◇不思議な夏の日の二人  後編


五、

「なあ、あのケバケバしい黒狐は何者だ?」
 乱馬は傍らのウサギに訊いてみた。
「ああ、化け狐のおみつです。」
「化け狐?」
「ええ、狐の中でも、齢が五百歳を超えると、七尾を持ち、妖力を得る禍禍しきものがまれに出るんですよ。みんな、「化け狐」と呼んで忌み嫌っているんです。」
「長生きなのにか?」
「長生きと言っても、若い牡狐の生き血をそそって「長寿の源」にするような化け物ですからねえ…。尊敬などできませんよ。いやあ、とんでもねえ奴に目をつけられていたんですねえ、太郎兵衛どん。」

 太郎兵衛の傍らには必死で手を引いて化け狐を牽制するおゆきのけな気な姿があった。

「私は狙った獲物は逃さない主義でね。ここは太郎を貰い受けようと思ったが…。」
 おみつ狐は赤い目を光らせながら舐めるように一同を見回す。

「お待ち!おみつ狐。そういう訳にもいかないんだよ。太郎は長の一族の嫡男坊だからね。」
 本物の銀婆さんはおみつ狐の前に立ちはだかった。大方、おみつに深手を負わされたのだろう。肩で荒々しい息を吐いていた。
「ふふふ…キツネ族の最長老様の申し入れだ。聞き届けてやらぬでもない…」
 おみつは愉快そうに高笑いしながら続けた。
「太郎兵衛を取られるのがイヤなら、そうさなあ…ならば、人間でもいいよ…その女子(おなご)。美味しそうな肉肌をしている…。」
 おみつ狐は顎先であかねを指して言った。
「どうだ?どうせ山中に迷い込んだ人間だ…。人間の生き血をすすり、肉を食らえばもう四、五百年は若いまま生きられる。」
 おみつ狐はそう言って舌なめずりをした。
「そいつを私に渡してくれれば、太郎兵衛は諦めてやろう…。」
 おみつ狐は不気味に笑った。
一同、固唾を飲んで成り行きを見詰める。
「じ、冗談じゃあねえっ!」
 乱馬は化け狐に食ってかかろうと構えた。当たり前だ。そんな勝手なことをされて溜まるか…それが彼の言い分だった。
 おみつ狐目掛けて、今まさに飛びかかろうとした途端、
「バカめ!!」
 化け狐は一喝した。その叫びとともに、乱馬は後ろ向きに跳ね返された。
 どすっ。
 乱馬の身体は土の上に叩きつけられた。
「乱馬っ!!」
 あかねはそれを見て、叫んだ。
「人間の男は私に指一本触れることはできないのさ…。くくく…。この人間の女で手を打とうではないか…どうだ?可愛い娘の旦那とこの小娘の命、どちらを捧げるか、明らかだろう?」
 妖気の中でおみつ狐は愉快そうに笑った。

「だめっ!二人とも渡さないっ!」
 その時、おゆきが飛びかかった。
「おゆきっ!」
 銀婆さんの叫びは虚しく、おゆきも地面に叩きつけられた。
「小娘が、弱い八百年のこの私にたてつこうなどと、700年早いわっ!!」
 憎々しげにおみつ狐は笑いながら、おゆきの首根っこへ尾を絡みつかせた。
「どら、お仕置きをしてやろうか…?あははは…」
 七つの尾っぽで化け狐はおゆきを締め付ける。
「早く決断しないと、この子の命はないよ…。おゆきの命かこの人間の命か…あはははは。」

「じょ、冗談じゃあないわっ!」
 耐えかねてあかねが飛び掛かった。

パシッ!

 あかねの手から繰り出された拳はおみつ狐のわき腹に入った。おゆきの身体が尾から離れた。
 しかし、あかねは身体のバランスを崩して倒れ込んだ。足の怪我が傷むのだろう。それがあかねの限界だった。
「ば、ばかっ!!」
 乱馬があかねをかばおうとしたが、金縛りにあったようで身体がピクリとも動かない。
「そこの男、お前は私の妖気で押さえられていて動けないだろう…くくっ。男は私に指一本触れられぬのよ…たとえ森の主さまでもな…はははは。」
 あかねはなすすべなく、仰向けに転がる。

「ちくしょう、あかねを…あんな目に合わせやがって。もう、タダじゃあおかねえ…。」
 乱馬の闘気は燃え始めていた。しかし、身体は動かない。

「おまえ、なかなか戦闘力が高い人間の娘だね…。でも、その足じゃあ、私には勝てっこないよ。ふふふ、気に入ったよ・・おまえの血肉で私はまた若返ることができる…。」
 化け狐はそう言いながら倒れ込んだあかねの上に馬乗りにのし掛かった。押さえ込まれて、あかねは地面に縛り付けられたように身動きが取れなかった。
 化け狐の尖った口先からは、ヨダレが滴り落ちる。
 このままでは、あかねの命が危ない…。
 誰彼も、化け狐の気に圧倒されて、金縛りにあったように身動きできなかった。

「おいっ!ウサギ…水を俺に浴びせろっ!」
 乱馬は傍らで見詰めているウサギに小声で頼んだ。
…男で動けねえなら…女だ!…女になれば動けるはずだ…
 乱馬の苦肉の策だった。
「え?お水?」
 ウサギは乱馬の言葉の要領が掴めず、おろおろ辺りを見回す。

 すぐ傍で、おみつ狐は我が者顔に不気味な笑みを浮かべていた。
「さて、ぼちぼちこいつを食らってやろうか…。やっぱり首筋から一気に噛み砕こうかのう…」
「乱馬っ!」
 あかねは押さえつけられたまま苦しい息の下から声を絞り出す。

…化け物めっ!!…
 乱馬は満身に妖気を受けながら、ウサギに向かって叫んだ。
「そこの酒でもいい、早く、俺にかけろっ!!」
「え…ええ?」
 ウサギは乱馬に言われておろおろするばかりだった。
「いいから、早くっ!!」

バシャッ!!

 狼狽するウサギの代わりにパンダが酒樽を持ち上げて乱馬の頭に浴びせ掛けた。
 酒気を帯びながらみるみる乱馬は女体へと変身を遂げる。

…イチかバチか…

 思った通り、乱馬を呪縛していた妖気は絡め手を解放した。

「男がダメなら、女ならどうだっ!!」
 らんまはあかねにのしかかる化け狐を目掛けて身体ごしぶつかった。
「うっ!おのれっ!」
 おみつは後ろに弾け飛んだ。
「な…お前、いつの間に我が呪縛を…!お、お前、女に変化(へんげ)したのか?」
 おみつ狐は身体を起こしながらきっとらんまを見据えた。
「へんっ!俺様は男と女の変身が自在なんでいっ!!」
 らんまはすかさず、螺旋のステップを描きはじめた。体よく螺旋の渦の中へおみつ狐を誘い込む魂胆だった。
「おのれ…ちょこまかと…ようし、お前も一緒に食ってやろう!!これで千年は生きられる。」
 おみつはらんまに誘われて、螺旋の中へ引き込まれてゆく。熱い気が螺旋の中へと巻き取られ、辺りには妖気と熱気が立ち込めていた。
 七尾を靡かせ、妖気を暑く漲らせながらおみつ狐はらんまへと照準を合わせた。
 そして、らんま目掛けて飛びかかった。
「今だっ!!飛竜昇天破――――ッ!」
 らんまは叫んだ。そして高く差し上げた渾身の右拳は、らんまの身体中の冷気を解放した。

 渦がうねり始めた。辺り一面被っていた妖気が、舞い上がった飛竜の竜巻とともに粉砕されてゆく。

ゴォォォォォォ……

「ウギャ―――――ッ」
 断末魔の叫びを上げながら、おみつ狐は渦とともに駆逐されていった。

 一緒に舞い上がったあかねと太郎兵衛を必死で受け止めると、らんまは地上に降り立った。
 竜巻が消えた時、おみつ狐の姿も消し飛んでいた。
 地面には小さな老狐の屍がうつ伏せに転がっていた。八百有余年行き抜いてきた化け物狐の最後だった。


六、

 戦いの後、気力を取り戻した動物達は、おみつ狐の屍を丁重に埋葬した。
 妖気を得たとはいえ、永年生き長らえた畏敬の念は誰の胸にも去来していたに違いない。

 らんまはお湯を沸かしてもらい、頭に注いでまた男に戻っていた。身体に立ち込めていた酒気も昇天破とともに、消え去っていた。
「あんたも変身自在の種族だったのか…。」
 ウサギは感心しながら乱馬の変化(へんげ)を見詰めていた。
「いや、ありがとう…おまえさんのおかげで、妖弧を退治することができた。何と礼を言ってよいやら。」
 狐の長老も長も懸命に頭を垂れる。
「たいしたことじゃあ、ねえよ…。」
 乱馬は笑った。
「私もあなた達を見習って、少しは武勇も嗜まないと…。」
 太郎兵衛が笑った。
「狐族も身体を鍛える…結構。結構。」
 ツキノワグマが笑った。
「強くなくちゃ、愛するものは守れねえからな…ま、しっかりやんなっ!」
 乱馬は太郎兵衛にエールを贈る。
「何が愛するものよ…カッコつけちゃって…」
 傍らであかねが呟く。
「なんだよ…助けて貰って文句あんのかよ…」
 言葉が聞えた乱馬は口を尖らせる。
「誰も、助けなんか頼んでないのに…。」
とあかね。
「ちぇっ!かわいくねえ…。」
「かわいくなくて悪かったわね…!!」
 痴話喧嘩が始まると、
「あなた達ってホントに出会った頃の私達と同じなのね…仲がいい…」
 おゆきが水を差した。
「ホントは可愛くて仕方がないくせに、言葉尻ではかわいくねえって…良く私もおゆきに言ってましたよ。」
 太郎兵衛がイタズラっぽく笑った。
「ほれほれ、祝言の仕切りなおしじゃ。ほうれ、今夜は無礼講じゃっ!」
 狐族の長の言葉に
「待ってました…。」
 動物達の歓声が木霊する。
 柘植の櫛は無事に戻り、祝言の宴は賑やかに始まった。


「ついでにあなた達も祝言あげちゃったら?」
 宴たけなわになるとおゆきが乱馬とあかねに向かって言った。
「それがいい…!ホラ。」
 酒のせいか。みんな悪ノリし始める。
「俺たちそんな関係じゃあないって!!」
「そうよ!!」
 周りから執拗に取り囲まれて二人は焦る。
「愛し合っている者同志…ホラホラ…・・」
 ウサギやパンダに肩を寄せられて赤面する二人。
 二人の困惑は頂点に達する。
「困るわ…私。」
 あかねはそう言ったきりソッポを向いてしまった。
 乱馬も素直になりきれないでそのまま黙り込んだ。
 しょうがないなあ…というような顔をして、新婚のキツネ夫婦はこそこそ話し込んだ。
「ねえ、あなた達にお礼をしなきゃね…。」
 おゆきがイタズラっぽく笑った。
「ホンの俺たちの気持ち程度のお礼だけど、受けとって。」
 おゆきは柘植の櫛から一本、歯を折ると、太郎兵衛が息を吹きかけた。

…えっ…?

 あかねの回りに花びらが舞い上がる。そして、みるみるうちに純白のドレスで包まれる。
「あかね…」
 乱馬が目を凝らすと、そこには見たことがないような可愛らしいあかねが立っていた。乱馬もらしくない白いタキシードを着せられていた。
 いつしか宴会場を離れ、二人っきりで花畑の真ん中に立っていた。おそらく、おゆきと太郎兵衛が幻術でも使って気を利かせたのだろう。

…ほら、あとは上手くおやりなさいね。…
 後方でおゆきの声がして、乱馬は誰かに背中をポンッと押されたような気がした。

 よろめきながらあかねの前に押し出されて、乱馬は言葉に詰まった。
 うつむいたまま黙っていたあかねが、気恥ずかしさも手伝って、その場を回避しようと乱馬の前から逃げ出そうと 背を向けた。着慣れぬドレスとくじいた足のせいで、思わず前へとつんのめり掛けた。
「あぶねえっ!」
 乱馬は慌ててあかねの左手を引いた。そして、左手であかねをくるりと正面に向けなおした。
 周りに咲いていた花が一斉に花びらをまき散らした。
 花吹雪が二人の上に鮮やかに舞い下りる。
「なあ、あかね…あかねはその…俺と祝言じゃあ困るのか?」
 あかねの瞳の中の自分を見詰めているうちに、ついつい乱馬の口からホンネの一端が迸(ほとばし)った。
「バカッ!分ってるくせに。」
その問いに勢い良くあかねが答えた。
「…バカで悪かったな…」
「口で言わないとわかんないの?」
「口で言ってくれねえとわかんねえっ!」
 乱馬はあかねの澄んだ瞳を見つめ返す。何をムキになっているのか自分でも良くわからなかったが、純白のドレス姿のあかねを前にして、訊かずにいられなかった。
 その視線に絡めとられながらあかねは叫びながら答えた。
「乱馬なんか、だいっキライっ!!」
「あんだと?」
乱馬は焦った。
・・そんなに力強く言わなくても…
 そう思った時、
「ウソよっ!」
 あかねはそう言って笑った。それは乱馬にとって最高の笑顔だったかもしれない。
「あかねのバカッ!びっくりするじゃあねえか…」
 乱馬も笑顔で小さく言い放った。
「バカで悪かったわね!」
 あかねは視線を外しながらちょっと拗ねてみた。
「怒るなよ…」
 乱馬は咎めるように言った。
「祝言、乱馬は…乱馬はどうなの…?」
 今度はあかねが問い掛けてきた。
「おれは、おまえとなら…。」
 先の言葉は呑み込まれた。乱馬の顔が心なしか紅い。
「なあに?」
 そんな乱馬をくすくす笑いながらあかねが覗き込む。
「この先は言わなくてもわかるだろ?」
 乱馬はあかねに言葉を投げ掛けた。

「ちゃんと言ってくれないとわかんない!」
「あかねの鈍感!わかってるくせに…。」
「乱馬の意地悪!ちゃんと言ってくれないとわからない。」
「わかる!」
「わかんない!」
「わかるっ!」
「わかんないっ!」
 押し問答が始まった。
「わかるっ!」
「わかんないっ!」
 何度目かの繰り返しの果てに止まった言葉。

「これでもわかんねえのかよ…」

 乱馬の呟きの後に、二人の時が重なり合って止まった。
 静けさの中で、愛の言葉は柔らかなささやきになる…。
 そよ風が吹き、時を止めたままの二人を優しく包んだ。
 幾重もの花吹雪が舞い上がる中、二人は…



エピローグ

「ねえ、乱馬。乱馬ったら。」
「ん…ん?」
 祝言の宴も野原も動物達の笑い声もいつしか消え去り…乱馬はあかねの呼び声に我に返った。
辺りは薄ぐらい洞窟の風景に戻っていた。
「あれ?花畑は?キツネたちは?祝言は?」
「何寝ぼけてんのよ…」
 あかねが笑う。
「へ?」
「眠り込んでたのね…風邪引くわよ…。」
「夢?」
「いったい何の夢見てたの?うなされたり笑ったり…気味が悪かったわよ。」
「あ、いや、その…。」
 乱馬は赤面した。
…きっとあかねは俺の寝顔を眺めていたのだろう。
 そう思うとドキドキした。
「あのさあ、俺、変なこと口走ってなかったか?」
「変なことってなあに…?」
「あ、いいよ。なんでもない…。雨、あがったな。」
 洞窟の奥に夕陽が差してきた。また空に夏の太陽の残り火が燃え始めたのだろう。
「帰ろうか…夜までには下りねえと。」
 そう言って乱馬はまたあかねを背負った。身を任せてくるあかねが前より少しだけ愛しく思えた。

 夕立の後の山道。
 滑らないように丁寧に踏みしめながら、乱馬は帰路を急いだ。

…ホントに夢だったのかな…
 あかねに問うのも気が引けて、乱馬はあの柔らかなささやきをそっと胸にしまい込んだ。

「あ…あの木…」
 背中であかねが声を上げた。
「ん?」
「朝につまずいた木…柘植の櫛拾って…。」
 乱馬にはあかねの声がよく聞き取れなかった。
「乱馬…ありがとう…」
「あん?何か言ったか?」
「…別に…なんでもない。」
「変な奴…。」

 夏の夕暮れの太陽は、赤い夕焼けを燃やしながら、稜線にさしかかる。
 明日はきっと天気になるだろう。
 上々の青空に。








一之瀬的戯言
 ToukaさんのHP開設記念に作らせていただいたもの。
 この作品は、アニメ的ならんまを視野に入れて作り始めました。「不思議な国のアリス」みたいな世界を描いてみたくて…。ウサギはアリスのイメージから貰ってます。
 書いているうち、いつもの悪いクセが出て、作品の世界観が広がり過ぎてしまい、押さえるのに苦労しました。そのあおりを食らって、キツネカップルの描写がやや中途半端になってしまった感があります。また途中で矛盾に気付き、最初に送った作品を大きく改作も余儀なくされて…(ケガしている筈のあかねが走る描写を入れてしまい、焦って改作する始末)
 果たしてこのお話は乱馬たちの夢だったのかそれとも現(うつつ)だったのか・・「柔らかなささやき」この隠喩の意味とともに皆様のご想像にお任せします。

 Toukaさんのサイトは残念ながら閉鎖されました。
 この作品、おそらく一之瀬ネット最初のファンタジー乱あ。
 実はファンタジーを描くのが高校生の頃から好きだった私です。今これと同じプロットを書くと、間違いなく「長編」になるでしょうね。
 まだ、投稿作に長編を差し出す例が少なかったので、当時これでもかなり抑えて書いた記憶があります。



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