◆苺みるくは恋の味?


 一
「ねえ、あかね。明日はホワイトデーね。」
「あ・・・そうか。3月14日なんだ・・・。」
「チョコレートのお返しを貰える日ね。」
 あかねは級友たちのかしましい会話を横で聞き流しながら、教科書を鞄に詰め込んだ。
「あかねはいいなあ・・・。乱馬くんがいるから。」
 ほら来た。要らぬお節介な会話。
「当然、何かしら用意してくれてるんでしょ?許婚だし・・・。」
「そ、そんなの、ある訳ないじゃない。」
 バンバンと机にノートを縦に叩きつけながら、あかねは無表情で答えた。
「なんで?当然、チョコレートあげたんでしょ?だったら・・・。」
「あげるわけないじゃない・・・あんな奴に。」
 級友の問いかけにあかねはムキになって言い返していた。
「またまた、謙遜しちゃって・・・。」
「ホント。あんた達って仲がいいものね・・・。」
 それには答えないであかねは鞄のベルトを閉めた。
「じゃ、またね。」
 終礼の合図と共に、級友たちは教室を出てゆく。
 
(乱馬がバレンタインのお返しなんてくれる筈ないじゃない。あんな小さなチョコレートの欠片しか上げてないんだから・・・。私は。)

 ふっと息をついてあかねは晴れ上がった空を見詰めた。春めいてきたとはいえ、まだ風には冷たさが残る。
 彼が天道家に着てから早一年が過ぎようとしている。呪泉洞という泉の呪いのせいで男と女が自在に入れ代わる特異体質を身につけているこのあかねの許婚は、色恋沙汰のこととなると、途端に奥手で純情だ。そのくせ、彼の周りには、シャンプー、右京、小太刀といった女の子の影がチラホラしている。
 一体、彼の気持ちが何処にあるのか。それはあかねの気になる命題だった。
 「許婚」と言っても、互いの父親や姉たちが勝手に押しつけた役回り。彼の口からは、今に至るまでハッキリとした愛情の意思表示を聞いたことがない。何となく、彼に愛されているのではないかと言葉の節々やその態度から予想はできるが、それとて確証ではない。
 女の子の涙には滅法弱いようで、正面切って泣かれると、心が其処になくてもうろたえる小心者。
 あかねもハッキリと彼に自分の気持ちを伝えた訳ではないので「お互い様」と言ってしまえばそれまでではあるのだが。気になる存在であり、ヤキモチの対象であり、本当は愛されたいという欲がある。許婚という身分を押しつけた家族や周りに反発して、なかなか素直になれない自分自身。いつも、中途半端を引きずっている不安定な関係。
 そんなふうだったから、この前のバレンタインに用意したのは、小さなハートのチョコレートの欠片が一つ。
 鼻から手作りは諦めていた。不器用、味音痴で名を馳せる自分の手作りを貰った所で、彼は喜ぶことはないだろう。だからと言って、本命の洒落たチョコレートを買って渡すのも、自分が彼に惚れてしまっていることを認めるようで、なんだか気が引けた。あかねへの想いをハッキリ口にしない彼に胸中を知られるのは、あかねの自尊心が許さなかったせいがあるのかもしれない。
『もっと、可愛い女の子でいたい。』
 そう思う本心とは裏腹に、彼女もまた、複雑な乙女心を燻らせているのであった。

 家に帰ると、乱馬が道場で汗を流していた。
 道場の入口から眺める彼の勇姿。
 溢れんばかりに漲る力と、均等の取れた身体。鍛え抜かれた筋肉とばね。彼が躍動するたびに、古びた道場がきしむ音がする。すらりと真っ直ぐに伸びた腕や脚。揺れるおさげ髪。引き締まった眉と唇。厚い胸板に美しい鎖骨。
 ついついその美しい動きに見惚れてしまっている自分に、あかねはほうっと一つ溜息を吐いた。
「なんだ、帰ったのか?」
 あかねの気配を察知したのだろう、乱馬が振り返った。
「まあね・・・。」
「たまには一緒に組み手でもするか?」
 流れる汗を手で拭いながら、乱馬はあかねを真っ直ぐに見詰めた。その視線から思わず目を反らした。何故か直視できなかったのだ。
 そして、あかねはひと言
「今日はいい。」
と断りの言葉を発して、道場を後にした。
「変な奴・・・。」
 あかねの姿を見送りながら、乱馬はそう呟くと、また、身体を発進させた。

(好きになった方が、負けなのかな・・・。)
 あかねはぼんやりと赤く染まり始めた空を見上げて、ほっと息を吐き出した。
 周りにろくな男達がいなかった彼女。気の強い格闘少女あかね。「男の子には絶対負けたくない!」ずっとそう思いながら時を過ごしてきた。我武者羅に力拳を上げてきた自分にとって、乱馬の出現はセンセーショナルだった。
 女の姿で現れ、本当は男だった彼。始めからぞんざいな喋り方で接する太い態度の奴。いきなりやって来て居候として住み着いて、許婚にされて・・・。迷惑な筈だったのに・・・。
 己の心の大半を、乱馬が占めていることに改めて気が付いて呆然となる自分。
「何よ・・・。乱馬の分際で・・・」
 あかねは言葉を吐き棄てると、ベットの上にどさっと身を投げ出した。

 二
 次の日。予想通り、乱馬の周りは騒々しかった。
 三月十四日。ホワイトデー。
 朝から、なんとなく、同級生達の足がふわついて見えた。
「なあ、乱馬はちゃんとホワイトデー返すのか?」
 大介あたりがしつこく絡んできた。
「何が?」
 乱馬はしたり顔で答えた。
「とぼけんなよ。いっぱいチョコ貰ってたじゃねえか。貰い逃げっていうのはどうかと思うけど。」
 ひろしが首根っこに手を廻してきた。
「バレンタインは倍返しっていうからなあ・・・。」
「何だよ、それ。」
 乱馬は心許ない。
「おまえ、まさか、今日がホワイトデーだってこと、忘れているんじゃあ・・・。」
「なんだ、それ?」
 乱馬の答えにひろしも大介もきょとんと目を向けた。
「おまえ、本当に知らないのか?」
「あん?」
 そうであった。女の子と交わる機会の少なかった彼にとって、バレンタインはともかく、ホワイトデーの存在を知ることがなかった。昨年までは親父との修行に明け暮れ、当然、チョコレートなど貰ったことなどなかったのである。当然、お返しの云々というところまで、気が回るはずもなかった。
「たく・・・。呑気な奴だなあ・・・。いくつか貰ったんだろ?シャンプーたらいう中国娘とか、九能先輩の妹とか、右京とか・・・。勿論、許婚のあかねにだって。」
「羨ましいよなあ・・・。あかね一人でも貰えるなんて贅沢なのに・・・。」
 そう言えば、さっき右京に『うちはなんでもかまへんからな。』などと言われた。何のことを言っていたのか乱馬には理解できずに軽く聞き流していたのだが。
「なあ。それって、例えば、好きじゃなくても返さねえといけねえものなのか?」
 乱馬は鞄を置きながらひろしと大介に聞き返していた。
「絶対返さなきゃならないということはないだろうけど・・・。少なくとも本命、そう、自分が好きな相手にだけはしっかり返すべきだろうな・・・。」
「うんうん。」
「で、何を返すものなんだ?」
「ホントに何にも知らねえのか?おまえは・・・。例えば、キャンデーとかマシュマロっていう古典的なお返しとかもあるな。あと、そうだな、ぬいぐるみ、アクセサリーなんかもいいかな。とにかく何でもいいんじゃねえかな。心が篭ってれば。」
「ま、相場は「倍返し」っていうけどな。」
「倍返しって?」
「女の子から貰ったチョコレートくの倍くらいの金額のプレゼントでお返しするってやつさ。男は辛いよなあ・・・。」
「ふうん・・・。」
 乱馬はひろしと大介の話に耳を傾けていた。

 放課後、終礼が終わるや否や、乱馬は校門を駆け抜けていた。
「ホワイトデーかあ・・・。」
 呪文のように言葉を呟いていると、案の定。校門の傍ではシャンプー、小太刀が今や遅しと乱馬を待ち受けていた。
「乱馬ぁ〜。今日はホワイトデーね。私に愛情のこもたお返しするよろし。」
「おほほほほ。乱馬さま。お待ち申し上げておりましたわ。ホワイトデーデートなど・・・。」
 黒薔薇の花びらが舞い始める。
「待ちっ!乱ちゃんはこれからうちとデートすんねん。あんたらは邪魔や。」
 後ろからこてが飛んできて地面に突き刺さった。
(よりにもよって・・・。)
 乱馬は思い切り苦笑した。とにかく、こんな連中に関わりあっている暇はない。
 そう判断すると、乱馬は
「ごめん。今日は急いでいるんだ。じゃあっ!」
 そう言って、一気に駆け出した。
「あ、待つねっ!」
「何処へ?乱馬さまっ!!」
「乱ちゃんっ!!こら待ちぃっ!!」
 疾風の如く、乱馬は三人から逃げ出したが、敵も去るもの。逃すまじと追いすがる。
「全く・・・。だらしがないんだから・・・。」
 後ろから歩いてきて一部始終を見ていたあかねはそんな一行を見詰めて、そう溜息を吐いた。
 元々期待はしていなかったが、乱馬からは何のリアクションもなかった。そんなものだと諦めて、あかねは乱馬の後姿を見送った。

 家に帰り着くと、かすみがにこにこしながら待ち受けていた。
「お姉ちゃん、ただいま・・・。どうしたの?ご機嫌ね。」
「おかえりなさい。あかねちゃん。」
 かすみの後ろから人影が現れた。
「あかねちゃん。こんにちは。お元気ですか?」
 ギクシャクした口調の東風だった。
「あ、先生、来てたんですか?」
「はい。来てたんですね。何故か、あはははは・・・。」
 東風先生は切れていた。傍にかすみが居るからだろう。かすみが好きで溜まらないこの青年は、彼女が傍に居ると、嬉しさと緊張のあまり、自分を見失う純情さを持ち合わせていた。かすみが居ないところでは至って平穏な、優しい東風も、かすみの魔法にかかると、てんで話にならないほど人格が変化を遂げるのだ。
「東風先生、バレンタインのお返しを持ってきたみたいだわよ・・・。」
 あかねの後ろから、先に帰宅していたなびきがこそっと耳打ちをした。
「あ、そっか・・・。」
 あかねは納得して頷いた。
 かつて、乱馬がこの家に現れるまで、あかねはこの東風に淡い恋心を抱いていた。叶わぬ恋と知りながらも、吹っ切るきっかけがなく、心に秘めた片思いをしていたのである。あかねの気持ちなど知らぬ存ぜぬ東風は、もうずっと以前から、かすみの前ではこのような態度を示し続けていた。
 かすみ本人も、東風との、ぶっ飛んだ会話も棄てたものではないらしく、実に楽しそうにニコニコとしている。姉の心の内は理解し難かったが、まんざらではないのだと思えた。
「ごゆっくり、東風先生。」
 あかねは精一杯笑みを浮かべると自室へと上がって行った。
「で、乱馬くんからは?」
 廊下でなびきに聞かれた。
「何もないわよ・・・。あんな奴・・・。」
 あかねは顔色一つ変えずに好奇心旺盛な姉から目を反らした。
「ふうん・・・。」
 なびきは何か言いたそうだったが、にやっと笑っただけでそれ以上深く追求しなかった。

(そうよ・・何もないんだから・・・。私たちの間には・・・。)

 一息つくと、あかねはドアノブに手を掛けた。
 「あ、そうそう、さっきからあんたにお客様が来てるんだ。部屋に通してあるからね。」
 なびきは背後からそう言って自分の部屋へと消えていった。

 三
「お邪魔しております。」
 部屋へ入ると、老婆と少女がちょこんと床に座っていた。
「あら?あなた方は、確か・・・。」
 見覚えのある顔が並んでいた。
「この前は私の代わりにチョコレートを届けてくださりありがとうございました。」
 女の子がぺこりと頭を下げた。
 そうそう。バレンタインの前の日に、チョコレートを渡してくださいと頼まれた女の子とそのばあやだった。女の子は病弱で、殿方と口も利いたことがないという。病室の窓から落としたぬいぐるみを拾ってくれた乱馬に一目惚れをして、たまたま関わりあってしまったあかねにチョコレートの手渡しを頼んでいったのである。
 丁度一月前の出来事を思い出しながらあかねは苦笑いして二人に対峙した。
「その節は大変お世話になりました。あれから、いろいろ調べさせていただいて、あのお方さまがこちらにおいでだと伺ったものですから。」
 ばあやが大きなしわくちゃの目をしばたかせながらお辞儀をした。
「は、はあ・・・。それでこちらに?」
 同じように床に座り込んだあかねは二人の来訪の目的を尋ねた。
「今日は、ホワイトデー。是非とも、あのお方にこの前のチョコレートの儀のご返事を頂きたく参りました次第でございます。」
 少女は顔を真っ赤に染めながら答えた。
「返事・・・って言ったって・・・。」
 あかねは明らかに困惑の表情を浮かべた。乱馬といえば、色恋沙汰には奥手で、とにかくいい加減で優柔不断だ。
「私達に成り代わって、あなた様にご返事をお伺い立てしていただけないでしょうか?」
 横からばあやがあかねの顔を伺った。
 とんでもない・・・。
 あかねは口に出そうになったが、懇願の表情を向ける二人を目の当たりにして。到底そのような否定的な答えは出来る筈もなく。彼女は彼女で優しいところがあるのである。言い換えると「優柔不断な御人好し」。
「でも・・・。」
 答えを渋っていると、
「これも何かのご縁。何卒、お聞き入れくださいまし。」
「お願いでございます。あのお方様からのご返事、恥ずかしくて自分からは聞けません。」
 二人は畳に頭を擦り付けてあかねに懇願した。
「いいわ。乗りかかった船だから・・・。」
 あかねの性分では頭を下げる二人を前に、どう転んでも否と言い出せなかった。
「ありがとうございます。」
 二人は涙ながらにあかねの手を取って嬉しそうに答えた。
「いいの?あかね。安請け合いしちゃって・・・。」
 いつ入ってきたのか、なびきが戸口に立っていた。
「だって仕方ないじゃない。」
 あかねはきゅっと口を結んで、部屋を後にした。
 問題は、いつ、乱馬が帰ってくるかということだった。

 暫くして、玄関先がやかましくなった。
「乱馬?」
「乱馬様・・・っ!」
「乱ちゃんっ!!」
 三人娘の登場だった。三人とも気炎を吐きながら乱馬を追っているところらしい。
「乱馬くんならまだ帰ってないわよ・・・。」
 玄関先で、面倒くさそうになびきが答えた。
「ほんとね?乱馬隠す。これ承知しないね。」
 シャンプーが睨んだ。
「承知しないも何も・・ほら、靴だってないでしょうが。ったく・・・。居場所知ってたら、あんたたちからお金を取って教えてあげるわよ!」
 なびきは尤もらしい答えを示唆した。その言い様に三人とも納得するのだから面白い。
「もしや、乱馬さま、先に私の家の方でお待ちなのかも・・・。こうしては居られませんわっ!ほほほほほ・・・。」
 小太刀がひらりと身を返すと、表の方へと駆けて行った。
「待ちっ!乱ちゃんを捕まえるのは私やっ!」
 続いて右京。
「邪魔したね。再現っ!」
 最後にシャンプーが慌しく出て行った。
「もう・・・何なのよあれは。」
 あかねは不機嫌そうに言い放った。きっと乱馬のことだ、必死で彼女達から逃れる為に町中を逃げ回っているに違いなかった。
「ヤキモチ?あかね・・・。」
 くくくっとなびきが面白そうにあかねを振り返って笑った。
「そ、そんなんじゃあ、ないわよ・・・!」
 あかねはムキになって言い返す。
「誰があんな変態男にヤキモチなんかっ!!」

「くぉらっ!誰が変態男だ。」

 あかねのすぐ後ろで甲高い声がした。振り向くと女の形(なり)でらんまが立っていた。見るとどこかで水を引っかぶったらしく、洋服ごとずぶ濡れだった。
「ら、らんま・・・。」
 驚いて振り向いたあかねに
「ちぇっ!畜生っ!川に落っこちて思い切り水を浴びちまったっ!そしたら案の定これだ・・・。」
「あんたも、いろいろと大変ね・・・。それよか、あかねの部屋にお客さん。」
 なびきがらんまに言い放った。
「客?」
 不思議そうに問いただすらんまになびきは構わず、客人についての情報を一通り話してのけた。
「ま、そんなわけだから、あとはあんた達でなんとかしなさいよっ!」
 なびきはあかねが言わねばならなかったことをいとも簡単に言ってしまうと、さっさと退散しにかかった。あかねには口にし難いことをああやってなびきが代わりに言ってくれたことで胸を撫で下ろした部分があった。どうやって二人の客人のことを切り出そうかとさっきからずっと考え込んでいたからだ。が、横で黙って聞いていたらんまは明らかに不機嫌そうな顔になっていった。

 四
「たく・・・。ホワイトデーだのバレンタインだの・・・何なんだよっ!」
 なびきが去るとらんまはあかねに向かってそんな言葉を吐き出していた。
「何なんだって言われても、女の子にとったら、大切な日なのよ・・・。あの子だって一所懸命、恋を成就させようとしてるんじゃない。」
 あかねは不機嫌そうに佇むらんまに言葉を切り替えしていた。
「で、なんで、おまえは、バレンタインからその二人に関わってるんだよっ!」
「何でって、バレンタインの時は、相手があんただってこと、当日になるまでわからなかったんだから・・・。偶然よ偶然。あの子に渡されたメモの靴箱があんただったんだから・・・。」
 そう、不可抗力だったのだ。そのせいで、バレンタインの日はドタバタしてしまったのだった。
「じゃあ、今日は何なんだよ・・・。なんで、おまえがいちいちその子のことで気を揉んでるんだよ・・・。」
「い、いいでしょ。別に。私がどうしようと・・・。お願いしますって懇願されたら、誰だって断りきれるものじゃないじゃない・・・。」
 あかねはむすっとしてらんまに答えを差し向けた。あかねには彼の心情を汲み取ることは出来なかった。らんまが何に腹を立てて、自分に突っかかってくるのか良くわからなかったのである。私はたまたま関わっただけじゃない・・・というような目でらんまを見返していた。
 らんまにとっては一大事だった。あかねはどういうつもりで「許婚」の自分を横に置いて、お節介を焼いているのか。いや焼く必要があるのか。なんだか自分がないがしろにされているような不快感が頭を交差していたのだ。
「じゃあ聞くけど、俺がどんな返事をあの子にしようと、おまえはかまわねえんだな?」
らんまは確かめるように真っ直ぐにあかねを見詰めた。
「いいわよ・・・。あんたがどうなろうと、どんな返事をしようと、私には関係ないし・・・。」
 心根とは正反対の受け答えをしてしまう天邪鬼(あまのじゃく)。 
「わかったよっ!」
 らんまはそう吐き棄てると、どたどたと階段を上がって行った。
 
「ちょっと、らんま・・・。あんた、女の子のままよっ!」
 下からあかねが叫んだが、それには構わずらんまはあかねの部屋へと進んでいった。
・・・あんたがどうなろうと私には関係ないし・・・
 そうは言ってみたものの、内心、彼の出方が気に懸かるあかねは、そのままらんまを追って、また、階段を駆け上がっていた。

 らんまが部屋へ入ってみると、どこかで会ったことのあるような少女がじっと座って待っていた。手にはウサギのぬいぐるみ。
(この子、確か・・・。)
 一月ほど前、確かに、ぬいぐるみを拾い上げて、渡してあげたことがある少女だった。
「お邪魔いたしております。」
 少女はちょこんと頭を下げてらんまに挨拶をした。勿論、目の前に立っているのが「お目当ての乱馬」だということはわかりきってはいなかった。彼が変身体質を引きずっている人間であることも、乱馬と同一人物であることも、さすがに調べ上げてはいなかった。
「おめえか?早乙女乱馬に用事があるっていうのは・・・。」
 らんまは見下ろしながら少女に詰め寄った。
「あ、はい・・・。」
 少女は勢い込んで入り込んできたらんまに戸惑いの表情を浮かべながら答えた。
「あの、何か・・・。」
 その勢いが余りにも強かったので、隣のばあやが口を挟もうとした。それをらんまは遮って言葉を繋いだ。
「自分のことは、自分でちゃんと言葉を繋がらないと、気持ちなんてちゃんと相手に伝わらないし恋だって始まらねえぜ・・・。なんで、大切なことを人任せにするんだよ。」
 らんまはきっと見下ろしながら少女に言葉を投げていた。
「ちょっとらんまっ!何てこと言うのよっ!」
 乱暴な言い方にあかねが思わず後ろから声を掛けていた。
「うるせえっ!おめえは黙ってろっ!!」
 らんまは勢い良く言い放った。その勢いが余りにも激しかったので、さすがのあかねも二の句が告げずに息を飲み込んだ。
「言いたいことは己の口で言わねえと、言葉の真意ってものは伝わらねえんだ。おめえ、身体が弱いっていうのも、自分の甘えになってねえか?弱いなら弱いなりに、鍛えようっていう腹がねえと、ずっとそのまんまだぜ。人生、他人任せで終わらせちまっていいのかよっ!」
 少女もばあやもあかねも黙ったまま、らんまの言葉を聞いていた。
「手本に俺が言ってやるよっ!」
 そう言うとらんまは目の前にあった湯飲みを持ち、頭から中の湯をじゃばっと自分の頭上に降り注いだ。
 らんまのふくよかな女体はみるみる引き締まり、厚い胸板へと変化を遂げ、滴り落ちる水滴の中から、男の乱馬へと変わっていった。
 少女もばあやも、目の前の出来事に、狐に摘まれたような表情を浮かべて、じっと乱馬を見詰めていた。
「俺は、早乙女乱馬だ。訳あって、水と湯で男と女が入れ替わる体質を持ってるけど、元はれっきとした男だ。だから、男としておまえに言う。俺は残念ながらおまえと付き合う気はこれっぽちもねえ。何故なら俺には「許婚」が居るからだ。がさつで不器用で女らしさの欠片もねえ女だが・・・。」
 乱馬はここでううんっと咳払いをした。
「まあ、それはさて置いてだ。そんな訳だから俺はおまえと付き合えねえし、これからも付き合う気はねえ。だから、俺のことはきっぱりと諦めてくれ。だけど・・・。俺も男だ。バレンタインの気持ちはここに受け取っておく。その返礼に、これをやるよ・・・。これが俺のホワイトデーの返礼だ。」
 そう言って乱馬は持っていた紙袋を少女に差し出した。
「これから、自分のことは自分でやり通す気力を身につけていれば、俺なんかよりずっとふさわしい奴がおまえにも見つかるだろう。だから・・・。」
 少女の目から一粒、涙が零れ落ちた。失恋の瞬間。切ない思いが一同の上にも降り注ぐ。
「わかりました。乱馬さん。あなたのことは諦めます。でも、あなたを短期間でも憧れていたことは事実です。あなたがこうやってはっきりと断ってくださって良かったと思えるように、私も自分のことは自分で伝えられる人間になるように頑張ります・・・。ばあや、お暇しましょう。」

 五
 こうやって少女はばあやと天道家を去っていった。
 少女の初恋は淡くも敗れ去ってしまったが、おそらく悔いは残さなかっただろう。乱馬に貰った紙袋を携えて、何度も振り返りながら夕日の中へと消えていった。
 少女の影が見えなくなると、乱馬は
「道着に着替えて来いっ!」
 と言い捨て、門をさっさと潜っていった。
「何よ・・偉そうに・・・。」
 背中に文句を言ってみたが、あかねは言われたとおりに道着に着替えた。一汗流したい気持ちが彼女の中にもあったからだ。
 着慣れた稽古着に身を包むと、ぎゅっと帯を締めて道場へと向った。
 すっかり日暮れた道場では薄暗い蛍光灯が一本、ちかちかと球を切らして点滅していた。
 道場へ入ると、乱馬も白い道着に着替えて正座していた。
 あかねの姿を認めると、組んでいた胡座を外し、すっくと立ち上がって攻撃態勢に身を固めた。
「構えろっ!」
 乱馬の掛け声に、あかねもそのまま臨戦態勢に入る。息を吐き出し、きっと睨み合う。
いつもに増して、乱馬が大きく見えた。
(呑まれてなるものかっ!)
「やあっ!!」
 勝気なあかねは自分に渇を入れると、渾身に力を注ぎ、乱馬へと突進していった。
 
 ヒュッ!
 しゅばっ!
 ダンっ!!

 拳が空を切る音、板の間に足が着く音、蹴りが回る音。
 二人の気合が道場の空間で激しくぶつかり合う。
 乱馬の拳はいつもより激しかった。怒り心頭に燃えているのか、彼の表情はいつになく硬く強張っていた。汗が吹き飛び、床に飛び散る。あかねの拳も蹴りも彼の前では無力に等しい。激しい彼の動きについて行くのがやっとで、やがて、息が激しくあがり始める。
「どうしたっ!?それでも、ここの道場の跡取娘かっ!!」
 乱馬の叫びが耳元でこだまする。
 その声に触発されたかのように、あかねは乱馬に向って身体ごとぶつかって行った。

 バシンっ!!

 激しい音がして、あかねは床に弾き飛ばされていた。
 一本あった。
 飛ばされ方が豪快だったので、受身も取り易かった。身体にこれといったダメージはなく、痛みも何も感じなかった。肩で息をしながらあかねは倒れたまま天井を見上げていた。
 弾き飛ばした許婚をじっと上から覗き込む二つの目。
「たく・・・。おまえは・・要らぬお節介ばっかり焼きやがって・・・。」
 乱馬は駄々っ子供見るような眼であかねを見下ろしていた。
「あんとき、俺があの子にうんって返事してたらおめえはどうしたんだよ・・・。」
 流れる汗を手で拭いながら乱馬はあかねを覗き込んだ。
「わかんないわよ・・・。そんなこと。」
 あかねは真っ直ぐに降りてくる乱馬の瞳から視線を反らせて口を尖らせた。
「これだもんなあ・・・。意地っ張り。」
 乱馬は勝ち誇ったように言い放った。厳しい武道家の目はいつしか優しい眼差しへと移ろう。
「何よ・・・乱馬のばか。」
 あかねはソッポを向いてしまった。
「たく、可愛くねえ。」
 そう言いながら乱馬はあかねの傍へ膝をついて座り込んだ。
「どうせ私は「がさつで不器用で女らしさの欠片もない女」だわよ・・・。」
 さっき少女とのやり取りの中で言われたままをあかねは乱馬に切り返していた。
「そうだよ・・・。おかげで、ホワイトデーのお返し台無しにしちまったじゃねえか・・・。」
 乱馬は悪戯っぽい表情を浮かべると、あかねに向って言い放っていた。
「え・・・?」
 あかねはきょとんとして、倒れこんでいた床から思わず起き上がっていた。
「鈍いなあ・・・。さっき、あの子に上げた紙袋だよ・・・。」
 乱馬はあかねの鼻っぱしらを突付きながら笑った。微かに赤く頬を染めている。
「まさか・・・あれ。あたしのため・・・に・・・?」
 語尾は小さくなったが、あかねは思わず乱馬に問い返していた。
「あーあ。これだもんなあ・・・。言っとくけど、もう、代わりの買うだけの財力は俺にはないからな・・・。でも、何にもないものあれだから・・・ほれ。」
 乱馬はあかねの手の中に懐から取り出したものをそっと握らせた。
「これ・・・。」
 あかねの掌には小さな苺ミルクキャンデーが二つ乗っていた。
「おまえに貰ったのはチョコの欠片ひとつだったから・・・。これで、倍返しな・・・。」
 乱馬は愉快そうに笑った。
 あかねは渡されたキャンディーをそっと握りしめた。熱いものが身体の中からこみ上げてくるのを感じた。止めることができない感情の高まりがあかねを包んでゆく。
「いい・・・。これでいい。乱馬・・・。」
 その後は涙で続かなかった。
 あかねの震える肩にそっと乱馬は触れてみた。頼りなげで、細い肩。誰にも渡したくない無二の存在。
 そのまま己の胸にしっかりと抱きしめてしまいたい。自分の腕の中に収めてしまいたい。そんな激情が乱馬の心を過ぎった。
 「あかね・・・。」
 愛しい許婚の名前を呼びながら、腕に力を入れようとしたその瞬間。

「乱馬ーっ!!」
「乱馬さまっ!!」
「乱ちゃんっ!!」

 振り向くとシャンプー、小太刀、右京。そう、お邪魔虫たちの再登場だった。
 
(いいところだったのに・・・。)
 彼の野望は虚しく崩れ去った。
 いや、それどころか、彼は再び「渦中の人」と成り果てる。

「ホワイトデーのお返しくれるよろし!」
「乱馬さまっ!さあ、私にっ!!」
「乱ちゃんっ!!うちにやでっ!!」

「て、てめえらにお返しなんてあるわけねえだろーっ!!」

 乱馬の絶唱が響き渡り、また、鬼ごっこが始まった。

「本当に、だらしないんだから・・・。」
 あかねはくすっと笑って涙を拭いながら逃げ惑う許婚の後姿を見送った。
 手の中には苺ミルクキャンデーの小さな包み。寄り添うように二つっきり。








一之瀬的戯言
 少女とばあやのキャラクターは原作の34巻「小さなハート」参照。
 あのバレンタインストーリーの続編として描いたもの。
 従ってプロットは16歳の二人。


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