dolce


 まだ明けやらぬ夜の帳(とばり)。
 清として澄み渡る冬の空気。
 枕元の電灯は、豆球の淡い光を照らし出す。
 乱馬は腕の中に大切に抱え込んだ宝物にそっと目を配った。
 …やっと眠ったか。…
 規則正しく聞こえてくる寝息にほっと安堵の溜息を吐き出した。
 …たく、世話がやけるんだから。…
 つい今しがたまで泣きじゃくっていた愛妻の寝顔を飽きることなく眺めた。


 真夜中、彼は隣で眠るあかねの異変に気が付いて目が覚めた。
 寝言よろしく、唸り声を上げるあかね。大慌てで蒲団を跳ね除け、手元の電灯にスイッチを入れた。ぼんやりと照らし出されるあかねの額から、薄っすらと汗が滴る。
 「おいっ!どうしたんだ?具合でも悪いのか?」
 思わず声を掛けていた。
 「う…ん…。」
 夫の呼び声に、あかねは目を見開いた。
 あかねの視線は宙を泳ぎ、自分を見つめる心配げな瞳にぶつかって途切れた。
 「ら、乱馬…乱馬…。あたし…。」
 怯えるような瞳を差し向けると、あかねはわっと胸倉を掴んだ。
 「お、おい…。何だよ。」
 急に抱きつかれて困惑した乱馬は訳がわからずに動転した。それだけならまだしも、あかねは胸に顔を押し付けて泣き崩れている。
 「落ち着けよ…訳がわかんねえよ…。どうしたんだこんな夜中に…。」
 慌てふためいて声をさしかける。
 「ごめん…夢だった。嫌な夢。とっても悲しい夢。」
 打ちひしがれるような震える声。
 「夢見てうなされてたのか。」 
 乱馬はほっとしたようにあかねを見詰めた。
 「たく…。どんな夢見てたんだよ。こんな夜中に起こされるほどの悪夢か?」
 乱馬はそっと畳み掛けるように訊いてみた。
 「呪泉洞の夢…。乱馬が死んじゃって、私…。」
 あかねはまだ夢と現の間を彷徨っているのか、身を硬くして凍えていた。」
 「戦いの夢か…。正月早々勝手に人を殺すなよ。」
 「ごめんね…。でも、私怖かった。自分が死ぬことより乱馬を失うことが…。」
 泣きじゃくりながらあかねは答える。その様子が切なくて、乱馬は抱きしめる腕に力をこめた。
 「俺は簡単には死なねえよ。今までだって何度も死線を乗り越えてきたんだから。だから、ほら、俺は生きてる。」
 「初夢だったのに…。」
 あかねがぽつんと吐き出した。
 「夢占か?」
 「うん…。」
 力なくあかねが頷いた。
 「気にすんな…。」
 乱馬は語気を強めてあかねを自分の胸板に押し付けた。
 「まだ夜明けまでには間がある。俺は寝るぞ…。」
 そう言って乱馬は手元の電灯を切って掛け蒲団を掴むと、くるりと後ろを向いた。神経だけは研ぎ澄まされていて、背中であかねの気配を探っていた。
 急に暗闇に一人取り残されたあかねは、心細くなったのか、乱馬の背中越しに声を掛けてくる。
 「意地悪。」
 「へん。」
 「ねえ…。」
 「何だ?」
 沈黙が闇を支配する。
 「もう、しょうがねえなあ…。ほら。」
 乱馬は振り向いて、あかねを自分の方へ引っ張り込んだ。
 「大晦日からのドンちゃん騒ぎで疲れてんだからな…。寝かせてくれよ。」
 そう言いながらも、満足げにあかねを抱きしめる。
 「暗いの今日は嫌なの…。」 
 あかねは懇願してくる。悪夢に苛まれた後は、暗闇の中に身を置くのが堪らないのだろう
 「たく…我儘だなあ。」
 乱馬は笑いながらまた、電灯のスイッチを入れる。
 暗闇が開けて明るくなった。
 「ありがと…。」
 あかねがぽつんと胸の中で囁いた。
 それでも不安なのか、時々あかねは乱馬の存在を確かめるように身体を寄せてくる。
 乱馬は静かに赤子を抱くように背中をとんとんと叩いてやった。
 そのリズムにやっと落ち着いたのか、あかねの力が抜けてゆくのがわかった。
 先に眠り込んでしまって、また彼女が夢に冒されるのが堪らずに、乱馬は目を閉じずにずっと煤けた天井を眺めていた。

 やがて彼女は腕の中で緩やかな眠りに落ちる。

 …ほんとに世話がやけるんだから。…
 寝入ってしまった駄々っ子を上からそっと眺めてみた。
 涙の跡が残っている頬に手を触れて、微かに微笑みかける。
 …やっぱり俺が傍にいてやらなくちゃ…な。…
 そう、自分が傍で守ってやらないと危なっかしくてやってられない。出逢った当初からそうだった。気が強く見えてもどこか儚げで頼りない。同じ屋根の下で暮らすうちに、いつの間にか結ばれていた強い絆。出会えたのが必然だったと思えるような存在。
 …こいつはやっぱり可愛い…
 ぞっこんに惚れてしまっている自分を見据えて、乱馬はふっと微笑んだ。きっと一生惚れ続けるのだろう。
 「結婚は人生の墓場だ」とかいう格言があったような気がするが、それは多分、幸福な結婚をしない奴の戯言。そう思う。
 結婚してからも永かった春を象徴するように穏やかで緩やかな愛情が互いを行き交う。静かだが澄んだ深い情愛の泉が心に広がる。
 こういう風にあかねを愛せる自分はきっと誰よりも幸福だろう。
 

 乱馬は絡めた腕をそっと外して、照らしつける電灯のスイッチを消した。暗闇が支配する中、掛け蒲団を丁寧に掛けなおすと、もう一度、あかねを柔らかく腕の中に抱きしめた。
 流れ込んでくる冷気が気にならないほどに心地良い肌の温もり。
 そして静かに目を閉じた。



 完




一之瀬的戯言
あとがき
 お正月に作った連作の中の一つです。
 まだ結婚して2ヶ月くらいの二人の情景を描いています。
 「dolce(ドルーチェ)」は音楽の曲想用語で「甘く」という意味になります。
 ご覧の如く、限りなく甘い作品です。

 いわきりえさんのページに投稿させていただきました。(閉鎖されましたが…残念!)



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