◇蒼の氷月 中編




三、


『あかね…。お帰りなさい…あかね…。』
『良く戻って来たわね……あかね…。』

 眠るあかねの耳元で、どこからともなくそんな声が響いてきた。

「いったい…ここは何処…?」
 薄らいだ意識の下であかねは、困惑げに問いかけた。

『ここは、常葉(ときわ)の園よ…。』
「常葉の園?知らないわ…そんな場所…。」
『ここはあなたの魂の故里(ふるさと)…。永遠の楽園…。』
 声の主はあかねを柔らかく諭した。
「魂の故里…。」
 薄れゆく意識の下であかねは微かに呟いた。

『あかねが常葉の園へ帰って来たわ…。』
 宙の声はあかねの心へと、染み透るように語りかけてくる。
 あかねは困惑していた。「常葉の園」に覚えがなかったからだ。
「わからない…。ここが故里だといきなり言われても…。」

『あなたがここから姿を消してもう何百年もの時が流れ去ったから無理もないわね…。でも、戻って来たのね…。嬉しいわ。』
「何百年の時が流れた…ですって?」
 声の主に思わず問い掛ける。
『そうか…。あなたは妖精(ニンフ)だった頃の記憶を全て無くしてしまったのね…。』
「妖精?」
『ええ…。あなたは、数百年前、常葉の園の妖精の一人だったのよ…。』
「妖精…。あたしが?」
『あなたに、聖水を振りかけてあげるわ…。常葉の園の奥に湧く、泉の水…。これで少しは思い出すんじゃないかしら…。』
『これは聖水よ。これを注げば、きっと思い出すわ…。』
『私たちのこと…。この常葉の園を…。』
『さあ、注ぐわよ…。』
 柔らかいその声と共に、水らしきものが、頭から降り注いだ。

「冷たい…。」
 
 と、あかねの目の前に靄がかかる森が出現した。靄の向こうに確かに誰かいる。
 目を凝らすとすぐ先に揺れる水面があることに気づいた。つんと湿った空気が鼻先を通ってゆく。

 水を浴びたあかねは、ふと、空を見上げた。ヒラヒラと舞い飛ぶ胡蝶の群れが、瞳に映る。それを眺めているうちに、瞳から光が消えた。いや、それだけではない。ポウッと紫色の灯火のような小さな光が瞳の奥に燃え始めた。小さな浮き玉のような炎だった。

 その光が、瞳を満たし始めると、意識がフウッと遠のき始めた。
「常葉の園…。あたし…知っているかも…。」
 紫の炎に、心を惑わされた如く、そんな言葉を吐きだした。


 近くでリンと鈴の音が弾けた。
 空を待っていた胡蝶が、一斉にあかねの傍をすり抜けるように飛んで行った。

『そうよ…あなたは、この園に還って来た妖精(ニンフ)…。』


 宙の声はあかねの心へと語りかける。声のする方向を見ると、美しい黒い胡蝶が一頭、横切って行った。鱗粉をまき散らし、あかねの上に注いだ。
『あかね…。現世の記憶を全て、手放しなさい…。そうすれば、幸せになれるわ…。あなたは、妖精(ニンフ)となって、この世界で生きるべきなのよ…あかね…。』



 と、あかねの目の前に靄がかかる森が出現した。靄の向こうに確かに誰かいる。
 目を凝らすとすぐ先に揺れる水面があることに気づいた。つんと湿った空気が鼻先を通ってゆく。

「あたし…居た。確かにここに…。何時のことだったか殆ど記憶にないけど…。確かにここに居たと思うわ…。そう、そしてここに暮らしていた。平和に…。何事もなく悠久の時の中を…。」


 あかねの頭の中を、その胡蝶が廻る。少しずつその世界を広げ始める。


 美しい色とりどりの花園が、急に目の前に開けた。


「おかえりなさい…あかね。」
 
 リンと響き渡る、女性の声。
 瞳をあげると、彼女が微笑んでいた。
 
 真っ青なロングドレスを身にまとった背中には、蒼く光る胡蝶の羽。童話の世界から抜け出て来たような、蒼き妖精だった。

「久しぶりね…。もうずいぶんになるわね…あなたがここを出て…。」
 にっこりと女性はあかねへと声をかけてきた。

「あなたは…。」
 不思議そうに反すうするあかねに、胡蝶が舞い降りて来て、囁きかけた。

『セリナ様よ…。この常葉の園を支配する、妖精…。』

「セリナ…様…。」
 あかねの瞳に、灯っていた紫色の炎が、一瞬にして、燃え盛った。
 ボボッと音をたてんばかりに、瞳の奥で揺れ蠢く。


「ふふふ…思い出して?あかね…。」
 セリナが声をかけると、あかねは思わず、その場へと平伏すように膝を折った。
「そんなに固くならなくても良いわ…。あなたの禁忌(きんき)は明けました。だから、顔をあげなさい…あかね。」
 そう言いながら笑いかける。最高妖精…そう囁いた胡蝶の言葉もあながち間違いではあるまい。それだけ、清浄な

「ほら…彼もあなたをずっと待っていたわ…。」
 そう言いながら微笑みかける。

「彼?」
 不可思議な言葉に、思わずきびすを返していた。

「ええ…ここに眠っているあなたの恋人よ…忘れたの?」
 含み笑いを浮かべながら、蒼い妖精はあかねへとたたみかけた。

「恋人…。」
 
「まだ、思い出せていないのね…。仕方のない人ね…。ほら…。」
 妖精は微笑むと、懐から、丸い怪しげな球体を差し向ける。占い師が使う、怪しげな水晶玉のような球体だ。
「封印していた記憶の片鱗を見せてあげるわ…あかね…。」
 妖精は微笑むと、あかねの鼻先に、球体をくっつけんばかりに差し向けた。
 見詰めていると、淡い紫色の炎がチラチラと揺れていた。あかねの瞳の奥に灯る紫の炎が、呼応するようにゆっくりと光り輝き始める。
 揺れる紫の炎の動きに、惑わされるように、惹かれて行く。
 と、そこに映し出されてきたのは、紛れもない、己の姿形だった。白い道着でもなく、風林館高校の制服でもなく、ましてや、私服でもなかった。妖精のようなヒラヒラなスリットな衣装に身を包んだ、己の姿だった。

「あれは…あなたよ…。ずっと昔の記憶…。ほら…目を閉じて…。記憶の世界へ入ってご覧なさい…。すぐに思い出せるわ…。」




 素直にその声に従って、あかねは瞳を閉じた。下りて来る暗闇の世界。

「……。……。」

 瞼の下を、胡蝶がひらひら、通り過ぎて行く。


「あかね…早く、ほら、早く…。」

 傍で自分を呼ぶ声にあかねはふと目を開いた。
 さっきまで立っていた、花園は消え、そこは、森の中だった。

「早くしないと、夕闇が降りて来るわ!」

 誰…と声を出そうとした時、飛んでいた胡蝶が囁くように声を発した…。

『彼女は紫苑よ…。ほら…。』

「紫苑…。」
 そう言葉にしたあかねの瞳に、ポッと光が灯った。あやしい紫色の光だ。水晶玉に灯っていた色と同じだった。
(そうよ…あたし…紫苑と一緒だったわ……。)
 あやしく彩られた映像に先導される雅か如く、あかねは一人、頷いていた。
 途端、パアッと開ける、疑似世界。夕闇せまる、森の中の景色。

「ほら…早く…。」
 紫苑はあかねへと声をかけてくる。
 太陽は西へ傾き始めた太陽を、紫苑は指差した。
「太陽が沈むわ…。ぐすぐすしてられないんだから…。」
 紫苑はせかして来る。

「紫苑、待って…もう少しだから…。」
 そう、妖精は、その日の糧を森の中から拾い集めてくるのが日課だった。

 

(そう…あの日もあたしは…妖精の仲間と木の実を拾いに来ていたのよ…。)



 籠の中には山葡萄やザクロなどの実がぎっしりと入っていた。
「さあ、帰りましょう…紫苑。」
 あかねは籠を手に取ると、妖精の棲家へと足を進め始めた。森の冷気は闇の到来を孕んでいる。無味無臭、味気もない記憶の世界に居る筈なのに、その映像は、鮮明であった。
 記憶と現実が、ないまぜになって、混ざり合う…そんな世界に見えた。が、何も疑問を持たなかったのは、目の前の水晶玉のなせる技だった。
 


「近道しましょうか…。」
 紫苑はあかねを促した。
「近道?そんなのあるの?」
「そっか…。あかねは知らないんだ…。まあ、殆ど誰も通らない道だから、当然ね…。こっちよ、いらっしゃい…。」
 紫苑はあかねを誘った。
 
 何時も行く道の脇に、ひっそりとたたずむ、けもの道ほどの細い道だった。うっそうとした木々が覆いかぶさるように生えている。
 良く見ないと横に脇道があることすらわからなかった。

「へえ…。こんなところに道が通ってたのね…。」
 珍しげにあかねはキョロキョロと辺りを見渡した。

「ほら、早く通り抜けないと、夜の帳(とばり)が下りてきちゃんわよ。」
 紫苑はタッタカと先を急いだ。その後を追ってあかねも足早に歩き出す。置いて行かれは大変だ。知らない道だ。迷子になりかねない。
 人通りが少ないのか、誰にも会わない、頼りない道が続いた。

「あら?」
 あかねは傍らに、ふと目をやって足を止めた。
 何かの記念碑のような石がたくさん立ち並んだ場所を見つけたのだ。尖がった白い石碑が荒地の中に立っているのが見えた。
 良く見ると、石碑の一つ一つに文字が彫ってある。
「ここは…。」
「石碑の花園よ…。森からの近道なの…。皆あんまり通らないけどね…。」

「この石は…?」
 あかねは紫苑の顔を見返りながら尋ねた。少し興味を持った。。

「これは、ここへ足を踏み入れた異邦人の名前を彫った石碑よ…。」
 紫苑はそう言うとまた前を歩き出す。
「異邦人?」
「ええ…。この世界へ迷い込んだ別世界の人間のことよ…。」
「どうして、異邦人の名前を石に刻むの?」
「迷い人が来ると、セレネ様がその者の名を石に記すのよ…。そうすれば、異邦人はこの世界から逃れられなくなるのよ。」
「どうして、迷い人を逃がしてあげないの?」
「もー、これだからあかねは…。」
 紫苑は苦笑いを浮かべた。
「あたしたちの存在は、人には知られてはいけないのよ…。人間は不浄だもの…。だから、迷い込んだら逃がしちゃいけないのっ!」
「どうして?」
「あたしたちまで、不浄にさらされるからよ!ほら、早く帰りましょう。ぐずぐずしていたら、夜が来るわ。夜は不浄の塊でしょ?夜闇の不浄に触れると、セリナ様がうるさいわよっ!百叩きの刑にされるかもしれないし…。急ぐわよっ!」
 半ば駆け足になりながら紫苑は先を急ぐ…。
 彼女のおかげで、何とか日が沈み切る前に、里へと帰ることが出来た。

 妖精たちは、不浄を嫌う。否、自分たちと違う世界や息吹に触れる物を極端に忌み嫌う傾向があった。セリナなど、長老によると、不浄に触れると、妖精の力が損なわれるからだという。
 幼きからそう教え込まれて来た。


 それから、あまり時を経ない、ある日のことだった。

 いつものように、木の実を集めに森へと出ていた。また、帰りが遅くなった。その時も紫苑と二人きりだった。
「近道しかないわね…。」
 紫苑に促されてあかねは久しぶりに碑の傍まで足を踏み入れた。
 
「あ…。」

 あかねは持っていた籠を落としそうなくらいに驚きの声を挙げた。石碑しかないと思われていたその荒地のある部分が、真っ赤な緋色に変化していたからだ。それは見事としか言いようのない、緋色の花の群生だった。

「すごい…。綺麗な花園…。」
 あかねは感嘆の声をあげた。

「あれは焔(ほむら)の花よ…。」
 紫苑があかねにこそっと耳打ちした。
「焔の花?」
 あかねは思わず紫苑を見上げた。
「そう…。白い石碑を核に、あの一角にだけ、まるで燃え盛る焔のように咲き乱れる、紅い花。」
「あの一角にだけ咲くの?」
「ええ…。どうしてあの場所にだけ咲くのかは知らないけれど…。っていうか、忌の花らしいから、あんまり人には他言はしない方が良いわよ。」
「どうして?」
「妖精の心を奪ってしまう花だと言われているからよ…。」
 びっしりと、石碑を核に咲き乱れる美しい花。確かに、心を奪われることもあるかもしれない。あかねはそう思った。
「ほんと…哀しいほどまでに綺麗な花ね…。」
 あかねはふうっと言葉を継いだ。どうして、そういう表現になったのか…。
「たった、数日だけ咲き乱れて、すっと消えるように見えなくなる花よ…。だから、焔の花と呼ばれているの。」

 あかねはそれから数日間、毎日のように其処へ通ってみた。殆ど誰も通らない、秘密の花園だった。
 緋色の花園のすぐ傍に、小さな湖があった。
 けもの道から少し上に上がった場所が、いつしか彼女のお気に入りの場所になっていた。偶然に見つけた場所であった。
 大きな黒い岩がポツンと横たわっていて、その上に登ると、花園から湖までが見渡せた。白い石の群集と咲き乱れる緋色の花。そして、その先にエメラルドグリーンに輝く湖と。心が洗われるような美しい場所だった。

 花の季節は短い。数日ほどで花は枯れ果て、荒涼とした白い石碑と、それを隠すように繁れる緑なす草だけが隆々と生えるだけになっていた。
 にもかかわらず、あかねは時折、そこへと足を運んだ。休息時間には、他の妖精たちから離れて、その場所で一人、佇んでいることが多くなった。




(花は無くなったけど、湖は変わらぬ美しさを讃えている。透明なブルーの深遠なる水面。嫌な事があったり、落ち込んだ時は、ここへ来て、飽くことなく湖を眺めていると、それだけで心が和んだのよ…。
 白い石の群集が不気味だと、誰もここへは足を運ばない。れゆえ、湖が見渡せる、岩の上は、いつしか、あたしの秘密の場所となっていたわ…。)
 あかねは瞳に浮かぶ光景を噛みしめながら、想いに浸る。

『そうよ…あかね、そこで彼に出逢ったのよね…。』
 ヒラヒラとまた胡蝶が傍を通り抜けた。

(その日は霧が深くかかっていた。まるで精霊たちの森を隠すように、どんよりと雲っていて、足元さえもおぼつかないような霧に妖精たちひっそりと息を殺していたわ…。)
 
 胡蝶の舞いにいざなわれるがごとく、再び、脳裏を過(よ)ぎる映像へと身をゆだねるあかね。





「こんな日は迷い人が来るかもしれないわ…。」
 紫苑はふっと言葉を継いだ。
「迷い人?」
 あかねは紫苑を見やった。
「ええ…。これは森の神々が異世界からの侵入者を防ぐために張り巡らせる深い闇の霧よ。きっと近くに異世界から迷い込んだ者が居るに違いないわ……。」
「ふうん…。」
 紫苑によれば、こんな日は、どこへも行かないで里に居るのが一番いいという。
 妖精たちは皆、そう思っているようで、今日の木の実拾いは中止となった。
 それぞれ、自分の塒(ねぐら)へと引きこもり、固く扉を閉ざした。

 しかし、好奇心の塊のあかねには扉を閉ざし、じっと息を潜めていることがとても苦痛に感じた。まだ、若い彼女にとって、こんな霧の日さえ目新しい不思議に満ち溢れている。
 そっと塒を離れて、外へと出てみた。
 霧が鬱蒼と里を覆い尽くしていた。いや、陽の光が、霧の上から美しく降り注いで七色に光っていた。
 それは初めて見る光景だった。
 七色の光があかねを誘うように、里の外へと続いている。

「わあ…きれい…。」
 吸い寄せられるように、あかねは里の外へと足を踏み出した。

 霧の向こうからキラキラと虹色の光は、真っ直ぐにあかねを呼んでいるようだった。
 道は真っ直ぐに見えるのに、森の木々は霧に隠れて見えない。不思議な世界だった。
 どのくらい歩いたのだろうか。
 気がつくと、秘密の園の、岩の傍まで来ていた。
 いつもは美しく見える湖の水面も、霧に包まれてしまっていて全く見渡せない。代わりに、キラキラと空から虹色の光が降って来る。
 
「え…?」
 あかねはそんな霧の彼方に、何かがこちらへ向かってやって来るのが見えた。それは見慣れぬ黒っぽい生き物だった。大きな四足の動物だった。 影はだんだんと大きくなってくる。まるで、あかねの方へと吸い寄せられるが如く、近寄って来るではないか。
 逃げることも忘れて目を凝らすと、見たことのない着物に身を包んだ者が四足の生き物の上に力なくうつ伏せになっているのが、伺えた。
 黒い生き物も力尽きたのか、あかねの手前で、がくんと地面へと沈んだ。

 恐怖心など抱くこと無く、思わず近寄っていった。おそるおそる足を折ったまま動かない生き物を覗き込む。

「誰だ…。」
 少し太めの鋭い声がした。黒い生き物の上にうつ伏せていた人影が発したものだった。

「あなたこそ…誰?」
 あかねは怖々声をかけた。
「何だ…。女か…。」
 安堵したような声と共に吐き出される言葉。




 でも、何故だろう…彼の姿形が、はっきりとしないことに、あかねは疑問を持った。
(何故…あたしは、彼の顔をはっきり思い浮かべられないの…。こんなに愛していたのに…。)
 流れる黒い霧にまとわれつかれながら、ふとそんなことを思った。
 愛した人間なら、顔も名前もはっきりと覚えている筈なのに…一切の記憶から削がれていたのだ。ぼんやりとしか見えない、彼の顔。
 それは不確かな幻影だった。
(声は……誰かに似ている…でも…。)

『安心して。それはあなたの記憶が、まだ不確かなせい…。大丈夫…やがてちゃんと思い出せるから…。』
 胡蝶がヒラヒラとまた傍で舞いながら囁きかけて来た。
『だから、思考を留めないで…あかね。記憶の欠片を受け入れるの…あなたの脳裏に…。』
 不確かなビジョンでしか、浮かび上がらない、ぼやけた映像。
 昔のフィルムを見ているような感覚に、疑問符を投げかけながらも、流れて来る「記憶の欠片」へと、再び、身をゆだねる。



(そう、あたしはあの時…生まれて初めて「男」に出会ったのよ…。)

『そう…そうやって、素直に身をゆだねなさい…私たちの投影に…。』
 クスクスと誰かが傍で笑った気がしたが、既に、あかねの耳には入って来なかった。



「あたしは、「おんな」なんて名前じゃないわ…。」
 あかねは彼にそう告げた。
「そうか…。でもいい。敵じゃねえから…。」
 彼は力なく答えた。よく見ると赤い血が身体中にべっとりと着いていた。
「あなた…。怪我してるの?」
 あかねは不思議そうに見上げた。
「ああ…。不覚にもやられっちまった…。俺も焼きが回ったなあ…。こんな妖艶な場所へ迷い込むなんて…。いや、もうあの世に着いちまったかな…。」
 そう言って、彼は力無く笑ったように思う。逆光で良く顔が見えない。
「待って…。動かないで。」
 あかねは果敢にも彼の所へと近寄った。彼の背中には弓矢が一つ、ふつっと刺さっていた。
「これを抜くわ…。それから傷の手当てを…。」
 あかねは自分でも驚くほど冷静だった。彼の身体に刺さった弓を抜く、と、また血が噴出してくる。苦痛に彼の顔は歪んだようだが、痛いとは言わなかった。
 あかねは傍にあった草を摘み取り、自分の着物の裾を破くとそれを包んだ。そして開いた傷口にさっと当てた。
「これは薬草よ…。摘んだばかりだから効き目は薄いかもしれないけれど…。」
 そう言うとあかねは彼を息絶えた生き物の背中から引っ張り挙げた。

「ここは…あの世じゃねーのか?」
 彼はあかねへと声をかけた。

「ここは…常葉の園よ…。あなた…もしかして…異世界の人?」
 あかねは問いかけていた。

「だったらどうする?俺を殺すか?」
 彼は鋭い言葉を傾けて来た。殺気が籠ったように思った。

「いいえ…。殺すなんて…そんな不浄なこと、あたしがする訳ないじゃない…。だって…あたしは…。」
 少し躊躇しながらも、あかねははっきりと答えた。
「あたしは、妖精(ニンフ)よ。」
 と。
「そっか…。妖精か…。妖精も人間と同じように言葉を話すんだな…。悪い…暫くの間、俺をここへかくまってくれ…。傷が治るまで…。」
 弱々しい瞳に、抗いの言葉をかけることができず、あかねはコクンと一つ、頭を揺らせた。
「ありがとな…。」
 彼はそう言うと、瞳を閉じた。すやすやと吐息が漏れて来た。
 傷の手当てをしてもらい、安堵したのだろうか。彼を乗せて来た生き物も、一緒に、深い眠りへと入って行く。


 それから、日を開けることなく、あかねはその場所へと通った。
 勿論、人目を忍んでだ。
 森に木の実を拾いに入ると、こっそりと薬草を摘み、また、自分の分の食物を彼に分け与えた。いつも、一緒だった紫苑からも距離を置き、夕刻前にそっと、持ち場の森を抜け出すのだ。
 常葉の園のはずれにある森の木の実は、人間には薬餌効果が高いのだろう。わき道へそれ、彼の元へと通った。

 彼は、兵士だと言う。敵に撃たれ、怪我を追って、逃げる途中、常葉の園へと足を踏み入れたらしかった。

 重篤だった傷も、ほんの数日で癒え始め、青年はみるみる元気になった。

 だが、彼が元気になるということは、同時に別れの時が近づいたということでもあった。

 悠久と思えた時間が、唐突に終焉を迎えた。
 ある日、彼の存在が妖精たちに知れてしまったのである。
 薄々知れていたのだろう。

 あかねは長のセリナに呼び出された。

「呼び出された理由は既にあなた自身がわかっておいでしょう?あかね…。そなたは…人間をかくまっているでしょう?」
 セリナはそうあかねへと問いかけた。綺麗な姿形から発せられる厳しい言葉だった。
 千里眼で何でも知っている…セリナの口調はそう言いたげであった。
「誤魔化しても無駄ですよ…。」
 厳しい口調でセリナは追及する。
「あかね…おまえのような無垢な妖精を不浄にしたくは無いの…。その若者の心の臓をこの剣で突いて、その紅い血を我らに捧げるのなら、全てを許してあげましょう…。
 でも、それが出来ないというのなら…、あなたの心臓を代わりに貰わなければなりません…それがこの世界の掟なのですから…。」
 表情一つ変えずに命じるセリナの冷たい声。あかねの心は瞬時に凍りついた。
 残酷な二者択一だったからだ。



『あたしは妖精の剣を手に、あの人に会いに行ったのよ…お別れをするために…。』



 あかねの心は既に決まっていたのだ。
 若者を助けた時から、薄々、この刹那が来るとわかっていたのかもしれない。

 その日、あかねの笑顔が輝かないことに、若者は猜疑心を抱いていた。
 微笑みかけても、沈んだままの哀しい瞳。

「どうした?いつもの元気がねえな…。」
 青年はあかねへと問いかけた。

「今日はお別れに来たの…。」
「別れ?」
「ええ…。永遠の別れよ…。長様に言われたの。あなたの心臓か、あたしの心臓か…どちらかを生贄として差し出さねばならないって…。」
 ゆっくりと、あかねは妖精の掟について、若者へと説明した。
 逃れられぬ運命の矛先。


「その通りです…異邦人の青年よ…。」
 蒼い妖精、セリナが傍らから姿を現した。辺り一面に舞い上がる、胡蝶を棚引かせて、すっくとそこに立っていた。
 大きな延べ棒のような杖を右手にたずさえて、青年とあかねの双方ににらみを利かせている。
「この世界に不浄は要らない…。そなたに恋したあかねの不浄を払うには、不浄を植え付けたあなたの命をさし出さねばなりません…。それが、この、常葉の園の掟です…。」
 そう言いながら、杖を思い切り、その場に薙ぎ払う。

 ゴッと音がして、二人の身体が上空へと浮き上がった。
 白い石碑を抜けて、ざわざわと渡って行く風に煽られて、上空へと制止する。
 対面するあかねと乱馬。あかねの手には、鋭敏に研ぎ澄まされた長細い剣璽が握りしめられていた。

「さあ…決しなさい…。青年を貫くか、それとも、自らを貫くか…。」
 セリナの声が響いて来た。

 ゆっくりと立ち上がりながら、青年はあかねへと声をかけた。

「なら…あかね…迷うな…。俺の心臓を思い切り、貫けば良い…。おめーに倒されるなら、本望だ。帰ったところで、俺は争いの世界へ再び借り出されるだけだ…。なら、おめーの手で命に引導を渡してくれ…あかね…。」

 微笑みかける柔らかな瞳。死を決した青年の瞳では無い。愛する者を慈しむ穏やかな輝きに満ちていた。
 青い空には、いつの間にか昇ったのか、丸い月が煌めいている。昼間の丸い月だった。否、太陽の光が無かっただけかもしれない。

「さあ、時は来たわ…。己の行く末を決めなさい…あかね。」
 セリナが叫んだ。

 あかねは持っていた剣璽を握り変えた。そう、切っ先を青年では無く、自らに手向けたのだ。
 迷わず、自害を選んでいたのだ。

「あかねーっ!」
 悲壮漂う声、それに一つ、微笑み返すと、あかねは自らの胸を貫いた。


 真っ赤な血が空を舞う。
 不思議と痛みは無かった。
 剣璽は己を貫いた途端、氷のように弾け飛んで消えた。


「これで良いの…。私の不浄を払えば良い…。だから、あなたは…この地にとどまって、永遠にあたしの記憶を繋いで行って…。」
 最後の言葉でそう告げた。

「あかねーっ!」
 悲壮な叫びが、すぐ傍で響いた気がする。その頭には、確かに見覚えのある「おさげ」が揺れていたと思った…。
 そして下りて来る暗闇…。閉ざされた世界。







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