バレンタイン ノベルス 2001・・・第五話(最終話)
◆おさげと貯古齢糖



 夕なずむ街角。
 あかねはとぼとぼと歩いていた。
 結局乱馬は朝以来学校へ戻って来なかった。
 猫飯店、お好み焼き右京、九能家と彼が立ち寄りそうなところを隈なく当ってみたが、乱馬の影すら見つけることが出来なかった。
 家に電話してみたが、かすみに尋ねてもまだ家にも帰ってきていないという。
 あてなくぼんやりと街を歩いていた。

 ・・・あたしって、馬鹿みたい・・・

 自嘲の言葉が胸の内に響き始めた。
 砕け散ってしまった手作りのチョコレート。その代用にとさっきコンフェクショナリーで買ったチョコレート。
 
 ・・・バレンタインって何だろう・・・

 あかねの脳裏に疑問が過(よ)ぎる。
 乙女心を駆り立てるチョコレート狂詩曲(ラプソディー)。ありとあらゆる方法を駆使して、好きな人のハートを射抜くために頑張る。一年に一度巡ってくる儀式的一日。
 自分も苦手なクッキングに果敢に立ち向かった。乱馬のために・・・。
 でも。
 大きなハート型に固めたチョコレートは登校時に砕け散った。地の灰燼と化してしまった。拾い集めても泥だらけのそれ。
 よしんば、砕け散らずに残っていたとしても、味音痴の自分の創造物を、あの乱馬が喜んで食べてくれたかどうか・・・。
 所詮、見果てぬバレンタインの幻想を抱いていたに過ぎないのではないか。
 
 あかねは天道家から然程遠くない児童公園へと歩みを進めた。子供の頃から慣れ親しんだ公園だ。 
 砂場脇の小さなベンチに腰掛けて、あかねは深々と溜息を吐いた。
 冷たいコンクリートのベンチは無機質で硬い。背もたれもなく、ただの石の塊に過ぎない。
 見上げた空は青空かと思うと急に翳ってくる。今にも空から白いものが舞い降りてきそうな冬の空だった。
 さっきまで遊んでいた子供たちの集団は、親たちとの約束の期限が来たのだろうか。蜘蛛の子を散らすように帰ってゆく。
 その中で、一人の少年が孤独にブランコを漕いでいた。
 ・・・あの子は一人ぼっちなのかしらね。
 寂しげに映る少年は、大空に届きたいと思うほどにブランコを勢い良く漕ぎ上げてゆく。
 手にした、赤い包みをぼんやりと眺めて、また、溜息を吐き出す。あかねは一人、ベンチに佇んで物思いに沈んでいた。
 そんな寂しげな自分をすぐ傍で見詰める優しい瞳があることも知らずに。

 商店街から距離を保ちながら、ずっとあかねをつけて来た乱馬だ。
 彼女に声をかけるタイミングをずっと測ってきたが、なかなか果たせないでいた。彼女の背中が寂しげな影を背負っていたからだ。肩を落として前を行くあかねに声をかけることが出来ないでいたのだ。
 手にしている綺麗な包みに、乱馬も少し心を痛めていた。
 やはり、ムースが言っていたことは本当だったのだろう。昨日、台所に篭って作っていたチョコレートは己の招いた騒動のせいで粉砕して果てたに違いない。
 あかねは公園に入ると、ベンチに黙って腰掛けた。そして、そのままぼんやりと考え事をしているようだった。
 いつもは前向きで勝気なあかねがしょげ返っているのだ。
 それだけで乱馬の心は痛んだ。

 初めは離れた木陰からあかねを見守っていた乱馬だったが、じっと動こうともしない彼女に遂に痺れを切らした。
 意を決するように肩を一度挙げて、全身の力を抜くと、枯葉を踏みしめながら乱馬は歩みを踏み出した。

 静かに近寄ってきた人影が自分の目の前でピタリと止まった。

「あかね・・・。」
 
 乱馬は静かに語りかけるように言葉を紡いだ。
 ぼんやりと地面を眺めていたあかねは、聞き慣れた声に反応して、顔を上げた。
「ら、乱馬?」
 紛れもない、許婚の声だった。
 しかし彼女の目の前には見慣れぬ風体の少年。
 おさげがない、チャイナ服でもない。でも、真っ直ぐに見下ろす瞳は紛れもない自分の許婚のものだった。
 あかねは意外な乱馬の形にしばらく二の句が継げずにいた。
「どうした?俺の顔に何かついてるか?」
 乱馬は悪戯げにあかねを眺めて笑った。
「乱馬・・・。どうしたの?その格好。」
 やっとのことであかねは口を開いた。
「あれからオフクロとずっと一緒で・・・。買い物に付き合ったら、たまには違う服もいいじゃないって、強引に・・・。」
 乱馬は頭を掻きながら答えた。 
 あかねはさっとマフラーを外して、膝に抱えていた赤い包みを隠した。
 それからゆっくりと目の前の許婚を上から下まで一瞥した。
「見違えちゃった・・・。びっくりしたわ。」
 乱馬はあかねの傍に腰を下ろした。
「でも、おさげまで取っちゃったら乱馬じゃないみたい。別の男の子に見える・・・。」
 あかねはぽそりと言った。
「そうか・・・。おまえもそう思うか。」
 乱馬はポケットにしまいこんでいた結い紐を取り出すと、髪を後ろにたくし上げた。そして、手馴れた手つきで三つ編みを編んでいった。
 あっという間におさげ髪の乱馬が現れた。
「これでいいか?」
 乱馬ははにかみながら笑った。
「やっぱり、乱馬にはおさげがあったほうがいい・・・。」
 あかねも小さく笑った。
「そっか・・・。」
 乱馬もそれを聞いて呟いた。
 おさげ髪の少年。自分の目の前に現れ、許婚になった日からずっと見詰めてきた乱馬。
「でも、そのセーターはとっても、似合ってるよ・・・。」
 今にも消え入りそうな囁きであかねはそっと褒めた。
「惚れ直したか?」
 乱馬は笑いながらあかねに問い掛けた。
「ばか・・・。」
 あかねは真っ赤になりながら答えた。マフラーの下にはさっき買ったチョコレートを握り締めていた。渡そうか渡すまいか・・・。まだ彼女の中では葛藤が続いていたのだ。
 昨日台所に篭っていたことは乱馬も知っているはずだ。なのに、これは手作りのチョコではない。おそらく校門から退散した彼は、手作りのそれが粉砕したことを知らないだろう。要らぬ詮索を乱馬にさせることに躊躇があった。

 その時、ベンチの傍らを一人の女の子が駆け抜けた。
 はっとして見やると、女の子の後ろにはベージュ色の中型犬がマトワリついていた。
 何処かの飼い犬が離れて公園へ紛れ込んだのだろうか。赤い首輪をしていた。犬は怖がる子供をからかうように、女の子を追い回していた。
 あれよあれよという間に、逃げ惑う女の子は小石に足を取られて、転んでしまった。
 
 危ないっ!

 そう思ったあかねはベンチから飛び出そうと身体を捻った。それを乱馬が引き戻して止めた。
 その前に彼は目の前にあった小石を犬に投げつけていた。目にもとまらぬ早い対処だったのであかねには分からなかったようだ。
 乱馬の投げた石に思い切り当ったのだろう。
 あかねの身体を止めたとき、犬はキャンと一声鳴いてその場から退散していた。
 乱馬の一回り大きな腕に抱きとめられる形であかねは動きを制されていた。
「乱馬?」
 あかねが振り返ったとき、
「おまえが行かなくっていいよ・・・。ほら、あの子には彼がいる。」
 乱馬は顎先で転んだ女の子の方をさしていた。
 促されて先を見ると、さっきブランコを漕いでいた男の子が女の子を支えていた。泣きそうになっている女の子を必死で介抱しようとする健気さ。
「ほら、俺たちが行っても邪魔になるだけだろ?」
 乱馬は愉快そうに笑った。
「幼い恋が芽生えるかもしれねえのに・・・。」
 そう言ったとき、あかねの膝の上からマフラーが滑り落ちた。
「あ・・・。」
 あかねの膝の上に、小さなチョコレートの小箱が見つけてくれと言わんばかりに露見していたのだ。
 あかねは思わず、その小箱に手をやった。
 ずっと迷っていたチョコレート。
 乱馬の柔らかい視線を感じながら、あかねは思い切ってそれを前へと差し出した。
「これ・・・あげるわ。」
 あかねの顔はみるみる真っ赤に染め上がってゆく。
「今日はバレンタインだし・・・。安心して。手作りじゃないから・・・ほんとは昨日から作ってたんだけど・・・乱馬そんなの嫌でしょ?お腹壊すといけないと思って買いなおしたのよ・・・。」
 一気にあかねはまくし立てた。

「嘘つき・・・。」

 乱馬は怒ったようにあかねに言い放っていた。
「え?」
 あかねはぎくっとして問い返した。
「だって・・・。そうだろ?昨日作ってくれたのは、今朝の騒動で砕け散ったんじゃあねえのか?お腹壊すといけないと買いなおしたなんて嘘なんだろ?どうして正直に言わねえんだよ・・・。馬鹿。」
「べ、別にそんな・・・。砕けたって、あんたの為に作ったんじゃあないわよ・・・。」
 動揺は別の言の葉を紡いでゆくものだ。あかねはムキになって反論を試みてくる。
「じゃあ、誰の為に昨日苦労してたんだよ!」
 あかねを見詰める乱馬の目は真剣そのものだった。貫徹しない言葉に厳しいほどの突込みを入れてくる。
「俺以外に本命が居るっていうのかよっ!返答によっちゃあただじゃおかねえぞっ!おまえの本命は誰なんだよっ!」
 乱馬は語気を強めていた。その勢いの激しさにあかねはつい、本音を叫ぶように吐露してしまっていた。
「乱馬に決まってるでしょっ!!外にいるわけないじゃないっ!」
 と。
 そう叫んだあと、あかねははっとしていた。まんまと誘導尋問に引っかかってしまったようだ。
「じゃあ、俺が本命なんだな・・・。」
 乱馬は顔の筋肉を緩めて意地悪く訊いてみた。
 零れた本音にあかねは固まったまま黙って俯いた。これでは乱馬が好きだということを叫んでしまったのと同じであった。
「たく・・・素直じゃあねえんだから・・・。手作りじゃあなくってもいいんだよ。俺は・・・。おまえの気持ちがこもっていれば・・・それだけで嬉しいものだから・・・。」
 乱馬は笑みを顔中に浮かべると、あかねの手からチョコレートを剥ぎ取った。
「Thank you・・・あかね。」
 そっと目を閉じると、乱馬は俯いたあかねの頬に唇を当てた。あかねの顔はますます紅色に染まってゆく。それを見ながら、乱馬のおさげが楽しそうにゆらゆらと背中で揺れた。

 二人の上をまた雪が舞い降り始めた。
 夕闇迫る児童公園に、街灯が柔らかい光を点灯しはじめた。
 乱馬の手には嬉しい貯古齢糖。
 傍には意地っ張りの愛しき許婚。

 




ここで小説は完了なのです・・・お疲れさまでした・・・いいえ、挿絵の中にもう一本短編が(笑
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