◇微笑を永遠に 前編
一、
「ちょっと、らんまぁっ!乱馬ったらあーっ!!」
二学期が始まって間もない風林館高校の廊下。あかねが許婚の乱馬を追いかけていた。
「やーだよっ!おめえが作った弁当食うくらいなら、昼食抜いた方がいいってもんだっ!!」
乱馬は必死で逃げ惑う。
天道家の台所を賄うかすみが昨晩から風邪気味だというので厭な予感はしていた。今朝方、あかねがロードワークに出掛けて来ないと思っていたら、案の定、台所に引き篭もってごそごそやっていた。それが、この「特製弁当」だったらしい。
「なびきお姉ちゃんは機嫌良く持っていってくれたのよ。乱馬だってっ!」
「俺は要らんっ!食いたくねえから勘弁してくれっ!!」
そう絶唱して、乱馬は二階の窓から下へと逃げた。さすがに乱馬のように二階から飛び降りる訳には行かず、取り残されたあかねは最後っ屁のように罵声を浴びせ掛ける。
「何よっ!乱馬のばかーっ!!」
そんな二人の様子を影から見詰める暗い目が二つ。
「畜生…早乙女の奴。あかねさんの手作りの弁当を拒否するなんて…。罰当たりめっ!罰当たりめっ!罰当たりめっ!!」
五寸釘光はそう呟きながら、柱に向かって藁人形を打ち付ける。
実際、五寸釘にとって、早乙女乱馬は目の上のたんこぶだった。気の弱い彼は、絶大な人気を博して学園のアイドルだった「天道あかね」を影から見るだけで幸せだった。笑顔はピカイチ、スタイルだって悪くない、おまけに性格もいい…。そこへ、いきなり転校してきて、おまけにちゃっかり「許婚」として現れた「早乙女乱馬」。その存在だけでも鬱陶(うっとう)しいのに、馴れ合いの極地であかねさんに対する非礼の行動や言動の数々を投げる「早乙女乱馬」。
…早乙女くんにはあかねさんの許婚を名乗る資格はないっ!…常日頃五寸釘はそう思い続けていた。
…あかねさんには、もっと優しくて実直で誠実な男が似合っているんだ…
五寸釘の横を、あかねの姉、なびきが九能帯刀をかしずいて現れた。
「ねえ、九能ちゃん…あかねの手作り弁当があるんだけど…要らない?」
「何…本当か?おおおっ、わざわざ僕の為に…。」
手を出しかけた九能を制して
「甘いっ、5000円っ!」
「お金を取る気か?天道なびき…。」
「要らないの?じゃあ、別の人に持っていくわ…。」
「待てっ!誰が要らぬと言った。3000円でどうだ?」
「じゃ、中とって4000円でどう?」
「買った…。」
ちゃっかりしたもので、なびきはあかねから今朝受け取った弁当で商売していた。
「毎度ありー。ふふふっ、あかねの手作り弁当だって商売になるんですもの。このお金で、今日はおいしい物が食べられるわね。ありがと…あかねっ!九能ちゃんっ!」
なびきはそう言いながら立ち去った。
五寸釘はそんな風景を見ながら、ますます溜息を深めた。
…あかねさんの周りにはロクな奴がいないなあ…早くその悪魔達から救い出してあげなければ、あかねさんの笑顔に曇りが…
ウジウジとあかねの救出作戦を思い描きながら、五寸釘は道端を歩いていた。
前方には、痴話喧嘩しながら下校する、あかねと乱馬の姿があった。
「うるせえなー。只でさえ、季節の変わり目で胃腸の調子があんまりよくねえんだっ!おめえの作ったものなんか食えるかよっ!」
「だからって右京の世話になることないじゃないっ!これ見よがしに…。」
「腹へってたんだから仕方ねえだろ?」
「何よっ乱馬のバカバカバカバカっ!」
そんな会話が風に乗って聞こえてくる。
…あかねさん、ホントは早乙女のこと、どう思っているんだろ。あんな乱暴で思いやりのない奴のこと…まさか好きだなんて…。」
二人の落す影を後ろから見守りながら、五寸釘は溜息を吐く。
「お若いの…もうし…そこの暗い学生さん…。」
突然、生垣から声を掛けられた。
五寸釘が振り返るとそこには蝙蝠傘と古ぼけた皮のケースを抱えた見るからにあやしげな老人が一人立っていた。
「ホントに利くのかなあ…。」
五寸釘は帰宅すると、ただいまの言葉もそこそこに、鞄を持ったまま自分の部屋へ引き篭もった。
そして、紙包みをがさごそと開けて、さっき道端で声を掛けられた老人から貰った古ぼけたカメラを取り出した。
「どれどれ…。」
かなりすすけた感じの年代品だ。今時珍しい、真四角に近い形をした20センチ四方もあろうかという珍品だった。何処を探しても、メーカーの名前すら刻印されていなかった。
「ホントに写るのかな?」
機能の方が心配になるくらいの代物だった。
老人の話によれば、世界各地を人から人へと伝わるうちに、このカメラには不思議な機能がついてしまったという。何でも、意中の人を全て自分だけのものに出来るのだという。
『おまえさん、前を行く、あの短い髪の娘さんが好きなんじゃろう?だったら、いい物をやろう。』
いきなり呼びとめられて、カメラを手渡された。
『あの、娘さんの顔が正面からちゃんと入るように、今日からでも明日からでも三枚、毎日一枚ずつ写真におさめなされ。そうすれば、永遠にあの娘さんを己の物に出来なさるよ。』
何かあやしげだったので、断わろうとかとも躊躇したが、『なあに、お代は要らんよ。3枚おまえさんが撮った後にもう一枚、そうその4枚目の写真だけワシにくれたらいいんじゃよ・・・。三枚撮れたら四枚目をちゃんと貰いにあがるからのう…ホホホホ・・・。』
老人はそう言うとさっさと五寸釘の前から立ち去って行ってしまった。
・・どうしたものだか…。
五寸釘はカメラをいじくりまわしながら、考えてみた。透かしたり、持ち上げたり、覗き込んだり…
「あかねさんの写真が撮れたらいいや…ダマされたと思って使ってみよう。」
彼の決心はあっけなかった。老人が『永遠にあの娘さんを己のものに出来なさるよ。』と言ったのが印象に残っていたのだ。何度も耳の中でこだまする。本当に己のものに出来たらどんなにいいだろう。淡い期待だとわかっていたが。
…早乙女の奴に、憧れのあかねさんを持っていかれるくらいなら…
五寸釘はカメラを仕舞い込むと、天道道場の方へ向かって歩き出した。
二、
夕刻が迫る天道家。
帰宅したあかねは道着に着替えて、道場の前にいた。
何となくムシャクシャする気持ちを、瓦とブロックにぶつけていた。
「でやーっ!!たーっ!!」
何度も気炎を吐いて、瓦を粉砕する。それでも、ムカムカはなかなか取れるものではなかった。
『とにかく、迷惑だから、晩ご飯を作ろうなんて一切考えんなよっ!オフクロが用意するって言ってたからなっ!!』
さっき、道場の入口で憎々しげに口を尖がらせていた乱馬。
…何よっ!あんたに言われなくったって作ってやんないんだから…
流れる汗を拭いながらも、まだ、イライラを隠しきれないあかね。
「誰っ!」
あかねは振り向きざまに、砕いた瓦の破片を投げつけた。人の気配が背後でしたからである。大方乱馬がまたからかいに来たのかもしれない。そう思ったのだった。
スコンッ!
瓦は鈍い音をたてて落ちた。
「いたたたた…。」
木陰で声がした。
「ご、五寸釘くん…何してるの、こんなところで…。」
盗み撮りをしようと忍びこんだなどとは言えない彼は、
「いや、あの、夕焼けがきれいだから、写真を撮ろうかなあ…なんて出歩いていたら、ここに入っちゃっただけです…。」
と苦しい良い訳をする。
「ふうーん。まあ、いいわ。まあ、珍しいカメラねえ…。古そう…。」
あかねは五寸釘が手にしていたカメラを見つけて、近寄った。
「今時、まだ、こんな形したのがあるのね…五寸釘くんの?」
あかねはカメラを見て尋ねた。
「え、あ、そうだね。この前お爺さんから貰ったんだ。…・ねえ、どう?良かったらこれで写真を一枚撮らせてくれないかなあ…あかねさん。」
五寸釘はダメ元であかねに頼んでみた。
「いいわよ…私なんかで良かったら。」
あかねにとって不幸だったのは、その時家にはかすみとのどかしか居合わせなかったことかもしれない。かすみはずっと引いた風邪で伏せっていたし、のどかは夕飯の支度に追われていた。なびきはアルバイト、早雲も玄馬も留守。乱馬も夕方のロードワークだと言って出掛けていた。なかなか帰って来ないとことをみると、大方、シャンプーあたりに捕まっているのではないだろうか。
断わる理由もなかったので、お人良しのあかねは、何も疑うことなく、五寸釘の策略に落ちたのであった。
あかねがいともあっさりと快諾してくれたので、五寸釘は天に昇るほど嬉しかった。
「じゃあ、あかねさん、あの夕焼けをバックに一枚お願いします。」
いつも、隠し撮りには慣れている五寸釘だ。写真の腕には少なからず自信があった。どうせ撮るなら、きれいに撮りたい…。
「このへんでいいかしら?」
あかねは道場とは反対の方向へ佇んだ。
「バッチリです。撮りますね。あかねさん、このレンズの所に向かって微笑んで下さい。」
あかねは言われるままに微笑んでみた。
三、
写真を撮られた瞬間、あかねはストロボの光りが心に差し込んできたように感じた。
眩しいっ!
そう思った次の瞬間、ふわりと心が一つ、抜け出したように思った。
五寸釘が写真を撮り終えたことも、彼がそそくさと帰ってしまったことも、はっきりと覚えていないような状態だった。
しかし…。心が妙にささくれ立っていた。
「おいっ!あかね。あかね?」
乱馬はあかねを呼んだ。
さっきから、庭先でぼーっと突っ立っていて、ピクリともしない。不審に思って声をかけてみたのだった。
暫らく間を置いて…。
あかねはギロリと目を剥きながら乱馬を振り返った。
…げっ!まだ怒っていやがるのかよう…
正直乱馬は、ドキッとした。そのくらい不機嫌な顔をあからさまに乱馬に向けてきたのである。
乱馬に不機嫌な顔を見せると、何も言わずにぷいっとあかねは母屋の方へ引っ込んでしまった。
…あかね!?
原因は何某、自分にもあると思っていた乱馬は、内心、気が気でなかった。あかねが怒って拗(す)ねることは日常茶飯事だったが、それにしても、今のあかねの表情は…。
夕飯の時も、ずっとあかねは不機嫌だった。
乱馬の方を見向きもしないで、沈黙を続けていた。怒りのオーラが身体中から舞い上がっている。ピリピリとした雰囲気は、天道家の食卓を歪んだものにしていた。
「ねえ、乱馬くん。まだお弁当のこときっちり謝ってないの?」
なびきが絶えられなくなったのか、箸をもったままこそっと訊いてくる。
「あ、ああ…。いつもなら、時間が経てば、あっさりしたもんなんだけどよ…。」
「乱馬、貴様一体あかねくんに何やったんだ?」
玄馬もコズいて来る。
「いつもと変わらねえぞ。ちょっとした口喧嘩くらいしかしてねえって…。」
体調が悪いかすみがその場にいなかったものだから、誰一人、あかねを取成す人がいなかった。のどかは、のんびりした様子で
「乱馬、何にしても男らしく後で謝っときなさいよ…。」
とご飯のお替わりをつぐときにこそっと言ったくらいだった。
「なあ、あかね。いい加減に機嫌を直しなさい…。」
見かねた早雲が、父親らしい進言をしたが、それすら一瞥しただけであかねは黙り込んでいた。
「ねえ、あかねちゃん、お願いだから。機嫌直して。」
情けない声で、早雲が懇願に入った。
「うっさいわねっ!ほっといてっ!!」
あかねは箸を置くと、無表情に、席を立った。そして、つかつかと二階へ上がってしまった。
ほーっ。
天道家の一同から、困ったものだという溜息が漏れた。
「乱馬くん、これは、本格的に切れてるわ…早目に謝りなさいよ…」
なびきも、他人事のように、乱馬の背中を叩いた。
「そうだ、そうだ。こんな食事じゃあ咽喉も通らんからな。乱馬っ!土下座してでも謝れっ!」
玄馬も乱馬を叱りつける。
「お願いだよ〜らーんーまーくーん。」
早雲に至っては巨顔化して乱馬の回りを回り始める始末。
「うーん。でも、いつもと同じくらいしか喧嘩してねえぞ…。なんで今日に限ってあんなに不機嫌なんだ?」
乱馬は首を傾げるばかりだった。
深夜になって、余りに気になった乱馬は、そっとあかねの部屋へ行ってみた。
あかねは、まだ不機嫌で、乱馬を見るなり、
「何か用?」
と一言呟いたまま黙った。
「なあ、おめえさあ、なにぷんぷんしてんだよ…。」
「知らないわよっ!」
「知らねえって、他人事のように言うなよな。気になっちまうじゃねえか。何か言いたいことがあるんなら、俺に言ったらどうだ?え?」
どうにかしても、喧嘩腰にしか物が言えない不器用な乱馬であった。そんな調子だから、あかねの神経を逆撫でするに充分だった。
「だから、あんたには別に関係ないから、ほっといてっ!!」
「関係ねえことねえだろーが。俺は、紛(まが)いなりにもおめえの許婚なんだぜっ!」
「うるさいっ!許婚だろうとなかろうと、ほっておいてって言ってるのよーっ!」
あかねは乱馬を部屋から追い出すと、ぺシャリとドアを閉めてしまった。
「ちぇっ!可愛くねえっ!」
乱馬はドアの外で呟いた。
実際のところ、乱馬にはあかねの不機嫌の原因が自分にあると思っていた。だから、否があるならさっさと謝ろうと思っていたのに、このあしらわれ方。乱馬もだんだん腹が立ってきた。
…なんだよ、人が折角、下手に出てやったのに…
腹がたつと同時に、何故か虚しさが込み上げてくる。
…ホントに、俺が何したていうんだよ…
一晩中、天井を見上げながら考えたが、乱馬にはさっぱり打開作も、あかねの怒りを大きくした原因も、どちらも思い当たらなかったのだった。
一睡も出来ないで夜が明けた。
勿論、あかねは昨日と同じで、ずっと不機嫌そうな顔を称えていた。
「いってきまーすっ!」
投遣りな言葉使いであかねは天道家を出た。
乱馬も、寝不足の赤い目を擦りながら、その後を無言で追い掛ける。
フェンスから見下ろすあかねは、ずっと黙ったままで、ちらりともこちらを向く様子はなかった。
はーっ。
乱馬は深い溜息を何度も何度も吐いては、あかねの気を引こうと試みたが、あかねは無反応だった。
「らんまぁーっ、おはよーね。」
そこへシャンプーが自転車で現れた。このややこしい時にまたややこしい奴が…乱馬は一瞬焦った。
「くぉら、シャンプー朝っぱらからじゃれてくるなっ!」
乱馬はシャンプーの歓迎的挨拶の抱擁に出くわして、困惑しきった口調で彼女を引き離そうとした。只でさえ、不機嫌なあかねにこれはもう充分な起爆剤になるだろう…。
「うわったったっ。」
乱馬は当然次に来るであろうあかねの渾身の怒りに耐えるべく身を屈めた。
ところが、大方の予想に反して、あかねは「一切の無視」を決め込んで、先へとっとと歩いて行く。というより、全く乱馬とシャンプーの一挙手一投足に関心を示さなかったのだ。空振りを食らった乱馬は、ポカンとあかねの背中を見送った。
「乱馬ぁ…あかねと何かあったか?それとも嫌われたか?」
シャンプーも予想外のあかねの無関心に、思わず言葉が漏れた。
「へっ、へへっ、へへへっ。」
乱馬は少なからずも、あかねの完全無視とシャンプーの言動に傷ついていた。だから、そう、力なく笑い飛ばすしか術がなかったのだろう…。
そんな、乱馬とあかねのやり取りを、後ろから不気味に微笑みながら覗きこむ黒い人影。そう、五寸釘だった。
「しめしめ…この写真機の効果がもう上がり始めているんだな…。悩めっ。早乙女くん。どっちにしても、あかねさんはもう僕の手の中にいるんだよ…。くくく…。」
四、
六時限目の体育の時間。五寸釘は授業をサボって、例のカメラを体育館の脇からこっそりと構えていた。
「なあ、乱馬。あかねと何かあったのか?」
ひろしと大介が、体育館の片隅で乱馬を羽交い締めにていた。飛び箱を並ぶ順番のうちに座り込んで話し込む。
「べ、別に…。」
乱馬はその問いを軽く受け流した。昨夜一睡もできなかったので、眠さとだるさが身体を支配し始めていた。
「あかねの奴、朝からずっと不機嫌じゃあねえか。ははーん、おまえ、キスか何かしくじったんじゃあねえのか?」
ひろしが曰くありげな眼差しを向けてきた。
「ば、ばかっ!そんなこと、す、する訳ねえだろっ!」
乱馬は紅潮して否定に入った。
「それにしても、あかねの様子、変だよなあ…。あんなにムスッとしてるなんて…。」
「んだ、んだ。これはやっぱり乱馬くんのせい以外の何物でもあるまいに…。」
「う、うるせーっ!人のことはほっとけって。」
乱馬はムキになっていた。友人たちの気遣いはありがたかったが、原因がわからぬ以上、対策の立てようもない…それが、乱馬の本音であった。
…ホントにあいつ、どうしちまったっていうんだ?
「ん、なあ。五寸釘は?」
「また、体育、ふけてんじゃあねえのか。あいつ、体育だけはやたらにサボるからなあ…。」
ひろしと大介は黙り込んでしまった乱馬の横でそんな会話も続けていた。
さて、当の五寸釘。
今度は真剣にマット運動に嵩じるあかねを写真機に一枚おさめていた。
「いいよ…君の怒った顔も、また素敵だよ。」
五寸釘はカメラの照準をあかねに合わせた。
パシャッ!
カメラのシャッターが切って落とされた。
今度もまた上手くいったようだった。
カメラの中に二枚目の写真。今度は怒った風体のあかねのアップ。
時間をおいて浮き上がってくる写真を見ながら、五寸釘は満足そうにほくそえむ。
…あと二枚。明日、明後日には君は僕の物に…
クククッと不気味な笑みが五寸釘から洩れる。まだ、誰も、あかねと五寸釘の異変を知らない。
「どうしたんだ?」
反対側の女子のざわめきに男子たちは飛び箱を片す手を緩めて集り出した。
「あかねがちょっとね…変なのよ…。」
女子たちは口々に囁く。
乱馬はあかねという単語にビクッと反応した。
あかねがうずくまるようにマットの上に沈んでいた。
「ど、どうしたんだっ!」
立ちはだかる人垣を掻き分けて、乱馬はあかねの元へと走り出す。
「お、おいっ!あかね。あかねっ!!」
乱馬はぐったりとへたり込んだあかねを抱き起こした。
周囲は乱馬の行動を好奇心の塊で見詰めていたが、あかねの様子が尋常でないのを見越した乱馬は、お構いなしに話し続ける。
「怪我でもしたのか?具合が悪りぃのか?あかねっ。こらっ、しっかりしろっ!」
「わ、私…。」
あかねは虚ろな瞳で乱馬を見詰めた。
そして、とたんに乱馬の腕の中で泣き崩れた。一体何がどうしたというのだろう。
「お、おいっ!あかねっ、なっ、何泣いてるんだよ…こ、こらっ!」
乱馬はすっかり焦ってしまった。当然だろう。さっきまで不機嫌で燻っていたあかねが、今度はわんわん泣き出す始末。乱馬はただただ、狼狽するしかなかったのだった。訳もわからぬまま、とにかくあかねを引き離そうとかかったが、あかねは乱馬にしがみついたまま微塵だに動かない。
「あーあ、乱馬…今度は泣かしちまたのかよ…。」
「困った野郎だなあ…。」
ざわめきの中で、クラスメイトたちは口々に罵り始める。
「ち、違うっ!お。俺は、無実だっ!何にもしてねえっ!」
乱馬は必死に否定しに掛かった。
「の、割りには、しっかり抱きしめてるじゃあねえかよ…。」
「ったく、見せつけるなよ…。」
「アホらし、アホらし…。」
「先生。早乙女くんが天道さんを泣かしました。」
女生徒が教師に告口した。
「じょっ、冗談こくなっ!俺は何もやちゃいねえーっ!」
乱馬は叫んだ。だが、腕の中のあかねは、そのまましゃくりあげている。
クラスメイトのざわめきの中、体育担当の先生が一言告げた。
「早乙女くん。いいから、責任とって、天道さんを家までそのまま連れて帰りなさい。」
「なんで俺がこんな目に…。」
乱馬はすっかり弱りきっていた。あかねはなだめてもなだめても涙に暮れるばかりで、ずっと乱馬にしがみ付いている。仕方なしに乱馬は彼女を抱えたまま家路につかされた。
クラスの連中には散々冷やかされた。
「あかね、あかね?」
気が付くとあかねは乱馬の腕の中で寝息を立てていた。
「ちぇっ!いい気なもんだぜ…。」
でも、泣き喚かれるよりずっといいやと思いなおし、乱馬はそのまま起こさずにあかねを運んだ。
帰り道、ちょうど、「小乃接骨院」の看板が目に止まった乱馬は、東風に一部始終を話せばなんとかなるかもしれないと思った。そして、意を決すると、接骨院の扉を開けた。
五、
「うーん、良くわからないなあ…。」
東風はあかねを見ながら首を傾げた。
「外傷とか外的な要因は、全く見受けられないなあ。かといって精神的に弱るような性格の子じゃないし…。」
「でも、先生、明かにいつものあかねと違うだろ?」
目を覚ましたあかねは、やはり、ずっとぐずついていた。何がそんなに悲しいのか、理由を訊いても要領を得ない答えばかりが返って来るのだ。
「何かの呪いにでもかかったのかなあ…。」
東風はぽつりと言った。
「ねえ、乱馬くん、こうなる前に、あかねちゃんに異変は?」
「いや、その…こいつこうなる前はずっと不機嫌だったんだ。」
「不機嫌?」
「そう、もうとにかく、ずっと可愛くねえ膨れっ面しててさ。」
乱馬は昨日からの経緯(いきさつ)を東風に話した。
「ますます持って不可解だなあ…。もしかして、やっぱり、何か呪いとかいった類かもしれないなあ…。こうまで精神的にボロボロになるなんて、普通では考えられないしね。文献に何か出ていないか調べてみようか。」
「お願いします…俺、なんだってしますから。こいつが元に戻るのなら…。」
乱馬は頭を垂れた。この負けず嫌いの少年が、こうも素直に物事を頼み込むのは珍しいことだと言ってよかろう。
東風は、書斎へ篭って、書物をひっくり返して調べ始めた。
「乱馬くんっ!今度はあかねを泣かしたんだって?え?」
「くぉらっ!乱馬よ、おまえ何をしでかしたっ!!」
早雲と玄馬が相次いで病室に雪崩れ込む。
「げっ!オジさんっ!オヤジっ!」
乱馬は闖入(ちんにゅう)者に驚いて声を荒げた。只でさえややこしい時だ。できれば、誰にも来て欲しくはなかった。
「乱馬くん、もう、学校中の話題さらってたわよ…一体全体、何があったの?」
外でなびきが腕を組んでいた。
「俺にもさっぱりわかんねえんだ。」
乱馬は首を振った。
「ほんとかね?え?何かやらかしたんじゃあないのかね?」
あかねがらみのことだと、早雲はやたら執拗になる。今にも飛びかかりそうな勢いで、乱馬に迫ってくる。
「信用ねえなあ・・・俺。」
そう苦笑した時、今度は九能が乱入してきた
「さおとめーっ!貴様、あかねくんに何をしたーっ!」
真剣を振りかざし、乱馬目掛けて突いて来る。
「どわっ!あ、あぶねえじゃねえかーっ!九能先輩。」
乱馬は九能の突きをかわした。
「おー、天道あかね。こんなに涙に暮れて…この僕が慰めてやろう…。さあ、僕の胸に飛び込んでおいでっ!」
両手を広げて、あかねに立ちはだかった九能。
「透かしてんじゃねえっ!」
乱馬は思い切り良く、九能を病室の窓から蹴り出してやった。
「おとといきやがれっ!この突然男ーっ!」
乱馬は九能を蹴り出すと、肩で息をしながらなびきを振りかえった。
「おめえかっ!オジさんやオヤジ、九能を呼び込んだのは…。」
「何、興奮してるのよ。みんなが知りたがる情報を教えるのは立派なビジネスよ。ビジネスっ!」
「て、てめえ…。」
乱馬が力拳を握り締めた時、なびきが軽く言った。
「ホント、あんたも単純ねえ。すぐムキになっちゃって…折角、仕入れてきた情報をタダで教えてあげようと思ったけど、よしとくわ。」
「え?情報?」
乱馬は意外な言葉に勢いを挫(くじ)かれた。
「何だよ、情報って。思わせぶりに…。」
乱馬がなびきを見やると、
「教えて欲しい?」
なびきはふふっとほくそえんだ。
「ホントにあるんだったらな…。」
「ま、いいか。今回くらいおまけして…。あかねのこともあるからね。」
なびきは深く微笑むとゆっくりと話し始めた。
「あかねが変になったときの証言を、いろいろ集めて回ったんだけど…。」
探偵にでもなったような口調でなびきは続けてゆく。
「何でも、外で、閃光がしたって言うのよ。」
「閃光?」
「また、別の証言があってね、体育館の外から、しきりに中の様子を伺いながらカメラを構えていた奴がいるんですって。」
「カメラ?じゃあ、その閃光って。」
「そう、ストロボね、多分。その光を浴びて、あかねは倒れたらしいわ。その後は、乱馬くんたちが目にしたとおりよ。」
乱馬は腕を組みながらなびきの言葉に耳を傾けていた。非現実的な話しではあったが、もしかすると、そのカメラに問題があるのかもしれない。
「そうか…もしかしたら、喜怒哀楽遮蔽魔法のせいかもしれないなあ…。」
後ろから東風が声を掛けた。
「きどあいらくしゃへいまほう?東風先生、なんだ、それ…。」
乱馬は聞き慣れない言葉に鸚鵡(おうむ)を返した。
「いや、文献を調べていて、見つけたんだけど…古くには、そんな魔法があったそうだ。人の感情である「喜怒哀楽」を順番に吸い取り、廃人にしてしまう恐ろしい禁断の魔法がね。」
「喜怒哀楽…か。確かに、あかねは、怒って、泣いて…じゃあ?」
「多分、次は『哀』の感情を吸い取る筈だ。誰かが、そのカメラか何かであかねちゃんの感情を吸い取っているとしたら…。」
「廃人って、感情の起伏が全くなくなるってことか…。」
「残念ながら、喜怒哀楽を吸い取られた後、その人間がどうなるかまでは文献には書かれていなかった。でも、危険な状態になることは一目瞭然だね。」
「でも、誰が、何の為にあかねを…。」
「乱馬くん…お願いだ…あかねをなんとか元に戻してくれたまえ…。」
早雲が手を握り締めてきた。
言われなくてもそのつもりだった。どこの誰だか知らねえが、酷(ひど)いことしやがる。あかねはきっと俺が救い出す。
乱馬は拳を握り締めながら、泣き止まぬあかねを見詰めた。
つづく
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