◇蒼の氷月 前編





 都会から離れた雪山の奥に、その池はあった。
 地中深くから湧き出しているのだろうか。ポツンとその場所だけにある小さな池であった。
 池の周りは、雪に埋もれていた。だが、池は氷に閉ざされることなく、透明な水をたたえている。底は相当深いようで、エメラルドグリーンの輝きを宿している。


 池を見渡せる場所に、そのロッジは建っていた。こんな山奥には似つかわしくない立派な丸太のロッジであった。
 屋根は大きく両側に傾斜していて、積もった雪を下に落とせるようになている。お約束のように、立派に育った氷柱(つらら)が剣鋲の如く、地面に向けて、幾つも吊下がっている。
 館の中では、火が焚かれているのだろう。曇りガラスの向こう側に、黒と白が混じったヒゲを生やした壮年の男と、それに従う若い女が居た。女はメイド服を着用しているところからみて、メイドなのであろう。
 ここに定住している…というよりは、別荘へ静養に来ている…そんな感じに見えた。
 見渡す山々は雪を抱き、雲ひとつない晴天の空だ。空気は一点の濁りも無く、透明に澄み渡っている。
 リビングの大きなガラス窓の傍で、ロッキングチェアーに深く腰掛けて、晴れ渡った冬の陽だまりの中、男はそこで静かに読書にふけっていた。
「珍しく、湖面が光り輝いておりますよ…旦那様。」
 メイドはティーポットから熱い紅茶をカップへと注ぎ入れながら、ロッキングチェアーに揺られる男性へと声をかけた。大きなガラス窓から、池の全景が見える。
 読みふけっていた本を、傍のテーブルへと置くと、男は傍らに置かれたティーカップへと手を伸ばしながら言った。
「こんな日は、妖精たちが常世から湧き出て来るんじゃないだろうかね…。」
 じっと、湖面を見詰めながら、注がれた紅茶へと口を運ぶ。
 ラズベリーの香りがフッと立った。
「また森の中に、迷い人でも紛れ込んだのでしょうか…。」
 メイドが不安げに男へと問いかける。
「かもしれないね…。」
「だったら…。」
「また用意しておいた方が良さそうだな…。風が微かに人海の匂いを運んでいるようだし…。」
 男はそう言うと、池へと目を転じる。
「ほら…耳をすませば、妖精たちの囁きが、聞こえてくるだろう?」
 そう言って、口元に人差指を立てて、耳を澄ませた。


 サワサワサワ…。風が池の方から流れて来る。

『ねえ…誰かが境界を越えて来たわ…。』
『感じる…。とびきり若くて綺麗な命が近づいて来るわ…。』


 水面には池の畔には誰も居ないのに、一人の少女の影を写し出していた。キラキラと湖面が少女を投影して、栄え渡る。 
 この世の輝きでは無かった。

『池に誘うに値する若い命よ…。』
『今度はこの娘の命の輝きを分けて貰いましょうよ…。』
『美しき命の光をこの水面へ投じて…その輝きを分けて貰いましょう…。』
『今宵は満月…。魔力が高まる日だから…。』
『永遠に醒めない夢へ誘いましょう…。』
『私たちの一族に加えましょう…。』

 と、その水面を突き破らんごとく、一斉に、色とりどりの胡蝶たちが舞いあがった。冬と言う季節にそぐわない胡蝶の群れだ。水面の中から湧きあがるように、次から次へと舞い上がって来る。

『ほら…誘いに行きましょう…。』
『永遠の眠りに…。』
『この少女を虜に…。』

 胡蝶が舞い上がってしまうと、水面はすうっと何事もなかったかのように、静まり返った。映していた少女の影も、ひっそりと消えてしまった。



一、

 そろそろ陽の光が弱まり始める冬山の午後。

「ちょっと、待てよっ!あかねっ!」
 おさげの少女が声を張りあげた。
 彼のすぐ前を、ショートヘアーの少女が、早足でずんずんと山道を降りていた。脇にはこの前の豪雪で、解け損ねた雪の塊が残っている。吐く息も白い。
 
「待てって言ってんだろっ!!」
 おさげの少女の怒声がすぐ後ろで響くのに、ショートの髪の少女が、お構いなしにもくもくと足を進める。口をへの字にぎゅっと結び、大きな黒い瞳は凛と前を見つめたまま動かない。
 虫の居所が悪いのだろう。
 おさげの少女の呼び止める言葉をわざと無視して、ずんずんと歩み続ける。
 すうっと息を一つ胸に吸い込むと、おさげの少女は、たんっと地面を蹴った。草のきしむ音がして、彼は少女の前へ出た。そして両手をわしっと広げて少女の前に立ちはだかった。

「いい加減にしろよっ!」

 二人は対峙するや否や、鋭い瞳で、互いに睨みあう。

「そこ、どいてよっ!」
 先に口を開いたのは少女だった。ぐっと眉間に皺を寄せて、おさげの少女を見返した。

「ったくぅ…何、拗(す)ねてんだよっ!」
 おさげの少女は咽喉を押し潰さんばかりの甲高い声を上げた。
「拗ねてなんかないわよっ!」
 勝気な瞳で睨みかえすショートの少女。
「嘘つけっ!ムスッとしてるじゃねーかっ!怒ってんだろ?」
 怯むものかと、おさげの少女も負けじと睨み返した。
「怒ってないっ!」
「怒ってるっ!」

 押し問答。

「なんで、あたしがあんたの言動でいちいち腹たてなきゃならないのよっ!!」
「こっちがききてえよっ!三人娘に腹立てて怒ってるんだろー?」
「ち、違うわよっ!馬鹿っ!」 
 激しい言葉の応酬。

 ショートヘアの少女は天道あかね。対するおさげの少女は、水を浴びて男から女へと変化した早乙女乱馬。共に、十七歳だ。

 この二人、相変わらず、「親が決めた許婚」という、関係を引きずっていた。
 勝手に父親同士が交わした約により、押しつけられた許婚同士。なかなかそこから抜け出せない。
 とはいえ、この跳ねっ返りカップル。
 事あるごとに、衝突を繰り返す日常を過ごしていたが、氷解するように、少しずつではあるが、互いの心の距離を縮めつつあった。そう、時を重ねるうちに、ツンデレカップルとしての完成形に近づいてはいたのである。
 が、乱馬もあかねも、彼らを取り巻く周りは、甘いものでは無かった。
 双方、人気があり、もてるのだ。二人の周りには、男女乱れて、恋のライバル達が、二人の接近を良しとぜず、立ちはだかるようにせめぎあっている。
 
 時は如月、バレンタイン。二人の周りは、恋の駆け引きを廻って、騒々しくなる。一筋縄ではいかない、恋のライバルたち。下手に関わると、家を崩壊されかねない。二人の父親たちは、バレンタイン騒動を見越して、冬山修行と銘打って、二人を練馬から引っ張り出して来たのだ。
 腑に落ちない部分もあったとはいえ、乱馬もあかねも「無差別格闘流」早乙女流と天道流の跡目である。父親たちに連れられて真面目に修行をしていた。
 そんな、父親たちの見通しが甘かったとしか言いようがない。
 女子が男子に告白する、一大国民行事を反故にされて、恋のライバルたちが黙っていようはずも無い。東京に残して来たなびき辺りが、情報を金で売ったのであろう。
 シャンプー、右京、小太刀…。それぞれ競い合う如く、乱馬を求めて、この山中へとやって来てしまったのだ。

「てめーら…。何でここへ…。」
 真面目に修行していた乱馬であったが…三人娘が眼の色を変えて駆けこんで来た姿を認めて、半ば呆れたように目を見開いた。早雲と玄馬は、あっちゃーと言わんばかりに、天を仰ぐ。

「何でって、決まってるやろ?」
「今日はバレンタインね!」
「乱馬様と雪山でほっこりするためにわざわざ参りましてよ…。」
 右京もシャンプーも小太刀も、肩を透かされそうになったから、余計にテンションが高い。
 ここであったが百年目。絶対に逃すかと言わんばかりの凄みがある。
 乱馬をあかねから奪取しようと、この三人娘も必死だった。

 黙って見守っていたあかねとしては、面白い筈も無い。冷やかに乱馬と三人娘たちのやりとりを脇で眺めていたが、生来の勝気さがむくむくと頭をもたげて来る。当然のごとく、我慢にも限界が来た。

「旅行じゃなくて、修行に来たんでしょーがっ!この、いい加減男ーっ!」

 バッシャ―ン!

 そう言いながら、傍の小川で汲みあげた、冷たい水を、乱馬の頭上から、思いっきり浴びせかけた。
 彼は水の呪いのせいで、女へと変化を余儀なくされる。その変身体質をまだ解いてはいない。
 結果、逞しい肉体は、一瞬で丸みを帯び、女へと変化を余儀なくされる。
 女になっても、騒動は収まらない。
「おさげの女!乱馬様をどこへおやりになりましたの?」
 まだおさげの女と乱馬が同一人物と理解していない小太刀はもとより、
「らんちゃん!後で男に戻したるーっ!」
「ドサクサに紛れる、これ良くないねっ!乱馬が男だろうと女だろうと、どっちでも良いねっ!」
 三つ巴の戦いは収まる気配が無い。

「ふん!」
 水を乱馬に浴びせかけても、まだ、怒りが収まらないあかねは、怒りに任せてそこから立ち去る。

 納得していなのは、乱馬も同じことだった。意図としない変身をあかねに強要されて、彼は彼で怒りがこみ上げている。
 小競り合いを始めた三人娘から、すっと気配を隠して身を引くと、遠ざかるあかねの背中を追い始めたという訳だ。
 


「嫌ならきっぱりと断ればいいじゃないっ!!」
「素直に聞き入れる奴らだったら、俺だって苦労しねーよ!あいつらは聞く耳なんて持ってねえんだ。どう収拾つけろって言うんだよ…。」
「あんたが、ふわついているからつけ込まれるのよっ!!ベタベタしちゃって!」
「おめえだってP助とベタベタしてたじゃねえかっ!!」
「Pちゃんは関係ないでしょうがっ!」
 あかねには相変わらず、「黒豚Pちゃん=良牙」という式が成立していない。

 乱馬の手を思い切り薙ぎ払おうと、手を差しあげた。

 と、傍らを一頭の蝶が、ヒラヒラと鱗粉を振りまきながら、目の前を通り過ぎるのが見えた。

(え…?)

 次の瞬間、何かに揺さぶられたように、あかねの身体へと激震が走った。
 くらくらっと目の前が歪んだのだ。

「とにかく、修行場へ戻るんだ!」
 乱馬はその刹那、そう言いながら、あかねの手をガッシと掴んだ。
 グッドタイミングとはこのことを言うのだろう。そのまま、あかねは、下半身から崩れるように乱馬の方へと枝垂(しだ)れかかる。

「あかね?」
 ハッとして、声をかけた。
「おいっ!!」
 乱馬は思わずあかねの手を掴みながら、怒ったように声を吐きだした。

「大丈夫…。ちょっとくらっと来ただけだから…。」
 あかねは小さく吐き出した。

 だが、一目見て、異変を感じた乱馬だった。あかねは大丈夫と言ったが、ちっともそんな風には見えなかったのだ。
 身を翻してすり抜けようとしたあかねを、逃すまじとがっしり掴んだ。
 このまま離すと、地面へと倒れてしまわんばかりに思えたからだ。
「大丈夫じゃねーだろっ!無理すんじゃねえっ!馬鹿っ!」
 この期に及んでも、喧嘩腰になる。その言葉にムッとなるあかね。
「いい…。自分で歩くわ…。」
 と吐き捨て、勝気さをひけらかすあかねだった。
「いいから、俺に負ぶされっ!」
 乱馬は半ば強引にあかねを背負い込むと、道を引き返し始めた。
 少女の姿に身をやつしている時は、あかねより背が少し低くなる。それでも日頃から鍛え上げている肉体だ。少女の身体でも、あかねの重みなど平気だった。
 背中のあかねは、無言で何も話かけてはこなかった。
 いや、話かけたくとも、身体から完全に力が抜けきってしまっていた。
 一体何がどうしたというのか…。
 悪い痺れ薬にでも中(あ)てられたかのように、腕にも足にも腑抜けて力が入らなかった。

 あかねを背負う乱馬も、だんだんにあかねの身体の重みが増してくるような気がした。眠ってしまったのか、だらりと手が胸辺りで垂れ下がる。その手に触れて、驚いた。氷のように冷たかったからだ。

 一歩一歩、乱馬は細心の注意を払いながら帰り途を模索する。
 足元は鬱蒼と茂った草木で只でさえ見辛い上に、落ち葉で滑りやすくなっている。ただでさえ、基礎体力は女に変化したことにより落ちている。踏みしめるように歩き続けた。
 一本道のはずなのに、何時まで立ってもみんながいる修行場の温泉郷へと辿り付けない。
「変だな…。」
 乱馬は立ち止って、周りを見渡した。
 雪を抱く山と、湿った匂いが乱馬を突き抜ける。
 見れば、靄(もや)がかかりはじめていた。
「不味いな…。」
 棚引く霧はまるで乱馬たちを包むようにじわじわと広がってくる。まるで生きているように追いかけてくるように見えた。
 野山で修行をすることが多い彼は、そんな山の危険を充分知り尽くしていた。見上げればもう太陽の影もない。冷気を含んだ風が森の中から渡って来る。
「雨…いや、雪になるかもしれねえ…。こりゃ、急がねえと…。」
 らしくなく、気がせいて焦り始めていた。
 こんな場合こそ冷静で居なければならないのに、あかねのことが絡むとどうしても沈着冷静ではいられなくなるのだ。
「しっかりしろよっ!あかね。」
 あかねの気が弱々しくなって行くのを感じた。だらんと乱馬に身を預けている。
 そんなあかねのすぐ脇を、胡蝶がヒラヒラと並走するように飛んで来る。外側は黒、内側は青。ヒラヒラと瞬くように飛び交う。一頭、また一頭…。あかねの頭上高く、何頭かの群れを作り、つき従うように舞い上がる。
 辺りは深遠な霧に包まれ始めた。その霧のせいで、胡蝶の群れは乱馬の瞳には映らなかった。そう、乱馬には見えなかったのだ。

 鱗粉をキラキラとまき散らしながら、胡蝶は二人の傍をつきつ離れつ、舞い狂う。

 と、欝淋とした霧が湧き立つ雑木林の中に、雪屋根のロッジが見えた。
「しめたっ!人家だ!」
 誰かの別荘なのだろう。丸太づくりの小屋がそこにあった。丸太屋根から、見事な氷柱(つらら)が幾重にも吊下がっている。
 うっすらと灯が灯っているところからして、誰かが居る。
 もっとも、誰も居なくても、そこで雨をやり過ごそうと思っていた。勿論、誰も居ないよりは居てくれた方が、有り難いと思った。

 胡蝶は乱馬がロッジの方へと歩み始めると、サアッと蜘蛛の子を散らすように、飛び去った。まるで、何かを忌み嫌うように、ロッジへ踏み込もうとはしない。
 暫く未練がましく舞い上がった後、すうっと霧の向こう側へと消えて行った。

 木製のドアには、呼び鈴が設えてあった。縄を引っ張ると、大きなカウベルのような鈴が鳴る仕組みのようだった。

 カランカラン…。
 乾いた音が鳴り響いた。

「はい…。」
 奥で声がして、若い女性がドアを開いた。メイド服姿の若い女性だ。こんな深遠な雪の森にそぐわないメイドの女性に、一瞬、戸惑ったが、すぐに気を取り直して、乱馬は言葉をかけた。

「すいません…。この霧の中、道に迷ってしまって…。その上、こいつが動けなくなってしまって…困ってるんです。霧が晴れるまでいいですから…こちらで休ませていただけないでしょうか?」

「それはお困りでしょう…。この霧は危険だ…。遠慮はいらない…こちらへ入りなさい…。」
 メイドの後ろ側から、声がした。ハッとして奥を覗き込むと、ヒゲを蓄えた中年男性が、そこに立ってこちらをじっと見つめていた。
「ほら…リン…こちらへお通ししなさい。」

 リンと呼ばれたメイドは、慌てて二人を招き入れる。

 パタンとドアの閉まる音。
 その様子を垣間見ながら、胡蝶たちがヒラヒラと、空へ舞い上がって行った。



二、


「こちらへ…。」

 通された部屋には、木のベッドが置いてあった。

「生憎、二人用ではないから、少しばかり手狭かもしれないが…我慢してくれたまえ。」
 男はそう言って、乱馬たちを誘った。
「いえ…暖かい蒲団があるだけで十分です。」
 乱馬はそう言いながら、あかねをベッドの上へと横たえた。
 あかねは一向に目を開くことなく、昏々と眠り続ける。
 熱が出始めたようで、額に汗が浮きだしていた。

 部屋には小さな暖炉があり、火がくべてあった。
 パチンと薪が弾ける音がした。
 
「これは、不味いな…。」
 主(あるじ)の男は眉間にしわを寄せながら、あかねを見詰めた。
「この熱…。やはり…妖精たちのせいでしょうか…。」
 濡れたタオルをあかねの額に乗せながら、メイドがそれに問いかけた。
「だろうな…。」
 ヒゲへと手をあてながら、男が真摯にあかねを見詰める。

「妖精?」
 乱馬は思わず男とメイドに向かって問い質していた。

「ああ…妖精だ。」

「妖精なんかどこに居るっていうんだ?」
 不可思議な顔を浮かべながら、乱馬は男へと問いかける。

「この先の池ですわ…。」
 メイドは窓の外を指差した。
「池?」
 乱馬は窓を覗いてみた。が、辺りは真っ白な霧に包まれ、何も見えなかった。
「この先に池があってね…そこには妖精(ニンフ)たちが棲んでいるんだよ。」
 大真面目に男は答えた。
「その妖精のせいで、熱が出たって言うのか?」
 乱馬は問い返した。

「ああ…君たち人間には俄かに信じられない話かもしれないが…。ここには、妖精が居る場所なんだよ。妖精たちは時折、人間を惑わし、連れ去ろうとする。
 きっと、この娘さんを惑わせようとしているに違いあるまい。」

「なるほど…この世の者では無い奴らが、あかねを狙ってるってーのか…。」
 納得したように、乱馬は吐き出した。

「君は…こんな非現実な話に驚かないんだね…。たいていの人間は、私やリンの話など、真面目に聞こうともしないのに…。」
 と、男は不思議そうに乱馬を見詰めた。

「非現実的な現実なら、俺の目の前にたくさん転がってるからな…。それに…こんな元気の塊のようなこいつが急に力を削がれたような症状になったんだ。悪いモノに憑かれたって言われても、全く納得できねー話でもねーからな。」
 乱馬はボソボソっと歯切れ悪そうに、言葉を続ける。

「惑わされた奴はどうなるんだ?…まさか死んじまうなんてことは…。」
 乱馬の瞳が険しくなった。
「このまま、放置すれば危ないだろうね…。妖精は醒めない夢の中へ、若い魂を誘うんだよ。そして、惑わし、そのまま、引きずり込む。死の淵へね…。」
「助ける方法は無えのか?」
 乱馬はせっついて問い質した。

「無い訳ではではないよ…。」
「でも、難しいかもしれませんわ。」
 男とメイドは続けざまに答えた。

「助ける方法があるのなら、教えてくれねえか?」
 当然のことながら、乱馬はそう返した。

「妖精の描いた魔峡の夢から醒めさせるために、君は努力を惜しまないかい?」
 男は逆にそう問い返して来た。

「当然だ。」
 乱馬は言い切った。
 あまりに、強く言い返したので、男は驚いたような瞳を乱馬へと手向けた。


「ならば、この娘さんの夢の中へ入り込んで、夢を醒めさせるんだ…。」
「どうやって、夢の中へ入るんだ?」
「何、簡単なことですよ。一晩、我が家に伝わる、眠りへ誘う誘眠の香をこのランタンで焚きこめてあげますよ…。その香りに導かれて、あなたはこの娘さんの夢へと誘われます…。」
「誘眠のお香か…。」
 ふっと乱馬は言葉を投げ置いた。

「多分、すんなり、夢に入れたとしても…一筋縄ではいくまいがね…。」
「そんなに大変なのか?」
「ああ…相手はこの娘の最愛の人の幻だ。そいつと闘うことになるだろうからね。」
 男はポツンと言葉を投げた。

「最愛の人の幻…。」
 じっと噛みしめるように反すうする言葉。
 コクンとメイドは頷いた。
「そうです…。この娘の最愛の人の幻影と闘って勝たねばなりません…。女の身のあなたには荷が重いのではありませんか?女は得てして、友情よりも愛情を取りますからね。恋人と親友では、勝負の先は目に見えていますもの…。」
 メイドはそんなことをポツンと言った。

「それは…俺に対する強烈な皮肉にも聞こえるな…。」
 乱馬はポツンと言葉を投げた。

「それに、この娘さんを目覚めさせるのに失敗すれば、あなたの命も一緒に尽きます…。それでも、夢の中へ行きますか?」
 男は乱馬をもう一度顧みながら、そう問い質した。

「ああ…それでも行くさ…。最愛の人の幻影が最大の敵ならば、尚更…負ける訳にはいかねーからな…。」
 溜息とも度し難い大きな息を一つ吐き出すと、乱馬はメイドへ向かって言葉を投げた。
「リンさんとか言ったかな…。悪いが、お湯をポットに入れて、持って来てくれねえか?」

「お湯…ですか?」
 不可思議なものを所望する乱馬へと、メイドは戸惑い気味に答えた。
 主の男は、コクンと頷くと
「リン、この勇敢な娘さんの頼みだ。お湯を持ってきてあげなさい。」

「かしこまりました…。すぐ、お持ちしますわ。」
 リンはそう言うと、下がって行った。

「お湯で温めてあげるのですか?でも、湯はすぐに冷めて水になってしまいますよ。」
 主は乱馬へと問いかけた。
「わかってるさ…。湯はもっと別のことに使う。」
 乱馬は淡々と言い返した。
「何に使うというのです?」
「もっとも原始的な方法で、こいつの身体を温めてやろうと思ってるだけだ…。こいつの身体、思った以上に冷え切ってやがる…。
 このままにしておいたら、俺が夢の中へ入る前に…凍えちまうかもしれねえからな…。」

「彼女を温めるのに、お湯が必要なのですか?さっきも言いましたが、湯はすぐに水に変わってしまいますよ…。湯に浸したタオルで身体を拭くにも、そう効果があるとは思えませんが…。」

「……そのことなら心配には及ばねえよ…。お湯を使うのは俺だから…。」

 乱馬の言葉に、男はフッと笑みを返した。

「そうですか…。ならばこれ以上の詮索は止しましょう。」

「ああ…そうしてくれよ。それから…悪いが、朝までそっとしておいてくれねえか?」
 乱馬はそう言うと、チラッと二人を見やった。

「わかりました…。君の望むようにしたまえ…。」
 男は承諾するようにコクンと頷いた。

「彼女を救えるかどうかは、君の細腕一つにかかっています。そのことは、ゆめゆめ、忘れないでください。」
 男は湯を運んできたメイドへ合図を送ると、共に部屋を去って行った。


 家人たちが去ると、乱馬は徐に、持って来て貰った湯を、頭上に浴びせかけた。
 滴り落ちる湯水。その湯気と共に、丸みを帯びた身体は、筋骨に溢れた。そう、男に戻るために湯を所望したのだった。

「あかね…。」
 心配げにその名を呼ぶと、乱馬はあかねが寝そべるベッドへ頭を垂れた。
「迷ってる場合じゃねーよな…。」



「あかね…。ごめん。」

 意を決すると乱馬は眠っているあかねの上着を剥ぎ取り、その上半身をむき出しにした。
 白い身体が眩しく見える。思ったより豊満な胸があらわになった。
 躊躇っている閑などなかった。
 返す手で己の上着を脱ぎ捨てる。上着だけではない。その下に着こんでいた黒いランニングシャツも脱ぎ捨てた。
 逞しい上半身が、露わになる。そして、そのままあかねの横へと滑り込み、両腕を広げて、冷たい身体を抱きしめる。
 肌と肌を密着させて、冷え切った体に、少しでも熱を与えようと思い立ったのだ。

 触れる身体は、氷のように冷たい。
 思わず、触れる己の身体も、一緒に凍りつくのではないかと思うほど冷たかった。
 小さく震えている彼女を、壊さないように、柔らかく抱きしめる。
 毛布を上から羽織り、自分の胸へすっぽりと包むように二の腕を回した。
 そうして包んだ手でゆっくりと、あかねの背中をさすり始めた。少しでも血の気があかねの身体を廻り出すようにと、彼なりに必死だったのだ。


「あかね…。俺の温もりを全て、おまえにやる…。こうやってずっと抱いてやる…だから、戻って来い…。」


 窓のカーテンが静かに揺れた。
 風が出始めたのだろうか。
 カタカタとガラス窓が鳴る。ふと目を上げると、大きな月が二人を見下ろしていた。
 美しい蒼い光が差し込んできて妖しく二人を照らし出す。

 ベッドの横には、メイドが焚きこめてくれた鉄製のランタンが一つ。怪しい光をきらめかせながら揺れている。微かにラベンダーのような香りを含んでいる。その緩やかな香りが、身を横たえた乱馬を、深い眠りへと連れて行った。







奈良地方を襲ったバレンタイン豪雪で、思いがけず仕事が臨時休業になったので、書きかけ作品を仕上げてみました…。
これで一四周年ということで、ご勘弁を!




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