◇梅の嵐  前編



 二月十四日。バレンタインズデー。
 女の子たちはこの日を目指して、いろいろと計画を練る。慣習化してしまった甘い恋の駆け引きの一日。
 あたしだって、その範疇外ではない。
 一人のターゲットの心をきちんと捉えて、こっちへとしっかり惹きつけたい。でも、それはなかなか容易いことではなかった。何故なら、あたしもそいつも凡そ「素直」という言葉からはかけ離れた性格をしていたからだ。おまけに意地っ張り。
 朝から渡したいチョコレートを握り締めて、幾度となく機会を伺う。
 この期に及んでも、公衆の面前で手渡すなどという恥かしいことは出来ずに居た。我ながら情けないと思うが、きっと敵も、堂々と受け取ることはしないだろう。天邪鬼同士の意地の張り合い。

 ニ、三日前からなんとなく身体がだるかった。
 軽い風邪気味。そう思ってた。
 体力だけには自信があったから、そのうち治るだろう。そう高を括っていた。どうやらそれがいけなかったらしい。体調は良くなるどころかだんだんと悪化の一途を辿る。
 自分でもぼちぼちヤバイことはわかっていたが、欠席だなんてとんでもない。せめて今日一日、バレンタインズデーが終わるまでは寝込むわけにはいかない。起きたときから自分にそうはっぱをかけた。
 何しろ敵はもてる。
 同学年、上級生、ひいては下級生まで。
 何故か知らないが大もてにもてるのである。
 あんな自意識過剰のナルシストの何処がいいのだろうかと疑いたくなるのであるが、悔しいが異性の気を惹いてしまうらしい。自分も彼に囚われている一人だということを忘れているあたし。
 同じ屋根の下に住み、同じ高校へ通い、同じクラス。そして親が決めた許婚同士。「恋人」以上でも以下でもない。互いに意識しあってはいるものの、何の進展もない。そんなスローテンポなカップル。それがあたしたち。
 周りが煩さ過ぎるせいもある。
 彼の周りにはいつも賑やかな女の子たちが取り巻く。自称許婚や押し掛け女房など。皆それぞれ必死な想いを心に持っている。真剣なのだ。
 そんな熱っぽい彼の周りからいつもぽつねんとはじき出されているあたしは人一倍のやきもち妬き。それも良くわかっている。でも、なかなかそれを打開できない。己に嫌気がさすほど意地を張ってしまう。もっと素直になれれば、少しは距離も縮まるのであろうが。それが出来ない損気な性格だった。
 結局、朝から渡せず終いに持ち歩く甘い塊。数日前からこっそりと買っておいたチョコレート。散々悩んだあげく、手作りは諦めて買うことにした。
 大勢の女の子たちの熱い下心を嫌って、終業のベルを早々に駆け出した彼。体調を崩して追いかける気力も元気もすっかり削げてしまっあたしはとぼとぼと一人帰り支度をし、校門を出た。
 熱っぽい身体には冬の弱い太陽光線さえもくらくらとくる。よろめくように俯いて帰路に就く。
「ダメだ・・・。帰ったらお医者さんへ行こう・・・。」
 かなり体温が上がっているのだろうか。冷たい風が妙に頬に心地いい。

「天道あかねーっ!!」

 後ろで声が響く。九能先輩だ。

「僕にチョコレートはないのか?受け取ってやろうぞーっ!!」

 そう言いながら近づいてくる。
 確かに手にはチョコレートを持っている。でも、これは九能先輩に買ったわけじゃない。これはそう乱馬に上げるもの。あたしはチョコをぎゅっと握り締めた。
 それからいつものように九能先輩を天高く蹴り上げてやろうと振り向いた。
(あれ?・・・今日の空、こんな暗かったっけ?嫌だ・・・。目の前がぐるぐるって・・・。)
 身体のバランスが崩れた。
(ダメ・・九能先輩のしあげられない・・・。ううん、倒れる・・・。)
 意識がふうっと遠のく。
 一瞬の出来事だったと思うのだけれど。
 気がついたら逞しい腕に支えられてた。虚空を九能先輩が何か叫びながら飛び去ってゆくのがぼんやりと見えた。
「おいっ!あかねっ!!しっかりしろっ!」
 目の前でそう怒鳴り散らす真摯な瞳。
「乱馬・・・。」
 そう言おうとしてあたしはまた意識が途切れた。






 目覚めると真上に白い天井が見えた。
 身体を動かそうとしてチクッと痛みが走る。
「ダメだよ・・・。動いちゃ。点滴針が刺さってるんだから。」
 にっこりと笑う白衣のお医者さん。
「あれ・・あたし・・・。」
「凄い高熱出して、あんた、倒れたのよ。」
 なびきお姉ちゃんの声がした。
 えっと思うと、そこには心配げにあたしを覗き込むたくさんの家族の瞳があった。
「ここは僕の知り合いの病院だよ。暫く入院だよ。あかねちゃん。」
 東風先生まで覗き込んでる。
「ダメだなあ・・・。若いからって、こんなになるまで無理しちゃあ・・・。肺炎に掛かりかけてるよ。養生しなきゃ。」
 若い先生はそう言って笑った。年のころは東風先生くらい。
「そういうわけだから、四、五日ここに厄介になるのよ・・・。あかねちゃん。」
 早乙女のおばさまがにこっと笑った。
「ここって?」
「いなば総合病院ですよ。」
 そう言いながら体格のいい看護婦さんが入ってきた。名札に「一之瀬」って書いてある。凄くだみ声の肝っ玉母さんみたいな中年の看護婦さんだった。
「うちの病院、小さな個人病院だから、生憎、完全看護の病床じゃないのよ。だから付き添いで泊まり込んでもらいますけど・・・。いいですね?ご家族の方。」
 体温計を取りながら看護婦さんが笑った。
「ええ・・・。今晩は私が泊まります。」
 早乙女のおばさまが静かに笑った。
「そう、順番に泊まってあげるんだから、早くあんたは回復なさいよ。」
 なびきお姉ちゃんが笑った。
「夢次郎は僕の旧友さ。ここの内科を担当してる。彼に任せておけば直ぐに良くなるよ。養生するんだよ、あかねちゃん。」
 東風先生が笑っていた。
「は、はい・・・。」
 状況が把握できて安心したあたしは、そこでまた眠気に襲われた。
「こういう状況では眠って安静にするのが一番の薬だからね・・・。おやすみ、あかねちゃん。」
 夢次郎と呼ばれた医師はにこっと笑った。きっと点滴の液体に眠くなる作用のものが含まれているのだろう。あたしはうつらうつらと眠りとの境界線を彷徨い始めた。
 部屋の片隅に、心配げな瞳の輝きを二つ感じた。真っ直ぐあたしを見詰める曇りなき視線。それに返答する余裕などあたしにはなかった。虚ろげな視線を少しだけそちらへ向けただけ。
(チョコレート・・・。どうなったかな・・・。でも、この状況じゃ、渡すなんて無理よね・・・。ごめんね、乱馬。待ってなんかないのかもしれないけど・・・。) 
 心の中でそう呟くと、そっと目を閉じた。
 熱に浮かされる気分は最悪。
 早く良くなるには眠るのが一番。いや、眠ることしかあたしには出来なかった。
 浅い白んだ眠りに引っ張られて落ちてゆく。
 皆の気配が遠ざかる。彼の瞳も。心配げな視線も、気配も・・・。




 こんな状況下だったから、あたしの病床の隣に、もう一人患者が居ることを知ったのは随分経ってからだった。
 衝立のように下ろされたカーテンが開かれたのは、二日も経った頃だった。
 そこに入院していたのは小学二年生の桜ちゃんという可愛らしい名前の女の子だった。
 あたしと同じ型のインフルエンザを患って、彼女もまた、熱が上がりっぱなしになってあたしとほぼ同じ頃に緊急入院させらたのだ。
 あたしもその子も二人とも、高熱が続いていたそうだ。お互い、話し込む余裕など二三日はなかった訳で、カーテンが開かれたころ、ようよう起き上がれるくらい、二人とも回復していた。
 特に子供は元気で、起き上がれるようになった途端、賑やかになった。
 そんなだから、桜ちゃんと仲良くなるには時間も掛からなかった。
 それぞれ午後は、学校関係のお友達や担任の先生などがひっきりなしに尋ねてくるから、忙しかったけれど、それ以外は概ね暇なベッドの上。おしゃべりやテレビ鑑賞、トランプなどに興じて持て余した時間を潰すのだ。
 ここへ来て三日目。だいぶん熱は下がり、代わりに咳き込むことが多くなった午後。
 一人の青年が桜ちゃんを訪ねてきた。
「お兄ちゃんっ!!」
 桜ちゃんは青年を見つけると目を輝かせた。
「桜・・・。大丈夫か?ごめんな。やっと昨日、大学の試験も終わって無事に春休みを迎えられたよ・・・。」
「へえ、桜ちゃん、お兄ちゃんが居たの。」
 つい嬉しそうな桜ちゃんに声を掛ける。
「うん、桜自慢のお兄ちゃんよ。」
「はじめまして・・・。僕は尚人と言います。桜の兄貴です。」
 すらっとした好青年。ちょっと日に焼けた顔つきが印象的な男性だ。服装だって派手ではないし、どことなく体つきが引き締まっている。もしかして格闘でもやるのかと思った。
 当らずしも遠からず。なんでも大学の部活で「山」へ登るのだそうだ。山岳部に所属している山男ということだ。道理で色も黒いし、はつらつとしている。
 桜ちゃんを介して仲良くなるのもそう時間は掛からなかった。
 
「母さんもたまには休ませてやりたいから。桜、今日からは兄ちゃんがここへ泊まるからな。よろしくお願いします。あかねさん。」
 少しどきっとした。
(若い男の人と同じ部屋で眠るの?)
 ちょっとだけ心がざわついたが
「わあいっ!お兄ちゃんと病室で寝られるの?」
 桜ちゃんが余りにも嬉しそうに叫んだので、あたしはそのまま言葉を飲み込んだ。
(ま、いいか、こっちにもお姉ちゃんが泊まってくれるし・・・。)
 順番から言えば今日は三日目だからなびきお姉ちゃんだ。
「良かったね・・・桜ちゃん。」
 あたしがにこっと言うと、
「うんっ!!」
 本当に嬉しそうだった。
 歳の離れた兄妹もいいものだとつい微笑ましく思えた。
 尚人さんは桜ちゃんやに最近登った冬山の話をしていく。目は綺麗に輝いている。好きなことを熱心に話すときの男の人って素敵だなんてその横顔を眺めながら思ってしまう。あたしも桜ちゃんも二人の時間を持て余していたから、丁度良い刺激になっていた。
 尚人さんが席を外すと、桜ちゃんが問い掛けてきた。
「ねえ、あかねお姉ちゃんには「彼氏」いるの?」
 最近の子は長けている。あたしは内心ドキドキしたが、顔には出さずに言葉を濁した。いくらなんでも「許婚」が居るなんてこんな子供には言えない。第一、「許婚」という言葉を理解してくれるかどうか。
「さあね・・・。居るような居ないような・・・。かな。」
「じゃあ好きな人居る?」
 勿論、速攻、乱馬の顔が浮かんだが、反射的に否定に走る。
 是とも非とも答えられなかったのであるが
「良かった・・・。特に居ないんだ。」
 と桜ちゃんに言われてしまった。それが後でとんでもない事態を招くなどとは思っていなかったあたしである。
 

 放課後の時間帯になってなびきお姉ちゃんが立ち寄ってくれた。
 クラスメイトは昨日、大挙として押し寄せてくれたから、今日は比較的平和だった。
 九能先輩がそそくさとやってきたが、なびきお姉ちゃんが上手くごまかして追っ払ってくれた。また熱が上がるのも嫌だから、それはそれで助かった。
 そういえば、あれから、初日から乱馬は鳴りを潜めていた。
 ことりとも気配を感じさせない。
「乱馬君のこと気になるの?」
 なびきお姉ちゃんがこそっと言った。
 さっき、尚人さんは桜ちゃんと病棟の探検に出かけていて、今はなびきお姉ちゃんと二人きりだった。
「べ、別に・・・。」
「そっか・・・。気になるわよね。彼ね、今家を空けてるのよ。あの晩から帰って来ないの。」
 な、何ってきょとんとした顔をあたしはお姉ちゃんへ向けたと思う。

 あの晩って、あのバレンタインズデーの晩から?ってことは。ま、まさか・・・。

 あたしの顔から血の気は引いていたと思う。まさかとは思ったが、シャンプーや右京辺りとずっとしけこんでて・・・。なんて良からぬ想像があたしの頭を回りだす。
「あ、誤解してるな・・・。あかねは。」
 ふふんと鼻を鳴らしてなびきお姉ちゃんがあたしを見た。
「ご、誤解ってべ、別に・・・。乱馬が何処へ行こうと・・・。」
「乱馬君、あかねが入院したから天道家(うち)にも帰れないらしいのよ。あれからあの子、ずっと女の子たちから逃げ惑ってるの。みんなあんたが入院しているうちにって下心秘めて追い縋るもんだから、ふいっと居なくなったのよ。修業へ行くって宣言して。」
 ちょっと安心した。なびきお姉ちゃんの情報網は鉄壁を誇るから、恐らく信用していいだろう。
「彼のためにも早く良くなってよね・・・。あたしだって忙しいんだから。」
 なびきお姉ちゃんらしい言い草だ。
「ねえ、隣の子のお兄さん、素敵ね。あんた、タイプ?」
 などと聴いてくる所も。
「な、何見当違いなこと言ってるのよっ!!」
「だって、なんとなく、あんた好意が行ってるって素振りだったし・・・。ま、たまにはいんじゃない?乱馬君にやきもち妬かせるのも・・・。」
「ば、馬鹿なこと言わないでよねっ!!確かに、今日は桜ちゃんの付き添いで泊まるって言ってたけど・・・。」
 あたしは真っ赤になって全否定する。
「ま、どっちでもあたしの知ったこっちゃないわ。さてと・・・。一回家に帰ってまた来るわ。着替えも持って来るからね。」
 散々無責任なことを言い散らすと、お姉ちゃんは病室を離れた。

(乱馬が修業ねえ・・・。たく・・・。何考えてるのかしら・・・。)

 彼が現れない寂しさをあたしは、ついつい、隣の桜ちゃんのお兄さんと話し込むことで忘れようとしていたのかもしれない。
 とにかく、桜ちゃんのお兄さんは話し上手だった。山の話に耳を傾ける。好きなことを話し込む男の人はとても情熱的になると思った。桜ちゃんもにこにこしながら話に聞き入る。
 そうやって午後の時間はあっというまに過ぎた。

 夕刻になって、早めの病床のご飯が終わって、あとはゆっくり病室でくつろぐだけ。
 あたしと桜ちゃんとそのお兄さんは、三人でカードゲームを囲んでいた。
 まだ多少熱っぽかったが、かなり身体は回復していた。でも、熱に浮かされた後で、関節がぎしぎしと痛い。まだ退院までは暫くかかりそうなことを一之瀬看護婦さんも、夢次郎先生も夕方の検診で言っていた。
「ま、仕方ないか・・・。」
 そう思いながらカードを手繰っていると病室のドアが乱暴に開いた。そしてあいつがひょっこりと現れた。それも、何故か女に変身して。
「ら、乱馬?」
 あたしがビックリして問いかけたくらいだ。
「何だよ・・・。その口ぶりは・・・。俺が来たらいけねえってか?」
「べ、別にそんなことは言ってないわよ・・・。」
「おう・・・。元気そうだな・・・。それに楽しそうだし・・・。」
 ちらっと横の病床の二人に目を配って、徐にどさっと投げ下ろす風呂敷包み。あたしの着替えが入っている様子だ。
「ねえ、どうしてあんたが来たのよ。」
 あたしは思わず問い掛ける。
「それになんで女の格好してるの?シャンプーや右京たちから逃げ惑ってるの?」
 あたしは声を落として聴いていた。
「うっせえっ!なびきだな。余計なこと言いやがって・・・。」
 乱馬はむすっとした表情を変えなかった。
「だって・・・。なびきお姉ちゃんが来るって・・・。今夜はおねえちゃんの当番の筈だし。」
 不思議そうに見上げると
「なびきは来ねえよ・・・。」
「なんで?それじゃあ付き添いは?かすみお姉ちゃんなわけ?また・・・。」
「違うよっ!!」
「じゃあ、おばさまなの?」
「おふくろでもねえっ!!」
「じゃあ、だれなのよ・・・。」
 苛立って問い掛けると返って来た答え。
「今晩は俺が泊まるっ!!」
 きっぱりと言い放つ乱馬。
「え・・・。えええーっ!!」

 つい大声を上げてしまった。
 隣の二人が不思議そうにあたしをみた。思わず口を抑えた。

 乱馬が泊まる?
 何でまた・・・。
 
 意外な展開にあたしの口は返す言葉もなく、そのまんま固まってしまった。



 つづく



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