◇微笑みを永遠に  後編


六、

 病室のベットはなんとなく固くあまり寝心地のいいものではない。
 傍らのあかねは、寝入ったものの、時々思い出したようにしゃくりあげてくる。
 「畜生っ!何処のどいつだ…あかねをこんな目に合わせた奴は…。」
 らんまは暗い天井を睨み上げながら、ずっと拳を握り締めていた。水を頭からかぶり女に変身し、おさげも隠して変装を決め込んでいた。何処の誰があかねを狙っているかわからぬ以上、相手に警戒心を抱かせぬようにと同室の入院患者になるという作戦だった。少しでも相手を油断させて、捕らえるというのが目的だった。
 いつでも来いっ!俺が相手になってやろうじゃあねえかっ!
 らんまは気炎を身体中からみなぎらせて横になっていた。
 朧月は窓から差し込んで、病室を蒼白く照らし出す。軽く開かれた窓からは涼やかな秋の風が流れこんでくる。

 一晩寝ずの番をしたが、遂に、見えない相手は現れなかった。

 「幸い今日は休日だから、ゆっくりしていけばいいよ…。」
 東風先生のとりなしで、あかねともう一晩、ここに泊まることになった。あかねは起きるとともに、枯れ果てた涙をまだ目から出そうとする。横で見ているのが切なくて、らんまは胸が張り裂けそうだったが、一人にするのもためらわれて、女の形のまま傍らに寝そべっていた。
 …なあ、そんなに泣くなよ…
 心ではずっとあかねに話し掛けている。泣いた顔もかわいいと思うことがあった。ついつい心根にもないことを言ってしまい、泣かれた日には、おたおたして、ドキドキして。あかねの涙の滴は、宝石にも勝ると思っている。が、度合いの問題であろう。こうも始終泣かれていては、男としても困り果ててしまう。
 …自分の意思で泣いているんじゃあねえのが救いか…
 らんまは泣きじゃくるあかねをぼんやりと見詰めながら、憔悴の溜息を幾度も吐き出す。

 昼過ぎた頃、表で人の気配がした。
 思わず惰眠を貪り掛けていたらんまは、その気配に目覚めた。
 …来やがったな…
 ベットの中から、戦う準備に取りかかる。いつでも飛び出せるように、神経は窓に向けられる。

 カシャッ!

 ストロボのような閃光とシャッターを切る音が同時に弾け出した。。
 「誰だっ!」
 らんまは蒲団を蹴り上げて、窓辺へと走る。木の茂みの中から、見覚えのある学生服の男が慌てて立ち去るのが見えた。
 「ご、五寸釘っ!」
 らんまの叫びに
 「待ちやがれっ!!」
 らんまはそのまま窓から飛び出して、五寸釘の後を追おうとした。
 その時、強い力に強引に引き戻された。
 「なっ!?」
 ゴオォォォッ!
 旋風のような強い突風が、いきなり身体をすり抜ける。
 らんまが一瞬、怯(ひる)んだすきに、五寸釘は走り去って行ってしまった。

 
 「くそっ!やっぱりあいつが絡んでいやがったのか…。」
 乱馬は男に戻ると、吐き捨てるように言った。
 あかねが変に成りはじめたとき、確かに五寸釘の影を見た。そして、あの体育の授業の時は、五寸釘は姿が見えなかった。そして、今。
 「間違いねえ…あかねのこの異変は五寸釘が主犯に違いねえ…。」
 乱馬は東風、早雲、玄馬、なびき、に言い放った。
 「ねえ、乱馬、あかねの様子が、ますます変なのよ…。」
 のどかが病室から駆けてきた。様子を見に行って見ると、あかねはぼんやり、ただぼんやりと虚ろな瞳で空を眺めていた。
 「あかね…。」
 誰が話し掛けても、無関心。聞こえているのか、聞こえていないのか、それすらはっきりとしない。
 「あかね…しっかりしておくれ。あかねぇー。」
 早雲はすっかりしょげ返り、娘の異変を嘆いた。
 「許せねえ…。」
 乱馬はぎゅっと拳を握り締める。
 なんだって、あかねがこんな目にあわされなくちゃいけないんだ…。
 幾度名前を呼んでも、話し掛けても、返事がない。あかねの瞳は光がなく、ただ、開いているだけの魚の目だった。
 「俺、ちょっと行って来ます。あかねを頼みます。」
 乱馬は思い詰めたように言い放つと、病室を抜け出した。行き先は当然、五寸釘の居るところ。


七、

 「五寸釘っ!出て来いっ!!」
 夕闇の中で乱馬は五寸釘の家の前で凄んでいた。
 「居るのはわかってんだ…おまえにちょっと話がある。」
 乱馬は二階の窓辺へと簡単に登っていった。
 「早乙女くん…。」
 明かに五寸釘は震えていた。
 窓をこじ開けると
 「ちょっと面貸せっ!」
 乱馬は五寸釘を引っ張り出した。
 「乱暴は辞めてくれっ!!」
 五寸釘は叫んだが、所詮、乱馬の敵ではなかった。
 「おまえに乱暴者呼ばわりされる謂れはねえっ。そのカメラと一緒に来てもらおうか…。」
 乱馬は部屋を一瞥して、古ぼけたカメラを見つけると、五寸釘を掴みあげ、ムリヤリ窓の外へと引っ張り出した。
 「ひっ!ここは二階だよ。早乙女くん。」
 「へっ!関係ねえよ。」
 乱馬は窓から抜け出すと、そのまま五寸釘を抱えて飛び降りた。
 そして、おリ際に傍にあった電柱へ鉄拳を一発入れた。電柱は凹み、形が変わる。バラバラと音をたてて、コンクリート片が地面に落ちた。
 「いいな、逃げようとしたら、容赦なく、この拳を食らわしてやるぜ。」
 乱馬はドスの利いた声で五寸釘を脅した。五寸釘は乱馬が本気であることを肌で感じ取った。そして逆らえる筈もなく、渋々と乱馬の後を付いて行った。

 病室に入ると、あかねがベットの上で、まだ外を眺めていた。沈み行く夕陽も、家路を急ぐ小鳥の群も、あかねの視界にはまるで捕らえられていないような虚ろな瞳をしていた。

 「見ろ…五寸釘。おまえがあかねにやった行状だ。」
 乱馬はドアを開けると五寸釘に話し掛けた。
 「あかねさん…。」
 おそるおそる五寸釘が声をかけたが、返事はなかった。氷のような冷たい無機質の表情は、蒼ざめ、硬直し、そこにいるのがあかねではないような気すらしてくる。
 「おまえが何をやったのかは知らねえが、あかねはご覧の通りだ。」
 乱馬の口調は静かだが、腹の底から響いてくるような怒りが感じられた。できればその場をすぐさまでも退散したいような、凄みのある響きだった。五寸釘はもうとっくに、色を失っていた。どう弁解すればいいのか。頭の中は、言い訳がぐるぐると交差したが、一向に埒があかなかった。
 「おい。俺の言いたいことはわかってるな…。あかねを元に戻せっ!」
 乱馬は五寸釘の胸倉を掴むと、睨みつけて吐き出した。
 五寸釘はひ弱な身体をガタつかせて、それでも逃げようと試みる。
 「どうやったらあかねを元に戻せるんだ?」
 乱馬はぐっと掴んだまま、相手の動きを封じた。
 「し、知らないよ。僕、戻し方は教わっていない。」
 精一杯の力を振り絞って、五寸釘は答えた。
 「し、知らないだぁ?フザケンなっ!!」
 乱馬が拳を振りあげるのを目を瞑って牽制しながら、五寸釘は続ける。
 「ホントだよ…。あかねさんの笑顔を永遠に自分のものにしたかったから、言われた通りにやったまでなんだ。戻し方なんて聴いてない…。」
 五寸釘はたどたどしく、乱馬に打ち明ける。
 「だったら、あかねはどうなるんだ?」
 
 「どうなりもせん。ワシのコレクションになるだけじゃ…。」
 背後で老人の声がした。
 振り返ると、窓の外、宙に浮いた老人が立っていた。
 「ひっ!!」
 五寸釘は老人の姿を認めると、その場にへたり込んでしまった。
 「どうやら、うまく写真がとれたようじゃな…。お若いの。さあ、最後の仕上げじゃ。四枚目の写真を撮ってもらおうかの…。」
 「てめえかっ!こんな訳のわからねえことにあかねを巻き込んだのはっ!!」
 乱馬は腰を引いて臨戦体制に入った。ただならぬ妖気が老人から発せられる。
 「気を付けてっ!乱馬くん!!」
 いつ集ったのか、後ろには東風、玄馬パンダ、早雲、なびき、のどかが控えていた。
 「ふふふ…何人来ようと、ワシには逆らえぬわ…。」
 そう言うと、老人はカッと目を見開いた。

 目に見えない波動が一同の上を襲いかかった。

 「うっ!!」
 乱馬たちは全身、金縛りにあったように、動けなくなった。
 ガタガタと窓ガラスは振動を始め、小乃接骨院の傍に立っている木々もざわめき出した。
 「さあ、今の内に、四枚目の写真を…。」
 老人は五寸釘に迫る。
 「い、イヤだ…。」
 五寸釘は老人に言い放った。
 「怖くなったのか?ふん。意気地がないのう。この娘の笑顔を自分の物にしたいと言っておったではないかのう…。その手助けをしてやったまでのことじゃのに。」
 老人は不気味な笑みを浮かべながら、更に続けた。
 「どうあがいても、ワシには逆らえんのじゃよ。えいっ!」
 老人が再び目を向けると、五寸釘の身体は自分の意思とは関係なく、カメラを手にした。
 「そうら、四枚目の写真を撮るのだっ!」
 傀儡にでもなったように、五寸釘はふらふらと前へ進み出す。
 「ご、五寸釘…や、やめろ…。」
 乱馬が声を出すと、更に、締め付けが苦しくなった。
 「く、くそ…。」
 乱馬は声すら上げられない。
 「い、イヤだ…あかねさん…逃げて…。」
 五寸釘の声も、回りの喧騒も、あかねには目に入らないらしく、ずっと黙ったまま、宙を見詰める。
 「そうら、娘の前にでるんじゃよ。ちゃんと狙ったアングルで撮るんじゃ…。そうすれば、あの子は永遠に写真の中に封印される。若いまま、年老いもせず、笑顔のままこのネガの中へ…。」
 五寸釘は言われるままに操られ、カメラをあかねの正面に据えた。
 「イヤだ。やめてくれっ!あかねさんを封印なんてしたくない…。」
 五寸釘の言葉が悲鳴に変わる。

 乱馬は最後の力を振り絞る。このまま、奴の思いどおりにさせられない。
 無我夢中で動こうともがくと、そこへ、木の葉が一枚手の中へと舞い込んできた。
 「さあ。シャッターを切れっ!!」
 老人は目的が達成される喜びに打ち震えたのか、少しだけ、呪縛が弛んだ。
 「今だっ!!」
 乱馬は木の葉をカメラに向かって押し出した。

 カシャっ!!

 一瞬、世界が白んだ。シャッターを切る音と、閃光と、一同の悲鳴…。」

 「ふふふ…これで、この子は永遠に封印…。」
 老人が笑いかけたとき、異変が起こった。
 カメラが音をたてて崩れ落ちたのだ。
 「な?何故だ。確かにシャッターは…。」
 狼狽する老人に向かって、呪縛から解放された乱馬が言い放った。
 「シャッターは切れたさ…だけど、レンズの前に遮蔽物があったらどうだ?」
 そう言って、木の葉を高らかに差し出した。
 「ま、まさか…。おまえ…。」
 「ふんっ!一瞬力が弛んだ隙に、俺がカメラの前にさし込んでやっんだよ。残念だったな…。じいさん。」
 乱馬はそう言ってにやっと笑った。
 「おのれ…。」 
 怒りに打ち震えた老人は乱馬めがけて渾身の熱の妖気を放った。燃えあがる炎と共に、乱馬に真っ直ぐに襲いかかる。
 「往生際が悪いんだよっ!!」
 呪縛から解かれた乱馬はそう言うと、老人めがけて「冷気」を打ち込んだ。
 「飛竜昇天破変形、飛竜冷却破ーっ!!」 
 老人から放たれた熱気は乱馬の打ち込んだ冷気に翻弄され、鋭い牙となって老人を貫いてゆく。

 断末魔の叫びが氷の刃とともにかき消されるように、塵へと帰した。と、同時に五寸釘が持っていたカメラにはひびが入り、一瞬にして弾けた。そして…微塵の塵となって跡形もなく崩れ去った。
 「ふっ。滅んだか…。」
 乱馬は汗を拭いながら攻撃の形を解いた。


八、

 「あかね…。あかねは?」
 乱馬は辺りが静まったのを確認すると、あかねを気遣った。魔性のものは滅ぼしたが、あかねはどうなったのか…。無事か、元に戻れたのか…それとも。
 あかねはベットに前向きに倒れたまま、微動だにしなかった。
 「あかねっ!」
 乱馬は他の誰よりも早くあかねに駈け寄った。そして、ぐったりしている彼女を抱えると必死で顔を覗き込んだ。

 穏やかな寝息とともに、寝顔が乱馬の前に現れた。
 「あかね…?」 
 乱馬は揺り起こそうとしたが、東風がそれを制した。
 「寝かせておいた方がいい。ほらごらん、五寸釘くんが手にしていた写真の表情が少しずつ消えているだろう?少しずつ、吸い取られた表情が、彼女に戻っているんだよ。だから…。」
 東風はそっと乱馬に言い含めると、ニッコリ笑った。
 五寸釘が手にしていたセピア色のあかねの笑顔、怒った顔、悲しみの顔の写真から少しずつ煙が上がり、あかねへと吸い込まれてゆくのが見えた。
 
 それから、あかねの表情は時を置いて変化を遂げた。苦しみの表情、悲しみの表情、怒りの表情、哀れみの表情、驚きの表情…
 枕元につけられたほなかな明かりの下、乱馬はその表情を傍らで追い続けた。
 「あかね…。」
 一つずつ、吸い取られた表情は、写真から抜け出しあかねの中に帰して行く。それらを一つ一つ眺めながら、乱馬は自分の表情も変化していることに気がついた。
 あかねが怒れば、怒った顔に、あかねが泣けば切なげに、あかねが喜べば、自分も満たされるような…。それは不思議な体験だった。みんなは気を利かせたらしく、病室の中は乱馬とあかね、二人きりになっていた。
 「おまえ、ホントに表情が豊かだなあ…。」
 乱馬はベットの脇に置かれた丸い穴が真ん中に開いた椅子に腰掛けて、飽きることなくあかねの顔を見詰めていた。のっぺらだったあかねの表情が、写真からひとつひとつ、吸い上げられ、戻ってゆく。蒼白だった顔も、人心地を取り戻し始め、赤みを帯び始める。あかねはその間中ずっと寝息をたてていた。
 「心配ばかりかけやがって…。」
 いつか、あかねの右手をそっと握っていた。そうでもしなければ、あかねが何処かへ行ってしまうのではないかという不安に駆られたからだ。
 どのくらいの時が流れたのだろう。
 最後に、あかねの顔に、笑顔が差し込んだ。眩しいくらいの微笑が口元から漏れたとき、あかねの目がそっと開いた。
 「乱馬?」
 あかねは傍らに恋する相手がいるのを見つけると、ホッとしたように笑顔を返した。
 「あかね…。」
 乱馬ははにかみながら声をかけた。
 「私、長い夢をみていたみたい…。誰かが私の表情をひとつひとつ持ち去るの…。でも、良かった、乱馬が居てくれて。乱馬がひとつひとつ私に取られた表情を返してくれたわ。変な夢だった。」
 乱馬は起き上がったあかねにを自分の腕の中へと収め込んだ。
 「良かった。目覚めてくれて…。ホントに良かった…。このまま目覚めないんじゃないかって…俺は…。」
 「乱馬?」
 あかねは乱馬の様子がいつもと違うことに戸惑った。が、どうやら、自分がとてつもなく彼に心配をかけていたことに少しだけ気が付いた。
 「おまえの表情は、全ておまえ自身のものさ…誰にもそれは侵させねえ。喜びも怒りも悲しみも…喜怒哀楽全て。」
 乱馬の声が優しくあかねに話し掛けてくる。
 乱馬の言っていることは理解できなかったが、あかねは、乱馬の囁きを聞いて少しだけ、微笑んだ。
 もしかしたら、さっきの夢は本当の出来事だったのかもしれないと。
 暫らくあかねは乱馬の胸に自分を預けていた。何故かずっとそうしていたかった。
 そして。

 あかねは再び眠りに落ちた。乱馬の腕に抱かれたまま。

 「やっぱり、笑顔のおまえが一番…笑うとかわいい…よ…。」
 寝息をたてはじめたあかねにそっと笑顔で呟いた。
 「喜怒哀楽」…あかねが手向ける表情の豊かさに改めて思いを馳せる乱馬。また、彼も、同じように、「喜怒哀楽」をあかねに託す。全てを投げ出し表現しあえる極上の存在。いつまでも、その関係が続くように、そう願わずにはいられなかった。
 「おまえの笑顔、俺が傍で守ってやるから…。安心しておやすみ…。」
 そう言って乱馬はあかねの額にそっと誓いの印しを付けた。








一之瀬的戯言
 葉月玲奈さんの「呪泉郷」開設のお祝いに書いたリクエスト小説。
 「笑うとかわいいよ」という台詞を再び乱馬くんに言わせて欲しいというリクエストを受けての作文。
 が、面と向かっては言わせませんでした、ごめんなさい。
 テーマは「喜怒哀楽」。もし、あかねちゃんが笑わなくなったら…というコンセプトで作ってみました。
 原作でもアニメでも、乱馬はあかねの笑顔に翻弄されっぱなし…そこがまた、乱×あの醍醐味のような気がします。


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