◇紫陽花幻想(中編)
乱馬が出て行ってしまうと天道家は途端に静かになる。それと同時に、あかねは心にぽっかりと穴が開いていることに気がついた。
喧嘩相手が途中放棄して逃げ出したのである。何とも表現しがたい虚しさが胸に込み上げてくる。
Pちゃんを抱えたまま脱力していた。少し元気がないあかねをPちゃんは不思議そうに見上げるばかりだた。
手にした紫陽花石は半分に欠けている。
触ってみたが、こうも脆く割れてしまうものなのだろうか…。あかねはじっとそれを手の中で見詰めてみた。触る石は冷たくて綺麗だ。軽く爪を立ててみたが、傷などつく気配はない。コンコンと爪で弾いてみたが、簡単に割れるほどやわではなさそうだ。
…なんで簡単に割れちゃたんだろう。…
あかねなりに考察してみた。が、片割れがない以上、想像もできない。
…もう一つ、乱馬が持って行っちゃったんだろうか。…
そんなことをぼんやり考えた。
あれから、乱馬を部屋から追い出してから、方々を探し歩いたが、半分の欠片は見つからずじまいだった。割れてしまった石を接着剤でくっつけようなどという姑息な手段を取るつもりはなかったが、行方知れずになった片割れを探し出せなかった不甲斐なさが残っている。
乱馬に訊こうかとも思ったが、牙を剥き出した以上、なんだかそれも気が引けた。
中途半端に穴が開いた心。乱馬が帰ってくるまで持て余すのだろうか。Pちゃんを膝に抱きながらあかねはぼんやり考えた。
かすみが見兼ねてあかねの部屋へ入る。
この天道家の長姉は、あかねの様子がいつもの喧嘩時より沈んでいるのを的確に感じ取っていた。
「あかねちゃん…。いつもの元気がないわね…。どうして乱馬くんと喧嘩になったの?」
こそっと喧嘩の原因を尋ねた。あかねは黙って紫陽花石を差し出した。
「これは…。お母さんの形見の石ね。」
「乱馬が割ってしまったのよ…。」
「そうだったの…。」
母の形見の紫陽花石。あかねが昔から欲しがっていたことをかすみは知っていた。母が亡くなって形見を分けたとき、あかねは真っ先にこの石を所望した。輝く石は幼いあかねの心を揺さぶるほど魅力的だったのだろう。
母の面影が遠くなっても、石はあかねの元できらめいていた。死んでしまった母との会話を楽しむように、あかねは寂しさをこの石で紛らわせてきたようだ。
「この石ね、父さんが母さんにあげたことは知ってるわよね…。」
かすみは問うた。
「うん…。そんなこと、お母さんが言ってた…と思う。」
「この石、ずっと天道家に伝わってきた石なんですって…。」
「うちに?」
「ええ…。私も良くは知らないのだけれど、天道家の女性にずっと代々伝えられてきた石なんですって。」
「ふうん…。うちに伝わって来た物なのかあ。」
あかねは欠片を見つめながらそう言った。
「なんでも、うちのご先祖様の中に戦乱に巻き込まれて非業の最期を遂げた女性が居てね、その墓に落ちていた石を天道家の安泰を祈って家宝にしていたって…。多分、その石のことだと思うのよ…。」
昔話は母から聞き及んでいたが、そんな詳しい話を聴くのは初めてだった。
「そう…。家宝だったの…。この石。」
それなのに割れてしまった。なんて罰当たりなことをしたんだろう…。あかねは、ますます気持ちが沈んでいくような気がした。
その様子を見て、薮蛇だったかなと思うかすみだった。
一方、乱馬。
彼もまた同じような宙ぶらりんで修行へ出た。
「何雑念ばかり思い描いておるっ!修行に集中しろっ!」
と父に叱られるくらい、半端な心を引きずっていた。二泊ばかりの山篭り。学校の休業日を利用した修行。
いつものように、テントを背負い、父と二人で入る秩父多摩の山並。梅雨特有のくすんだ空気が身体にのしかかる。都心と違うのは、その空気が少しばかり冷たいくらいだろうか。
降りこめる霧雨は容赦なく乱馬を女へと豹変させる。父親はパンダだ。この風変わりな親子はそんなことに気も留めず、身体と身体をぶつけて身心を鍛える。
父が言ったとおり、今回の乱馬は精悍さに欠けていた。いつもは貪欲に立ち向かて来る彼だったが、気迫に欠けていた。ともすれば、拳が途中で空を切り止まってしまう。
「やめだやめだっ、もう止めだっ!乱馬。いつもの切れの良さがないじゃないかっ!そんなことで早乙女流の二代目が勤まるとでも思っているのか!」
テントでお湯をかぶると父は乱馬に喝を入れた。不甲斐ない動きの息子に激怒する。
「少し、山の精気にあたって、気を鎮めて来いっ!何しにここまで来たのか、わからぬではないかっ!父はここで修行する。おまえはあっちへ行って、一人で雑念を断ち切って来いっ!今晩は違うところで野営を張ろうぞ。」
そう言って乱馬を自分から遠ざけた。こんなことは珍しい。
言われたまま、乱馬は自分の荷物を背負うと、少しばかり父親から離れた処へと移動した。
集中できない自分の半端さを悔いる。
その途中、乱馬は紫陽花が美しく咲いている場所を見て通った。その辺りだけびっしりと埋められた群生した紫陽花。
…こんな山中になんて美しく咲いているのか。
その場所だけ他とは違うような冷気が立ち込めていた。乱馬は暫し足を留めてしまった。
鮮やかな青紫が山の緑に栄えて美しく大輪の花を誇らしげに咲き乱れる。この世のものとは思えぬくらいの幻想的な光景。
ふとあかねの横顔を思い出す。
…いけねえっ!集中しねえと…。
ぶんぶんぶんと首を振ると、乱馬は更に奥へと進んで行った。
少し広い場所へ出た。寝る場所を確保してテントを張る。近くに湧き水があり、飲み水には困らない。さっきまで降っていた細かい雨も今は上がった。薪を集め、火を焚いて彼もまた最初に男に戻った。
「ちぇっ!何をうじうじしてるんだ?俺は…。」
パンパンと頬を叩くと、乱馬は気合を入れなおした。
そして、溜まった雑念をなぎ払うように、身体を動かし始めた。
飛び散る汗と激しい動悸。目の前にある山を感じ、その中に身を浸して精神統一を図る。雑念があるのなら、それを無くすためには激しく動き続けるしかなかった。今はあかねとのいきさつを忘れたい。その一心だった。
いつの間にか日は傾き夕闇が近くなっていた。山の日は短い。ようやく乱馬は動きを止めた。身体のあちこちに、石や木屑でできた小さな傷がある。それほど激しく動いていた。流れる汗で身体はべっとりとしている。
何故、自分から流れ出た汗で女に変身しないのか。いつも乱馬は不思議でならなかった。それほど汗浸しになっていた。
持ってきたレトルトのインスタント食品を火にくべると、乱馬はほっと一息吐いた。いつもの数倍、心身ともに疲れているような気がした。
「もうし…。そこのお方…。」
後ろで声がした。
はっとして振り返ると、こんな山にはそぐわないような着物を着た女性が立っていた。髪は長く後ろに靡かせている。良く見るとあかねに似ている。そう、髪の毛をばっさりとやるまえの、出会った頃のあかねに似ていると思った。が、良く見ると別人だとわかった。
「何か…。」
乱馬は怪訝そうに女性に尋ねた。
「紫陽花を摘みに来て少しばかり道に迷ってしまいました。紫陽花の花が咲いている場所をご存知ないですか?」
「紫陽花?」
乱馬は来がけに群生していた紫陽花を思い出した。
「紫陽花なら、この先に咲いていた場所があったな…。」
乱馬がポツンと言うと、
「良かった。こちらにあるんですね…。あの…。わがまま言って申し訳ないんですが、私をそこまで連れて行っていただけないでしょうか…。」
「あ…。別にかまわねえけど…。」
こんな山の中にこんな女性がいるなんて、普通に考えると変なことだったが、乱馬は別段不思議にも思わなかった。修行疲れからか思考力が欠落していたのだろう。
「こっちだぜ…。」
先に立って歩き出す。
山道は薄暗く足元がおぼつかない。女性は慣れたもので乱馬よりともすれば楽に道を進んでいる。
情けないが乱馬の方が木の根っこにつまづいて転びかけた。
「あ…。」
咄嗟に近くの木に手を付いたので惨めな転び方こそしなかったが、正直言って危なかった。
「大丈夫ですか?」
女性の方が余裕で話し掛ける。
「え・・。ええ、まあ・・。」
照れ隠しに頭を掻く。と、前に懐から転がったものが一つ。
「いっけねえっ!」
乱馬は慌ててそれを追った。それはコロコロと転げて少し先で止まった。
ふうっと一息ついて、乱馬はそれを右手で拾い上げた。
「何ですの?」
女性がふっと後ろで覗き込んだ。
「あ…。いや、只の石っころです。」
乱馬はそれに付いた土くれを指で払いのけながら答えた。
只の石ころ…そう表現したものの、勿論彼にとって意味のないものではない。それはあかねの部屋で踏み付けて割ってしまった紫陽花石の片割れだった。丁寧に埃を払う。
女性はそれに興味を惹かれたらしく
「少し私に見せてくださいな…。」
と乱馬に懇願した。
断る理由もなかったので、乱馬はそれをそっと女性に差し出した。
女性はしげしげとそれを眺めた。
「これは、紫陽花の涙ですね。珍しい…。」
そう呟いた。
「紫陽花の涙?」
「ええ…。この辺りに残る伝説に基づいた石なんですよ。由来をお話して差し上げましょうか。」
女性はそれを乱馬に返すとそう言って寂しそうに笑った。そして、道すがら彼女は戦国時代に起きた悲劇を語り始めた。
「もう、何百年も前のこと、この辺りを納めていた領主の話です…。」
乱馬は黙ってその話に耳を傾けた。女性は淡々と昔語りをした。まるでそこに己が立っていたような臨場感があり、そんな昔話など信じる乱馬ではないのに、ぐんぐんと引き込まれていった。乱馬が聴いた話は大方あかねが母から伝え聞いたのと同じであった。
ただ違うのはその結末。女性が言うには結局、若君と紅姫は二度と再びこの世で会うことは叶わなかったということ。姫は若君の骸(むくろ)を見つけてそのまま樹海へと消えたということ。そして人知れず朽ち果てたという。
「彼らの朽ちた骸の上に紫陽花が生えて、この季節になると見事に咲き乱れるのです。その紫陽花の下には彼らの流した涙が染みて美しい石が輝いていたそうな…。」
「へえ…。その紫陽花の涙って石は宝石か何かなの?」
乱馬は最後まで聞き終わると素朴な疑問を女性に投げかけた。あかねの持っていた石はこつんと真っ二つに割れてしまった。石なのか宝石なのかそれとも全く違うものなのか。彼なりに疑問を持っていたからだ。
「さあ…。わたくしも材質など詳しいことはわかりません。昔はたくさん取れた石も今では取れなくなりました。七色に光るその紫陽花色の光。紫陽花の涙と呼ばれるものでしょう。ほら、私も持っているのですよ。」
そう言うと女性は自分の懐から大切そうに乱馬の持つ石と同じ輝きの石を取り出して見せた。
「うわーっ!綺麗だ…。」
乱馬は女性が手にした自分の石の三倍はあろうかという大きさはさることながら、その輝きの美しさに暫し見惚れた。
「あなたはどうしてそれをお持ちなの?」
女性は微笑んで彼を見詰めた。
「いや…。これ俺んじゃなくて…。あかね…、あの、俺の許婚の持っていた石なんです。俺、これを踏んづけて割っちまって…。」
「あなたも許婚がおありなのね…。」
女性は乱馬に向って嬉しそうな顔を手向けた。
「許婚はあなたのことを愛していらっしゃるの?」
「え?…。さあ…。どうかな…。あいつ、素直じゃないし、いつだって俺に絡んで喧嘩を売ってくるし…。これだって謝ろうとしても取り付く島も与えてくれなくて…。」
乱馬がつい愚痴ってしまったのを女性は笑いながら聴き入った。
「でも、あなたは彼女を愛してるのね…。」
乱馬の顔に赤みが差した。言葉で答えなくてもわかる。
「あなたは正直なのね…。」
女性はころころと鈴を転がすように笑った。
「大丈夫、彼女もあなたのことを思っているわ。ほら。きらめくように輝いている。この石はねそれぞれの相手がお互いを強く想うとき、惹かれあうように輝きを増すの。ほら、あなたの石もこんなにきれいに光ってる。きっと分かたれた彼女の石も光っているわ。」
そう言いながら女性は乱馬の石を見詰めた。
乱馬の手の中でそれはきらめくように輝いている。柔らかく暖かみのある光りだった。
「その石はきっと浄化されたくて分かれたのよ。…この石のもう半分を持つあなたの許婚を…愛している彼女をどうか大切にしてあげて…。そうすれば石は浄化される…。」
風が唸った。
山鳴りのように、ざざざっと木立を揺すりながら。
辺りに静けさが戻ったときには、女性の姿は消えていた。
彼女が消えた後に紫陽花が群生しているのが見えた。
それは幻想的な優美な世界。息を飲むほど美しかった。薄ら明かりの中に浮かび上がる大輪の花々。幽玄様の花の園。その向こうにさっきの女性が佇む。長い髪を靡かせて、あでやかな着物を着ていた。 その隣には鎧で固めた若き武者が一人。遠く霞む霧の奥へと消えていった。
「くおらっ!馬鹿息子っ!こんなところで寝ていたら風邪をひくぞっ!」
父、玄馬のがなる声で目が覚めた。
「え?親父?紫陽花の園は?姫君は?」
思わす発した声にポカリとやられた。
「寝ぼけるなっ!未熟者っ!」
人心地が戻り辺りを見回すと、すぐ近くに自分が張ったテントが見えた。
…随分山道を歩いていたはずなのに。
そう言おうとして止めた。そんなことを口にすれば、また、父に拳骨を食らうのが落ちだろう。
「たく…一晩何をやっておったんじゃ?おまえは…。」
どうやら疲れてそのまま眠っていたらしい。日は昇り、新しい朝がきていた。梅雨の中休みといったような六月には珍しい上天気。木立から木漏れ日が差していて、上空には青い空が広がる。
…俺は夢を見ていたのだろうか…。
それにしては生々しい夢だった。ふと懐に手をやって、石を取り出してみた。石は美しく七色に輝く。
ふと目を横にやってはっとした。テントの少し先に紫陽花がひっそりと咲いていた。花房をたわわに揺らせながら。朝露に濡れて。
その下には小さな祠があった。
…さっき見た夢はこの祠の主たちだったのかもしれねえな。
そう思うと合点がいった。誰が祀られているのか。小さな祠は紫陽花の下で静かに佇んでいた。
「ほら、今回は成果が上がらぬようだから、早々に下山することにしたぞ。さっさと支度せいっ!」
玄馬がテントをたたむと、荷作りし始めた。
「ぐずぐずするなっ!」
「お、おうっ…。」
乱馬は言われるままに荷に手をつけ始めた。
「ん?」
そして傍らにまた目をやる。そこにはレトルトのパックが散らかっていた。
「これって、俺の分の食料…あーっ!親父っ!てめーさては、食いやがったなっ!!」
「さて何のことかのう…。」
そそくさと逃げようとした玄馬に乱馬は言葉を投げる。
「とぼけんなっ!このヤローっ!!」
山中に早乙女親子の声が元気に木霊する。
紫陽花はやれやれというように大きく花を上下した。その花先から美しい朝露の雫が祠へと滴り落ちた。
つづく
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