◇紫陽花幻想(前編)


 梅雨特有の湿っぽい空気の底。流れた汗がじっとりと身体にはりついて渇かない不快さ。それらを肌で感じながらあかねは修行から上がった。
「こう雨ばかり続いちゃたまらないわね。たまには太陽の光が拝みたいわ。」
 傍らで瞑想に入った逆さ状態の乱馬の耳に入るように言葉を投げた。
「梅雨だってなかったら田んぼの稲だって育たねえからなあ…。米が食えなかったら大変だろう…。」
 逆さで組んだ座禅を保ちながら乱馬が返答した。
「あんたって、こういうときも食べ物の話ね…。」
 あかねは苦笑しながら道場を出た。

 外へ出るとつんと雨の匂い。庭先には額紫陽花が美しく姿を映している。雨に栄えて大輪の花を誇らしげに咲かせていた。
「紫陽花か…。」
 あかねはタオルで汗を拭いながら母屋へ続く長い廊下を通り抜ける。
 紫陽花。母が好きな花の一つだった。梅雨になると玄関先の水盤に上品に生けられた庭先の大輪の花。
 シャワーを浴びて着替えるとあかねはふと思い出したことがあって、二階へと上がった。自室に篭ると、ごそごそと机の引き出しを漁る。
「あった…。」
 あかねはそれを見つけて微笑んだ。小さな小箱に大事に入れられたキャンディーくらいの塊。「紫陽花石」と彼女は呼んでいた。赤や青、紫、ピンクと見る位置の光加減で違う輝きを放つ小石だった。あかねにとっては母の形見の一つになる。
 その石を時々出してきては亡き母の面影を追う。
 ベットに沈んでその石を透かしてみた。淡く光る輝きは七色に変化する。
 色がころころと変わることから母はそれを紫陽花石と呼んでいた。
 目を閉じると母が傍にいるようなそんな錯覚さえ覚える。瞼の裏の母はいつも穏やかに微笑んでいる。


「ねえ、その石、どうしてそんなに色が変わるの?」
 小さなあかねが背中越しに覗き込んで母を見た。
「さあ。どうしてでしょうねえ。母さんも詳しいことは知らないのよ。」
 母は小さく笑う。
「そのきれいなお石、どうしたの?」
「これ?父さんがね、結婚する前にくれたのよ…。山で修行をしていたときに、ある人から貰ったんですって。」
 はにかむように笑った母。

 きっと、二人のロマンスがこの石の光には込められているのだろう。
 父はこよなく母を愛している。早くに先立たれても、決して母以外の人と再婚をしようとはしなかった。まだ小さかったから詳しくは知らなかったが、良く居るお節介な親戚の人が、子供に母親がないのは不自由だろうと、当初はいろいろ縁談を持ち込んできたらしい。しかし、頑として父はそれを受けようとはしなかった。多少の不自由はさせますが、家族四人で暮らしていきたいですからときっぱりと言ったらしい。
 そんなこんなで、最初はかしましかった親戚たちも、釣書を持って来なくなって久しい。

「この石にはね、伝説があるんですって…。」
「でんせつ?」
「そう、お伽話みたいなものね。」
 母は屈託なく笑って幼いあかねにお伽噺話を聞かせてくれた。
「昔むかし…。そうね、あかねが生まれるずっとずっと前。もちろん母さんも父さんも、そのまたお爺さんもお婆さんも生まれるずっとずっと前。まだちょん髷を結っていた時代の話。」

 戦国時代に遡る。
 その頃日本は動乱に満ちていて、同じ日本人同士、要らぬ戦いを繰り広げていた。少しでもいい領土を勝ち取ろうと、侍達は躍起になり、領地内に住む百姓や領民たちの事など知らぬ顔で戦いに明け暮れた。
 長い戦乱の世は、田畑を耕す民達の生活を締め付けた。次々と戦場と化す荒れ野原。
 そんな時代にあって、身分が高い人たちの男女の仲といえば「政略結婚」。親の言いなりになって親にあてがわれた人と縁を結ぶ。結婚相手の顔も名前もわからぬままに、女性は輿入れさせられる。それが当たり前の時代。家を守るため、彼女たちは進んで見知らぬところへと嫁に入った。
 紅姫(こうひめ)もその一人。幼き頃から隣の領主の息子に漉し入れさせられることが決まっていた。物心がつくかつかぬかという頃にもう相手は決まっていたのだ。普通は輿入れまで相手と会うことはない。が、先に彼女は出会ってしまった。
 たまたま忍んで出かけた城下で出会った一人の青年。
 お互い身分を隠した上での戯れごと。十日市という縁日が立つ日に街角で出会った。
 町娘の身なりをして身分を隠したところで、紅姫は器量良しだったから、どことなく男たちの興味を誘う。時代が時代だから、一端城下を離れれば無法地帯。いくら共の者を連れていたとしても、街の愚連隊どもが集まれば危うくなる。相手は金と女に飢えたような連中だ。あっという間に囲まれて危機に陥った。
 それを助けたのが隣国の城主の若君。凛々しい顔立ち、精悍な剣さばき。あっという間にのしあげてしまった。彼が自分の許婚と知ったときの紅姫の驚きようはなかった。親が決めていた相手とはいえ、そのまま一目惚れ。お紅だけではなく、かの若君も彼女の美しさに惹かれた。二人が深い恋仲になるには左程時間はかからなかった。
 しかし、戦乱の世はどう転ぶかわからない。
 幸せな未来を約束されていた筈の彼女の周りに不幸が襲った。
 得てして女子供は家の犠牲になる。彼女もまた、政治的駆け引きの道具として使われることになった。そう、彼女の親が隣国と取り交わした約束を反故してしまったのだ。弱い立場の国は食われてゆく。それが運命の渦だろう。彼女の結婚相手はいきなり変更され、有無も言わされずに嫁ぐことになった。
 運命と諦めるには、彼女は恋に溺れすぎていた。
 自ら城を抜け出ることを選んだ。
 彼女が見たものは…隣国の惨状。力のない国はいつも悲惨な戦火に煽られる。精悍な彼がいたとて、一人では及ばぬもの。かの国は変わり果てていた。彷徨いながら必死で戦火の中で彼を探した。狂ったように叫びながら探し回る彼女に、誰も声をかけなかった。呼び止めるのも躊躇うような鬼気が彼女を取り巻いていたのだろう。まだ燻る煙の向こうに、変わり果てた彼の姿を見出したとき、紅姫は我が身を省みず駆け寄った。
 虫の息の下の最期に出会えた恋人。彼は彼女の腕の中で果てたという。本望だったのだろうか。
 平和な世の中でさえあれば、何不自由なく穏やかに愛情を育めた筈の二人。紅姫は若君の亡骸を抱えて奥山へと深く入った。そして、誰知るともなく、彼の遺体と共に果てた。自然な死を選んだのか、自害して果てたのか定かではないが、旅の法師が見つけた亡骸は微かに微笑んでたという。法師は二人を手篤く葬り花を手向けた。二人の墓のある山には山寺が開かれた。そして、二人の墓の傍にいつか紫陽花が自生して増えた。その紫陽花の木の下に置かれた石が、長い年月を経て、綺麗な光りを帯びはじめ評判を呼び始めた。なんでも「縁結び」の効力があるという。いつかその石はすっかり削り取られ、今は殆ど残っていない。

 嘘か誠か…。真意の程はわからないが、母から聴いた紫陽花石の昔お伽話は切なかった。絵本の世界の昔話やお伽話は決まってハッピーエンドが多い。主人公たちが死んでしまう展開は幼心に強烈な印象が残った。

「死んじゃった二人はどうなったの?幸せにはならなかったの?」」
 屈託なく訊く幼いあかねに母は答えたものだ。
「この石の光になって、これを手にした人が幸せになるように見守ってくれているのよ…。きっと」と。

 ベットに仰向けになって石を透かしてみると、耳の奥にそんな母の囁きが聞こえてくるような気がした。

 と、がたた…と激しい音が廊下の方でした。
 何事かと思う間もなく、ドアがバタンと開いた。
「てめえー待ちやがれっ!」
 乱馬の怒鳴り声と共に、入ってきた黒い塊。
「Pちゃんっ!」
 あかねが目を輝かせる。Pちゃんは乱馬を振り切ると、当然のようにあかねの胸に飛び込んでくる。
「あーっ!汚ねえぞっ!P助っ!女の胸に逃げやがってっ!!」
 乱馬が入るなり叫んだ。
「何よっ!あたしのPちゃんをいじめないでよっ!」
 突然乱入した無法者に向ってあかねが叫んだ。
「たく、おめえは黙ってろっ!これは俺と良牙…いやその…。」
 乱馬の語尾は小さくなった。Pちゃんが実は良牙だということはあかねには内緒だったからだ。
「何処に良牙くんがいるっていうのよ!」
 あかねが言葉を投げ返すと乱馬はじっとPちゃんを見ていた。
 あかねの胸の中でPちゃんが舌を出してベロベロした。
「てめえ…。畜生っ!人が黙ってると思ったら…くそっ!我慢ならねえっ!」
「ちょっとやめなさいよっ!人の部屋でっ!」
 激情した乱馬を止めることはできなかった。乱馬があかねの胸からPちゃんを引っ剥がそうとするとPちゃんは当然抵抗する。
 その時だった。あかねの胸元から紫陽花石が床に落ちた。あっと思う間もなく、乱馬がそれを見事に踏みつけてしまった。
 何か踏んづけた違和感に思わず乱馬が足の裏を見た。続けざまにあかねの視線がそれを捕らえて固まった。
「あたしの紫陽花石っ!」
 あかねがそう叫んだときは既に遅し。紫陽花石は真っ二つに割れていた。
「あたしの石がっ!!」
 悲鳴とも怒声とも分かたぬ声であかねは叫んだ。
 Pちゃんも一緒に固まった。
「ご、ごめん。割っちまったみたいだな…。」 
 流石にまずいと思ったのだろう。乱馬は石を拾い上げると咄嗟に謝っていた。
 一瞬放心したあかねは、乱馬の方を向き直ると、思い切り右手で平手打ちを食らわしていた。
「乱馬のバカーッ!!」
「いってーっ!何しやがるっ!」
 思い切り往復ビンタを食らった乱馬はきっとあかねを見据えた。が、その瞳から涙が流れ落ちるのを見て、それ以上何も言えなくなってしまった。
 Pちゃんが乱馬に前足のヒズメで蹴りを食らわせ続けた。
「出てけーっ!!」
 あかねの怒鳴り声が家中に響いて、乱馬は部屋を追い出されてしまった。

 無残にも真っ二つに割れた母の形見。あかねの手元には半分になった塊の新しく割れた面がきらきらと光っていた。
 そしてもう半分は乱馬が握りしめたままだった。

それからあかねは乱馬と一言も口を利こうとしなかった。
 夕食の団欒も、ずっと押し黙ったまま箸を進める。家族たちもまたかというような顔をしたきりで、それ以上干渉もしなかった。この二人の喧嘩は日常茶飯事。

「乱馬くん…。何やったのよ。」
 不機嫌なあかねを見送った後で、なびきが乱馬に尋ねた。
「別に…。」
 乱馬も不機嫌に答える。
「早いことあかねちゃんに謝ったほうがいいわよ、乱馬。」
 母親ののどかもやれやれというような目で乱馬を咎めた。
 乱馬とてそれは百も承知だ。今回の件は己が百パーセント悪いことがわかっている。ちゃんと三つ指をついて謝るべきだということは良くわかっているが、取り付く島もあかねは与えてくれない。おまけに彼女の元には今、Pちゃんがべったり張り付いている。
 そんな状態では乱馬も素直になることなど到底無理だ。
 乱馬は手の中にさっき割った石の片割れを握り締めていた。
「乱馬…。明日と明後日は山へ篭るぞ。付き合えよ。」
 唐突に茶をすすっていた玄馬が言った。
「ほお…。早乙女くん、また修行かい?熱心だなあ…。」
 早雲が脇で答える。
「この辺りでビシバシと身体を鍛えておかぬと、梅雨の毒気で身体がなまってしまうわいっ!」
 玄馬が笑う。
 乱馬は父親の申し出がありがたかった。この様子だとあかねは二、三日は機嫌が悪いだろう。やいそれと口を利いてくれそうにない。一度ヘソを曲げてしまうと、あかねは手ごわくなる。
 そんな彼女と同じ屋根の下で過ごすには気分が重すぎる。父の修行宣言は天の恵みだとほっとした。逃げる口実ができたとばかり喜ぶ自分が情けないとは思ったが背に腹は変えられない。
 父の申し入れに、いつもは何かと嫌な顔をするのに、
「おっし…。今回もこてんぱんにやり込めてやるから覚悟しろよ、親父。」
などとすぐさまGOサインを口に出していた。

 修行が明けて帰ってくれば、あかねの気分も、少しは和らいでいるだろう…。なぜ、自分がこうまで彼女に気を回さねばならぬのか、ちょっとばかり理不尽に思えるところもあったが、後ろめたさがそんな気持ちを相殺していた。
 
 それでも流石に気が引けたのか、夜ともなるとあかねの部屋の周りを行ったり来たりの乱馬であった。が、しかし、終ぞ自分から彼女の部屋をノックすることはなかった。

 太陽が昇ると逃げるように、乱馬は石を持ったまま父と共に修行へと出かけていった。

 二つの心はすれ違ったまま…。



つづく



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