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 『KISS ME , PLEASE』

 流行のリップスティックのCMキャッチフレーズ。街を歩けばこのポスターがやたらに目に入る。テレビのスイッチを捻っても…。
 半世紀以上も前を思い出させるのフォトグラフィー。男優と女優が柔らかいキスをする。セピアトーンのカラーの中で一際目立つモデルタレントの紅い唇。 
 団欒で見ていたテレビに化粧品のCMが流れる。
 彫の深い素敵な二人の外人タレントが見つめあい睦みあう。そして柔らかくうっとりと重なる唇。思わず吸い寄せられるようにじっと見つめてしまう詩的な画面。

 あかねの脳裏にキスの甘い瞬間の記憶が過ぎった。思わずドキッとして唇に手を当てた。

 そんな自分を自嘲するかのように、ほっと溜息を吐きだす。と、なびきがにやっと笑った。
「どうしたの?乱馬くんとの甘いキッスでも思い出した?」
「ううん…そんなんじゃないわ…。」
 心を見透かされたような気がして、あかねは慌てて否定に走った。
「乱馬くん、ちゃんと真面目にキスしてくれてる?」
 なびきは恥らうあかねにすかさず鋭い突込みを入れる。
「お、お姉ちゃんには関係ないでしょっ!」
 真っ赤になって俯くあかね。
 …ったく、あんたは正直ね…思ったことが全部顔に出てるわ。
 声には出さなかったが、そんな視線を浴びせかけてなびきが笑った。

「ねえ、どうしてキスするときは目を閉じるのかな…。」

 ふとなびきがそんな言葉を吐いた。
 その真意が良くわからなかったあかねだが、その言葉が頭にインプットされた。エコーのように耳に響く。
 言われてみたらそうだ。
 誰もがキスをするとき、必ずといっていいほど目を閉じる。勿論、自分も…。
 傍らでは乱馬が週刊誌を広げながら熱心に記事を読み漁っていた。その向こう側では早雲と玄馬が将棋を指していた。

「あかねはどう思う?」
 横目でその様子を見ながら、悪戯っぽくなびきが言葉を継いだ。
「さあ…。考えたことないから。」
 自分たちの会話を聴いているかどうかはわからないが、傍に乱馬がいるのでそう答えるしかなかった。乱馬に後で何か言われそうで思うような言葉が継げなかった。
 少しの間を置いてなびきが言った。
「そうよね…。自然に目を瞑っちゃうもんね…。あかねだってそうでしょ?」
 それには何も答えなかった。あかねの沈黙にふふっとなびきは楽しそうに笑ってから続けた。
「さてと…。後片付けやっちゃおっかな…。」
「うん、じゃあ、あたしも手伝うね…。」

 かすみが東風先生の所に嫁いでから、台所はあかねとなびき、そしてのどかが分担して担当するようになっていた。不器用だったあかねも、ここしばらくの頑張りで、なんとか、人並み近くまでレベルアップしていた。
 乱馬が、驚くほど、料理の腕も上達していた。とはいえ、それでも時々信じられないような失敗もする。

 後片付けが終わって茶の間のテーブルをふきんでもう一度拭きながら、あかねははーっと溜息を吐いた。すると、傍らで乱馬が笑った。
「何だよ…。その色気のねえ溜息は…。らしくねえな…。」
 乱馬はごろんと横になってテレビを見ていた。
 また、同じCMが流れる。

「ちょっとつき合えよ…。」
 CMを横目で流しながら乱馬は立ち上がった。
「おっと。ちゃんと道着、着て来いよ。軽く流すぞ…。」
 彼が誘ったのは、そう、稽古の相手だった。日課のように二人は道場で対峙する。
 乱馬に命じられるままに道着に着替えて、あかねは道場へと入った。

 あかねが目を転じると、待ち構えていたと云わんばかりに乱馬は突然打ち込んできた。
 勿論、真剣勝負では相手にならない。乱馬のレベルは遥かにあかねを凌駕していた。その高みに上り詰めるのはどう頑張って足掻いても、もうあかねでは無理だろう。乱馬の相手をするというよりは、乱馬に相手をしてもらっていると言った方が正しい表現かもしれない。
 だが、乱馬はあかねに真摯に打ち込んでくる。手加減してはいるのだろうが、決して隙は見せない。あかねがはっとするほど鋭い拳や蹴りが空を舞う。それもいつものことだった。
 生半可な気持ちで組もうものなら怪我をする。あかねもちゃんと心得ていた。普段は優しい瞳も道場に入ると途端、鋭い格闘家の眼光に転じる。
 今晩も乱馬はいつものように機敏に身体を動かしながらあかねに打ち込んできた。最初は緩やかだった彼の動きが、だんだんと激しさを増してゆく。
 ひゅっひゅっとそれを寸ででかわしながら、あかねは乱馬の隙を伺う。打ち込むタイミングを彼女なりにはかっているのだ。彼女の勝気さはであった頃と少しも変わらない。寸分の隙があれば、構わず打ち込んでゆきたい。たとえ数段上の相手でも、その気持ちだけは不変だった。
 乱馬が蹴りを入れて来た瞬間に僅かに気が乱れた。あかねはそれを見逃さなかった。

「やあっ!!」

 声を発しながら懸命に右手で突きを入れた。
 あかねの拳は虚しく空を切った。
 そう、乱馬はそれをひょいとかわしたのだ。そして床を蹴って、あかねの後ろに回ると、「一本っ!」と言って背中を突付いてみせた。
 あかねの額から珠のような汗が流れ落ちる。息があがるほどに激しい動悸が胸を打つ。
「雑念が多いな…おめえは…。」
 乱馬が後ろから白い歯を見せて笑った。彼の息は微塵も乱れていない。
「何よっ!雑念って…。」
「なびきが言ったこと、まーだ気にしてんだろ?身体中が隙だらけだぜ…。」
 あかねは自分の顔がかあーっと上気するのがわかった。
…乱馬、お姉ちゃんとのやりとり聴いてたんだ。
 そう思うと急に気恥ずかしくなった。
「なあ、なんでキスする瞬間、目を瞑るのか、わかるか?」
 乱馬はひょこっとあかねの前に顔を突き出した。
「そ、そんなこと…。わかるわけないでしょっ!!」 
 何ていうことを聴くんだというふうにあかねが乱馬を睨んだ。心は相当動揺している。
「そんな怖い顔すんなよ…。可愛くねえぞ…。」
 乱馬は軽く受け流す。
「言ったわね…。じゃあ、乱馬にはわかるの?なんで目を閉じるのか…。」
 乱馬は笑いながらすまして言った。
「俺は武道家だからな…。だからという訳でもねえが、だいたいの想像はつくぜ…。」
「へえ…。だったら教えてよ…。」
 乱馬には浪漫の欠片もないじゃない。そんなあんたにキスのこそあどがわかるの…とあかねは続けて言いたかった。けれどそれは止めておいた。
「ん、じゃあ、ちょっと試してみっか…。」
 乱馬はそう言うと後ろ手に道場の電灯を消した。

「え?ちょっと…乱馬っ!何?」

 あかねは突然広がった暗闇にドキッとした。ここで乱馬は迫る気なのか…。心の準備ができていない。心臓は少し高鳴って唸りを上げた。
「いいから、身体の神経を研ぎ澄ませよ。ほら、ぼちぼち目が暗闇に馴染んできただろ?」
 突然電灯を消された時は、光の残像があって良く見えなかったが、慣れてくると薄らぼんやりと周りが浮かんでくる。窓から差す、月明かりが清と冷たい床を照らし出す。顔の表情まではわからなかったが、乱馬の全体が見えてきた。
「やっぱ、ハンディーが必要かな…。…。よっし。」
 乱馬は暫し考えて、傍らに置いていた汗拭き用のタオルを手に取ると、それを自分に当て目隠しをした。
「俺はこんくらいで組んだ方がいいからな…。じゃねえとおめえが大変だろうし…。」
「組む?組み手?こんな状態で稽古するの?」
 乱馬の真意が掴みきれずにあかねは言葉を投げかけた。
「あったりめえだろ…。稽古の他に道場で何するってんだよ…。あん?さてはおまえ…何か勘違いしてんな?おっとそれとも何かを期待してるとか…。」
 からかうように乱馬が言う。
「だって…あの…その…キスの話じゃなかったっけ…?」
 小声で言うと、
「お望みならあとでちゃんとしてやるよ。その前にちょいと付き合えって。なんでキスのとき目を閉じるのか、稽古つけがてら身体で教えてやらあ…。」
 乱馬が笑い転げた。
「馬鹿っ!!」
 あかねはムキになって怒鳴る。

「んじゃあ、いくぞ…。ちゃんと心の目を開けよ。じゃねえと、怪我するぜ。俺は目隠ししてるから手加減できねえぞ…。いいな。」
 
 乱馬はそう言い終わると中段に構えた。訳がわからぬままあかねも中段に構えた。
 彼はこんな状態で何を稽古するというのか。キスの件とこれがどう結びつくのか。あかねには一向に理解ができなかった。
 が、目の前の乱馬は真剣だ。それは張り詰めた空気を通じて感じられる。 
 乱馬はあかねが位置に付くと、はあっと深く息を吐き出した。そしてゆっくりと息を吸い込む。すると彼の気がどんどんと高揚しはじめた。暗闇の中にあっても、その気の昂ぶりは目に見えるように迫ってくる。
 
 あかねは彼の影を見詰めた。ごくんと唾を飲み込んで動くその時を待った。
 昂ぶった気を一端身体へ静めると、再び拳を作って構える。と、乱馬は一歩前へと踏み出した。
「たあーっ!」
 乱馬の気合が弾けた。
 あかねははっとして、それをかわした。だが彼は寸分の狂いもなくあかねに向って拳を飛ばしてくる。

「はっ!」「やっ!」「たあっ!」「とおっ!」

 交互に気合がぶつかった。
 乱馬はまるで目が自在に見えているかのように、あかねの気を捉えて正確に位置を把握し、拳を打ち込んでくるのだ。
 目が開いているあかねの方が目隠しをされているような覚束ない動きだった。
 さっき、電気が点いていた時よりも、むしろ乱馬の動きは機敏だった。彼が言うように目が見えない分、手加減などできないのだろう。
 あかねは戦慄した。なんと激しい気なのか。それを容赦なくぶつけてくる。
 情けのないことに、暗闇の中を追われながら、彼女は次々に繰り出される拳をかわすのがやっとだった。彼はそんな余裕のないあかねをわかっているのだろうか。拳は出しても、決して蹴りは入れてこなかった。暗闇に慣れぬあかねに蹴りを出すことの危険性を熟知していたのかもしれない。
 が、拳は情け容赦なく連続して打ち出される。
 乱馬は雄々しい。猛々しい。
 激しい気の中に、あかねは彼の「男漢」を感じ取る。

「どうしたっ!!もっと気を集中させて、俺の動きを読めっ!」

 右往左往するあかねに乱馬は激しく檄を飛ばす。
「そんな生っちょろい動きじゃあ怪我するぞっ!暗闇を、俺の拳を恐れるなっ!心眼で捉えろっ!!」
 あかねは必死で動き回った。心の目を開けと乱馬は迫る。
 激しさを増す乱馬についてゆくのがやっとだったが、あかねも武道家の端くれ。かわすのがやっとの中でも何とか活路を見出そうと、気を集中させた。
 汗で乱馬の足元が少し滑った。その時、乱馬の気がほんの一瞬だけ緩んだ。
 それを見逃すあかねではなかった。
「たあっ!!」
 あかねは迷うことなく、真正面から乱馬目掛けて突っ込んだ。乱馬を倒すにはこの隙に乗じるしかない。チャンスは一度。そう思った。有りっ丈の気を拳に集中させた。

 バチンッ!!

 二つの塊が道場で弾けた。一回り大きい彼の体格に力で叶うはずがない。乱馬は繰り出されたあかねの拳を、全身で受け止めて吸収した。
 ぶつかり合いに僅かに負けたあかねは反動でそのまま床に倒れこんだ。
「おっと…。」
 乱馬の腕があかねに伸びてきた。彼の機転で辛くも激突だけは免れた。目が見えなくてもあかねをちゃんと迷うことなく腕の中に収めた。
 はあはあとあかねの息が弾ける。流れる汗は乱馬の身体をも浸してゆく。
 それを包む乱馬の気は、何事もなかったかのよう静穏としていた。合わせた肌からは呼吸の乱れすら感じられなかった。
 あかねは残念乍、己の敗北を認めざるを得なかった。だが、不思議と悔しさはなかった。
 近しき将来、自分はこの逞しき腕に抱かれて女としての本懐を遂げる。そんな微かな憧憬が心を静かに流れてゆく。

「やっぱ、まだまだ修行の余地はあるかな…。おめえだけじゃなく、俺も隙だらけだ…。」
 頭上で乱馬の声が響いた。さわさわと風が鳴った。
「なあ、あかね、キスするとき目を閉じるのは、なんでか、今のでわかったか?」
 耳元で乱馬が囁いた。あかねを全身で包み込んで嬉しそうに話し掛けてくる。
「え?」
 いきなりキスの話を持ち出されて混迷した。きょとんとした表情で腕の中から乱馬を見上げた。
「だから…たく、鈍い奴だな…。キスする時だって、武道と、今の組み手と同じなんだよ…。唇を合わせるときはお互い真剣だろ?」
 乱馬は真摯な眼をあかねに向けて語りだした。
「それに、目で見えるものだけが全てじゃないんだ…この世の中は…。目だけじゃなくて己の全神経を研ぎ澄ませて初めて感じられるものもあるんだよ…。耳で感じたり、肌で感じたり…。そして心で感じることも…。」
 乱馬はあかねの背中に回した手にゆっくりと力をこめた。

 月明かりが天窓から差し込んで蒼く煌めいた。ほのかに差し込む蒼い光は二人を柔らかく照らし出す。

 さあっと暗闇が少しだけ照らし出される。あかねは自分の視線のすぐ先に乱馬の顔を見た。斜め上から差す月の光に乱馬の目が蒼白く照らし出されて輝いて見えた。
 愛憐を帯びた優しい眼差し。あかねはそれに応えるようにそっと頷いてみせた。
 言葉だけで想いを全て紡ぎ出せないように、目に映る世界だけが全てではない。あかねは乱馬の云わんとしていることが少しだけ理解できたような気がした。
「なまじ見えているからわからないことも多いだろ?心は目で見えねえんだ…でも…こうやって触れ合っているときは感じていたい。おまえの全てを…だから…。」
 乱馬はふっと言葉を止めた。熱い吐息と共に流れてくる愛する者の心。
 
「だから、キスするときは目を閉じるのね…。お互いの心を強く感じあうために…。」

 返事の代わりに重なったのは乱馬の柔らかい唇。果てない永遠を確かに心に刻むため、二人は静かに瞳を閉じた。

 熱い吐息と共に注がれる乱馬の柔らかい心。あかねの体内へ心の湖へ深く浸透してゆく。
 目を閉じて耳を澄ますと繋がった相手の全てを感じることができる。そして、己の全てもそこから伝わってゆく。愛しているからこそ全てを知りたい。全てを伝えたい。だから、目を閉じる。

 差し掛かる月に薄雲がかかった。
 窓から射しこんでいた蒼い光は静かに闇へと幕を引く。
 一つになった若者の影を愛しげに包むために。

 
 




2001年4月作品



一之瀬的戯言

torinoさんちのRサイトの半官半民さんのイラストから妄想した作品…。
長らく、非公開扱いでしたが、公開させていただきます。

…キスするときは互いが真剣ゆえに、様々な物を感じるために目を閉じる…とまあ、そういうことが言いたかった…私。(ちなみに、若いころからのキスに対する持論です。)




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