◇夢幻香   その1


一、

「だからっ!俺が好きでシャンプーやうっちゃんたちと一緒に居たと思ってるのか?」
 乱馬はフェンスの上からあかねに声をかけた。
「そんなの私の知ったこっちゃないわよっ!」
 あかねは乱馬の方を見上げようともせずに声を荒げる。

 いつもの帰りの風景。
 この二人、親同士が勝手に決めた許婚。同じ屋根の下に暮らし、同じ風林館高校へ通っている。お互い心では繋がっているものの、「好き」という言葉はいつも口の奥で空回りしている偏屈同士。喧嘩するほど仲が良いとはいうものの、二人の周りにはもめごとが絶えない。
 とにかく二人とももてるのだ。
 あかねは乱馬が来るまでは風林館高校のアイドル的存在で、引く手数多のもてもて少女だった。勿論今でもあかねを狙っている連中は後を絶たない。面倒見も良い姉御肌の彼女は女子生徒たちにも人気がある。スポーツ万能の少女だった。
 一方の乱馬。ひょんなことから「呪泉郷」という中国奥地の秘境で荒行中に「娘溺泉」に落っこちて以来、水を被ると女に変身してしまうという特異体質を持っている。彼もまたもてる。男の時は勿論、女に変身してももてる。自称、他称の「許婚」は四人居て、本人の望まぬところでいつも少女たちに追いまわされている。さっきもいつものように、シャンプーという中国から押しかけてきた美少女と、もう一人の許婚、久遠寺右京に追い回されて、ほうほうの体で逃げてきた。
 そんな乱馬を見て面白いことがあろう筈もない。あかねはいつも業を煮やしている。乱馬がシャンプーや右京に追い掛け回されると、決まって彼女は不機嫌になる。浮気をした亭主のように、乱馬もまた、彼女に言い訳をしてみるものの、吐き出す言葉はいつも喧嘩腰。そしてそれを素直に受け取れないあかねのボルテージも、上がってゆくのがいつのもパターンである。

「ちぇっ!可愛くねえっ!」
 決まって乱馬はあかねにそんな言葉を無造作に投げつける。吐き付けたその言葉がどのくらい彼女の心を傷つけているかなど、彼は気にせず口にする。悪口だけは一人前。心に秘めた愛など微塵も感じさせないきつい言葉の羅列。
 彼の吐き出す言葉を聴いて、
「えーえー。どうせ私は可愛くないわよ!」
 あかねはますますヘソを曲げる。

 とそこへ、また、乱入してきたのは無粋な連中。
「見つけたねっ!乱馬ぁ!」
「乱ちゃん。酷いわ、逃げ出すやなんて…。」
「今日こそデートするね。」
「ちゃうちゃう、私と遊びに行くんやっ!」
 シャンプーと右京だ。そして機嫌が悪いあかねの目前で、また、互いの激しい綱引きが始まった。
「勘弁してくれよ。」
 悲鳴を上げながらまた立ち去る乱馬。それを追いかける少女達。
「待つねっ!」「待ちいやっ!」
 右京がコテを投げた。いつも投げる彼女の常套武器だった。
 その武器を避けるついでに、周りを見渡してあかねははっとした。
 道端に老婆が一人、座っている。コテはそれを目指して飛んでいた。
「あぶないっ!」
 あかねは夢中で飛び出して、飛んでくるコテから老婆をかばい身を翻した。

 トントントンッ!

 コテは次々と道に刺さる。
 幸い、コテは老婆にもあかねにも当らなかった。
「良かった…。」
 遠ざかる少女達の喚声を聴きながら、あかねはほーっと溜息を吐いた。
 あかね以外は誰も老婆のことなど気にする余地もなく、追いかけっこを続けて立ち去っていった。

「ありがとう、お嬢さん。」
 老婆は目を白黒させながらあかねを見詰め礼を言った。
 ふと顔を横方へ向けると、いつの間にか、そこには露店が立っていた。
 あかねは何の気なしに、その店を覗き込んだ。
 道端に広げられた敷物の上に、何やら香炉や蝋燭、線香などがカラフルに並べられていた。
「ああ、これならさっきワシが店開きしたものなんじゃよ。助けてもらったお礼にどれか一つ差し上げましょうかのう。」
 助けた老婆はにっと笑った。
「いいですよ。別にたいしたことしてないし…。」
「いやいやそれではワシの気が済まぬ。年寄りの行為は素直に受けたらええでな…。」
 老婆は遠慮するあかねを見上げながら言った。
「もうし…。お嬢さん。あなた恋にお悩みじゃないかのう…。」
 老婆は皺にまみれた目を細めてあかねに微笑みかけた。
 いきなりそんなことを言われても答える術なく、あかねは立ち止まって老婆を見返した。
「隠さなくてもわかるものだよ…。若いということは羨ましい…。」
 あかねは上から好奇の目で並べられた品物を見渡した。
「これって、アロマテラピーですか?」
「ああ。そうだね。毛羽立った心を鎮めてくれる安らぎの香をたくさん置いてあるんだよ、お嬢さん。」
 人懐こい笑顔で老婆はあかねに語りかける。
 最近、あかねたち高校生の間でも、アロマテラピーやお香は話題になっている。好きな香りを部屋で焚き込めたり、匂袋のように持ち歩いたり。お洒落な感覚で買っていったりするのだった。その辺りはあかねも今時の女子高生。好奇心がむくっと起き上がった。値札を見ながら一瞥する。
「どうかね?なんなら少し嗅ぐってみるかい?」
 老婆は抜け落ちた歯茎を見せながらにっと笑った。
 あかねは老婆の勧めるままに、手で煽って匂いを嗅いだり、手にとって香を眺めたりしていた。
「いろんな香が立ちこめるのね…。」
 あかねは感心しながら手に取った項を香る。
「お嬢さん、さっきの男の子とはどんな関係だい?ボーイフレンドかい?喧嘩していたみたいだけど…。だったら、これなんかどうだろうね。」
 老婆はあかねに赤い香を差し出した。
「この専用の香炉で焚き込めるといいよ。恋の悩みがすっきりするよ。そうさな、幸福を少しだけ運んでくれるかもしれないよ。」
 恋の悩みがすっきりする…そう聞いただけであかねの心はズキンと鳴った。
「どんな効用があるお香なの?お婆さん。」
「恋の悩みで眠れない夜に焚き込めてやると、ぐっすり眠れる。ぐっすり眠れば自ずと機嫌だって直ってくるじゃろう?そうすれば、彼だって優しくなるというのが道理じゃがな…。おっほっほ。」
「要は不眠症を治す香りね。睡眠導入剤のような役割の…。」
「それは使ってのお楽しみじゃ…。是非、これを持って帰りなされ。うんうん、あんたにぴったりじゃ。」
 老婆は一人で悦に入って笑った。そして、その香を取ると、慣れた手つきでセロハン紙に包んだ。
「香炉もつけてあげるからのう…。今夜から使ってご覧。一週間も毎晩炊き込めれば、効き目が現れるじゃろう。」
「ホントにいいんですか?いただいちゃって。」
「ああ…。いいよ。きっと効果があるじゃろうて。」

 あかねは老婆に勧められるままに、香炉と香を手に家路に付いた。
 その香のとんでもない効能に、翻弄される自分など、全く予想だにできない彼女だった。

 あかねの後姿を見送りながら、老婆はこそっとほくそえんだ。
「上手くいったのう…。これでワシも永年の仮をあやつに返せるというもんじゃ…。」


二、

「なあに、それ、なんか匂うわね…。」
 家に帰って貰った香炉を広げていると、傍で雑誌を読んでいたなびきが好奇心の固まりという顔つきで覗きこんできた。
「さっき露店のお婆さんに貰ったのよ…。」
「露店のお婆さん?」
「うん。公園の近くに出てたお香専用の露店だったけど…。」
「変ねえ…。そんな露店なんて出てたかなぁ?私が帰ったあとで店開きしのかしらね。」
 なびきは香を見詰めながら言った。
「さっきは居たわよ。助けたお礼に、安眠できる香だよって香炉とセットでくれたのよ。」
「ラッキーじゃん。なんにしてもタダで貰えたんでしょ?」
 「タダ」とか「激安」とか「無料」とかいう言葉に反応するすぐ上の姉、なびきはしっかり者だった。
「で、試すの?」
「うん、せっかくいただいたものだから、今晩使ってみるわ。」
 そう言うとあかねは鞄を持って二階へと上がって行った。

 乱馬は夕刻遅くなって天道家に辿り着いた。右京やシャンプーたちと揉みあったのか泥だらけで帰ってきた。
 自業自得よと云わんばかりに、あかねの視線は冷たかった。そればかりでなく、素直になりきれないあかねは一言も乱馬に発することなく、夕餉の食卓に付いた。乱馬もまた、後ろめたいのか、それとも機嫌を損ねた山の神に遠慮しているのか、彼もまた無口を決め込む。
 こんな二人の様子に、もう慣れっこになっていた天道家の人たちは、関わるのもバカらしいとでも言いたげに、誰も何も手出し、口出しもしない。
 当然、夕食後も、別々にさっさと部屋へ入ってゆく。
「全く、バカ正直に喧嘩するんだから…。進歩ないわねえ…。あかねも乱馬くんも…。」
 なびきは二人を見送ってそんなことを吐き出す。

 乱馬と一言も発せずに部屋へ引き上げたあかねは、ズンッとベットの上に身を投げた。
「何よ、乱馬の奴…。」
 我ながら可愛げがないと反省もする。だが、素直に言葉が出てこない。悪いのは私じゃなく、優柔不断を続ける乱馬なのだからと自分に言い聞かせてみる。
『可愛くねえっ!』
 いつもの捨て台詞があかねの脳裏にこだまする。
…そうよ…どうせ私は可愛くないわよ…。
 心でそう吐き出した。
「あーっ!もう、うじうじ考えるのも癪に障るわっ!今日はさっさと寝ちゃおうっ!」
 あかねは独り言のように叫んでいた。こういう独り言を喋るようになればお終いだ。相当ストレスが溜まっている。
 風呂は帰宅後すぐシャワーを浴びたので、今日はもう入らなくてもいいだろうと思った。幸い目の前にぶら下がっている課題やテスト、宿題もない。だから「教えろ!」とか「ノート貸せ!」乱馬に言われる事もない。尤も、言われても今の冷戦状態ならツンと跳ね除けるであろうが。
 あかねは素早くパジャマに着替えると、床に就いた。とにかく精神的にも肉体的にも疲れ切っていた身体を休めたかった。
「そうだ。お香焚かなくちゃっ!」
 あかねは昼間貰った香炉を取り出すと、香を乗せてマッチを擦った。
 赤い血の色の香は芳しい匂いを解き放つ。すぐさま煙と共にあかねの部屋へと芳しい香りを発散させる。線香のようでいてそうでない独特な甘ったるい香り。老婆が言うように、なんだかとても落ち着いた気分になってくる。
 あかねは大きく欠伸をすると、蒲団を羽織って目を閉じた。
 香の煙はゆっくりとあかねを包み込む。

『ねえ、あかね。そんなつまらないこと忘れてしまったらいい…。』
 耳元で声がした。
「誰?」
 夢見心地でそれに答える。
『君を幸せにする愛の使者さ…。』
「愛の使者?」
『そうだよ…。まだ君に会えないけれど。もうすぐ会えるよ…。』
「でも、私には乱馬がいるわ…。」
『乱馬?そんな冷たい男のどこがいいの?まあいいや…。僕が彼に代わって、きみの恋の悩みなんて、すっきり忘れさせてあげるから、ゆくりおやすみ。』

 あかねはやすらかな眠りの淵に落ちていった。


三、

「なんか変よ…。あかね。」
 下校準備をしないで机でぼうっとしているあかねにゆかが声をかけてきた。
 あれから5日。あかねは毎日のように香の香りに包まれながら夜を過ごしていた。
「あかね。あんた、この頃ぼんやりし過ぎてない?」
 ゆかが心配げにあかねの顔を覗き込んだ。
「寝不足になるようなことでもしてるかな?」
 さゆりが笑いながらあかねに問い掛ける。
「そんなことないよ。早く床についてるもん。今日だってたっぷり睡眠とって元気よ。」
 そんなふうに受け答えするのだが、あかねの目は虚ろだった。
「乱馬くんと、まだ喧嘩してるみたいだし…。」
 この二人の行状は、傍から見ていても手に取るようにわかる。仲がいいのか悪いのか。二人とも互いのことは見えていないようだったが、喧嘩ひとつの行状も周りには筒抜けだった。
「そんなことないわよ…。乱馬とはそれなりにやってるし。」
 あかねは面倒臭そうに友人達の好奇心を反らせる。
「そう?なんか、乱馬くん、ヘソ曲げてちっともあんたに話し掛けて来ないようだけど…。」
「家じゃちゃんと会話してるわよ。この頃すごく優しいし…」
 あかねは嬉しそうにはにかみながら答えた。ちょっと顔が赤い。
「はいはい。いいわよ。のろけるのはその辺で…。」
 やれやれといったようにさゆりが投げ返した。
「そう?それならいいけど…。」
 ゆかは納得がいかないというような顔つきであかねを見た。
 あかねは相変わらずぼんやりとした目で窓の外の雲を眺めている。

 実際のところ、乱馬とあかねはあれからまともに口を利いていなかった。
 それは乱馬の表情を見れば明らかである。苦虫を潰したような彼の顔つきは全てを物語る。クラスの中でも何かギスギスした感を残している。ずっと不機嫌だった。
 右京がその隙を逃すわけがなく、あかねに乱馬がちょっかいを出さない分、独占しようといつもより執拗に張り付いていた。
「今日も一緒に帰ろうな…乱ちゃん。」
 右京は嬉しそうににじり寄る。
…このまんまあかねと喧嘩しててくれてたら、乱ちゃんこっちにひきつけられるんやけどな…。
 右京はそんな下心を忍ばせて、乱馬に楽しげに話かける。当てつけるつもりはなかったが、乱馬も自然愛想良く右京に接していた。あかねに余所余所しい分、右京には優しい。こうやってあかねの関心をこちらへ引こうとする。
 彼の深層心理は、全くお子様並の幼さだった。
 ところが彼の目論みはことごとく外れていた。
 いつものあかねなら、喧嘩しようがしまいが、それに対して猛反発を示してくる。嫌味、嫌がらせ、ヤキモチ等々。露骨に乱馬に投げてくる。なのに今回は無反応なのだ。こんなことは珍しい。
 我関せずというような風にあかねの目はいつも乱馬から離れて、ソッポをいや虚ろに空を見詰めていた。

(なんだよ、あかねの奴…。)
 
 乱馬は乱馬で、切り返してこないあかねに対して焦りのような気持ちをもてあそんでいた。
 家でも学校でも態度は同じで、あかねの反応はすこぶる鈍い。完全に彼女は自分のことを無視している。知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。いや彼女にはこの俺が見えていないのではないかと思えてくる。

 彼の周りのクラスメイト達は、またいつものことかと傍観していた。が、一人、ゆかだけは違っていた。始終一緒にいる親友のゆかには、このところのあかねはまるで別人に見えたのだった。
 「ちょっと待っててや、乱ちゃん。うち日直日誌出してくるから。」
 そう言って右京が離れたとき、ふと横にゆかが立った。さっきあかねに振ってみた疑問は、のらりくらりとはぐらかされたばかりだ。なんだかこのまま捨て置くのも気が引けて、乱馬に直談判(じかだんぱん)しにかかったのである。
「ちょっと、乱馬くん。あかねと何があったの?」
「あん?」
 乱馬は突然のゆかの言葉にびっくりして振り返った。
「だから…。あかねと喧嘩してるんでしょ?今回は長いわね。もう五日位経ってるんでしょ?」
「……。」
 乱馬は黙ってふてくされた。関係ねえだろと云わんばかりに。
「気のせいかもしれないけど…。いつもの喧嘩と違うわよ。何か変なのよ、あかね…。」
「変って?」
「上手く言葉じゃ言えないけど…。その…。何かに憑(つ)かれているっていうのかな…。」
「まさか…。怪談話じゃあるめえし…。あかねとのことだったら、いいぜ、ほっといてくれて。」
 乱馬は軽く聞流すふりをした。が、本心はゆかの老婆心に反応していた。あかねと仲が良いゆかが言うことだ。気にならない訳がない。
「乱馬くんに原因があるんだったら、素直に謝るか何かした方がいいんじゃないの?」
「るせー。いいっつってんだろ。ほっときゃそのうちあいつから…。」
 ゆかは話の腰を折って割り込んだ。
「ねえ、乱馬君。いつものようにあかねが折れてこないから困ってるんでしょ?違う?」
 図星だった。いつものあかねなら、ヤキモチ、悪態、嫌がらせと何かしら乱馬に突っかかってくる。今回はそれがない。乱馬にはそれが不気味でし仕方がない。
 返す言葉に詰まった乱馬をゆかは心配げに眺める。
「とにかく、良くわからないけど、ほっといて大丈夫なの?はっきりしないと後で後悔することになるかもよ。あかねって強く見えて、結構気に病むところがあるからね…。たまには乱馬君から折れて、優しい言葉でもかけてあげたほうがいいんじゃないの?」
 
 乱馬はずきんっとゆかの言葉が胸に突っかかった。余計なお世話だと思ったものの、ゆかの言うことにも一理ある。
 確かに、いつもとあかねの様子が違う。
 いつものお約束パターンから抜け出すために、気のない素振りをするにしても、今回はやけに静か過ぎる。それになんだか彼女に覇気がないことが気にかかる。
「いっちょ、絡んでみるかな…。」

 乱馬はたっと階段を駆け下りると家に向って走り出した。

「あ、ちょっと乱ちゃん!待ちっ!一緒に帰るって約束してたやんかっ!」
 日直日誌を出して戻ってきた右京が走り去る乱馬に向って怒鳴った。しかし、彼の耳には聞こえていなかった。乱馬は夢中で駆け出していった。



つづく




いなばRANAさまのサイトへ開設お祝いに献上した小説。
ファンタージー的乱×あ世界。
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