◇不思議な夏の日のふたり   前編


一、

 空に閃光が走り始めた。耳には遠雷が渡ってくる。辺りには夏の嵐の気配が漂う。

「こりゃ、急がねえとやべえぞ!」
 乱馬は舌打ちしながら足を速めた。
「ごめんね…乱馬。あたしがぼんやりしていたから…。」
 乱馬の背中であかねが申し訳なさそうに答えた。
「謝んなよ…。いいよ、別に…。それより飛ばすぜ。しっかりつかまってなっ。」
 珍しく素直な許婚に、乱馬はそう声をかけて、山道を大急ぎで下り始めた。
 さっきまで射しかけていた真夏の太陽は、流れて来た灰色の入道雲に飲み込まれて、すっかり光りを失っていた。褐色の雲は不気味に迫り、激しい雷雨の予感が二人の上をかすめてゆく。雷の音もさっきより近くで聞えるような気がする。
「これ以上ウロウロしていたら、危ねえかもしれねえな…」
 乱馬は幼い頃から山で修行をすることが多かったから、山の危険は経験的に良く知っていた。山の雷は横へ走る。それに、雨に打たれて女に変身してしまったら…。豪雨の最中をあかねを背負って山を下って行けるかどうか、自信がなかった。
 考えを巡らせながら、走っていると、山陰の岩肌に面した洞穴を見つけた。
「おっ、あそこに洞窟があるぜ。雷が通り過ぎるまで、あそこで休んで行こう。いいか?」
 乱馬は背中のあかねに同意を求めた。
「うん。乱馬のいいようにしてっ。私は歩けないから…。」
 あかねは申し訳なさそうに背中で囁いた。
 苔むした岩肌にぽっかりと口を開いたその洞窟は、雨風を凌ぐのに持ってこいの場所だった。
 丁度、洞窟の中へ足を踏み入れたとたん、雨が降り始めた。バラバラと音をたてながら大粒の水滴が空の上から落ちてくる。
「ひぇーっ!助かったぜ。」
 乱馬はあかねを背中からおろしながら言った。
 洞窟の中は、思ったよりずっと広かった。天井も高く、乱馬の身長でもつっかえなかった。湿っぽい苔むした匂いが立ち込める。奥の方へ穴は繋がっているようで、足音一つをとっても響き渡る。
「で、足はどうだ?」
 乱馬は気になるのか、あかねの方を覗き込みながら言った。
「ちょっと痛い…かな。」
「…たくっ。いつもいつも心配かけやがって…。」
 聞えるか聞えないかの小声で乱馬は呟く。
「いつ、くじいたんだよ。」
 乱馬の口調は珍しく厳しかった。
「行きがけの吊り橋あたりで。木の根っこにつまずいたのよ。」
「おまえ…そこからずっと我慢して歩いていたのか?」
 乱馬は声を高めた。
「だって…あの時はこんなに腫れてくるなんて思わなかったから…。」
「ほんっとにおまえはバカなんだから。こんなになるまで我慢しやがって。」
 そう言って、乱馬は大きな溜息を吐いた。
「ごめんね…みんな心配してるかなあ…。」
 あかねは蚊の鳴くようなか細い声で謝った。
「さあな…まあ、俺におまえの守(も)りを押しつけてさっさと行っちまったからなあ…。」

 この日二人は天道家の面々たちとともに山へハイキングに出掛けて来た。都心からも日帰りで来れる山中で、夏の日を楽しんでいたのだ。その帰り道、あかねが足を引き摺っていることに気付いた乱馬が、彼女に合わせて少しゆっくり目に歩いて下山したのだった。中腹まで下りて来て、あかねの力が尽きたのだ。
仕方なく、乱馬は彼女を負ぶって歩き始めた。天道家の面々は、そんな二人を見て見ぬ振りをして、二人でゆっくり下りてらっしゃいと言わんばかりにさっさと先に行ってしまったのだった。薄情なのか、それとも変な気を利かせたのか。乱馬たちにとっては不可解だった。
 だが、置いていかれたものは仕方がない。

「ねえ、もしこの雨が本降りになって、なかなか止まなかったらどうしよう…。」
 あかねが不安げに囁いた。
 外の雨音はだんだん激しさを増していた。風もうなり始めていた。
「IF(イフ)を考えても仕方ねえだろ?そんときゃあそんときだよ。なあに、小一時間も待てば上がるさ。」
 乱馬は頬杖を突きながら顎先で答えた。
「乱馬はいいわね…単純で。」
「それじゃあ、まるで俺がバカみたいに聞えるじゃねえか!」
 ホントはいろいろとお説教を垂れてやりたい気分の乱馬だったが、ぶじぐじ言っても始まらねえと、会話を区切った。
 あかねは傷めた足が気にかかるのか、それとも痛いのか、岩の上へと座り込んでしまった。乱馬もその隣に寄り添うように座った。
 雨音が一層激しく走り始めた。風が梢を揺らすざわめきも雨足の速さを物語っていた。灰褐色で塗り篭められた 外界では、ひっきりなしに稲妻が暴れまわっていた。時々差し込む閃光が洞窟の中の二人を照らし出す。

ドドーンッ、メリメリ…バキッ!!

 一筋の閃光と共に轟音が弾けた。
「きゃっ!」
 音の激しさに、あかねは我を忘れて乱馬の腕にしがみ付いてきた。
 強がってはいるものの、あかねも所詮、か弱い女の子。無意識のうちに傍らにいた乱馬を頼っていた。

ドドーンッ!!メリメリメリ…
 さっきよりも大きな音が弾け飛んだ。

ズズズズズ…
 地鳴りが地の底から湧き上がる。

 乱馬は何時の間にかあかねをすっぽりと守るように両腕で包み込んでいた。
……。
 辺りに静けさが戻ったとき、二人はお互いのとった無意識の行動にはじめて気付き、我に返った…。不安に揺れる一回り細い身体を離そうとする意識は頭の中で働いたが、腕が凝固して要領を得ない乱馬だった。あかねも優しいその腕の中から抜け出すことを忘れてじっと乱馬の鼓動を聴いていた。
 目を合わせることもためらわれて、そのまま時が緩やかに過ぎる。
…どうしよう…
 二人とも身体と頭でこれから取るべき行動について考えを巡らせてじっとしていると、後方で突然声がした。


二、

「野ネズミどん、急がんと式に遅れてしまうで…。」
「おう、そうさなあ、リス太どん。」

 ようようのことで、身体を引き離すことに成功した二人は、ふと声のする方を振りかえって驚いた。
 そこには、二足歩行し、ちょこんと紋付袴を着込んだネズミとリスが歩いていた。
「…・・!!」
 あまりの珍客の往来に二人は言葉を失った。
 この2匹の小動物たちは、二人の脇を、さも当たり前のように自然に通り過ぎ、洞窟の奥の穴へと足早に消えて行った。
「な…なんだ?」
 乱馬が口を開くと
「い、今の動物たち、人間の言葉を喋ったわよね…?」
 二人は互いに首を傾げながら見合った。
 そこへ、また別の動物たちがやって来た。
「これ、早く来い!」
「待ってよ、あんた…。」
 今度はタヌキだった。
「全く女というのは、どうしてこうも支度に手間取るんだか…。」
「女には化粧とかいろいろあるのよ…。」
 会話を聞いていると、どうやら夫婦ダヌキのようだった。2匹もやはり洞窟の奥へと消えて行った。

「どうなってるんだ?夢でも見ているのか?俺たちは…。」
 乱馬はポツンと呟くように話し掛けた。
「さあ…夢にしては鮮明よね。えいっ!」
「いてっ!何すんでいっ!こいつはっ!人の腕をつねることはねえだろうがっ!おーいてえっ。」
 乱馬はあかねに右肘をねじ上げられて思わず口走った。
「どうやら夢じゃないみたいね。」
 あかねは一人得心しながら言い放った。
「だから、人の腕を使って確かめんなよ!痛えだろがっ!」
「だって、自分の腕を使うのは痛いじゃない…。」
 あかねはクスッと笑った。
…たく、そういうところは姉貴のなびきに似てきたんじゃあねえか…?
 乱馬はつねられた痕に息を吹きかけながらそう思った。
「でも、確かに今のは夢じゃなかったみたいよね。ネズミとリスとタヌキが、服を着て、喋って、二足歩行して…。」
「ああ、二人同時に同じ夢を見ている訳でもなさそうだ。」
 あかねと乱馬は顔を見合わせると、動物たちが立ち去った洞穴の奥の方を眺めた。
「行ってみる?」
 あかねがイタズラっぽく訊いてきた。
「この様子じゃあ、雨も雷も暫らく止まねえか…。」
 洞窟の外は相変わらずピカドカ、ザーザー音がしていた。
「でも、おめえ、足の方大丈夫なのかよ…。」
 好奇心に駆り立てられていたものの、乱馬は冷静に立ちかえる。
「そうね…この足じゃあ無理ね…。」
 二人してまた黙りこくる。
 
 すると、またそこへ違う動物がやって来た。
「ほらほら、時間に遅れちゃうっ!」
 今度は大きな懐中時計を持ったウサギだった。
 余程慌てていたのか、すれ違いざまに乱馬にドスンとぶつかった。
「おっと、これは失敬っ!」
 ウサギは御丁重にぺこりとお辞儀をした。そして、顔を上げるときに乱馬と目が合うと、にっこり笑った。
「これはこれは、珍しいこともあるもんだ。人間さまがこの洞窟においでになるなんて…。それも御夫婦ですかな?」
 そんな言葉をかけてきた。
「俺たち、夫婦ってワケじゃあねえけど…。」
「そうよ…夫婦じゃないわよ…。」
 乱馬もあかねも少し顔が赤らんだ。思わず、「御夫婦」というウサギの言葉に反応してしまったのだ。
「人間さまがこんなところまでお出ましになるなんて久しぶりだなあ…どうです?今日は目出度い日なんで、あなたたちも私と一緒に宴(うたげ)へいらっしゃいませんか?」
 ウサギは人懐っこく誘いの言葉を掛けてきた。
「いや、俺たちその…。」
 乱馬が返答に詰まっていると、
「御心配には及びませんよ。あなたたちの世界と私達の世界はこの洞穴で繋がっていて、ちゃんと帰れますよ。それに、あなた達の世界と私達の世界の時間の観念が少し違っていますから、あなた達には宴の時間もホンの数分いや数十分といったところですから。ほら、ちょうど、パンダさんたちもやって来た。」
 ウサギは後方を見た。
 のっしのっし。そこに白と黒の毛並みが鮮やかなジャイアントパンダが現れた。
「オ、オヤジじゃねえのか?」
 乱馬は一瞬、パンダと変身した父の玄馬なのではないかと目を疑った。
「御冗談を…パンダと人間は親子になれませんよ。」
 要領を得ないウサギは乱馬が冗談を言ったと思ったようで、プッと噴出した。
「ウサギどん…早く行かないと宴が始まってしまいますよ。」
 驚くべきことにこのパンダも、また人間の言葉を喋った。
 どうやら、乱馬の父、玄馬の変化(へんげ)ではなかったようだ。玄馬はパンダになっている間は喋れないし、声のトーンも人間の時の父親と似ても似つかなかったから。
「なんだにゃ?なにやってるにゃ?」
 パンダの後ろからネコが覗いた。三毛猫だった。
「…うへっ!ネコっ!」
 ネコ嫌いの乱馬は思わずあかねの後ろに隠れた。
「もう、情けないわねえ…怖がっちゃって…。」
 あかねは苦笑する。
「いやね、今しがたここを通りがかったら、こちらの御両人がここで雨宿りをしたいらっしゃったので、宴にお誘いしたんですよ。」
 ウサギが言うと
「それはいい。人間さまのお出ましなんて久しぶりだから、みんな喜ぶよ。」
 ネコはにゃははと笑いながら言った。
 乱馬はあかねの肩越しにネコを牽制していた。
「んもう…乱馬ったら。しゃっきとしなさいよ。」
 あかねは後ろの乱馬に声をかけた。
「パンダさん、こちらのお二人の御案内お願いしてもよろしいかな?」
 ウサギはすっかりその気になってしまっていて、二人が躊躇していることなどお構いなしに決めてしまった。あかねたちの方も、乱馬がネコを怖がっていることに気を取られていて、否(いな)を言いそびれた。
「おうさっ!」
 パンダはウサギに促がされて、ひょいっとあかねを自分の左肩に乗せた。
「え?」
 あかねがあっけにとられていると、間髪をあけず、今度は怖がっていた乱馬を右肩に押し上げた。
「さあ、みんなで急ぎましょう。宴が始まっちゃいます…。」
 足を怪我して思うようにならないあかねと、ネコを怖がってパンダにしがみ付いている乱馬は、半強制的に、動物たちの「宴」へ参加するべく、洞窟の奥へと連れて行かれることになってしまったのだった。


三、

 洞窟の通路は思ったより深く、奥へと続いていた。辺りに火の気配はなかったのだが、ちゃんと足元は明るく照らされていて、左程あかねにも恐怖は感じられなかった。
 どのくらい、奥へと歩んだのだろう。
 奥が急に開けて、広い野原へ進み出た。
 さっきまで居た世界の雷雨は消えていて、太陽が麗らかに照り輝いていた。
 花は一面に咲き乱れ、光りはのどかに射し込み、空気も澄みきっていた。
 野原のほぼ中央に、目イッパイお洒落をしている動物達が集って来ていた
「一体全体、何の騒ぎなの?」
 あかねは不思議そうにパンダの耳元で囁いた。
「祝言ですよ。」
 パンダはあかねの問いに答えた。
「祝言?…結婚式?」
 あかねは飛びあがるのを堪えて再び疑問を投げかけた。
「キツネ族の長(おさ)、太郎兵衛(タロベエ)どんとおゆきちゃんの祝言です。」
 ウサギが脇から声を挟んだ。
「祝言の宴ねえ…。」
 あかねはちょっと溜息を吐いた。キツネの祝言というのがなんとも興味深かった。
「この山中の動物達が集まってきて、朝までどんちゃん騒ぎです…。」
 パンダはにこにこしていた。
 お祝い事の宴は、昔から「どんちゃん騒ぎ」と相場が決まっている。
「ほらほら着きましたよ。私が受付でお二人のことをちゃんと言っておきましょう。じゃあ、また後ほどにでも。」
 そう言って、ネコが退散した。
 ネコが居なくなると乱馬は我に返る…複雑な性分だった。
「あれ。ここは?」
 などとパンダの右肩できょろきょろ辺りを見回していた。
「ホンとに、しょうがないんだから…。キツネさんたちの宴に御招待されちゃったのよ、私達。」
 あかねの言葉を聞や否や、乱馬はトンっと身軽にパンダから飛び降りた。
「ほれ、こっちに飛び降りてこいよ。」
 そう言って、乱馬は腕をあかねの方に突き出した。普段のあかねなら、これくらいの高さから飛び降りることぐらい造作ないが、怪我をした足を引き摺っていては多分無理だろう。乱馬はそう判断したのだった。
下手な意地を張ってみたところで、手助けなしに下りられないと踏んだあかねは、素直に乱馬に従った。
 乱馬はいともやすやすとあかねを両手で受け止める。
 その様子を見て
「仲良きことは美しきかな…。」
 などと、ウサギが笑った。

 下り立ってみると、宴の会場の様子が少しおかしかった。
 客達は妙に浮き足立っていてざわめき、その脇をキツネ達が引っ切り無しに駆け抜ける。
 何か不都合でも起こったのか、キツネ達は落ち着きが無かった。
「何かあったかな…」
 二人を乗せてきたパンダは、走り回っていたキツネを一匹捕まえて問い掛けた。
「花嫁のおゆきちゃんが無くしものをしたそうで、みんなで探しまわっているんですよ。」
 深緑の紋付袴を着たキツネが答えた。
 ウサギは好奇心いっぱいの目を輝かせて更に問い掛けた。
「なくしもの?一体全体、何をなくしちゃったの?」
「太郎兵衛どんから結納の時に納められた「柘植の櫛」を無くしたんですよ、おゆきちゃん。」
「ふーん、それって大切なものなのか・」
 傍らの乱馬が声をかけた。
「なんでまた、そんな物を無くしただけで慌てているの?」
 あかねが口を挟むと、
「これはこれは、人間さま…珍しい…。」
 キツネは目を細めた。余程、人間が紛れ込むのは物珍しいのだろう。何より、彼らが人間に嫌悪感を持たずにどちらかというと好意的なのが二人にはちょっと不思議だった。
「我々キツネの一族には、婚礼の儀の折に新郎が柘植で作った櫛を新婦に結わえるシキタリがあるんです。それが婚姻の証(あかし)になるんです。なのに、おゆきちゃんがこれをなくしたんですよ。これをなくすということは…。」
「祝言を挙げられない…ってことか。」
 乱馬が続けた。
 困り果てた顔をしていたキツネはこくりと頷いた。
「何でまた、おゆきちゃんはそんな大事なものをなくしちゃったんだろう。」
 パンダも大きな体を揺すりながら心配そうに言った。
「今朝方までは確かに結納の品々とともに床に飾ってあったそうなんですがねえ…。キツネ族の長老さまがたはうるさいからなあ…困ったものです。」
 キツネは溜息を吐いた。
「親が決めた許婚といっても、二人とも、心底惚れ合ってますからねえ…。」
 ウサギも同情しながら言った。
「親が決めた許婚?」
 乱馬が思わす口に出した。
「どっかで聞いたような話ねえ…。」
 あかねも苦笑する。
「そうです…キツネ族の長一族は嫁をちゃんと親同士の結託のもとあてがうんですよ。で、あの二人、はじめは猛烈に反発しあってたんですが、生来、気が合ってたんでしょう。喧嘩するほど仲が良いって…。」
 キツネは笑いながら言った。
「おっとこうしちゃあいられない。とにかく柘植の櫛を探さなきゃ…。どっちにしても、今日の婚礼は無理かなあ…。」
 そう言いながら、キツネは何処かへ行ってしまった。
「なんだか、ほっとけないな…。」
 乱馬がポツンと言った。
「うん…そうね。」
 あかねも相槌を打った。
 自分達の境遇に近いものがあったからお節介を焼きたくなったのかもしれない。
 乱馬とあかねも互いの父親たちが勝手にあてがった「許婚」同志だった。はじめは物凄く反発し合っていた。その一方で「愛」は芽生え育まれてきた。今でも表面上は反発し合っているように見えたが、心の奥底ではお互いの「絆の深さ」を認め合っていた。素直に「愛情」を表現できない性分上、不器用な関係のままであったが。
「柘植の櫛ってどんなのだろう…。」
 乱馬が問い掛けた。
「柘植って昔から櫛や版画の版木(はんぎ)に使われてるのよ…」
 とあかねが答えた。
「ふーん。」
 乱馬が言い終わらないうちにあかねが
「柘植の櫛…か。ひょっとして…。」
 と、自分のリュックのファスナーを開け始めた。


四、

「どうした?」
 あかねが急にがさごそやり始めたのを見て、乱馬が覗き込んだ。
 乱馬の問い掛けには、何も答えないで、あかねはリュックの中を漁る。
 あかねの手が何かを探り当てた。リュックの中から引き出したのは、木目が美しい、黄土色の櫛だった。
「あった…。ほら。これ。」
 あかねは右手で櫛をかざしながら行った。
「なんで、こんなもの、おまえが持ってるんだ?」
 乱馬が不思議そうに言った。
「誤解しないでよ。盗んだとかそんなんじゃないの…拾ったのよ。」
「どこで?」
「今朝方、つまずいた大きな木の根っこの脇で…。」
 あかねが言った。
「つまずいたって、足を捻ったところかあ?」
「そうよ…吊り橋の近くで。痛いって思って起きあがろうとしたら、傍に落っこちてたの。」
「拾ったのか…。」
「うん、なんとなく、捨てておけなくて…。」
「でも、なんで、そんなのが都合よく俺たちの世界に紛れ込んだんだ?」
「さあ…知らないわよ、そんなこと。第一、探しているのがこの櫛と決まった訳じゃあないし…。」
そんなやり取りの後、二人はウサギとパンダに言って、キツネ族の集る所まで連れて行ってもらった。

「これです。これです…ほら、ここに私の掘った家紋が…。」
 太郎兵衛という新郎はあかねの差し出した櫛を見て飛びあがった。
「ほら、おゆき、確かにこれだろう?」
 小躍りしながら太郎兵衛が新婦に声をかける。金襴緞子(きんらんどんす)の中から、微かにおゆきは頭を縦に揺すった。
キツネの一族から感嘆の声が漏れた。
「ありがとう、人間界の御方。」
 新郎はあかねを見ながら手を差し伸べた。立って喋ることが出来ても、それはキツネの手。なんだかホワホワした毛並みがくすぐったかった。

 ことはこれで目出度くおさまった、と誰もが思ったそのとき、
「ちょっと待たれよ…」
 後方から声がした。
 振りかえると、白銀の毛並みを輝かせた尾が七つに分れた老狐がこちらを厳しく見詰めていた。
「おかしいではないか…何故、人間界にこの櫛が紛れたんだ?おまえたち、掟を破って祠(ほこら)を飛び出したのか?」
 老狐は声を荒げた。
「まさか…そんなことは…。」
 新郎も新婦も首を横に振って否定した。
「でも、事実、これを拾ったのはそこの人間のお嬢さんだろ?」
「ええまあ…」
 あかねは正直に拾ったときの状況を答えた。
「いずれにしても、おまえさんたちが掟を破って祠を抜け出したか、婚礼の儀に不服を申し立てるものが居ない限り、柘植の櫛は無くならないはずではないのだぞ…。」
「いいんじゃあねえのか?銀婆さんよ。」
 キツネ族の長(おさ)らしき立派な毛並みの大きなキツネが後ろから言い放った。
「いいや、見過ごす訳には行かぬ。」
 年寄が融通がきかないのは、人間もキツネも同じらしい。あくまでも、正論を通したがる。
 何時の間にか、野次馬のように招待客が集まり始めていた。
「銀婆さん、いやに今日は意固地になってるなあ…いつもの銀婆さんらしくない…。」
 圧し問答が続く中、ツキノワグマがのそりと覗いた。
「どうだ?ここは俺の顔を立てて…。」
 片目のツキノワグマが銀婆さんの説得に回る。
「おまえさんの頼みでも…。これはキツネの種族の問題だ。」
 銀色の毛並みを靡かせながら婆さんは頑なになっていた。
「森の主のツキノワグマさんの言うことも聞けねえのか?」
 傍らでキツネ族の長がおろおろしている。
「この森の主のツキノワグマさんの機嫌を損ねてはそれこそ、祝言など一たまりもなく砕けるぞ…」
 乱馬の横でウサギが心配そうに呟いた。

 その時だった。
「待てっ!そいつは銀婆さんじゃあないよ…。」
 後ろで叫んだ奴が居た。
 見ると、パンダだった。腕によれよれになった銀のキツネを抱いていた。
「ぎ、銀婆さんが二人?」
 ざわめきと戸惑いで、辺り騒然となる。
「尻尾の数を見てみろ…!!銀婆さんの尾は五つ股だ…。そっちは七尾。一目瞭然だろうっ!!」
 穏やかだったパンダが叱咤した。
 彼の怒声とともに、突然、暗雲が立ち込め始めた。銀婆さんと呼ばれていたキツネの回りにはからずしも妖気のようなものが煙り始める。

「口惜しや…もう少しで太郎兵衛を私の物に出来たものを…。」

 後ろを振り返ると、大きな黒い妖艶な七尾の狐が立っていた。
「やはり、お主か…おみつ狐!!」
 パンダに抱かれた老狐の目が光った。こちらが本物の銀婆さんらしい。
「太郎兵衛は私がかねてから目を付けていた若狐…おゆきのような小娘渡すのはもったいない!」
 おどろおどろしい、妖気は宴の会場だった野原一面を灰色に包み込む。
 人間の乱馬とあかねから見ても、おみつと呼ばれた狐は禍禍しく見えた。



つづく



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