美な言葉を与えられる。』
 他の男に抱かれる彼女は見たくないとらんまは思った。が、目を閉じて顔を背けることも許されす、らんまはあかねと偽乱馬の抱擁を見せ付けられる。
「嫌だ。見たくねえっ!」
 声にならない叫びで言葉を吐いた。
『見ろ…。あかねの幸せそうな微笑。彼女の本当の幸せを望むなら、あの乱馬と結ばれるのが一番いいんだ。』
「違う…。あかねが望んでいるのはまやかしの幸せじゃねえっ!」
『それはおまえの思い上がりだ。これが彼女の願望。優しくて自分だけを見つめる頼もしい男と結ばれること。それが彼女の幸せだ…。』

 らんまはふと出会った頃のあかねの顔を思い浮かべた。ロングヘアーを靡かせていたあかね。東風先生に想いを寄せていた寂しい瞳。本当は泣き虫なくせに、いつも強がって大見得を切る。そんな強がりの裏に秘められた優しく弱いあかね。無性にそんな彼女を守りたくなった自分。
 「許婚」として強いられて、その事実に反発して。それでも惹かれる想いは日を重ねるごとに膨らんで…。
 でも、確かに自分はあかねに何ができただろう?
 自称許婚たちに追いまわされて、ヤキモチを妬かせた。突っかかってくる彼女に対して出る言葉は「可愛くねえっ!」という悪態。

『ほら…。おまえは彼女を大切に扱ってきたことがあるか?本心をぶつけたことがあるか?…なかろうに…。おまえに彼女を愛する資格はない…。おまえに彼女を幸せにすることなど、不可能だ…。彼女は穏やかな幸せを望んでいる。だから、この世界がこの「夢幻界」が存在する。穏やかで、愛情に満ちて…。その中に永遠の想いを込められるんだ。幸せじゃないか…。』
 確かにこいつの言うとおりかもしれねえと、ふと心が気弱になるのを感じた。声がだんだん遠くなる。
『おまえも静かに消えればいい。この夢幻の永遠の香りの中で、昇天すればいい。ほら…。安らかな気分になってきただろう?』
 らんまは静かに目を閉じた。穏やかで波立たない淡い光が自分を気持ちよく包んでゆくのがわかる。 目の前を漂う煙は柔らかく包み込むようにらんまを捉えてゆく。
『そうだ…。意識を消して、我と同化せよ…・。それで終わる…。』
「意識を…消す…。同化…。あかね…。」

 薄れる意識の中でらんまはもう一度あかねの名を呼んだ。
 あかねが脳裏で微笑んだ。
「あかね…笑うとかわいい…。あかね…。もう一度微笑んでくれ。俺のために…。いや、微笑ませたいっ!俺は…俺はおまえを…愛してる。他の誰よりも…だから…。」
 らんまはくわっと目を見開いた。
「俺はおまえを失うわけにはいかねえんだっ!あかねーっ!!」
 らんまの全身に力が漲った。
「うお―――ッ!」
 雄叫びのような叫びと共に、らんまは自分に纏わりついていた煙を払拭した。

『もう少しで同化できたものを…。』
 声がおどろおどろしく響き渡る。
「もう迷わねえ…。俺は絶対あかねを連れて帰る。」
 らんまに気迫が戻った。
『ふん。もう遅い。今頃は式が厳かに始まっているだろうよ…。』
「なら、あかねを奪還するだけでいっ!」
『させるかっ!』
「やっ!」
 煙が纏わりつこうとしたのをらんまは気で拡散した。
 らんまは煙を蹴散らすと、一目散に駆け出した。白い建物に向って…。


十二、

 鐘が建物に鳴り響く。教会のような白い建物の中で、静かにとの時を待つあかねがいた。
 赤い絨毯のバージンロードを愛しい人と寄り添って歩く。乙女なら誰もが憧れる情景。
 傍で微笑む乱馬は頼もしく見えた。これから始まる幸せの予感に、あかねの小さな胸は高鳴る。
 微笑みあい、式台の前に厳かに立った。
 周りでは穏やかな人々が二人の誓いをいまやと待ち受ける。
「汝、早乙女乱馬。この女性を伴侶と認め、未来永劫、傍にあることを誓うか?」
「はい。」
 偽乱馬は胸を張って答える。
「汝、天道あかね、。の男性を伴侶と認め、未来永劫、傍にあることを誓うか?」
「はい…。」
 あかねは静かに頷いた。
 台の上には香炉が妖しげに光を放っていた。

 らんまは駆けた。途中でらんまはなびきが渡してくれた小さなポットを取り出すと、頭から引っ掛けた。
「あちっ!」
 湯は以外にも熱かった。湯冷めするといけないと思ったのか、なびきは熱湯を入れていたらしい。それに、思ったより冷めておらず、火傷しそうなくらい熱かった。
 みるみるうちにらんまの身体は伸び、逞しい筋骨が現れる。メイドの格好をするわけにも行かず、さっとスカートやブラウスを脱ぎ捨てると、トランスとタンクトップという姿になった。


「では、誓いのくちづけを…。」
 あかねのベールにそっと手を掛けて、偽乱馬はうっとりと目を閉じるあかねの紅い唇を見詰めた。獲物を射止めた満足げな微笑をあかねに向ける。 
 そしてあかねの肩をくいっと抱き、力を入れた。
 あかねははっとして目を見開いた。一瞬我に返り、あかねは叫んだ。
「あなた、乱馬じゃないの?」
 夢の中に捕らえられていたあかねの潤んだ瞳に恐怖が映り込む。目の前にいる乱馬の顔をしているそいつ。さっきまで優しい笑顔を讃えて微笑んでいたそいつが魔物に見えた。
 おどろおどろしい煙が背後から流れ込んでくる。それは瞬く間にあかねを包んだ。逃さないぞと言っているように。
 あかねは身をよじって逃げようとあがいた。満ち足りた想いは恐怖に取って代わられる。だが、乱馬にしっかりと捕まれた肩から逃れることができなかった。
「永遠に俺と一緒に…。この香炉の中に沈んでいくがいい…。」
「いやあっ!」
 あかねの悲鳴が轟いた。周りに居た人々は、揺らめいて煙と化し、昇華し始めた。さっきまで微笑んでいた同席者たち。霞む紅い炎のような煙に同化してゆく。
「もう遅いよ…。君は僕のもの。永遠の虜。」
 くくっと目の前の乱馬が嘲笑した。
「この香炉の中で俺と同化して、美しき夢をくゆらせる煙の元となるがいい…。さあ、誓いの唇を僕に…。」
「いやあっ!止めてっ!」
 あかねはもがいた。乱馬の手を突き飛ばし、夢中で逃げようとした。
 が、すぐに絡め取られる。煙は逃がすまじとあかねの周りを取り巻いた。
 偽乱馬は逃れられないように右腕であかねを抱き込み、空いた左の掌をあかねの頬に添えた。あかねは抗うことができずに、無理矢理顔を上に向かされる。
「あかねは可愛い…。今まで取り込んだどんな女の子よりも。ずっと。」
 偽乱馬は獲物を舐めるように見詰めた。
「全てが終わる…。さあ…。」
 そう言いながら偽乱馬の口はあかねのそれを吸おうと近づいた。

 そのすぐ傍をを光りの輪が横切った。
 ドンッ!と弾かれたような音がした。

「待ちやがれっ!この偽者野郎っ!あかねを放せっ!」

 建物の窓が割れ、乱馬が飛び込んできた。
 目の前に再び乱馬が現れてあかねは目をぱちくりさせた。
「おまえ…。消えなかったのか?」
 偽乱馬は睨み返すと、あかねをぱっと放した。
「消されてたまるかよっ!それに…消えるのはおまえだあっ!」
「ふん…。威勢だけはいいな…。だがそれがいつまで通用するかな…。」

 あかねは二人を見比べた。
 さっき唇を奪おうとしたタキシードの乱馬とタンクトップの乱馬。乱馬が二人いる。
 ここは一体何処なのか?彼女は自分の置かれた状況がわからなかった。ましてや自分が思い描いた世界に取り込まれていたなどということは。
 ただわかるのは、自分を襲おうとした乱馬は偽物で、助けに入ってくれたもう一人の乱馬が本物だろうということ。
「乱馬っ!」
 あかねは割り込んできた乱馬に向って叫んだ。
「任せとけっ!こいつは俺が…俺がぶっ倒してやるぜっ!」
「ふん。消えそこないがっ!」
 
 乱馬と偽乱馬の真剣勝負が始まった。



つづく



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