◇蒼の氷月 後編



四、


「どう…思い出したかしら…。」
 セリナはあかねへと声を巡らせた。

 一粒の涙があかねの瞳から滴り落ちた。
 目の前で、水晶玉の紫色の濃さが増し始めているのがぼんやり見えた。薄紫から濃い紫へ…。

「ええ…。全て思い出したわ…。あたしはこの世界に、自ら引導を渡したのよ…。あの人を貫けなかった…。」
 水晶玉の光に呼応するようにあかねが答えた。


「そう…そして、あなたの魂はこの世界から流転したわ…。その不浄を注ぐためにね…。」
 フッとセリナは笑った。

「今更、古い記憶を思い出したところで、あたしはこの世界へ戻れない…。セリナ様…。」
 放心したようにあかねはセリナへと言葉を継ぐ。

「そうかしら…。少なくとも、ここへ戻って来たということは…あなたの不浄に染まった魂は、浄化された証よ…あかね。
 それに…。あなたが手をかけずに別れた青年の不浄も、もうすぐ払拭されるわ。」
 にっこりとセリナは笑いかけた。

 その言葉に、あかねの頭が、ピクッと動いた。

「今…何て…。」
 うなだれる地面から頭をあげて問いかけた。

「あの後、彼の身体は、わたくしが預かったのよ…。時を経ても尚、瑞々しい肉体を保てるように、石碑の中に取り込んでね…。」
 セリナがそう言うと、ポッと長い杖が出現した。その杖の先には、三日月型の刃先が光る。
 そして、思わせぶりに、ゆっくりと三日月型をあかねの前に一振りした。

 ゴゴゴゴゴ…。

 小さく音をたてて、競り上がって来たのは、白い石碑。
 石碑の園に建てられた、先の尖がった石を大きくしたものだった。
 それを見て、あかねはハッとした。

「乱馬…。」
 そう。乱馬の姿をした青年が、瞳を閉じて、石に埋もれたレリーフの如く、石化しているではないか。
 
「そう…その者の名は、乱馬…というのね…。」
 フッと、セリナが笑ったような気がした。

「乱馬がどうして…こんなところに…。それに…何?ここは…。」
 あかねの瞳が見開かれる。瞳の奥に巣食っていた紫の焔が、一瞬、瞳から消えかけた。そう、一瞬、素のあかねに戻ったようだ。

『彼の顔や名前を思い出したのね…あかね…。』
『彼があなたの恋人なんでしょ?』
『命をさし出してまで、守りたかった…最愛の人じゃないの?』
 クスクスと、笑い声が耳元で響く。また、胡蝶がヒラヒラと近寄って、語りかけてきたようだ。
『彼の名前は…乱馬…。そうだったんでしょ?』
『あなたが愛する最愛の人…。そして、多分、彼もあなたを愛している…そうでしょ?』
 クワンクワンと響くような女性の声。襲い来るようにあかねの上を、色とりどりの胡蝶が舞い乱れる。
 再び、あかねの瞳から光が曇った。閉ざされるように、再び灯る、紫の光。


「そう…。彼はあたしの想い人…。異邦の世界から紛れ込んだ人…。早乙女乱馬…。」
 誘導されるように発した言葉。
「その彼が…どうして、石の中に…?セリナ様。」
 次に来る、疑問の言葉をセリナへと問い返していた。

「その石の中で不浄を清めながら、あなたの帰りを待っていたのよ…。彼は…。」
 にっこりとほほ笑むセリナ。

「あたしの帰りを…。」

「そう…。あなたがここへ帰って来たということは…もう不浄は払拭されたも同然です。だから、彼も甦るわ…。あなたと結ばれるために…あかね。」
 セリナはそう言うと、持っていた三日月の杖で、コンコンと石を叩いた。
 と、どうだろう。
 ミシミシっと石にヒビが走り、紫の光に包まれた。と思うと、ばっくりと割れた。

 中から一人の青年が、目覚めた瞬間だった。

「あかね…。」
 血の気を取り戻した青年は、ゆっくりと立ち上がって、愛しき名を呼んだ。さし出す、逞しき腕。
「乱馬…。」
 恥じらうような微笑みがあかねを包んだ。

「乱馬よ…。おまえの不浄は払われた。あかねを…その腕に抱くが良い…。あかね…そなたは、この青年と、末長くこの、常葉の園で永遠に仲睦ましく暮らすが良い…。」
 
 にっこりとほほ笑んだセリナ。

 あかねはコクンと一つ頷くと、ゆっくりと、乱馬へと歩み始めた。
 真っ直ぐに見詰める瞳は、最早、真正面に微笑む乱馬以外、見えていないかのようだった。



『さあ…乱馬…。その腕にあかねを抱くのよ…。』
『この機会を逃してはならぬ…。』
『そなたの虜と化した、あかねを…永遠の園へと誘うのよ…。』

 クスクスと胡蝶が舞い始めた。乱馬の上を、楽しげに、舞い踊る。
 
 彼らの目前に、池の水が怪しげに光り始める。その上には星一つ無く。まん丸い黄色の月が照らし出す。水面には当然あるはずの、月の影は映り込まない。
 水面は紫の輝きに満ちていた。あかねの瞳の奥に灯る、怪しげな炎の色と同じ色だ。セリナの持つ水晶玉とも同じ紫の輝きをたたえている。
 いや、何もあかねだけではなかった。
 満面に微笑みを浮かべながらあかねを見詰める乱馬の瞳にも、同じ紫の光が揺れていた。


 乱馬があかねにその腕をさし出した時だった。


 石碑がこれ見よがしに、投げつけられて来た。
 おもむろに、地面に突き刺さって、弾ける。

 乱馬はあかねを抱えて、横へ避けていた。

「誰だ?悠久の時を越えた、俺たちの愛を引き裂こうという、不埒な奴は?」
 怒りに燃える乱馬。その傍らで、あかねはただ、放心して身を任せていた。心がどこかへ抜け出てしまった。乱馬に抱えられたまま、じっとしている。



「あかねを放せっ!」
 そいつは、そう言いながら凄んでいた。



『また、一人…異世界から来訪者だよ…。』
『これまた、活きの良い娘だよ…。』
 ざわざわと舞い上がる胡蝶。
『でも、どうやって、ここへ紛れこんだのかしら…。』
『あかねという娘の夢の中に…。』
 胡蝶たちがざわついた。


「君は誰だ?…。」
 そう言いながら、あかねを抱いている乱馬が声をかけた。

「俺は…早乙女乱馬だ…。偽乱馬。」
 グッと睨みつける瞳。 そう。現れたのは、少女へと身をやつした、早乙女乱馬であった。
 ロッジの主に焚いて貰った誘眠の香。その香りに導かれて、ここへ紛れ込んだ乱馬であった。
 
「笑止っ!早乙女乱馬はこの僕だ…。君の方が偽物だろう?第一、早乙女乱馬という青年は男だ。はははは…。」
 偽乱馬は笑い始めた。
「それに…彼女の夢の中での、最愛の男は、この僕さ…。僕以外、有り得ない…。」
 したり顔で乱馬へと笑い返す。

「そーか、貴様が、あのおじさんが言っていた、「あかねの最愛の人の幻」って訳か…。」


『あのおじさん?』
『木魂(こだま)の奴め!また我々の邪魔をしようというのか…。』
 胡蝶がざわめいた。

「騒ぐな…。木魂が差し向けた精霊など、この僕が粉砕して見せる…。何しろ、僕は、彼女の中に棲む、この世界に一人きりの、理想の王子様だからな…。」
 ふふっと偽乱馬があざ笑った。
 その腕の中に、あかねが居た。心そこにあらず…放心した瞳が全てを物語っている。うっとりとした夢に抱かれた、乙女だ。

「ちぇっ…。この姿でしか居られねえってことは…あかねの夢の中じゃ、男の俺は二人、存在しねーってかことか…。上等だ。」
 グッと握りしめる拳。腹を据えてかからねば、男の自分に勝てないだろう。いみじくも、目の前の男は、究極の理想で美化された、乱馬らしい。


「俺が勝てばあかねを返して貰うぜ…偽乱馬…。」
 グッと歯を噛みしめながら、女乱馬は偽乱馬を睨みあげた。

「ふん!貴様に勝ち目は無い。君があかねの親友だろうと、粉砕するまでだ。幸い、あかねは我を失っている。だから、残酷なシーンは見ないですむ…。」
 偽乱馬は吐き出した。恐らく、奴の本心の言葉だろう。


「あかねは我を失っているのか…。道理で、精気がねえ筈だ…。でも、安心したぜ…だた、我を失っているだけで、まだ、命の炎は燃えてるってことだろ?」
 女乱馬は凄んだ。

「それも、風前の灯さ。君が負けて、僕が彼女を手に入れたら…。君の命も一緒に、貰う…。妖精たちを育む、魔の池が腹を空かせて、待っているからね…。」

「あの池が全ての元凶って訳か…。」
 月が映り込まない、不可思議な泉を指差して、女乱馬が吐き出した。

「ああ…この娘や君のような、活きの良い娘の命が溶け込んだ、至高の池だよ…。」
 そう言いながら、偽乱馬は腕に抱いていたあかねを、そっと地面に下ろした。
「待ってて、あかね…。すぐ終わる。あいつを倒したら…祝言だ…。」
 頬へと唇を寄せて囁きかけた。
「乱馬…。」
 うっとりとした表情を偽乱馬へと手向けるあかね。

 本物の乱馬の闘争心をかきたてるに、充分過ぎた。

「御託は良い…。さっさと始めようじゃねーか…。」
 ムカッとした表情を浮かべながら、女乱馬は偽乱馬に怒鳴りつけた。


『バカね…あの娘…。』
『こちらには剣璽という武器がある。でも、あの娘は素手。』
『勝ち目は無い…。』
『こっちが勝ったも同然よ…。』
『木魂も間抜けな人間を寄こしたものだよ…。』
 クスクスと胡蝶たちもあざ笑うように、飛びまわる。



「確かに…俺には武器はねえ…。でも、今まで培った、無差別格闘流がある…。だから、偽物には負けねえ…。絶対に、あかねを取り戻すっ!」
 グッと拳を握りしめた。そして、ふうっと力を抜くように息を吐きだした。


 辺り一面、池面から滲みだす妖気が漂っている。


「完膚なきまで、君を甚振ってあげようっ!」
 先に動いたのは、偽乱馬だった。
 剣璽を持って、女乱馬へと襲い来る。
「遅いっ!」
 身軽な女の身体だ。破壊力は劣るが、スピードは出る。
「へえ…逃げ足は速いか…。」
 ニッと偽乱馬が笑った。

「捕まってたまるかーっ!」
 俊敏に動き回る女乱馬。それを余裕で見下ろしながら、剣璽を振るう偽乱馬。
 どうやら、我を失っているあかねの潜在意識の中では、この偽乱馬は「騎士風戦士」なのであろう。従って、肉体技は一切打ってはこなかった。勝手なあかねの妄想を膨らませたような、騎士(ナイト)なのである。
 その剣璽は、夢の中とはいえ、ザックリと斬れるようだ。それが証拠に、偽乱馬が切りつけると、草や木がズバッと斬れる。しかも、普通ではありえない「石」や「岩」まで バックリといくのだ。
 勿論、本物の乱馬は、徒手の使い手。剣など一切使わない。
 普通に考えて、不利に思えた。

「調子に乗りやがって…。でも、幸い…あかねには意識がねえ…。ってことは、俺の必殺技なんか、あいつは知っちゃいねーことになる…。ならば、俺にも勝機はある。」
 冷静に分析しながら、女乱馬は逃げ惑う。
「でも、ここはあかねの夢の中だ…。ってことは、寒くも熱くもねえ…。飛竜昇天破は温度差の魔拳だ…。このままじゃ、打ち出せねー…。どーする…。」
 逃げまどいながら、考える。
 と、偽乱馬がスッと剣璽を収めた。

「チョロチョロと逃げまどいやがって…。このままじゃ、夜が明けちまう…。」
 そんな言葉を吐きだした。


(夜が明けちまう…ことを、奴は恐れてやがるのか?)
 そう思った時だった。

「剣璽だけの男だと思ってるな…貴様。」
 ニッと偽乱馬が笑った。
「確かに、あかねの中では凄腕の兵士にしかすぎねえーが…。元は妖精(ニンフ)から生み出された精霊だ…。」
 怪しげに偽乱馬の瞳が光った。

「まさか…剣だけじゃなく、妖術なんかも使えるってことかっ?」
 思わず吐き出していた。

「当り前だ。夜明けも近いことだし…見せてやろう…。我が最大級の妖術を。」
 偽乱馬が身構えた。
 そして、剣璽を天へと差しあげる。
「この夢の中にとどまる、我ら妖精の妖気よ…。この剣璽に集まるのだ…。」
 
 ゴゴゴゴゴ…。

 地面から地鳴りが聞こえ始める。と、辺りから妖気が浸み出して来るのが見えた。
 胡蝶の鱗粉、池の水面…影の無い月…。
 ありとあらゆる、その世界の物体や景色から、妖気が剣璽目掛けて吸い寄せられる。

「クソッ!何をおっぱじめやがる…。」
 グッと拳を握りながら、はっしと剣璽を睨みあげる…。と、ふっと、肌を熱気が通り過ぎるのを感じた。
「妖気に熱が籠ってやがる…。」
 かすかだが、汗も滲みだしていた。温度など無い、世界なのにだ。
「ってことは…奴が操ろうとしているのは、熱系か炎系の技…。なら、一か八か…。」
 女乱馬は目を閉じた。そして、すうっと大きく深呼吸した。
 己の体内から、熱気を含んだ全ての闘気を追い出しにかかった。そして、氷の心を呼び覚ます。

 偽乱馬には女乱馬が勝負を諦めたように見えた。

「ふふふ…かなわないとわかって、最後の祈りでも捧げているのか?殊勝なことだ…。だが、僕は容赦などしない…。喰らえ、我が、妖炎破(ようえんは)、やああああっ!」
 乱馬が思った通り、炎の技だった。剣璽の先から繰り出される、烈火の炎。

「いっけえー、最大級…飛竜昇天破ぁーっ!」
 自分に襲い来る真っ赤な炎へ向けて、渾身の氷の拳を振り上げた。


 ゴオオオオ―ッ

 目論見通り、炎の中心を引き裂かんばかりに、氷の拳が、貫き渡って行く。炎を巻き込みながら、そいつは、烈火の竜巻へと変化する。

「うわあああああーっ!何だ…この竜巻はーっ!」
 自分の放った炎と、乱馬が繰り出した飛竜昇天破の起こした竜巻。一瞬にして、炎の竜巻が偽乱馬へと襲いかかる。
 それは見事な、赤い風炎だった。偽乱馬だけではなく、あたり一面飛んでいた胡蝶たちも、一緒に竜巻へと飲みこまれて行く。

 ノオオオオーッ

 池が一瞬、悲鳴をあげて、戦慄いたようにも見えた。
 池の水をも一緒に巻きあげて、吹きあがる。凍れる水は瞬時に業火に焼かれ、湯水へと変化する。それが、辺り一面、降り注いできた。

「クソ―ッ!何故だ…何で最愛の男の姿を極限にまで美化した乱馬が負けたのだ?」
 セリナが杖を掲げてヒステリックな叫び声をあげた。
「乱馬と言う男が、この娘…あかねの最愛の人では無かったというのか…。」
 ゴオゴオと業火に包まれながら、憎々しげにセリナは女乱馬を見やった。



「こいつの最愛の男は…確かに、早乙女乱馬…この俺さ…。」
 横たわっていたあかねを抱き上げながら、すっくと立った人影が、セリナに向けて静かに語りかけた。

「おまえ…その姿…。」
 セリナの瞳が開かれて行く。
 その瞳に映った影は、女乱馬ではなく、正真正銘の早乙女乱馬を写しだしていたからだ。

「あかねが思い描いていた妖の乱馬が姿を消したから…俺の姿が元に戻ったんだろうぜ…。そう…俺が早乙女乱馬だ!本物のな…。」

 あかねは目を閉じたまま、乱馬へと身を寄せていた。その顔には憂いの無い柔らかな微笑みが溢れ出していた。愛する人に守られるように抱きあげられて、安心しきって眠っている。

「俺が勝ったんだ…約束通りあかねは返して貰うぜ…。」
 そう吐き出した。

「そうか…それがおまえの本当の姿か…。ふふふ…。まさか、この娘の想い人が、我ら以上の化け物とは…。」
 セリナが自壊気味に笑った。

「俺は化け物なんかじゃねー。確かに、呪泉の水のせいで、不本意な変身はするが…俺は人間だ…。てめーらと一緒にするなっ!」
 つい、本音がこぼれ落ちた。

「人間も化け物も…我らからすれば、不浄の者。もうすぐ、清浄な夜が明ける…。」
 セリナの姿が、空気へと解けるように消え始めた。
「さらばだ…不浄の者たちよ…。二度と貴様たちと相まみえることも無かろう…。」

 いつの間にか消えた炎の竜巻。そして、池が再び、怪しげな光をたたえて揺らめき始める。だが、辺りから妖気は消えていた。それから、空から照らしつけていた満月も、姿を消していた。




五、
 
 朝の光がゆっくりとカーテンを通して、さしこめてきた。


「無事に戻って来れたみてーだな…。」
 その光を仰ぎ見ながら、フッと乱馬は安堵の表情を浮かべた。

 ずっと一晩、抱きしめていた。
 淡い眠りに落ちた時に、入り込んだあかねの夢。その中で戦ったのは、己の幻影だった。あかねの最愛の人が自分だったという、嬉しい事実に、少しくすぐったくなるような感情が湧きあがって来る。
 傍らで眠るあかねに、人肌のぬくもりが戻っていた。氷のように冷たかった身体から伝わる、すこやかな寝息。
 その寝顔の可愛らしさに、思わず、抱きしめる腕に力が入りかけた。

「っと…。ちゃんと服着て、女に戻っとかねーと…余計な詮索をされちまうかな…。面と向かって愛を告白しあったわけでもねーし…。」
 寸でで、膨らみかけた欲望をグッと抑え込む。フッと大きな溜め息を吐きだした。

 あかねが目覚めないように。細心の注意を払いながら、ベッドから下りる。

 握りしめた冷水入りのコップ。

「今はまだ、時期尚早だけど…。いつかきっと…。その温もりは誰にも渡さねえからな…。」

 そう吐き出して、一気に頭から冷水を浴びる。そして、そそくさと道着へと着替えた。

「もっと、修行しねーと…。」
 バンバンと顔を叩きながら、廊下へと出た。


「どうやら、無事に切り抜けられたようだね…。」
 にっこりと微笑みながら、ロッジの主が声をかけてきた。
「ええ…おかげさまで、何とか…。」
 口ごもりながら、礼を述べる。
「どうだったかね…己の幻影と闘って…。」
 通り際に、そう声をかけられた。
 勿論、乱馬はハッとした。

(もしかして…この人…俺の正体に気付いてる…。)

「極限に高められた理想…とはいえ、贋物は贋物だ。本物とは違うよ…。」
 ポンと手を肩に置かれた。
「とはいえ、苦労はしたみたいだね…。その傷。」
 むきだした手にある傷は、戦いのあったことを確かに物語っていた。
「あの娘(こ)だけじゃなく…君にも妖精(ニンフ)につけこまれる隙があったわけだ…。
 これに懲りたら…あの娘を大事に愛してやりなさい…。あの娘の心が…涙で溢れかえることがないようにね…。もっとも…うれし涙は論外だろうが…。」
 
 ドキッと心音が唸った。

(やっぱり…ばれている…。)
 男の言動に、そう確信を持った。

「さて、そろそろ朝ご飯の支度が終わる…。リビングに来なさい…。彼女も起こしてね…。」
 そう告げると、くるりと男は背を向けた。


 その後、目覚めたあかねは、始終、きつねにつままれたような顔つきをしていた。
 いったい自分が何故、このロッジに居るのか、理解できずにいたのだ。勿論、夢の中の世界のことは、きれいさっぱり記憶から抜けおちていた。
 自分が高熱を出して、倒れたことすら、覚えていないようだった。
 だが、困っていたところを、このロッジで一宿一飯を世話になったと、乱馬に言い含められて、素直に礼を述べていた。

「さて…そろそろ暇乞いしよーぜ…。親父たちが心配してるだろーし…。」
 朝食を終えると、二人揃って、ロッジを後にする。
 霧はすっかり晴れていた。静かに見える池も、妖気は消えていた。

 帰り道。ゆっくり歩みを進めながら、あかねは乱馬へと言葉を巡らせた。
「ねえ…乱馬?」
「あん?」
「熱に浮かされてたあたしの傍に、一晩中、寄り添っててくれたの?」
 潤んだ瞳が問いかけて来る。
「まーな…。かなりな高熱で、ずっと…うなされてたからな…。おかげで寝不足だぜ…。」
 あふうっと漏れる欠伸。

 本当のことは、絶対に口にできないし、あかねに伝える必要も無いだろう。
 一人、胸の内に沈めておこう。乱馬はそう思った。

 傍らを歩くあかねは、ずっと疑問を抱いていた。
 …あれは夢だったのか…。
 ずっと傍で感じていた気配。触れる暖かいぬくもりからは乱馬の匂いがした…。組み合う時にいつも香る青年の香り。それを一晩中、傍で感じていた。
 別れ際に、泊めてくれた主が耳元で言い置いた言葉が示唆するもの…。
「君ももう少し、素直に彼を受け入れてあげなさい…。君が思っている以上に、彼は君のことを愛しているようだからね…。」
 何か、重大な事態があかねの身の上に起こっていたに違いあるまい。

 だが…恐らく、天邪鬼な許婚の口から、昨夜の真相は、語られることはないだろう…。
 ならば、あえて、問い質す必要もあるまい。そう思った。
 
 黙って歩く道すがら、あかねは、おもむろに、乱馬の左手を握った。勿論、女乱馬に変化したままの乱馬である。
 思いもよらぬあかねの行動に、焦ったのは、乱馬の方だった。
 男の姿ではなく、女に変身している。その乱馬の手を取ったのだ。

 ぎしっ…。

 女に変化しているにも関わらず、乱馬の身体が固まった。
 相変わらず、ウブな乱馬だ。

「いきなり…何だよ…。俺…今、女の姿だぜ…?」
 しどろもどろで問いかけて来る。
「身体は女でも、中味は男なんでしょ?」
「と…当然なことを聞いて来るなっ!」
「だったら…良いじゃない…。」
「は?」
「だから、良いのよ…。」
 クスッとあかねは笑った。
 何故か心は弾んでいた。
 
 その行く先に、冬の蒼天が広がっている。
 風はまだ冷たいが、もうすぐそこまで、春は近づいてきているだろう。


☆★☆

「ちょっと変わった少女たちでしたね…。旦那様…。」
 
 乱馬とあかねが立ち去ったロッジで、メイドがカップへラベンダーティーを注ぎながら、そんな言葉を継いだ。

「確かに、変わったカップルだったね…。」
 主は、メイドの手元を眺めながら、フッと微笑んだ。
「それにしても…よく、妖精たちの仕掛けた罠から、生還できましたよね…。女同士の友情は、男女の恋愛に勝るものなのでしょうか…。」
 カップにティーを注ぎ終わると、メイドが円らな瞳を主へと手向けた。

「ふふふ…リン。君はあの子たちの本性が見抜けていないようだね…。」
 カップに注がれたラベンダーの香りを楽しみながら、男がフッと笑いを浮かべた。

「あの子たちの本性…ですか?」
 不思議そうにメイドは尋ねかけた。

「あのおさげの子…姿形は少女だったが…本当は男の子だよ…。」

「え?」
 意味がわからず、メイドが溜息のような疑問符を投げかけた。

「大方、呪泉の呪いを受けたんだろう…。助けようとした少女も自然体で彼を受け入れていたよ…。恐らく、強い絆で結ばれているんだろうね…。」
「だから、夢から生還できたのでしょうか?」
「ああ…。」
「雌雄同体…いまどき珍しい人間ですね…。旦那様はいつ、それにお気づきに?私は、一向に気付けませんでしたが…。」
 ミルクを差し出しながら、メイドは尋ねた。
「最初からわかっていたよ…。あの子たちが結界を越えて来た時からね…。」
「だから、シングルベッドの部屋を差し向けたんですか?ダブルベッドの部屋もあったのに…。」
 やれやれとメイドは溜息交じりに吐き出した。
「あの子が湯を所望した時に、確信したんだけれどね…。…きっと我々が立ち去った後、男に戻って、一晩中、少女を温めてやっていたんだろうね…。ベッドの中で…。」
「だから、今朝、すっきりと、悪夢から目覚められた…そう言いたいんでしょう?」
「ああ…。」
「妖精とやりあった翌朝、あんなに元気に起きあがれるなんて…。在り得ませんからね…。」
「何…一晩中、愛し合う者同志、純粋な想いで肌を合わせていたからこそ…純粋な気の交流ができたのだろうさ…。」

「まさか、そこまで計算されて…あの子たちをあの部屋へお通しになったとか…。」

「それは内緒さ…。それよりも…。妖精は暫くは戻って来ないだろう…。だから、結界を閉じて、我々も退散するとしよう…。」

「そうですね…。」
 メイドはコクンと頷いた。

「たまには人間界へ来るのも面白いだろう?」

「旦那様のせいで、私は楽しみそびれましたけれど…。」

 そう言いながら、メイドはパタンとリビングの窓を閉めた。
 と、風景から消えるように、ロッジはすうっと消えて行く。ロッジばかりではない。一緒に傍にあった池も、跡形なく消え去っていた。




 完
(2014年2月14日)



バレンタイン作品であってそうでない作品。

妄想源は、一四年前、らんま一期一会を開設した当初に、テキストに途中で、行き詰り、中途投げしていた「凍れる月」という作品です。
改作というより、初めから線引きし直して、バレンタイン…というか冬作品にしてみました。故に、乱馬とあかねの関係が、私の初期作品並みに「もどかしい」です。
元になった作品は「初夏」が舞台でした。
同じ妄想源を使った初期作品に「十六夜月」(初期作品集・掲載)という異色作があります。
実は、この「蒼の氷月」は「十六夜月」の延長線にある作品です。共に、現実と夢が入り乱れる世界から広げてあります。

ロッジの主の視覚的イメージは、「赤髭王(バルバロッサ)」で、正体的イメージは、「大山祇神(おおやまつみのかみ)」…で、ごそごそ書き直しだした昨年末頃、ゴブリンにはまっている友人に、ゴブリンのことをいろいろ教えてもらったので…その影響も受けまくっております…。ゴブリンも奥が深うございます…。

来年は一五周年なので、バレンタイン長編をらんまらしい冒険譚で引っ張って書きたいと思っています。あくまでも希望ですが…。


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