◇夢幻香  その2

四、

「たまには手合わせしようぜ…。」 
 帰宅して鞄を置くや否やあかねに向って叩きつける言葉。
 不器用な彼にはこれが精一杯だった。
 武道家は武道家同士、身体をぶつけることが最良の仲直りの法だと彼なりに考えた末の結論だった。
「手合わせ?」
 あかねは不思議そうに乱馬を見上げた。
「だから…。稽古の相手してやるって言ってんだよ。この頃おまえ、怠ってるだろ?身体鍛えるの。」
「だって…。今更身体鍛えるのなんて必要ないじゃない。」
 あかねが無表情で乱馬に吐いた。
「はあ?なんだそれ…。おめえ、熱でもあるのか?」
 乱馬は目を見張った。
 あかねはこの道場の大切な後継者。彼女自身にもその自覚は幼い頃からあったらしく、男顔負けの修行をこなしてきた。空手、柔道、合気道、剣道、…凡そ武道という名のつくものは何でもござれ、殆どの武道を網羅しているごった煮のような「無差別格闘流」。その一流派の天道流の後継者でもあるあかね。「身体を鍛えるのなんて必要ない」などというような馬鹿げた言葉を吐くような彼女ではなかった筈だ。
 乱馬は困惑極るような顔をした。
「おめえ…。寝言でも言ってるのか?いつからそんな怠け者になったんだ?」
 乱馬が詰め寄った。あかねの身体から微かに何か甘ったるい匂いがした。移り香かと乱馬は一瞬たじろいだ。
「だって、道場継ぐのはあんたなんだから…。私は稽古なんてしなくていいって言ったじゃないの。」
 あかねの言葉に乱馬は目をパチクリと瞬(しばたた)かせた。
「言ってねえぞ、んなこと。だいたい…。そんなこと俺がおまえに言うわけねーだろがっ!」
「嘘つきっ!言った。」
「言ってねえ!」
「言った…。」
 と押し問答。
「何時言ったんだよ?」
「昨日っ!」
「あん?」(何言ってんだ?こいつ。)
 勿論乱馬はそんなことをあかねに言った覚えはない。第一、五日前から殆ど会話なんて交わしてない。
「とにかくいいの。あたしは。花嫁修業でもするから。」
「ちょっと待てっ!花嫁修業ってっ?」
 乱馬は信じられないようなあかねの言葉に反応した。
「何よ…。明日、祝言挙げるって約束したじゃない…。」
 あかねが気恥ずかしそうに俯く。
「何っ?誰と祝言挙げるんだ?」
 乱馬は金切り声をあげて詰め寄った。
「バカ…。あんたとに決まってるでしょ?からかうのもいい加減にしてよね。私いろいろ準備に忙しいんだから。」
 そう言うとあかねはバタンと部屋に入って、自室のドアを閉めてしまった。
 戸の外に追い出されるように立ち尽くす乱馬。
…どうなってんだ?俺があかねと祝言を挙げるって?言った覚えなんかねーぞっ!…
 下心満載の家族達が勝手に話をすすめたのだろうか?そんな考えも過ぎったが、隠し事が下手な天道家及び早乙女家の面々。そんな阿呆な計略を練る筈がない。練っていたとしても、こちらに筒抜けになる筈だ。だとすると、あかねは何か悪い夢でも見ているのか、それともゆかが言うように何か悪い者にでも憑かれているのだろうか?

 黙ってあかねの部屋の前に腕を組んで佇んでいると、なびきがひょっこり顔を出した。
「ちょっと乱馬くん…。」
 手招きして自室へ入れた。
「ねえ、あんた…。あかねと喧嘩してるわよね?」
 ベットの上に軽く腰掛けてなびきが乱馬を見詰めた。
「あ、ああ…。五日前から殆ど喋ってねえ…。何でそんなこと聴くんだ?」
「ちょっと気になることがあってね。ま、百聞は一見にしかず。今夜十一時頃、みんなが寝静まったらここへ来て御覧なさいよ。」
「あん?」
「あかねの様子、ちょっと変だと思うでしょ?」
「ああ…。なんか、ちょっとな。」
「私も正直心配なのよね。可愛い妹だし…。今回は無報酬で力貸すわ。なんか、嫌な予感がするのよね…。」
 珍しくなびきの表情が硬かった。第一、無報酬で力を貸すなんて、普通のなびきなら絶対言わないだろう。

 なびきの申し出を受けるような形で、乱馬は十一時を回るとそっと二階のなびきの部屋へ入った。
「いらっしゃい。待ってたわよ。」
 なびきはパジャマ姿で乱馬を迎えた。
「ねえ、あかねの部屋の前通って来た?」
「あん?」
「何か感じなかった?」
「そういや、なんか変な匂いがしてたなあ…。線香のような、独特な。ぷんと鼻についてきやがった。」
「やっぱりね…。」
「何か知ってるのか?」
「うん、五日前にね、あかねが下校途中に露店のお香屋さんのお婆さんに貰ってきたってやつ。何か匂うのよね。」
「匂うって?くさやみたいに臭いのか?」
「あのね…別に「悪臭がするっていう意味じゃないわよ。匂うって…。あの日からちょっとあかねの様子が普段と違ってるていうか…。あの香、何か妖しげなもんじゃないかしらってね。」
 乱馬は黙って腕を組んだ。香のことは初耳だった。
 が、夕方あかねに対峙したとき、彼女の周りから何か匂いがしていた。甘酸っぱいような、きな臭いような、独特の匂い。あれは焚き込めた香からの移り香だったのかもしれない。
「気になるのよ…。露店が出てたってあかねは言ってたんだけど。私は見てないし。クラスメイトなんかにも聴いてみたけど、そんな露店、見たことないって…。なんか変だと思わない?」
 なびきの言うことは信憑性がある。お金に目聡い彼女は、鋭い分析能力を持っている。論理的思考の持ち主だ。むやみやたらに想像だけで物は言わない。なのに今回は気になるとはっきり言う。
「ちょっと覗いてみたらどう?」
「は?」
「だから、あかねの部屋へ忍び込んでみなさいよ…。」
「え…。」
 乱馬は言葉に詰まった。当たり前だ。夜中にレディーの、それもあかねの部屋へ忍び込むなんて。考えただけでドキドキする。純情な彼だった。
「黙っててあげるから…。」
なびきは真顔で言う。
「そんなに気になるんなら、おめえが覗けばいいだろが…。」
「嫌よ…。」
 あっさり言ってのける。
「ここだけの話だけど…。真夜中、あかねの部屋から気配がするのよねぇ…。」
「気配?」
「そう。人の気配ね。あかねもなにかぼそぼそ言ってるのよ。」
「なんだそれ…。」
「わからないから気持ち悪いのよね。誰か忍んで来てるというか…。」
 話はだんだん怪奇じみてきた。
「要するに、おめえは心細くて気持ち悪いから、代わりに俺に覗いて確かめて来いって言いたいんだろ…。」
「ピンポンッ!」
 なびきは明るく言い放った。
「…たく。親切なんだか、自分勝手なんだかわかんねえな…。」
 乱馬は苦笑した。が、もしなびきが言うように、夜中に人の気配がするのなら、このままあかねをほっておくわけにはいくまい。
「ちぇっ!面倒なことは全部俺任せか…。」
 とぼやいてみた。
「許婚なんだから、乱馬君にはあかねを守る義務があるの。わかる?」
 勝手な理屈だと思ったが、仕方ないかと乱馬は溜息を吐いた。
「しっかりね。頼んだわよ…。」
 なびきが流し目でウィンクした。


五、

 天道家が寝静まるのは早い。
 格闘一家のタイムテーブル。みんな挙って早起きの家族だから日付が変わる頃には、殆ど皆夢の中にいる。

 なびきに励まされ、乱馬は隣の部屋の気配をじっと伺っていた。
 何時までもなびきの部屋にいる訳にもいかず、適当な時間に瓦屋根を伝って、あかねの部屋の外から様子を伺うことにした。
 夏が近いとはいえ、夜は冷える。瓦が冷たく感じられた。
 あかねの部屋から、香の匂いが漏れてくる。乱馬にはそれがなんだかおどろおどろしい嫌な匂いに思えた。
 カーテンが閉まっていて、部屋の中の様子は伺えない。じっと全身の神経を尖らせて気配を伺う。
 ぽっとあかねの部屋に光が差した。
 はっとして乱馬はガラス窓に顔をくっつけて中を耳を澄ます。
 何やらぼそぼそと声がする。あかねの声と、もう一つは男の声。
 乱馬はさっと身体から血の気が引いてゆくのがわかった。
「誰か忍んできやがったのか?あかねの奴…。」
 嫉妬で心はそば立ち始める。
 矢も立てもたまらなくなり、乱馬はあかねの部屋への侵入を決意した。事の次第によっては、あかねだって許せない。
 乱馬はそっと右手を窓にかけた。
 すっと窓は右へと動いた。鍵は掛けられていなかったようだ。
 中から香の匂いが乱馬の全身へと流れ込んできた。部屋の空気が一斉に開けられた窓に向って流れ始める。
 乱馬は意を決すると、そのまま身を屈めて窓からあかねの部屋へと降り立った。
 あかねの部屋は静かだった。さっきしていた声は嘘のように消えていて何の気配もない。部屋を見渡すと、机の上に置かれた香炉が怪しく煙を吐き出しているだけだった。
 さっきの気配は気のせいかと思い直した。そして乱馬はあかねの横たわるベットを見た。
「え?」
 乱馬はあかねを振り返って驚いた。
 あかねの身体が透き通って見える。
「な…?」
 闇の空間と溶け合いそうなかねの身体。赤く微かに火照っている。
 乱馬は思わず自分の目をこすった。そして、再び、あかねを見ると、普通に眠っているあかねが見えた。身体も透き通っていない、いつものあかねだった。
(見間違いか?)
 乱馬は凍りかけた胸を撫で下ろして、再びあかねを覗き込んだ。
 その時、背後で気配がした。
「!!」
 誰かが自分を刺すように見詰めている。
 冷や汗が額に浮かび上がる。
「誰だっ?」
 乱馬は思わず声を上げて振り返った。が、しかし、誰もいない。視界の先には香炉が煙を吐きながら揺らめいているだけだった。乱馬は香炉を手に取って見た。ひっくり返したりして見ていたが、何の変哲も無いただの香炉だった。が、武道家の彼の直感は、何かしら嫌なものをその香炉から感じ取っていた。禍々しいものが蠢いている。
 乱馬は香炉のフタを開けると、嫌な匂いが立ち込める香を傍にあったあかねのシャーペンで突付いてみた。
 ばふっと香は煙と炎を吐き出した。乱馬の行為に抵抗するかのように。
 乱馬は構わずペン先でほじくると、香は砕けてしまった。まだついている火種をティッシュを何重にも巻いて取り出し、窓の外へと投げた。
 それから乱馬は黙って香炉を元の場所へ据えると、窓を開け放した。風がそこへ雪崩れ込んだ。
 窓から新鮮な空気を余すところ無く取り入れる。そして部屋の窓を明け放したまま、カーテンだけをさっとを引いた。とにかく彼は部屋へ充満していた香の匂いを拡散させたかった。身にまとわり付く嫌な煙の感触。それを払拭したかった。
 香の煙がなくなるのを確認すると、ほっと溜息を吐いた。そして窓から身を乗り出してあかねの部屋を出た。瓦の上では香の燃え糟が炎をちらつかせて断末魔を上げる。乱馬はそれを拳圧で下へと叩き落した。
 ジュッ!
 それは池に落ちて果てた。
「手をやかせやがって…。確かに匂うな…。あの香炉。」
 無下にあかねの物を捨てるわけにもいかず、部屋へ置いたまま彼は自分の塒(ねぐら)へと戻っていった。


六、

 次の日もあかねは様子がおかしかった。
 ぱっと見た目にはいつもと変わらない様子であったが、昨日より更に覇気がない暗い目をしていた。いや、しているように乱馬には見えた。
 朝ご飯もそぞろに食べている。
 昨夜はどうだったのと、なびきがし切りに目で乱馬に訴えていたが、乱馬は敢えてそれを無視した。
 学校でもあかねはごく普通に過ごしていた。が、どこか虚ろげで、だるそうに見えた。
 授業がはねた後、乱馬は露店を捜してみることにした。
 ひょっとするとどこかの街角でその婆さんが居そうな気がしたからだ。見つけたらあの香がどういう代物なのか問いただそうと思っていた。
 まずは見つけ出さないと、話はそれからだ。
 右京がそんな乱馬を引き止めて一緒に帰ろうと誘いかけてきた。だが、彼はきっぱりと制した。
「ごめん…。ちょっと、今日は用事があるんだ。」
 ちらっとあかねの方を向いた乱馬だが、それ以上は近寄らずに
「急ぐんでな…。また今度にしてくれよ。じゃあなっ、うっちゃん。」
 と声をかけると教室から走り去った。
 右京は怪訝な表情を浮かべたが、彼があかねと帰ろうとしないことを確かめると、まあいいわ、というような顔をした。あかねと帰らないのなら、用事くらいどうってことない、また明日誘えばいいだろう。

 乱馬は急いで天道家に帰ると、すぐに飛び出した。そして、町中をくまなく捜した。そのお香を売るという露店を。
 商店街、神社の参道、駅前、公園の中。凡そ考えつくところはシラミ潰しに当ってみたが、なびきが言うような露天には行き着かなかった。虚しく時は過ぎてゆくばかり。
「ちぇっ!何処にもいねえっ!」
 彼は焦りにも似た心境に駆られていた。
「乱馬ぁ〜。デートするね!」
 と、そこへシャンプーが岡持ちを持って現れた。
 嫌な奴に会ったと乱馬は思った。彼女から逃げないと、また、付きまとわれる。
 が、一瞬遅く、シャンプーは自転車を乗り捨てて乱馬の右腕に抱きつく。
「わりいけど、今日はおめえと遊んでいる暇はねえんだ…。」
 乱馬は苦笑いしながらそれを振りほどこうと焦った。
「ダメね…。たまにはいいね。今日はこれで出前終わったから観念してデートするよろし。」
 シャンプーは乱馬の都合などどうでもいいというように、手を引っ張る。乱馬は逃げようともがく。自然、揉み合う形になる。
 その時、シャンプーのつけたエプロンからからんと何かが弾けだした。
「ん?」
 それに目を投じた乱馬。
「せっかく貰った匂袋落としてしまったね。」
 シャンプーは乱馬の手を放すとそれを摘み上げた。
「匂袋?」
「そうね。曾婆ちゃんの古い友人からさっき貰ったね。何でも幸運を呼ぶお香だそうね。」
 シャンプーはニコニコと笑いかける。
「これ貰って乱馬に会ったね。早速効能現れたね。」
「お香…。婆さんの友だち…。なあ、その友だちっておまえの処に居るのか?」
 乱馬は夢中でシャンプーに訊いた。
「まだ居るね…。多分。なんか久しぶりに日本へ来たから、ずっと泊り込んで観光してたね。明日まで居るとか言ってね。それより、乱馬デートずるね。」
 乱馬の顔はみるみる生気が増してきた。もしかしてその友人というのは、あかねに香を渡した張本人かもしれない。彼の心はざわめいた。
「な、そいつに会わせてくれよっ!」
「突然何ね?ま、いいね。私岡持ち店に置かないとデートできないあるから。後ろに乗るよろし。飛ばすね。」
 乱馬はシャンプーの自転車に跨ると、彼女は勢い良くペダルをこぎ始めた。

「ああ多分、今晩くらいでカタがつくだろうよ…。」
 コロンの前で老婆が一人、にこやかにお茶をすすりながら言葉をかけた。
「そうか…。世話になったのう。」
「でも、本当に、いいのかね?」
「良いも何も、それでシャンプーが幸せになるなら。ほほほ。」
 コロンは嬉しそうに急須を持ってお茶を注ぎ入れる。
「いくら孫娘が可愛いからとて…。おぬしも隅に置けぬなあ…。悪人じゃ」
「なあに、あかねとて決して不幸になるわけではないのだろう?」
「考えようによったら、現世に生きるよりはあの娘も幸せになるだろうがのう。じゃが、ホントにいいんじゃな?」
 念を押すように老婆はコロンに問い掛ける。
「しかし…。現実から妄想壁へと透過してゆくお香とは、また、いい代物が手に入ったもんじゃなあ。」
「この年になると、いろいろ伝手だけは豊かになるでな。寝崑崙山の奥地の伝説の民が作る「夢幻香」じゃ。」
「それに取り込まれると、消えてしまうのか…。」
「ああ、全て己が描き出した夢幻の世界に、身体ごと香炉に。」
「で、吸い込まれたらどうなるんじゃ?」
「ワシは吸い込まれたことはないから良くはわからんが、夢の中で永遠に時を過ごすということじゃ。老いもせず、己が描き出した理想の相手にかしずいて…。」
「ちょっと後ろめたかったが、それを訊いて安心じゃ。理想の相手と添い遂げるのなら彼女も本望だろうて…。あとは、婿殿があかねを忘れて、シャンプーと仲睦ましくなってくれたら。」
「そっちの方も私に任せておけばいいよ。あの子が香炉に取り込まれて消えたら、これ、この忘却香で忘れさせて、呪愛香を焚きこめればおぬしの孫娘にぞっこんじゃ。しかし、その婿はそんなに強いのかえ?」
「強いぞ。この婆もやり込められたことがあるくらいのう…。ほほ。シャンプーに子種を残して貰うにはのう…。最高の婿になるぞい。」

「そういうことか…。」

 ガラッと扉が開いて、乱馬がすっくと婆さんたちを見据えていた。

「婿殿…っ!」
 コロンはびっくりして目を向けた。
「曾婆ちゃん、今の話…。」
 シャンプーが複雑そうな顔を向けてコロンを見詰めていた。
 咄嗟に乱馬は香屋の婆さんに掴みかかって、首根っこを抑えた。
「悪いけど全部、聞かせてもらった。」
 婆さんは香を使って反撃しようと試みたが、乱馬の敵にはならなかった。
「悪あがきは良しなよ…。俺は気が立ってるんでな。何ならこの首をへし折ったって良いんだぜ。」
「ふふんっ、小僧っ子に何ができる。人を殺めたことなどなかろうに…。」
「それはどうかなっ!」
 乱馬は力を込めて軽く拳を作り気功破をぶっ放った。
 ドンという爆音と共に「キャッ!」っというシャンプーの悲鳴が傍で弾けた。
 寸でのところでシャンプーはその気功破を避けた。彼女のエプロンが黒ずんでいる。彼女の長い髪の先がチリチリと音を立てて焦げている。
「婿殿…おぬしっ!」
 コロンが険しい目を向けた。今、放った気功破。シャンプーに当てても良いと思ったのではないか。彼女が避けるかどうかなどまるで気にも留めていないような気功破の放ち方だった。もし、シャンプーが避け切れなかったら、或いは…。
 コロンは空寒いものを乱馬から感じ取っていた。
「気が立ってるって言っただろ。お前たちの出具合によっちゃあ、この場でこの店ごと吹っ飛ばしてやっても良いんだぜ。」
 乱馬は老婆に絡ませていないもう一つの手に、渾身から怒りの拳を握った。拳の先からは蒼白い気功の玉がめらめらと揺れている。乱馬の気迫はいつもに増して波打っている。それだけ怒りが大きいのだろう。
…よくもあかねを巻き込んでくれたな…。
 彼の眼光鋭い目は、居合わせた三人を震え上がらせるほど険しい。
「最早、この姦計はこれまでか…。」
 コロンは観念した。
 乱馬がこれほど怒るとは。計算に入れていなかった。
「わかった、婿殿。これ以上ワシらが関与するのは諦めた。じゃが…。あかねは助けられるかどうか…。」
 コロンは香屋の婆さんを見た。
「際どいじゃろうな…。」
 老婆は無表情で答えた。
「どうやればあかねを助け出せる?」
 乱馬は声を荒げた。まだ、老婆の首根っこを掴んだままだった。
「今晩、香を焚き込めた部屋へ行って、香炉に吸い込まれる彼女と共に、夢幻界へ行って、彼女が選んだ男と対決して勝ち、彼女を奪還してくることじゃな。詳しくはワシにもわからん。何しろ、香炉に吸い込まれたことはないんでな…。ほほほ。」
 首根っこを抑えられてもまだ、婆さんは不敵な笑みを零していた。年輪も積み重ねれば、人間が達観して恐怖などやいそれと顔や態度に現れないのかもしれない。
「婿殿…。行くのか?」
「ったりめえなこと訊くなっ!」
 乱馬は吐き捨てるように言い放った。
「お主も香炉の砂塵に消えるかもしれぬが…。それでも良いのかな?」
 香屋のばあさんはニタリと笑った。
「かまわねえっ!いや、俺は絶対、あかねを助け出してくる。」
 乱馬はカッと目を見開いて気を大気ごと振るわせた。
 びりびりと空気が揺れ、ガタガタと猫飯店の食器が棚で蠢いた。
 そして震わせていた気を息と共に飲み込んで体内に納めた。
「いいか、もし、あかねの身に何か起これば、お前たち一人とも生かしちゃおかねえ。それだけは良く覚えておくんだな。」
 背中でそう囁くと、乱馬は振り返りもしないで猫飯店の暖簾を潜った。

「なかなか骨のある良き男じゃのう…。シャンプーちゃんよ、彼が惚れる香でも焚きこめてみるかの?」
 首根っこを開放されて、老婆が肩を上下させながらシャンプーを見た。
 シャンプーは乱馬の気迫に完全に飲み込まれていた。恐怖で身体が震えている。
「そんな物騒な物、要らないある。私、乱馬に殺されかけた…だから…。」
 そう言うとシャンプーは床へペタンとへたり込んでしまった。



つづく




補足
「気功破」(きこうは)
私が勝手に作った乱馬の技の名前です。
全身の気を高めて気功の玉を放出し、相手に投げるという技です。
まあ、いえば「ドラゴンボール」の孫悟空の元気玉みたいなのを想像してください…


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