◇八百比丘尼  後編


四、

「ふんっ!他愛もない…。ふふふ。悠久の時を生きてきたワシの敵などではないわっ!この少女。なかなか強靭ないい身体しておるのう…。普通なら今ので弾け飛んでしまっても不思議でないものじゃが…。次の寄生先としては極上な身体じゃ…ほほほほ…。」
 ぐったりとする少女を抱え込みながら妖女は高笑いをした。

「あかねっ!!やっぱり、あかねかっ!」
 乱馬は激震の叫びを上げた。妖女に寄りかかっている精気のない少女が自分の許婚であることを確信したのだ。足首に目を落とせば、森の中でこすった傷口がはっきりと目に入る。確か、入山する時に怪我をしたところだ。
「くそっ!あかねに何かあったら、てめえっ!只じゃおかねえっ!!」
 乱馬はギラギラと気炎を滾らせる。怒りの力が身体を駆け抜ける。 
「ふふ。これでそこの若い女子(おなご)もババアも沈んだ。わらわを追い立てる女は居らぬ。後はおまえの若くて精気に満ち溢れた気を私がこの口で余すところ無く吸い摂れば、この少女への憑依は完了する…。」
 妖女は楽しそうに笑みを浮かべると乱馬を顧みた。
 
 闇夜に閃光が走った。湿った空気がツンと鼻をつく。遠くで雷が鳴り始めた。

「やっ!」
 乱馬は溜めた闘気を一気に放った。闘いの始まりの合図だった。

「ふふっ!無駄じゃ…。男の気は私の最良のご馳走じゃ…。」
 かんらからと高笑いをしながら妖女は乱馬の放ってきた気を吸い込んだ。
「くそうっ!薮蛇か…。」
 乱馬の額に汗が迸る。気砲を使えないとなると肉弾戦に持ち込むしかあるまい。
「ならばくらえっ!火中天津甘栗拳っ!!だだだだだーっ!!」
 必殺技の一つ、甘栗拳を集中させた。肉薄した拳の連続技だ。拳は確実に妖女の身体に打ち込まれる。顔をしかめた妖女は後ろへと気圧されてゆく。乱馬は思い切り気合を篭めて拳を解き放とうと思った、その瞬間、女はにやりと笑った。
 その不敵な笑みに思わず躊躇しかけた乱馬の耳元で妖女はするりと言った。
「ふんっ!そんなものっ!実体のないワシには利かぬわっ!!」
 ふわっと妖女の身体が一瞬浮いた。
 そして、はらりと地面に落ちる。
「なっ?」
 乱馬が目を凝らすと、倒れた女の身体から白いふわふわした気が抜け出した。
 そして、宙を巡ると、あかねの口の中へときれいさっぱり吸い込まれていった。
 
「何っ?」
 一瞬の出来事に乱馬は暫し放心した。が、それがいけなかった。油断が生じたのだ。

「え?」
 いきなり後ろからぐったりしていた筈のあかねが抱きついた。
「な…。あかねっ!」
 あかねの腕は容赦なく乱馬の首に巻きついてくる。いつもの力の比ではない。がっしりと絡み取られた身体はもがいてもピクリともしなかった。
「ふふふ…。この娘の身体…。私が貰ってやる。新しい媒体として次の百年を生きてやるのだ。ははは…。若い、美しい…素晴らしいっ!!さっき、毒を注入して馴らしたから、女嫌いの私でも憑依できるぞ…。はははは…」
 あかねの口を借りて妖怪が囁く。
「おお…この少女、素晴らしいっ!見事な肉体だ。力が漲(みなぎ)る。」
 妖怪は嬉しそうに叫んだ。
「ち、ちくしょうっ!てめえっ!あかねに憑依しやがったなっ!!」
「ふふ…。おまえ、この子を愛しているな…。わかるぞ。感じる…こやつもおまえのことを愛しておる…。」
 乱馬を羽交い絞めにしながら妖怪は囁く。
「娘の意識が話し掛ける…。そうか…。千路に乱れるほど愛しいか…。ふふ…・。ならば、この娘の身体から直接おぬしの気を抜いてやろう…。せめてもの慰みじゃ…。初めての獲物が愛する男なら、こやつも嬉しかろうて…。はははは…。」
「くそうっ!離せっ!」
 あかねの腕に掴まれて乱馬はもがいた。
「ふふ…。愛する娘が相手なら、手荒いことも出来ぬだろう…。。攻撃したら彼女の身体も傷つくからなあ…。大人しく獲物におなり…。」

 妖怪はあかねを使って嬉しそうに囁く。

「あかねっ!しっかりしろっ!あかねっ!!」
 乱馬は懸命にあかねの意識に呼び掛けたっが、あかねは妖怪に支配されたまま、目覚めない。

「ほうら…。お前の溢れんばかりの若い精気、こっちへお寄越しっ!」
妖怪はちろっと赤い舌を出して、乱馬の首筋を舐めた。
「愛する者に囚われる感触はどうだ?悪いものではなかろう?それとも快楽を望むか?ふふ…。」
「ちくしょうっ!!」
 離れない身体を必死に揺り動かそうとしたが、妖怪に乗っ取られたあかねはがっちりと乱馬を抱え込む。回した腕はますます乱馬に密着してゆく。
「観念おし…。」
 そう言って、妖怪はあかねの口を乱馬の唇へと滑らせた。
「う…。」
 吸い付かれた唇から体内の気が漏れてゆくのを感じる。すさまじいまでの吸引力だった。
 あかねの舌先が乱馬の舌を捉える。
 甘い吐息があかねから漏れる。蜜のような唇。苦痛なのか快感なのか最早乱馬には度し難かった。
 このままだと根こそぎ枯渇するまであかねに、彼女に取り付いた妖怪に持っていかれる…頭では理解できたが、だんだんと意識が朦朧としてきた。彼女に貪り食われて、妖怪の養分となってもいい、ふとそんな想いまで湧き上がってくる。
「あかね…。」
 微かに唇を象(かたど)り、観念したように目を閉じた。

 その時だった。天が乱馬に味方した。
 鳴っていた遠雷が、近くで轟くと、雨がざーっと天から降り注いできたのだ。
 そう、雨に打たれて乱馬の身体は戦慄いた。そして朦朧と浮遊していた意識も戻った。

…今だ!

 乱馬は目を見開いた。みるみる身体は女に変身してゆく。一気に体内の気を高めて、吸い付いたあかねの口へと集中させた。
 繋がったそこから己の清純な乙女の闘気を打ち込んだ。
「うんっ!」
 食らいついていたあかねが吐息を漏らし、乱馬の目先で激しく動いた。
…離すもんかっ!
 今度は女となった乱馬が逆にがっちりとあかねの身体を羽交い絞めにしていた。そして己の唇を使ってあかねへと気を降り注ぐ。
 あかねは唇を離そうともがいたが、乱馬はしっかりとあかねに抱きついてそれを許さなかった。女に変身しているとはいえ、力は充分過ぎるほどある。形成は逆転した。
「う…うんっ!」
 あかねは苦しそうに、乱馬の唇の下から喘いだ。必死で逃れようと身体をくねらせた。しかし、乱馬は構わず、「女の気」をあかねに送り続けた。絡ませた舌を貪りながらあかねに気を押し付ける。
 散々もがいていたあかねからふうっと力が抜けた。気を失ったのか、ぐったりと乱馬に身を預けてきた。
 それを確認すると乱馬は繋がっていた唇を離した。
 ぷはっと二人の口から息が漏れた。

『な、なんだっ?女の、女の気っ!!汚らわしいっ!!』

 あかねの口から妖怪の実体が溜まらず飛び出してきた。女乱馬の若く満ち足りた毒気に当てられたのだろう。

「散々俺のあかねを苦しめやがってっ!てめえの嫌いな女の気だっ!くらえっ!」
 乱馬は身を屈めて構えると、最大限に高めた気をその浮き出した実体へと解き放った。
 乱馬の発した闘気は渦となってあかねから飛び出た物体へと強襲した。

「ぎゃーっ!!」

 女の断末魔の叫びがこだました。
 苦しそうにうめく声が辺り一面に響き渡る。降り出した雨は容赦なく上から地面へ叩きつけてくる。雨水の中へと白い気の塊は溶け出すようにシュウシュウと音を立てて蒼白い煙へと変化して消えた。
 
 ぐったりと首を垂れたあかねをしっかりとその腕に抱きしめて乱馬はじっと煙を見た。すると消えた煙の中から、白い掌くらいある大きな蜘蛛の死体が現れた。
「実体はこいつだったのか…。」
 乱馬はじっと果てた蜘蛛を眺めた。
 蜘蛛は雨に打たれて、そのままふうっと土へと帰って消えていった。

 と、後ろで気配がした。
「誰だっ?」
 乱馬はあかねを抱えたまま振り返った。
 すると、先ほど倒れた老女の身体がむくりと起き上がるのが見えた。
 思わず乱馬は身構えた。いつでも攻撃できる態勢へと身体を整えたのだ。
「構えずとも大丈夫。私はもう、立ち上がるのが精一杯ですから…。」
 袈裟掛けの老女から妖気は消えていた。
「ありがとう…。元々私はこの山で修行していた尼僧でした。あの汚らわしい蜘蛛妖怪に囚われ、操られて百年。やっと開放されました。あいつは男の精気を私に吸わせてずっと生を貪ってきたのです…。あいつは、次々と媒体となる女性を変えて生き長らえた妖怪です。これでやっと私も成仏することが出来ます。…こうやって妖怪につけ込まれたのも全て私の不徳のなせる業。お詫びに、ここにいらっしゃる皆さんを元通りに戻して、無へと帰します。」
「元通りにしてくれるって?」
 乱馬はじっと女性を見詰めた。
「はい…。それが、今まで男を殺め続けてきたせめてもの罪滅ぼし…。彼女…あなたのことが本当に好きみたいですね…。その妖怪が放った術にすぐにはまりましたもの…。嫉妬を煽って油断させて術へはめたのです…。」
「そっか…。嫉妬か…。」
 乱馬はなぜか少しだけ心が痛んだ。その嫉妬を煽ったのは、紛れも無く己自身だと直感したのだ。
「貴方も彼女を愛しているんでしょう?だから身体を張れた…。」
 乱馬はこくんと頷いた。そして、慈しむようにあかねを見詰めた。すると、女体から男へと身体が変化していった。
「え…?」
 突然の変化の乱馬は驚いて目を見張った。
 雨はいつしか乱馬の周りだけ生温かい湯に変わっていた。そして、乱馬が男へと変化を遂げると、ぴったりと止んでしまった。

 「彼女を愛しているなら、もっと素直になりなさい…。愛されることへの自信を持てれば、彼女はきっと貴方の元でずっと輝き続けるでしょう…。あなたの穿たれた呪いも、いつか消え去る日が来る。その呪いを解く鍵はその少女が握っています。きっと…。」
 
 老女がそう言い終ると柔らかい光が乱馬たちを包んだ。倒れている玄馬、早雲、ムース、コロン、そしてシャンプーをも順に包みこんでいった。

「皆さんの今までの記憶を消しておきます…。そして私は無へと帰します…。では、さらば…。」

 声と共に砂塵が舞った。
 山鳴りがざあざあ聞こえて果てる。



 気がつくと、天道家へと戻っていた。
 夢の空間だったのか…。
 何事もなかったように、あたりは静けさに満ちていて、みんなそれぞれ、道場の中で眠りを貪っていた。

 ただ、乱馬の泥だらけの道着が闘いが確かにあったことを示唆していた。

 ほっと息を吐いて腕の中を見た。
 あかねが眠っている。
 心配げに彼女を覗き込むと、乱馬はそのまま傍へと腰を下ろした。
 さっきのことは忘れるどころか記憶の底にこびり付いている。
 腕の中ではあかねが静かに目を閉じて横たわる。
 ふっと優しい気持ちが乱馬を過(よ)ぎった。
「あかねのばか…。心配ばっかりかけやがって…。」
 何事もなかったように眠る許婚に乱馬はそっと言葉を投げた。
「嫉妬か…。たく、ヤキモチ妬くのもいい加減にしろよ…。俺には、おまえしか居ねえんだから…。もっと自信持てよ…。ばか…。」

 柔らかくそう言うと、あかねにそっと熱を持った唇を寄せた。
 それが今出来うる、精一杯の愛情表現だった。



エピローグ

「ちょっと早乙女くんっ!ぼやっとしないでよ。そんなに火にくべたら薪が焦げついちゃうじゃないのっ!!」

 クラスメイトの声にはっと我に返った。

「あ・・。悪(わり)いっ!悪いっ!!うわっちゃっちゃっ!!」
 乱馬は思わず素手で掴みかけて手を引いた。
「馬鹿ねっ!何ぼんやりとしてたのよっ!もう…。」
 傍らであかねが怒声を響かせた。
「うるせえっ!…。誰のせいで考え事してたと思ってんでいっ!」
 思わず口走る暴言。
「何?何、何、何?早乙女くん、あかねのこと考えこんでたの?」
「お安くないわね…!」
 女生徒たちがくすくす笑った。
 乱馬は真っ赤に顔を火照らせて否定に走る。
「だ、誰がっ!こんな色気のねえ奴のことっ!!」
「ムキになるのがますます怪しい…。」
 いいカモであった。

「たく…。世話が焼けるわねえ…。」
 あかねはやれやれというように乱馬を促した。
「ちぇっ!可愛くねえな…。」
 いつもの悪言。
 持っていた枝を千切っては火にくべる。その辺りは、修行の山篭りで手慣れた乱馬。
「流石だな…。乱馬。」
 大介たちも感心して覗き込む。
「あかねはいいわね…。こんな頼り甲斐のある旦那さま持てるんですもの…。」
 ゆかが笑う。
「ちょっと、何よそれ…。」
 あかねが真っ赤になって否定する。
「だって…。卒業したら結婚するんでしょ?今更照れなくてもいいじゃんっ!」
「いいですねえ…。楽しそうで…。」
 ぬっと顔を出す、青ざめた顔。
「五寸釘…、暗えぞ…。」
「さあ、怪談の続きは誰だ?」
「やっぱ、五寸釘だな…。」

 いつか楽しい時間ははねた。
 ぞろぞろとねぐらへ帰る。
 乱馬はもう少し夜の余韻を楽しみたくて静かに木陰に腰を下ろして佇んでいた。頬に当る夜風は柔らかい。

 その時、一陣の風が舞った。

『彼女を愛しているならもっと素直になりなさい…。穿たれたあなたの呪いを解く鍵はその少女が握っています。きっと…。』
 耳元で誰かが囁いたような気がした。
 乱馬はそっと辺りを見回した。どことなく見たことがあるような梢。多分、野営地にしていたところだ。この少し奥で比丘尼に会った。そしてあいつと闘った…。
 「そっか…。この辺りだったかもしれねえな…。」
 乱馬が漏らしたひとりごち。

「ねえ、乱馬…。」
 あかねがひょこっと顔を出した。
「なんだ?」
「うん…。ちょっとね、眠れないからもう少しだけ夜風に当ろうかなって…。」
「風邪ひくなよ…。」
「うん…。」
 こくんと頷くとあかねはこそっと切り出した。
「ねえ、あのさあ…。」
「あん?」
「ここって本当にあたしたち、来た事無い?」
 あかねが言葉を継ぐ。
「どうしてだ?」
 否定も肯定もせずに乱馬はあかねの顔を覗き込んだ。
「うん…。何か、とっても切なくて、それでいて柔らかい思い出があるようなそんな気がして…。」
 あかねはそう言って空を見上げた。
「そっか…。」
 あかねの言葉に乱馬は自然に微笑んだ。夢中であかねを守った情景が浮かんでは消えていく。熱い唇の記憶も…。あかねの記憶の奥底にもそんな情景がどこかに沈んでいるのだろうか。
「やっぱり、何か知ってる?乱馬…。」
 こそっとあかねが身を乗り出す。
「いや…。別に…。何もしらねえぞ…。俺は…。」
 乱馬はそう言って言葉を切った。そう、彼女からはあの夜の一切の記憶は消えている。混乱させても悪いと思った。
「そっか…。乱馬に訊けばわかるかと思ったんだけど…。」
「あん?」
「乱馬と一緒に来たような気がしたから…。デジャウみたいね…。」
 そう言うとあかねはふっと溜息を吐いた。
 乱馬はそっとあかねから目を外した。
「知らなくてもいいさ…。」
 聞こえないくらいの声で空でそう呟いてから、ふっと微笑んだ。
「何よ…。気持ち悪いわね…。」
 あかねは怪訝そうに乱馬に言った。
「ちぇっ!可愛くねえなあ…。」
 そう言いながら乱馬は天を仰ぎ見た。
 そして、だらんと垂れ下がっていた右手をそっと差し出した。触れるあかねの柔らかな左手。

 其処にある愛しさ。注ぎ込める優しさ…。

…ちゃんと守ってやるから、思い出さなくていい…。

 ぬくもりでそう伝えて、乱馬は軽く手を握り締めた。

 満天の星は降るように二人を包んでいった。
 小夜は更けてゆく。
 真夏の夜の微かな記憶を蒼白く照らし出しながら…。



 完




一之瀬的戯言
 百千鳥さまの「STAY」(閉鎖)の夏休み企画へ投稿した作品です。
 当時の私は、できるだけ投稿作はコンパクトにまとめようとしていたのがわかります。
 スピードアップしすぎて、何、書いてるのかわからない部分も露呈しております。機会があれば、全編、書き直したいくらいです。
 今、このくらいのプロットを使って書くと、かなりの長編になることは間違いなく…。

 女乱馬とあかねのキスシーン(?)を始めて書いた作品でもあります。

「八百比丘尼」(やおびくに)
 本当は人魚の肉を食らったために不老不死になった伝説上の比丘尼の名前。比丘尼は尼僧のことです。
 元々「八」は日本的聖数で「たくさん」という意味を表します。「八百万」(やおよろず)や「「八百八町」(はっぴゃくやちょう)などというのがいい例です。  
 八は扇形にもなっていて「末広がり」とも呼ばれ、お目出度い数字でもありました。
 八本の足を持つ、蜘蛛にイメージを重ねて創作しました。でもあまり効果が無かったのは作文者の能力であります。



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