◆雛の思い出


 春の足音が近づくある日。かすみは居間で雛飾りを出していた。
 段々を組み上げて赤い毛氈を被せる。そこへ丁寧に人形や調度品を並べ始めた。
「わあ、お雛様。」
 丁度、学校から帰ってきたところのあかねが、ひな壇を見上げて嬉しそうに声を出した。 
「去年は出さずじまいだったものね。だから、今年はちゃんと飾ってあげなくちゃって思ったの。」
 かすみは微笑みながら答えた。
 そう、去年は、居候の乱馬たちのことでドタバタしていたものだから、終ぞ雛飾りを出さずに雛祭りをやり過ごしてしまった。
「私も手伝っていい?」
 あかねは二年ぶりにお出ましする雛飾りに、すっかり無邪気になって姉に訊き返していた。
「いいわよ。着替えていらっしゃいな。」
 かすみははしゃぐ妹にそう言って、微笑んだ。
「はあい。」
 あかねは勢い良く返事すると、二階へと駆け上がっていった。

 三姉妹の天道家。
 女ばかりのこの家では、雛祭りは華やいでいた。母が生きていた頃からずっと綿々と飾り付けらてきた人形たち。
 着替えをさっさとやり終えて、あかねは鼻歌混じりで姉を手伝う。
 箱を開けると、樟脳の匂いが鼻を掠めた。
 何重にも包まれた紙を丁寧に外し、人形を取り出す。どことなく上品な目鼻立ちの雛人形。
「あかねちゃんは、小さい頃から雛祭りが好きだったものね。」
 かすみは雛人形を段に乗せながらそう言った。
「だって、お雛さまには数少ないお母さんとの思い出がいっぱい詰まっているもの。」
 目を輝かせながらあかねは姉に答えていた。
 幼き日に母と別れたあかねにとって、雛人形には母親の暖かい思い出が溢れていた。姉と肩を並べながら人形を出していると、幼い頃、こうやって母と一緒に並べた記憶が心に甦ってくる。

 立派な七段飾りの雛人形。一番上のお内裏様とお雛様を並べるのに、背が届かなくてぐずった自分をそっと抱き上げて
  『ほら、こうすれば届くでしょう?』
と優しく言い含めてくれた母。
 白酒を間違えてたくさん飲んでしまって大騒ぎになった時、
  『しかたないわね…。』
と笑いながら介抱してくれたこと。
 母との温かい思い出があかねの傍を過ぎってゆく。

「そうそう、このお人形の手を折った時は大変だったわね。」
かすみは五人囃子のうち鼓を持った人形を取り出しながらあかねに話し掛けた。あかねは人形をかすみから受け取ると、ふっと溜息を吐いた。
「このお人形かあ。私が落として壊しちゃったの。」
 そう言いながら懐かしげにあかねは人形の右手を眺めた。良く見ると薄っすらとひびが入っていて、手が真っ二つに折れた痕が見て取れた。
「あの時は、お母さん、一所懸命直してくれたものね。」
 かすみも懐かしげにそれを眺めた。

  『大丈夫よ。直るから。心配しないで…。』
 そう、母は怒らずに、泣きじゃくる自分をなだめてくれた。
  『ほうら。こうしておけば、お人形さんも痛くないわよ。』
 接着剤を爪楊枝で器用に塗りこめ、もげてしまった手を慎重に貼り付けた母。

 そんな思い出があかねの脳裏を過(よ)ぎってゆく。
 目を細めながらあかねが人形を眺めていた時だった。
 ドタドタと複数の足音が廊下から響いてきた。
「てめー、待ちやがれっ!!」
 甲高いらんまの声がすぐ傍で響いたかと思うと、いきなり大きなパンダが乱入してきた。
「ぱふぉふぉふぉふぉふぉーっ!」
 パンダは雄叫びを上げながら、襖を開けて、庭先へと逃げ惑う。
「あ…。」
 と思った瞬間だった。らんまの身体があかねにぶつかった。あかねは、その弾みに、持っていた人形を畳の上にコトリと落としてしまった。
 一瞬の静けさが辺りを支配した。
 畳の上に落とされた人形。良く見ると、手がぽっきりともぎ取られて転がっている。
 あかねは放心したように人形をじっと見詰めていた。
「ご、ごめん…。」
 自分のやったことの重大さに気づいたらんまは俯いてしまったあかねに声をかけ、来るべき次の瞬間を身構えて待った。
「いい…。私がぼっとしてたからいけないのよ…。」
 あかねは沈んだ声で無機質に言い返した。そして、ふらふらと立ち上がって、その場から立ち去ってしまった。
「あ、あかね?」
 らんまは予想外に、突っかかってこなかった許婚を見返して声をかけた。しかし、あかねはそれには何も答えずに、黙って部屋を後にした。
「何なんだよ…。」
 らんまはほっと溜息を吐いた。当然、人形を壊してしまった原因を作ったのだから、『らんまの馬鹿ーっ!』とかなんとか言って罵声を浴びせ掛け、ビンタの一つも飛んで来ると思っていたのに。あかねは何も反応せずに立ち去って行っただけ。拍子抜けしたというより、かえって不気味だった。
 反応のなかったあかねに気を取られながらも、らんまは庭先に逃げていった「親父パンダ」を捕まえるために、また、表へと飛び出していった。
「あらあら。しょうがないわねぇ…。」
 あかねとらんまが立ち去った後、かすみは苦渋の笑みを浮かべて、転がった人形を手に取った。
「さっさとやってしまわないと、夕ご飯の支度が出来ないわ。」
 そう呟くと、かすみはまたお雛様を飾りつけ始めた。
 

 それから小一時間ばかりして、結局パンダ親父を取り逃がしたらんまはお湯を貰いに台所へと入っていった。
 夕飯の支度にかかっていたかすみの横で、らんまは手にしたやかんの湯を頭から被った。
 湯煙と共に、背が伸びる。そして、女の身体から男に戻ると、乱馬はふっと溜息を吐いた。
「ねえ、乱馬くん。さっきの人形のことなんだけど…。」
 キャベツを千切りにしていた手を止めて、かすみがふっと乱馬に向って話し掛けた。
「あ…。さっきの雛人形。あれからどうしました?」
 乱馬はさっきの体たらくを思い出して、かすみに訊き返した。
「時間がなかったからまだあのまま、雛壇に乗せてあるわ。」
「そうですか…。で、あかね…は?」
 乱馬はもう一つの懸案事項であるあかねのことをそっと尋ねた。
「そのことなんだけど…。」
 かすみは乱馬の目をじっと眺めながら、言葉を切り返した。
「あのお人形さんね、あかねが、そう、五歳のときだったかしら、一度あの子が壊したことがあるの。それで悲しんでいたあの子と一緒に、亡くなった母が、瞬間接着剤を使って直したのよ。」
 かすみはひと言ずつ丁寧に乱馬に話してのけた。
「母は手先が器用な女性(ひと)だったから、それなりにきれいに直せたわ。直ったとき、あかね、とっても嬉しそうにしていたわね。…あのお人形、あかねには大切な亡くなった母との優しい思い出が溢れているの。上手く言えないんだけど、それで、あの子、あんな風にしょげちゃったのね。」
(そんなことがあったのか…。あの人形にはあかねの思い出が詰まっていたのか…。)
 乱馬は黙って耳を傾けていた。そうこうしているうちに、不可抗力だったとはいえ、自分がこの手で彼女の思い出を壊してしまったような呵責の念が心にふつふつと湧き上がって来た。
「かすみさん、俺、直してきます。」
 乱馬はかすみにぺこっと頭を下げると、居間の方へと歩き出した。
「乱馬くんなら首尾よくやるわね…。」
 かすみはほっと一息吐き出すと、また、リズミカルに包丁を叩き始めた。

 乱馬が居間へ行くと、そこにはあかねが座っていた。
 手にはさっき壊れた人形を持って、じっと考え込むように見詰めていた。
 良く見ると、壊れた部分を、直そうと、彼女自身、不器用な手を動かしているのがわかった。声を掛けるのも躊躇われて、乱馬は柱の影からあかねの様子を覗き込んだ。
 いくらやっても、シックリと来ないのだろう。
 あかねは動かしていた手を止めて、大きな溜息を漏らした。
 そのサマがいじらしいほど可愛らしく映る。そんな自分に乱馬はふっと自戒の微笑みを浮かべる。
(ちぇっ!しょうがねえなあ…。)
 乱馬は軽く息を吐き出すと黙って彼女の横へ立った。
 中腰になってあかねの手から、人形を取り上げた。
「貸してみな…。」
 そう言うと、さっとあかねの横に胡座を組み、ちまちまと手先を動かし始めた。
 あかねは突然横に来た、乱馬に驚いたような視線を浴びせたが、黙って彼の方をじっと見詰めた。
「案外、難しいもんだな…。」
 乱馬は独り言のようにブツクサと呟きながら、人形の折れた手と格闘し始めた。
 熱中した彼は、黙々と手を動かし続けた。

 『大丈夫、直るから心配しないで…。』

 その時、あかねは傍らで母の声を聴いたような気がした。
 乱馬の横顔に母の顔が重なってゆく。そして幼い日の自分に立ち返ってゆく。

  『そんな顔しないで、あかね。大丈夫、母さんがちゃんと直してあげるから。』
 母は泣きじゃくるあかねをとりなしながら優しく言い含めた。
  『お雛様、あかねのこと怒ってない?お人形さまが壊れてしまって悲しんでない?だって、この人形が直らないと太鼓の音が聞こえないでしょ。』
  『大丈夫よ。ほら、見てご覧なさい。お雛様には横にお内裏様がいらっしゃるから、平気よ。お雛様の傍にはいつもお内裏様がついていらっしゃるわ。ああやっていつもお雛様を温かく見守っていらっしゃるの。だから、お雛様は大丈夫。悲しんでなんかいらっしゃらないわよ。』
 母に示唆されて見上げると、ひな壇の最上段でお雛様が笑っていた。その横にはお内裏様。
  『ほんとに?お雛様、あかねのこと許してくれる?』
  『もちろんよ。だから安心しなさいね。お雛様は優しい方に見守られて幸せなのよ。だから悲しいなんて思われないし怒ってもいないわよ。だから安心しなさい。』
  『うん。』
 ちょっとだけ明るくなったあかねに母はそっと囁いた。
  『ねえ、あかね…。』
  『なあに?お母さん。』
  『あなたにも、お内裏様のようないつも見守ってくれる暖かい瞳の人と出会えるといいわね。』
  『お内裏様?あかねの?』
  『そうよ…。いつか、あかねにもきっとそんな優しい人が隣に座ってくれるわね。母さん、ずっとその日まで見守っているからね。』
 そう言って母は笑った。
 その次の年に、母は亡くなっていったのだった。

(お母さん…。)
 思い出に堪らず、あかねが母を呼ぶと、母の笑顔は乱馬の笑顔に重なった。

「ほら、直ったぞ!こんなもんだろ?」
 そう言ってあかねを見詰める優しい瞳。
 その瞳にぶつかったあかねは、一粒、はらりと涙を落とした。
「な、なんだ?」
 あかねの涙に驚いた乱馬はどきっとして大きな目を見開いた。
「な、なんでもない…。ちょっと、お母さんのこと思い出しただけだから。」
 あかねはそう言って笑った。
「だったらいいけど…。ほら、ここに置けばいいんだろ?」
 乱馬はあかねの涙に動揺しながら、雛人形を開いた場所に座らせた。
「ねえ、お母さん…。」
 あかねはそっと乱馬の背中に呟いた。
「私も出会えたわ…。暖かい瞳の人に…。私をいつも見守ってくれる暖かい人に。」
 そう言ってふっと微笑んだ。
「あん?何か言ったか?」
 乱馬はあかねが何か囁いたのを聞いて、問い返した。
「ううん。いい。なんでもない。」
 あかねは暖かな気持ちが心に流れてゆくのをか感じながら言い返していた。
「何だよ…気持ち悪いなあ…。」
 乱馬は相変わらずの悪態を吐いてくる。
「いいの…。乱馬がずっと傍にいてくれたらね。…それでいいの。」
「ばか…。」
 飛び切りの笑顔を切り返したあかねに答えるように、乱馬はぽんと彼女の頭に手を置いた。そして、そっとあかねを自分の方へと引き寄せた。

 亡き母との思い出に、乱馬への思いが重ねられてゆく。かつて母と見上げた雛壇を、今は肩を並べた愛しい許婚と見上げる幸せ。
 乱馬と二人で見上げる雛壇の最上段にはお内裏様とお雛様が、仲良く鎮座する。
 その向こう側で、亡き母が微笑んだような気がした。








一之瀬的戯言
「雛(ひいな)の思い出」
あおいさんのHP「我愛ニー」開設のお祝い品に書き下ろしました。

雛人形を出しながら思いついた作品です。
あかねの暖かい母との思い出を、乱馬に重ねてみたくて。
雛祭り、終わったらとっとと片さないと、「嫁にいき遅れる」とか言いますが、暇がない時は、お内裏様とお雛様を正面ではなく後ろ向きに向けて置いておくといいそうです。是非、お試しを…(3月上旬って忙しいので例年そうやって暫く置くことが多いかも…)
居直って、旧暦(四月上旬)で祝ってから仕舞うという手もあります。
ぐうたら主婦の知恵かな?



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