◇蒼い夜(前編)


一、

 始まりはいつもの喧嘩。
 他愛のない、いつもの罵りあい。

 私と乱馬は親同士が決めた許婚。
 本人の望むと望まないところで勝手に決められた将来の伴侶。
 初めから気を許していたわけじゃない。初めから好きだったわけじゃない。でも、居候としてあいつが天道家に住み着いてから、私の周りは賑やかになり…。そして、いつの間にかあいつは私にとって無くてはならない存在になっていた。
 でも。
 勝気な性分が災いして、私はなかなか自分の本心を彼に伝えられない。「好き」という言葉はいつも心の奥底でひっそりと息をしている。
 彼も多分、私と同じ。素直じゃない。
 顔を合わせば、悪態が滑り出してくる。
「可愛くねえ」、「色気がねえ」、「寸胴」、「間抜け」、「馬鹿力」、「不器用」…。湯水の如く後から後へと沸いて出る悪口。
 でも、時々見せる、優しさの片鱗に、私は翻弄されて、心は根こそぎ彼に持っていかれた。
 なのに…。
 優しい言葉をかけて欲しいなんて、贅沢は言わないつもり。でも、時には私の乙女心をわかってくれてもいいじゃない。女に変身できるくせに、微妙な心は何一つ理解しようとしない「無神経男」。

 今日だってそうだった。

 初夏の緩やかな休日を、家族たちと楽しんでいた。
 いつものように、招かれざる客人の、猫飯店の三人や、うっちゃん、九能先輩たち。みんなでわいわいやるのも楽しいからと、人のいい私の家族たちはあっさりと受け入れる。
 都会の雑踏を離れて、秩父の川原でバーベキュー大会。
 新緑が目に眩しいうららかな季節。わいわいがやがや、気心の知れた仲間達と囲む火は楽しいもの。焼けた肉の香ばしい匂いと弾む会話。
 そこまでは良かった。
 が、トラブルメーカー揃いの私の周りの人たち。
 些細なことで、乱馬と喧嘩。
「たく…。なんでおまえはそう、お節介焼きなんだよ。不器用なくせに。」
「だって、悪気はなかったんだから…。」
「悪気があって、溜まるかよ…。だいたいなあ、おまえは味音痴なんだから、調理味付けには一切関わるなよ。」
 そう、味付けの良し悪しで乱馬と喧嘩になってしまったのだ。
 私は筋金入りの味音痴で、みんな私が味付けたものは一切合切手を出そうとしない。そうなると、私の周りだけ肉も野菜も山となる。それを気の毒に思ったのか、人のいい良牙くんが、箸をつけた辺りから雲行きが怪しくなる。一頻り食べた良牙くんが、黙ったままへたり込んでしまった。
「良牙も良牙だぜ…。媚び売りがやって。無理して不味いもの食わなきゃいいんだよ。」

 バシンっ!

 思わず手が出た。ビンタが乱馬の頬を直撃した。
「何よっ!乱馬のばかっ!!」
 二人の喧嘩を見ていたシャンプーと右京が、私の前に立ちはだかって、乱馬を庇い立てる。
「乱馬ぁ?大丈夫か?」
「あかねは凶暴やからなあ…。ほら、良牙くんのことはあかねちゃんに任しておいて、乱馬はウチの焼いたお好み焼き食べたらいいんや。」
「違うね…。乱馬、私が焼いた、特別的中華焼きそば食べるね。」
「いんや。うちのお好み焼きや。」
「私の中華焼きそばね。」
 シャンプーと右京に腕を絡まれて、あたふたする乱馬を見ているうちに、もっと腹が立った。
「いいわ、あたしは良牙君の面倒を見てるから。」
 そう言って、プンプンとその場を離れた。

 いつだってそうなのよ。
 確かに味見しないで味付けしていた私にも問題はあることはわかってる。だけど、剣もほろろに罵ることないじゃない。ヤキモチなの?それともただの悪口なの?
「あかね、何処行くの?」
 なびきお姉ちゃんの問いに
「良牙くんの頭冷やして上げるのに、水汲んでくるの。いいよ、お姉ちゃんは。あたしが最後まで責任持って彼の面倒みるからねっ!」
 これ見よがしに乱馬を睨み付けると、私はちょっと上流の清流へと足を向けた。

 皆が火を囲んでいるところから左程離れていないけれど、岩場から少し上に上がると、清流が二手に分かれている。一つは私達のいる川原、そして、もう一つは、森の奥へと流れている。なんでも、この奥には、小さな泉が湧いていて、ちょっとしたハイキングにうってつけの場所らしい。
 実際に、ハイキング姿の軽装のカップル達などが、ちょこっと横道に逸れて奥へと行くのが見えた。
「天道あかねーっ!」
 振り向くと、九能先輩がいた。
「おお…。一人で散歩かな?」
「いえ、別に…。」
 この先輩はしつこくて苦手だ。
「皆まで言うなっ!早乙女乱馬の呪縛を離れて、この僕と二人きりになりたかったのであろう?」
「ありませんっ!絶対に、そんなことはありませんっ!!」
 私は首を大きく横へとぶんぶん振った。
「隠さなくても良いぞ、うい奴め…。」
 思い込みの激しい九能先輩は笑いかけながら迫ってくる。
・・・冗談じゃないっ!…
 私は逃げた。当たり前だ。ちょっとの間も九能先輩と二人でランデブーなんて、考えただけでも鳥肌ものだ。
 川原の横道を逸れて、私は泉の沸く方面へ夢中で駆けていた。
 私としては、九能先輩さえまいてしまえばそれで良かった。それが浅はかな判断だったと気が付くには私は楽天的すぎた。森の奥へと向うのではなくて、皆がいる方へと逃げればその後の災難に見舞われることもなかったろう。

 少しだけ横道に逸れただけのはずだったのだが、はからずしも道に迷いこんでしまったのだった。


二、

…たく…あかねの奴。本当のことを言っただけじゃねえか…
 俺は内心でぶつぶつ言いながら打たれた頬をさすっていた。
 素直じゃないあいつは、俺の悪態に頭が来たのだろう。
「乱ちゃん、お好み焼き食べてえや。」
「中華焼きそばの方が先ね。」
 傍ではうっちゃんとシャンプーが睨みを利かせながら俺に食べ物を勧めてくる。
「いいよ…腹いっぱいになってきたし…。」
 俺は二人の申し出を断る。
「うちと乱ちゃんの仲やないか…。遠慮しっこなしやで。」
「乱馬、私の婿殿、だから私のを食べるよろし…。」
 困ったものだと俺は眉をしかめた。
 だいたいこいつ等に関わるとろくな事はねえ。あかねの奴は可愛くないヤキモチをぶんぶんに俺に差し向けてきやがるし…。そうだ。こいつ等さえいなければ、俺とあかねの仲はもう少し進展していたかもしれないのだ。少なくとも、現在ほど波風は立っていないだろう。
 かすみさんがにこにこしながら二人をたしなめる。
「まあ、お好み焼きも焼きそばも素敵ねえ。美味しそうねえ。いただいてもいいかしら?」
 こういう場面に直面したとき、かすみさんの存在はとても有難い。天性のほのぼのが、争いごとを収めてしまうのは流石だ。案外、天道家ではかすみさんが一番強いのではないかと、時々思ってしまう。
 うっちゃんもシャンプーも、かすみさんが相手では、矛先を収めないわけにはいかないらしい。内心合点がいかぬという顔をしながらも、かすみさんのお皿にそれぞれお好み焼きと焼きそばを盛り付けてゆく。
「皆にもたくさん食べていただきましょうね。お父さんたち、お好み焼きと焼きそばがあるわよ…。」
 などと、かすみさんは嬉しげに呼びかける。食い意地にかけては天下一品の俺の親父は、
「おおおっ。これは美味そうじゃ。」
などとビール片手に傍に来た。
 俺の親父ということも相まって、うっちゃんもシャンプーもそう邪見にはできないのか、しぶしぶと仕事を始めた。
 そう、やっと俺は彼女達から解放された訳だ。

 俺は、彼女達にまた捕まらないうちにと、良牙を介抱している筈のあかねを探した。別に詫びなど入れるつもりは無かったが、もうひと言悪口を浴びせ掛けてやらないと気が済みそうになかったからだ。
 だが、俺の思惑とは別に、あかねの姿は見当たらなかった。良牙だけがビニールシートの上にドンと乗っかっていた。
「あれ?」
 俺がきょろきょろ辺りを見回していると、なびきが、ふふふんと鼻を鳴らして近づいてきた。
「あかねなら、良牙君に水汲んでくるって、あっちへ行ったわよ。」
 嬉しそうに話し掛ける。なびきの目は「些細な喧嘩なんて、少し頭冷やせば大丈夫よ…早くあかねのところへ行きなさいよ。」とでも言いたげだ。余計なお節介だと舌打ちしながらも、俺はなびきがさした方向へと足を向けた。

 川原の石はごつごつしていて歩き辛い。
…上流ってどのくらい先まで行ったんだ?あかねの奴…
 大きな岩を攀じ登って、川が二股に分かれる辺りまで来たが、俺はあかねの姿を見出すことが出来なかった。代わりに九能が居た。
「早乙女、あかねくんを何処へ隠した?」
 などと口走っている。
「あん?何が言いたいんだ?九能先輩よぉ。」
「大方おまえがあかねくんを隠したのだろう?」
 押し問答が始まる。
「おまえさえいなければ、あかねくんと僕は自由に恋愛できるのだ。この、目の上のタンコブめっ!」
 九能は訳のわからない事を口走っている。
「なんだよ…藪からぼうに…。」
 俺は関わりたくないといった風に聞き流す。
「問答無用。ここで勝負だっ!早乙女乱馬っ!」
 たく、どいつもこいつも、俺に言いがかりつけやがって。
 俺は、虫の居所が悪かったので、突っかかってきた九能先輩を一撃でのした。
 
「たく・・なんだっていうんだよ…。」
 俺は横たわる九能にはき捨てると、あかねを探して辺りを見回した。
「あかねっ!何処だっ!あかねっ!?」

 この時点ではまだ、俺は事の重大さに気が付いていなかった。大方、用でも足しに行っているのだろうと軽い事態くらいにしか捉えていなかった。
 まさか、あかねが行方不明になって大騒ぎになるなどとは…。夢にも思わなかったのだ。


三、

 一体どのくらい森の中を彷徨ったのだろうか。
 気が付くと辺りは鬱蒼とした樹海が迫っているように思えた。今しがたまで辿ってきた筈の道もない。
「迷ったかしら…。」
 私は辺りをきょろきょろと見回しながら困り果てていた。
「乱馬っ!、お父さんっ!お姉ちゃんっ!」
 大声を出して呼んでみた。
 ピピピピっ!ガサガサガサッ!
 頭上で山鳥が私の声に驚いて飛び去った。
 はらはら舞い降りてくる木の葉。
「困ったなぁ…。」
 心細さで胸が張り裂けそうだった。とにかく、何とか帰り道を見出さなければ…。

 焦りは更に厄介ごとを生む。
 川のせせらぎを聞きつけた私は、辿ればバーベキューをしていた川原へ戻れると短絡的に考えたのだ。
「良かった…。」
 そう思って、川のせせらぎの方へ向って意気揚揚と歩き出した。
 山道はどんな危険が待ち受けているかわからない。しめたっと思った私に隙が出来たのだろう。
 張り出した木の根っこにつまずいて転んでしまったのだ。それだけではない。バランスを取り損ねた私は、そのまま斜面を滑って少し小高いところから落下してしまったのだ。
 ドンっと鈍い音と共に、私は山道から逸れた崖下へとはじき出されていた。
「痛っ。」
 受身を取ろうとしたが、道場と違って平らではない。地面に降り立った途端、足の付け根に痛みが走った。
 見ると少し足が切れて、血がにじんでいる。幸い、かすり傷で、すれただけの傷だったが、いささか足をぐねっていた。立ち上がろうとして、そのまま地面にへたり込む。折れているふうはなかったが、利き足を捻挫しているようだった。
「まいったなあ…。」
 落ちた方を見上げた。
 五メートルも無い軽い崖だったが、、痛んだ足では這い上がれそうもなかった。いや、正確には自力で這い上がろうとあがいたが、無理だったのだ。
 下はと見れば、清流が流れているのが見えた。前も後ろも道はない。草むらが鬱蒼と茂りこんでいる。
「どうしよう…。」
 こうなれば、誰かが上を通りがかるのをじっと待つしかないだろう。足をやられてしまったのだから、無闇やたらに動かない方がいいだろう。
「なんで、あたしばっかり、こんな目にあうんだろう…。」
 ほとほと自分が情けなかった。
「あたしはただ、良牙君に水を汲んであげたかっただけなのに…。」
 涙がじわっと溢れてくる。
 一人ぼっちの心細さは、思考をどんどんとマイナス方向へと追いやる。
…このまま、夜に入ったら…。このまま誰も見つけてくれなかったら…。
 そんな私を太陽は天から木立を縫って降り注ぎ、私を照らす。最悪の事態をぼんやりと考えているうちに、疲れていたのだろうか。私はあろうことか意識を失い、いつの間にか眠る込んでしまった。


四、

 時間が経つうち、天道家の面々は大騒ぎになっていった。
 とにかく、あかねが見当たらないのだ。
 要領を得ない九能の話によると、あかねと追いかけっこしているうちに、彼女はふいっと何処かへ行ってしまったという。尤も彼は、俺が隠したと言って譲らないのだか…。
 きっと、九能に追いかけられて、あかねは森の奥か泉の方へと足を踏み入れたのだろうと結論づけた。
 今日はこの辺りにキャンプを張り巡らせる予定だったから…。暗くなるまでに皆で手分けして探そうということになった。「もしも」というときのために、かすみさんとなびきがテント地に残ることになった。並みの女性では山道は危険である。
 それと、用心棒に良牙も残すことになった。あかねの飯を食った彼は、まだうんうん唸りながら横たわっている。何にしても、こいつは「方向音痴」だから、探し手に加わらない方が無難だろう。携帯電話も届かないような奥地なので、もし、何かあったときはここへ戻ること、あまり外れた奥地へは行かないことを示し合わせて、俺達は山へ散る。

…暗くなるまでに探し出さないと…。

 俺は、嫌だったが、シャンプーと右京に囲まれて行動した。
 だが、思ったとおり、二人はすぐに仲たがい。もともと歯車がかみ合わない上に、二人とも、俺と二人きりになる隙を伺っていた。俺は俺で、そんなことお見通し。だから、この二人と組んだ。はなからずっと一緒に行動する気はなかった。二人の隙をついて、単独行動に出るつもりだった。
 ずるいとも思ったが、シャンプーや右京と一緒では、思うようにあかねを探せない。あいつのことだ。こんなに時間が経つまで帰って来ないところをみると、怪我でもしたか、何か厄介ごとに巻き込まれているかそんなところだろう。だとすると、この二人のどちらが一緒でも足手まといになる。うっちゃんはともかく、シャンプーはあかねの存在そのものが疎ましいと思っている節がある。
 俺は、二人の関係を逆手に取って「じゃあ、俺はシャンプーとうっちゃんと組んで探してくる。」と、早雲おじさんが目を剥きそうな発言をして飛び出してきた。
 勿論、俺は、放浪の旅を続けた経験上、リュックから「七つ道具」を収めた巾着を持つことは忘れなかった。何か咄嗟の事態が起これば、これだけあれば、少しでも役立つ。そう直感したからだ。
 七つ道具。たいしたものは入っていないが、最低限のサバイバル道具を一まとめにしてある。例えばカッターナイフや傷薬、布切れ、方位磁石、万金丹といわれる早乙女家伝来の丸薬、懐中電灯、そして火打石。ざっとこんなものが収めてある。水筒もちゃんと手にしていた。それから、転がっていたペットボトルの空き瓶も。傍にあった小さなリュックに詰め込んで持った。

 少し行ったところで、俺が睨んだとおり、シャンプーと右京は口喧嘩を始めた。
 しめたっ!
 俺はその気に乗じて、二人の元からこっそりと外れた。そして、一目散に森の奥地へと入っていった。

 方向音痴の良牙と違って、あかねが奥へ分け入ったのだ。多分、正規の山道や獣道からは外れたどこかでビバークしているに違いない。親父や九能たちは正規ルートを探している。いくら彼女が無鉄砲でも、何か無い限り、人が多く歩くハイキングルートから外れることはあるまい。何らかの理由で道を外れたに違いないんだ。これは俺の武道家としての、いや、あかねの許婚としての勘だった。

 日暮れがどんどん迫ってきている。
 早く見付けてやらないと、あかねは心細くて泣いているのではないか…。
 俺は辺りを隈なく見ながらあかねを探した。
「!!」
 ふと目を落としたとき、俺は、自分の居るところに、小さな女性の物と思われる足跡を発見した。こういう山の湿気た道にはぬかるみが多い。よく目を凝らしていると、獣や人の足跡が残されているものだ。
「まだ、新しいな…。この足跡…。こっちか…。」
 俺は自分の判断が正しかったことに少し安堵の溜息を漏らした。
 これを辿れば、或いは、彼女のところへ行き着けるかもしれない…。
 俺は無我夢中だった。
 森の土くれた空気に鼻をつきながら、俺はどんどん奥へと進んでいった。ちゃんと帰り道がわかるように枝葉を定期的に折りながら前へと進んだ。その辺りは抜かりがない。
「あかねーっ!おーい。居たら返事しろ…。」
 森の気配がだんだんと暗闇になってゆくのに焦りを感じながら、俺は懸命に彼女の名前を呼んだ。
 虚しく、俺の声は森の虚空へと消え果る。
「ちぇっ!あと数十分もしたら、すっかり暗くなるぞ…。」
 山の日暮れは早い。日が落ちると、途端に暗闇が迫ってくる。俺は慣れているからいいけれど、あかねは、きっと不安に打ちひしがれているだろう。怪我でもして泣いているかもしれない…。

 日暮れ近くになって、だんだんと辺りはひんやりとした空気が流れ始めた。
「不味いな…。」
 どんどん分け入っていた俺は、一端、元へと戻らないと、或いは自分も遭難してしまうのではないかと思われた。こういう場合は、振り出しへ戻るのが得策だ。
 俺は、これ以上の侵入は諦めて引き返そうと目を転じた瞬間だった。
 足元の木が折れていることに気が付いた。木の塩梅から、つい今しがた折れたような生々しい木肌。
 俺は、ごくんと唾を飲み込んで辺りを見回した。先の茂みも不自然に折れていて、この先に何かありそうな気配を漂わせている。格闘家としての研ぎ澄まされた神経は、一瞬の隙を逃さないで状況を捉える。
 恐る恐る、茂みに足を入れて、俺は驚愕の声を挙げそうになった。
 そこには崖が在る。それも、何かが滑り落ちた後が鮮明に残っている。
 …もしや…。
 俺はその下へと降りる決心をつけ、体重を下へとかけて、そろりと降り立った。
「あかねっ!!」
 居たっ。あかねがそこの木の根っこに腰を下ろしているのを俺はさっと見て取った。


五、

「おいっ!あかねっ!しっかりしろ…どっか打ったのか?」

 次に目が覚めると、傍で懐かしい声が響いた。
 いつの間にか気を失い、眠っていた私ははっとして目覚めた。
 そこには私の顔を心配そうに覗く二つの眼があった。
「乱馬ぁっ!」
 私は無我夢中で彼の胸板に飛び込んだ。
 一瞬、ぎしっと音が漏れたように感じるほど、彼の身体は硬直した。が、すぐさま解けて、私を揺り動かした。
「大丈夫か?怪我してんのか?」
「うん。ちょっと足を捻ったみたい。」
 そう言って私は力なく笑った。
「どら?見せてみな…。」
 乱馬は息つく間もなく、私の足をチェックし始めた。暗闇がぼちぼち辺りに迫ってきていた。
「軽い捻挫だな…。ちぇっ!湿布薬は持ってねえや…。我慢できるか?痛いの…。」
「うん…。」
 乱馬は私の身体を抱えて、崖を上ろうと試みたが、切り立っている上に足場が悪く、私を抱えては上っていけそうも無い。
「無理しない方がいいな。俺まで怪我したら…二重遭難になっちまうし…。」
 彼は彼で冷静な判断を下していた。
「じゃあ、どうするの?」
 か細い声で問い返しながら私は乱馬を見た。
「このまま俺が引き返して、誰か呼んでくるのが一番だと思うんだが…。」
 乱馬はそう言いながら首を傾いだ。
 私の顔が不安に曇るのを彼は見逃さなかったのだろう。すぐさま
「おまえ一人を残していくにはちょっとなあ…。」
 そう言い始めたときには、とっぷりと日は落ちていた。
「しゃあねえか…。別の方法考えよう…。ちょっとだけここに居ろよ。すぐ戻るから。」
 そう言うと、別の脱出口を探しに彼がその場を離れた。

 彼が来て、少しだけ私は生気がさしてきたような気がしたが、彼が見えなくなると、また、不安に苛まれた。このまま彼が戻ってこなかったら…。
 彼を待つ数分間は、何時間にも思えた。

「なんか歩き回ると帰って俺達も何処を彷徨うかわかんなくなっちまうな。暗いし、足元悪いし…。あっちにここよりは幾分条件のいい場所を確保したから、そこで明るくなるのを待とうか…。」
 乱馬は戻ってくるとそう言って私に笑いかけた。
「え?」
 私はドキッとして彼を見詰め返した。
「だから…。一晩、そこで野宿しようってことだよ…。」
 乱馬は私の云わんとした事を察したのだろう。憤然とした表情で言い含めた。
「乱馬と二人で…?」
 恐る恐る聞いてみると
「しゃあねえだろ・・・馬鹿…。」
 いつもの悪態。
「他に方法が無いんだったら、仕方ないよね…。」
 自分に言い聞かせるように私は呟いた。当然だ。でも、乱馬と山の中で二人きりだなんて…。
 冷静に考えても彼の判断は正しいだろう。私は怪我をしていて、思うように歩けない。ましてや夜道など辿れない。彼を信頼するしかない。
「じゃ、移動するぜ…。いい場所をこの先で見つけたんだ。」
 そう言うと乱馬は私を負んぶした。
「乱馬、いいよ、歩けるよ…。」
「今更遠慮したってはじまらねえよ…。」
 乱馬は憤然と下で呟く。川原での喧嘩をまだ引きずっているのだろうか…。
 ゆっくりと歩いて乱馬が連れ出してくれたところは、ちょっと窪みがかかった岩場だった。
「ほれ、ちょっとした洞穴みたいなところだろ?一晩過ごすにはもってこいだろ…。安心しな…色気のねえおめえに一指だって触れやしないさ…。」
 乱馬は私を下ろすとそう言って笑った。
「それとも何か?何か期待してたとか…?」
 悪戯っぽく微笑んだので
「バカっ!」
と大きく叫んだ。
 わかってる。乱馬は不埒な男の子じゃないこと。信用していても大丈夫って。
「ちょっと待ってろ。今しがた仕掛けてきたペットボトルを引き上げてくるよ。」
 そう言うと乱馬はまた暗闇に消えた。


六、

 あかねを見つけ出してひとまずホッとはしたものの、俺は内心、気が気じゃなかった。
 見ればあいつは足に捻挫をしていた。十分想像はしていたものの、ちょっと厄介だった。
…どうしたものか…。
 いろいろ考えをめぐらせながら、帰り道を模索したが、一晩ビバークするのが最良の方法だと見定めた。こういう山道を辿るのは、俺だけならなんともねえが、手負いのあかねが一緒だ。あまり無理は出来ないだろう。
 天からの恵みか、幸い、ごつごつした岩坐(いわくら)が立ち並ぶところが近場にあった。夜露を凌ぐには最良の場所だ。ここで焚き火を焚いて暖を取りながら一晩くらいは過ごせるだろう。
 あかねの奴には予防線を張っておいた。本当は、こんなところで二人野宿なんて本望じゃない。俺だって健康な男だ。できれば二人きりの夜なんて避けたいに決まってる。
…己の欲望と良心の狭間で苦しみそうだな…。
 俺は苦笑いした。
「後は食料か…。」
 幸い、川が近くを流れていた。大河ではなく、横水程度の清流だったが、魚は住んでいるだろう。
 俺は持っていたペットボトルをナイフで切ると、慣れた手つきで仕掛けを作った。紐を通しただけの簡単な仕掛けだ。これを魚が居そうなところへ沈めておくと、魚がボトルの中に入る。魚は頭が悪いから一度入り込むと後ろへは下がれない。それを引き上げるのた。
 あかねを野宿の場所へと誘(いざな)ってから、俺は仕掛けを引き上げに行った。ペットボトルを真ん中で切ったその二つの仕掛けには、小さかったが魚が2匹ずつ入っていた。腹を満たす程のものではないが、空腹のままいるよりかは幾分かはましだろう。
 俺は自分に水がかからないようにそれを丁寧に引き上げると、あかねの待つ岩場へと帰っていった。

 あかねはぼんやりと天上を眺めていた。
「月が綺麗ね…。」
 などと嬉しそうに云う。本当にこいつには警戒心がねえんだろうな。それだけ信頼されているのだろうか?それとも男として意識されていないのか…。
 どっちにしても考え込むと、無駄な思考へと走るので、あまり深く追求するのは止そうと思った。
 満月に近いのか、まん丸に近いお月様が、上から俺達を明るく照らしている。明かりなしでも結構明るい。
 俺は持っていたリュックから小さく丸めた新聞紙と火打石を取り出して、手馴れた手順で焚き火に火をつけた。さっき、場所を決めたとき、集めた一晩分くらいの枯れ枝に火をくべると、さっき採った魚を突き立てて火にあぶった。
「乱馬・・慣れてるのね…。」
 あかねはオレンジに燃える火を眺めながら俺に言った。
「そりゃあそうさ…。伊達に親父と放浪して修行してねえって…。」
 あまり自慢できたことではなかったが、俺は得意げにあかねに返事していた。どんな場合でも頼られるのは男として悪い気はしない。
「ほら・・焼けた。これしかねえけど…二匹ずつ。食えよ…。」
 俺はあかねに魚を差し出した。
「うん…。」
 あかねは力なく笑って俺から魚を受け取る。
「でも、一匹でいいよ。あたしは…。乱馬、三匹食べて…。」
「遠慮するなって…。食わねえと身体が参っちまうぞ…。」
 あかねはふっと笑って、魚を食んだ。
「どうだ?自然の味は?」
 俺が訊くと、あかねは力なく答えた。
「苦いね・・。」
 それを訊いて俺はあかねを覗き返した。
「苦い?そうかな…。」
 俺はそう返事しながら自分のを口に当てた。熱い身をかじった。口に広がるのは淡白な川魚の味。あかねの言うように決して苦くはなかった。
「苦くない?」
 あかねは俺を見ながら問い掛ける。その目に生気がないことに俺は気がついた。
「苦いって…まさかおまえ…。」
 あかねの手を取ってみた。熱い…。
 次はデコに手を当ててみた。こっちも熱い…。
「おめえ、もしかして熱あるんじゃねえか?」
「大丈夫…ちょっと、ふらふらしてるだけだから…。」
 あかねは力なく笑った。
 間違いない。熱があるから、自然の恵みが苦く感じるんだ。畜生っ!最悪だぜ…。
 俺は心で舌打ちしながらじっとあかねを見据えた。不安げに見詰めかえす彼女の瞳に出会った。
「きっと、冷えたんだな…。あんなところで一人放り出されて。」
 俺は彼女に向って話し掛けた。
「大丈夫・・平気だから…。このくらい。」
 この期に及んでまだ強がりを言う。そんな時のあかねはぐっと虚空を睨む。その様子から平気なじゃないのが伝わってくる。
「ちょっと待ってろ…。」
 俺は食べかけの魚を大急ぎで腹へと掻っ込みながら、思案を巡らせた。
…このままじゃ、不味いな…。
 夏が近いとはいえ、まだ、夜は冷え込む。熱のあるあかねをこのまま放っておくと命取りになるとも限らない。彼女の身に何かあれば俺は…。
 背に腹は代えられない…俺はぐっと拳を握り締めた。



 後編へつづく



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