◇紫陽花幻想(後編)


 山中で過ごしたたった一泊。だが、乱馬の足取りは来たときとは確実に違っていた。
 軽やかで明るい。後ろにはさっきぼこぼこにのした父がブツブツ言いながらついてくる。
 不思議とすっきりとした気分だった。今ならあかねにも自分の気持ちにも素直になれそうな気がした。
『もう半分を持つあなたの許婚を…愛している彼女を大切にしてあげなさい…。』
 耳奥で、消えた女性の声がこだました。懐に大切にしまった石の欠片。その辺りが暖かい気で包まれているような感じがした。
『この石はねそれぞれの相手がお互いを強く想うとき、惹かれあうように輝きを増すの。』
 確かに彼女はそう言った。
 帰りがけの電車の中で、惰眠を貪る父を横目に、大切にしまっていた石を取り出して掌に乗せた。石は美しく光っている。あかねが自分を想っていてくれるのか。それとも自分の想いに反応しているのか。
 怒ったあかねのふくれ面が頭を過ぎった。
「帰ったらきちんと謝ろう…。不義理した分、優しくしてやろう…。」
 そう心に決めていた。


 しかし、彼を取り巻く環境はそう甘くない。
 清々しい気分で駅に降り立って、行き慣れた通い路を歩いていると、招かれざるものが現れる。こんなときに限って会いたくない者に出くわす。
 
「乱馬ーっ!修行の帰りか?丁度よかった…。誘いに行く手間が省けたね。私とデートするね!」
 自転車に乗ったシャンプーだ。

彼女の強引さは天下一品。多分、今一番出会いたくない相手のナンバーワンだろう。
「え、遠慮しとく…疲れてんだっ!」
 叫んでみたとて引き下がるような相手ではない。
「ダメね…。もう決めたね!」
「決めたって言われても…。」
 そこへいつもの水掛ばあさんが打ち水を打っていたからたまらない。あの婆さんの打ち水も充分凶器になる。気配がないのだ。いつも突然玄関先から道路に向って水を放つ。
 頭から水をかけられて、乱馬もシャンプーも途端、それぞれの呪いの体型へと変化する。
「ぎゃーっ!ねこーっ!ねごーっ!!」
 案の定らんまは猫になったシャンプーを見て、理性を失い走り出す。
「たく…。やかましい奴じゃのう…。」
 後ろから足を引きずっていた玄馬が呆れたような声を出した。

 何処をどう駆け抜けたのか…。
 おそらく帰巣本能が無意識に働いたのだろう。
 らんまは一目散に天道家へと駆けていた。背中にはへばりついてニャンニャン鳴いているシャンプー。いくら走ってもおりようとしない。
「いやだーっ!!猫、嫌いっ!怖いのーっ!!」
 猫への恐怖が乱馬を駆り立てる。
「あら、乱馬くん、お帰りなさい。」
 天道家の門を潜り抜けると、庭先で箒を持っていたかすみが声をかけた。

 あかねは庭先が賑やかになったことに気が付いた。
 窓から下を覗くとらんまが駆けている。背中にはシャンプー。
「もう…。何やってるのよ…。」
 半ば呆れながらあかねは階下へ下りるべく自室を出た。そして階段へと歩みだした。結果的にはそれがいけなかった。
 トントンとあかねが階段を下りるのと、血相を変えてらんまが階段をかけ上げって来るのは殆ど同時だった。猫に過剰反応して理性が吹き飛んでいたらんまは、勢い余ってあかねの方へと身体ごと突進していった。
「え…?あっ…きゃーっ!!」
 あかねの戸惑いは悲鳴へと変わった。避ける間もなくあかねはらんまと衝突して、足元から階下へと崩れ落ちた。
「あかねっ!」
「あかねちゃんっ!!」
 それぞれの悲鳴がこだまするのをあかねは意識の下で聞いていた…。


 気が付くと見慣れた東風先生の優しい顔が浮かんでいた。
「やあ…。気が付いた?派手に転げ落ちたんだってね。」 
 見渡すと天道家の面々が心配げにあかねを覗き込んでいた。その一番後ろに乱馬がいた。
「あの…あたし…。」
 そう言いかけて腰辺りに鈍痛が走った。
「あ…。ダメだよ、まだ動いちゃ。頭は打たなかったけど、衝撃で軽い脳震盪を起こしたんだよ。それに受身を取り損ねて少し腰を打ったみたいだから…。」
 東風先生は丁寧にあかねに説明してくれた。
「僕に任せておけば大丈夫だから…。今晩はここに泊まっていきなさい。」
 あかねは黙って頷いた。
 家族たちに囲まれて乱馬は視線すらあかねと合わせようとしなかった。己の責任であかねに怪我まで負わせてしまった。その気負いが彼にはあったのかもしれない。幸い大事には至らなかった…。シャンプー(猫)に心を奪われていたとはいえ、情けがなかった。
 あかねとて同じだった。喧嘩別れをしたままの乱馬に心を開ける筈もなく、家人の前でじっと横たわる自分が惨めだった。
 似たもの同士の彼らは、交わらない平行線を描いたままそっぽを向いていた。
「心配かけてごめんね。私は東風先生がいて大丈夫だから…。帰っていいよ…。」
 力なくあかねはベットから声をかけた。
 安心しきった天道家の人たちはあかねをそのまま東風接骨院へ残して立ち去った。

 その後あかねは夢を見た。
 母の夢。
 二人の姉も父もいる。今在る世界に母が居た。当然ずっとそこに居たかのように母は微笑む。五人家族。平穏な天道家。
 居候たちもいない。当然乱馬もいない世界。穏やかでのんびりとした空間が広がる。茶の間に紫陽花が生けられている。
「紫陽花…。綺麗だね…。」
 あかねが問い掛けると母はにこにこ笑っている。
「でも、紫陽花の花言葉って「移り気」だの「心変わり」だのいい意味じゃないじゃん。」
 現実主義のなびきが口を挟む。
「紫陽花は培われる土の質によって花色が微妙に変化するんですもの。そんな花言葉になるのも仕方がないわ。」
 かすみが答える。
「それで七変化っていう別名があるのね…。」
 あかねは答えた。
「土によって変わる花色。それに、つぼみから花がだんだんに変わってゆく色。どちらも紫陽花の魅力ですものね。」
 かすみが言った後にあかねが続けた。
「人の心は紫陽花のように変わってゆくのかしら…。人を想う気持ちも…。」
 あかねは儚げに言った。

「それはあなたたち次第よ…。」
 静かに聴いていた母が口を開いた。穏やかな声だった。
「人を愛する心も、慈しむ心も、憎む心も、全てあなたたち一人一人の心次第よ。」
 母の穏やかな顔はだんだん遠くなる。

「お母さん?」
 あかねはぼんやりと霞みはじめた母の陰影を追って声を上げた。

「あかね…。幸せも不幸もそれはあなたの心の中に宿るの。いつかあなたも心から愛せる人に出会うわ。ううん、もう出会っているわね…。紫陽花石のお伽話の二人も、不幸ではなく、当人たちにとっては幸せな結末だったのかもしれない。この世で添い遂げられない愛でも、出会ったこと事体が大いなる幸せだったのかもしれないもの。不幸だったって決め付けられない。あなたたちの父さんと私が出会ったことだって…。出会えたからこそあなたたちが居る。私の身は朽ちても、私が残したあなたたちはここでこうして生きている。その石の光のように、いつまでも輝き続けるわ…。例え二つに割れても、その石の持つ神秘な力は変わらない…。いいえ、多分、その石の持つ自らの力で割れたのよ…。だから、落ち込まなくていいの。それから、あかね…。もっと素直になりなさい…。あなたの傍に今共にある温もりを決して失わないように…。私はいつもあなたたち姉妹のそれぞれの心の中で見守っているから…。私たちの血を継ぐ全ての者たちを…ずっと…。」

 母はそう言うと白い紫陽花の中へと吸い込まれて消えてゆく。

「お母さんっ!!」

 心からそう叫んであかねは目覚めた。
「夢…。」
 見開いた病室の天井を見上げてあかねが吐き出した。母の面影は消えてしまった。その虚しさが自分を襲ったとき、ふと気配を感じた。
 誰も居ないと思っていた病室。東風先生が来たのかと顔を上げると、一人の少年が佇んでいた。
「乱馬…?」
 窓際に添えられていた紫陽花の花が窓から吹き込む風に揺れた。微かに含む雨の匂い。
「紫陽花…。道場脇に咲いてる木のだよ…。かすみさんがおまえの着替えと一緒に持っていってくれって…。」
 歯切れが悪そうに乱馬が言った。眠っているあかねに気付かれないように部屋へ入ってそっと出てくるつもりだったのに、あかねが目覚めた。
「起こすつもりは無かったんだ…。ごめん。用が済んだから俺は帰るよ…。早く良くなれよ。みんな心配してるんだから…。」
 乾いた口先でそれだけをやっと言い含めた。そして、その場から逃げるように立ち去ろうとしたとき、あかねが乱馬の手を引いた。

「行かないで…。一人にしないで…。」

 一人はもう嫌だと思った。母の幻影に、平常心を乱されたのだろうか。素直に口を吐いて出た言葉だった。

…泣いてる。

 乱馬の動きはそこで止まった。己を掴んでいるあかねの手は微かに震えている。

 病室の白いカーテンが大きく風に揺れた。
 冷ややかな空気と同時に舞い込む雨の匂い。途端、雨が降り始めた。
 激しい雨足が窓の外を唸る。全てを飲み込んでゆく雨の絶唱。

 あかねの手は乱馬を掴んで離れようとしない。細い指先から彼女の心の孤独が伝わってくる。
 頼りげない許婚を一人残してゆけるほど冷淡にはなれなかった。いや、むしろその逆だろう。
 乱馬の心の中に押さえつけていた情念が戦慄(わななき)となって膨らみ始める。普段は恥ずかしくて押し込めている熱情。一気に身体中を駆け抜けた。
 ともすれば暴走し始めそうな想いを堪(こら)えながら、乱馬は後ろを向いたままあかねの掴んできた右手を空いた手でそっと触れた。

「おまえは一人じゃねえ・・。俺がいるじゃねーか…。例えどんなに離れていても、心と心は繋がってる…。そうだろ?」
 背中越しに話し掛ける。振り向けばきっと、壊れるくらいあかねを抱きしめるに違いない。
「信じていいの?」
 あかねは確認するように乱馬に訊いた。
「俺が信じられねえか?それとも、信じたくねえのか?」
 乱馬の語気は強かった。暫しの沈黙が二人を包んだ後、乱馬はゆっくり振り返るとそっとあかねを抱き寄せた。
「信じてたらいいんだよ…バカ…。」
 その時初めて、愛しい者へ己の本当の気持ちを伝える術を見出したような気がする。
 戸惑いながらも、彼はその腕の中に、今在る真実を、愛してやまない許婚を静かに抱擁した。目を閉じると己の全身から優しさが気となって彼女の身体へ入ってゆくような感覚を憶えた。
 愛して止まぬ者。ずっと傍に居てやりたい者。いつか、永遠の愛を分かち合う者となるだろう。あかね。
 
 暫し息を潜めて、そこに在る想いを確かめ合った。身体をぴたりと寄せ合っているだけで充分幸せだった。くちづけも愛撫もない、静かな情熱。
 激しい雨音が緩む頃、二人は長い沈黙から目覚めた。

 乱馬はあかねの身体を自分からそっと離すと、懐から思う出したように石を取り出した。
「これ…。割っちまってごめん…。」
 紆余曲折の末、やっと口にした言葉だった。
 差し出された石は乱馬の掌で光った。
 あかねはじっとそれを見詰めた。
 そして、自分の懐からもそれと同じ物を取り出した。どうやら階段から転がり落ちたときもそれを持っていたらしく、いつの間にか病室まで持ちこんでいた。
 あかねの持つ石も穏やかに光を放った。まるで乱馬の持つそれに呼応するように…。

「きれい…。」
「ああ…。」

 二人は互いの掌の中で静かに光る石を交互に見詰めた。不思議な空間だった。
 穏やかな光はやがて大きく広がりはじめた。あかねの石からは赤味を帯びた光、乱馬の石からは青味を帯びた光。ピンクと青紫の大輪の紫陽花が花開くように輝きはじめる。
 二人は暫し我を忘れてその輝きに魅入られた。
 石から発する光はやがて二人を穏やかに包んだ。まるでその時を待っていたかのように…。
 膨らんだ光の輪の向こうに、一瞬、遠い絵空事の世界が垣間見えた。 乱馬が昨夜迷い込んだ紫陽花の園。千路に咲き乱れる花の幻影。

『この石はねそれぞれの相手がお互いを強く想うとき、惹かれあうように輝きを増すの。』
 乱馬の傍であの女性の声が木霊する。
『その石はきっと浄化されたくて分かれたのよ。…この石のもう半分を持つあなたの許婚を…愛している彼女をどうか大切にしてあげて…。』

『あかね…、忘れないで…。幸せも不幸もそれはあなたの心の中に宿るの。』
 あかねの傍らでは母の声がした。
『あなたの傍に今共にある温もりを、一緒に歩んでくれる愛しい人を見失ってはいけないわよ。そして、あなたも幸せになりなさい…。』

 乱馬とあかねがそれぞれの幻聴に呼応して穏やかに微笑んだとき、石が一瞬、同じ七色に煌めいた。
 そして、二人の掌の中へと溶け込んでいった。そう、確かに互いの体の中へと消えていった。

挿絵〜にーぼーさま作

 あたりに再び平穏な静寂が訪れた。
 二人は暫し、今しがた見た奇跡に言葉を発することはできなかった。
 開いた掌をどちらからともなく重ね合わせていた。

「浄化されたんだ…。紫陽花の涙…いやこの石は…。」
 乱馬はふっとそんな言葉を口にした。
「ねえ…。紫陽花の花言葉知ってる?」
 あかねがそっと乱馬に尋ねた。
「さあな…。俺にはそんなこと興味ねえしな…。」
「あのね…移り気とか心変わりっていうんだよ…。」
「そうか…。七色に変化するもんな…。でも…。花言葉なんて勝手に誰かがイメージしてつけたもんだろ?解釈も人それぞれあっていいんじゃねえか?」
 乱馬はじっと花瓶に生けられた紫陽花を見た。
「じゃあ、乱馬はどう思うの?」
「俺は、紫陽花の示す花言葉は、「人の心の移り気」じゃなくて…そう、「人の心の成長」だって思うぜ…。心は時を経て成長していくんだ…。紫陽花の色が変わるように…。恋も愛も…人としての在るべき姿も…。移りながら育ってゆく。だから、俺にとってのこの花の言葉は「成長」だよ。」
「乱馬らしいわね…。」
 あかねは笑った。
「だから…。紫陽花は悲恋の花じゃなくって…幸せに移ろう希望の花さ…。赤と青の二つの大きな花色があるように、赤はおまえで、青は俺の心の色の花さ…。だから石は二つに分かたれて、俺たちの身体へ入って消えたんだ。俺たちは石に選ばれたのかもしれねえ。この石に込められた祈りにも似た想いを後世へ伝える為に…。」

 そう言い終わると、乱馬の口はあかねのピンクの唇に触れた。その花の色の瞬間をいとしむように静かに重ねた。

 窓の外でまた雨が降り出した。
 さざめく雨足の響きは静かに二人の世界を包む。
 優しく、たおやかに影を落として紫陽花たちだけが永遠を刻む二人を静かに見詰めていた。



 完




一之瀬的戯言
にーぼーさまの旧サイト「PURE HEART」へ投稿させていただいた作品です。

我家には二年前に植えた紫陽花が今年初めて花をつけました。ピンク色の花。
奈良には「矢田寺」という別名「紫陽花寺」という見事な紫陽花園を持つお寺があります。そこのみやげ物やさんで売っている「紫陽花の金平糖」は食べるのが惜しいくらいきれいです。
私は紫陽花が好きです、花言葉は「移り気」「心変わり」とあまりよくないですが、乱馬くんに言わせた台詞が私の考えるところの紫陽花の言葉でもあったりします。
テーマはそこに置いたつもりなんですが…自爆気味ですね。
もっと心をえぐるような文章力をつけたいと思うこの頃…。

挿絵はにーぼーさまにつけていただきました。



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