スイート★パニック


第八話 そして二人は…


十五、

 あかねは乱馬の部屋の前に立つと、己を引き締めるために、ゆっくりと深呼吸をした。
 ここからが正念場だ。明日の朝を平穏に迎えるためにも、乱馬に穿たれた「大破恋灸」を打破しなければならない。さもなくば、乱馬と己の間に、明るい未来は無い。
 乱馬が己のことを想ってくれるのは嬉しかったが、あくまでも、正常な範囲でのことだ。今の乱馬はあかねへの愛情が完全に暴走している。人前で平気でキスしてきたり、許婚を公言したり。
 あの奥手な性格はどこかへ吹っ飛んでしまっている。いや、そればかりか、このまま放っておくと、そっちの性質が固定化してしまうというのだ。

 冗談では無い。

 あかねは意を決すると、乱馬の部屋の襖へと手をかける。取っ手をゆっくりと右側へと引く。
 スッと襖の戸板が敷居を滑っていく。

 部屋の中は豆電球がともされていた。
 淡いオレンジの目電球の光が、天井から面さがっている和蛍光灯から漏れている。薄暗いとはいえ、部屋の様子を見るにはうってつけの明るさだ。
 電灯が無い部屋の中では、足元もおぼつかない。もしものために懐中電灯を握りしめていたが、どうやらそいつは無用の長物だったようだ。

(乱馬は…。)

 目を凝らして、部屋の中を見ると、中央にドンと蒲団が敷かれ、眠っている乱馬の姿が目に入った。
 じっと視線を注いで彼を覗きこむ。
 あかねの気配を察することも無く、クーカーと気持ち好さそうな寝息が聞こえてきた。

 あかねは入って来た襖を、後ろ手に丁寧にゆっくりと閉めた。
 一応、眠りこけている姉たちの部屋まで音がこぼれないように気を遣ったのだ。
 音も無くゆっくりと襖は閉じられた。ピタッと襖の枠がくっついて、再び、静寂が訪れる。
 乱馬はそのまま眠ったままだ。
 あかねは微動だにせず、乱馬へと視線を流す。
 
 後は眠り呆けている乱馬(彼)のどてっ腹(丹田)を強く指圧するだけだ。

 眠っている相手を襲うのは、武道家として気が引けたが、このまま彼を野放し状態にする訳にもいかない。あかねはグッと拳を握りしめると、乱馬が眠る蒲団へゆっくりと近寄った。
 ここで気配を悟られて彼の瞳が開いては元も子もない。慎重にゆっくりと、気配を悟られぬように…。
 ものの数秒の移動だったろうが、あかねには無限の時間に感じられた。
 乱馬は口元を軽く開き、実に気持ち好下げに眠っている。あまり彼の寝顔を覗きこんだことはない。整った顔だ。

(あかね…見惚れている場合じゃないわ…。丹田のツボを押さなきゃ、平和な未来は来ないわ…。)
 気を鎮めるように深く一つ、大きく吐き出すと、己を奮い立たせた。
 喩え相手が眠っていようと、勝負は勝負だ。そう言い含めた。

(行くわよっ!乱馬。)

 あかねは軽く息を履きだすと、そのまま乱馬の蒲団をめくって、彼のどてっ腹目掛けて己の拳を突き出した。

 と、ガシッとその手を逞しい手に掴まれた。
 次の瞬間、ひざごと前へとつんのめった。

「えっ?」
 一瞬、自分の身の上に何が起こったかわからなかった。
 気がつくと、乱馬の身体へと引き寄せられていた。
 慌てて、態勢を立て直そうとしたが、身体が動かない。吸いついたかのように、乱馬の肢体の上に倒れこんでいた。
 右手を動かそうと試みたが、微動だにしない。
 クスッとあかねのすぐ傍で鼻息が漏れた。
「へへ…捕まえた…。」
 乱馬の声が嬉しそうに響き渡った。

 眠っていたとばかり思っていた乱馬の瞳が、じっとこちらへ向いている。

「乱馬…どうして…。」
 咄嗟にあかねはそう声をかけた。

「眠ってたんじゃなかたの?…ってか?」
 にんまりと狡猾な微笑みが、あかねを見上げていた。
 あかねの疑問に答えるように、乱馬はゆっくりと話し始めた。
「おめーさあ…。俺や親父たちに、一服盛ったんだろ?」
 にっと笑いながら乱馬はあかねへと問いかけた。
「な…何のこと?」
 あからさまに問いかけられて、はいそうですと答える訳にもいかず、あかねはすっとボケようと試みた。
「これなーんだ?」
 そう言いながら、乱馬は薬袋を取り出した。それは紛れも無く、東風があかねに渡した処方薬の袋であった。東風の字で「睡眠薬」と書かれてある。

「ど、どうしてあんたがそれを持ってるのよ?」
 あかねは乱馬を見下ろしながら問いかけた。

「おめーの部屋で見つけたんだ…。」
 にんまりと笑う。
「あんたっ!勝手に乙女の部屋へ入ったの?」
 非難めいた瞳で、あかねは乱馬を睨み下ろした。
「ああ。そうだ。」
 特に悪いと思っている様子はなく、いや、さも、それがどうした?と言わんばかりに返答を返された。
「いつよ、いつ入ったのよっ!」
 当然、あかねの言動もきつくなる。
「夕食後だよ…。」
 さらりと乱馬は答えた。悪びれる様子も無い。
「夕食後、二階へ勉強しに上がった時だよ。おめーの様子が気になってさ…悪いとは思ったんだけど、部屋へ入らせて貰った。」

「ちょっと、勝手に人の部屋へ入るなんて、失礼じゃないのっ!」
 つい、激しい口調があかねから飛び出した。
「そーかな。じゃあ、今のこの状況はどうなんだ?おめーだって、勝手に人の寝室に入って来たじゃねーか。」
 理詰めで乱馬ににじり寄られる。
 彼の言うことにも一理ある。あかねの部屋へ勝手に入った乱馬と、乱馬の部屋へ勝手に忍び込んだあかねと…いわば同罪であろう。
 あかねは口をつぐんでしまった。こうなっては、とぼけ通すか黙秘で通すしかあるまい。だが、敵(乱馬)はあかねの一枚上手であった。

「たく…。今度はダンマリを決め込むつもりか?まあ…いい。俺には予測はついてんだ。大方、こいつを試しに来たんだろ?」
 そう言いながら胸元からすっと冊子を差し出して来た。和紙で閉じられたその冊子の表紙には、墨書きでこう見えた。『珍灸邪灸大全抜粋』と。
「そ…それは…。」
 あかねがハッとして見上げると、乱馬はフッと鼻先で笑った。
 なびきが八宝斎からくすねてきて、東風へ預けていたあの冊子だ。東風から返却して貰って、あかねが部屋に所持していた筈の本がそこにあった。
 どうして、それを乱馬が持っているのか。考えられる答えは一つ。乱馬があかねの部屋へ侵入して持って来た時に薬と共に持って来た…ということだ。

「まさか、乱馬…。」
 あかねが問いかける。

「ああ…。何だろうと思って、辞書片手に、読ませて貰ったぜ。」
 ニヤリと乱馬が笑った。
「じじいが俺に据えたお灸の正体について書かれた本だよな?」
 乱馬はあかねへと言葉を巡らせた。
 その言葉に、さあっとあかねの顔から血の気が引いて行く。ドキドキと心音が激しく打ち始めた。

「あんたがそれを読んだのなら、話は早いわ。早く破灸しないと…。」
「このままの性格に固定されて、元に戻れなくなる…そう言いたいんだろ?」
 乱馬はあかねの手を離さないで握りしめたままだ。いや、返って拘束が強くなった気がした。
「わかってるなら、さっさと破灸しなきゃ…。」
「いや、その必要はねえ…。」
 そう言いながら、上に乗っていたあかねをくるりと翻した。そして、あかねを蒲団へと押しつける状態になり、上下が逆転した。そう、乱馬があかねに馬乗りになっている…そんな構図が出来上がった。

「ちょっと…乱馬、何を…。」
 焦ったのはあかねである。
 乱馬の身体を跳ねのけようと、手足をバタつかせようと試みたが、徒労に終わった。仮にしも、無差別格闘早乙女流の二代目だ。あかねの動きを封じることなど、お茶の子さいさいなのである。
「何って、決まってるだろ?朝までおめーと愛し合う…。」
「じ、冗談は止してよっ!」
「冗談なんかじゃねえ。俺は本気だぜ。」
 乱馬はあかねを抑えつけながら、肌を密着させて来た。
「お姉ちゃんたちを呼ぶわよっ!」
 あかねは身をよじらせながら吐きつけた。
「無駄だよ…あかね。誰も来ねーよ…。だって、みんな、その睡眠薬で、朝までぐっすり眠りこけるだろうからな。」
 乱馬の瞳が妖しく輝いた。
「まさか…あんた…。」
 その言葉にハッとして、あかねは乱馬を見上げた。
 コクンと揺れる乱馬の頭。おさげ髪があかねの首筋に触れる。
「ああ…。かすみさんが淹れたお茶に混ぜて飲ませたぜ…。その睡眠薬をな。親父もおじさんも、かすみさんもなびきも、みんな、夢の中さ。泣こうが叫ぼうが、誰も来ねーよ…。つまり、この家の中で起きているのは俺とおめえだけだ…。あかね。」
「ちょっと、あんた、本気なの?大破恋灸を据えられてるままで良いの?そのお灸のせいなんでしょ?こんなことをするのもっ!」
 あかねの悲壮な声が響き渡った。
 束縛を解こうと、必死で身体を左右に動かす。が、所詮、男と女の力の差は歴然だ。いくら足掻いてみたところで、寝技の急所を良く知る乱馬の敵では無かった。
 力で叶わないとなると、説得するしかない。
「お灸の力に蹂躙されたまま、こんなことを望むなんて…。乱馬らしくないわっ!奥手な乱馬はどこへ行ったのよっ!大人しくあたしに破灸されて元に戻ってよっ!乱馬っ!あたしは、嫌よっ!嫌ったら嫌っ!」
 あかねなりに必死だった。こんな説得を聞き入れてくれるか否かはわからなかったが、ここは全身全霊で拒否する姿勢を見せたかった。
 と、乱馬はあかねを真上から覗きこみながら問いかけて来た。
「嫌…か…。本当に…そう思ってるのかよ…?」
 その問いには答えられなかった。何故なら、そのまま、乱馬の熱い唇があかねの口をふさいでしまったからだ。
 絡まる手ががっしりとあかねを拘束しているので、身動き出来ぬまま、桃色の乱馬に奪われてしまった。


 ん…。



 傍でもれる吐息は、甘く熱を帯びていた。そのまま、乱馬の熱で溶かされてしまうのではないかと思うほど、熱い。動転している気でどうにかなってしまいそうな、軽い目眩(めまい)を覚えた。

 本当はこんな熱いキスを身体が求めている…。
 あかねの身体から力がフッと抜けた。「抵抗」という文字が、その場から消えそうになった。

 どのくらい、そのまま唇を合わせていたのだろうか。数秒という時間だったのだろうが、長く感じた。
 

「そらみろ、全然嫌がってねーじゃん…。」
 ふっと離れ際に乱馬が声をかけてきた。
 身体は火照って、今にも火がつきそうなくらい熱い。唇を離されると、ハァーっと長い溜息が零れ落ちた。

『のまれちゃダメっ!!』という感情と『このまま身を任せなさい!』という、二つの感情が、あかねの心でせめぎ合っていた。

「もう、後には引きたくねえんだ…あかね…。」
 切なげな瞳が目の前で揺れた。
「何故…?どうして?」
 震えながらあかねが小声で囁きかけた。
「確かに…大破恋灸とかいうお灸のせいで、俺の感情が高ぶってるってことは百も承知だ…。でも…。」
 あかねの頬に手を当てながら、乱馬は続けた。
「おめーが好きだっていう感情には、嘘いつわりは無え。ここで引き返したら、俺はまた、優柔不断な男に戻っちまう…。己の感情にも素直になれない天邪鬼な男にな…。おまえを必要以上に傷つけたり、怒らせちまうチンケな男に戻っちまう…。そんなのは、嫌だ。」

 真摯な瞳が上から降りて来る。

 それは乱馬の正直な胸の内なのだろうか。単にあかねを口説いているだけなのだろうか。
 
『このお灸を据えられた者は、優柔不断だとか羞恥とかいう理性の武装を削ぎ落し、本性をさらけ出してしまうんだ…。』
『ってことは…あかねに対して異常なまでに執心したのも、乱馬君が心根からあんたに惚れてるってことの裏返しよねえ…。』
 東風となびきの声が脳裏で響いた。
 
 

(…今のは乱馬の本心…?それとも…ただの欲望…?)


 あかねはギュッと再び手に力を入れた。


(乱馬があたしに執拗に迫ってくるのは、全て本心の成せる業なんだ…。だから欲望もたぎっている…。)


 そう考えると、嬉しい反面、切ない思いが突き上げて来た。
 出来ることであれば、お灸の力など借りずに、ちゃんと口で愛の言葉を言って欲しい…。それが乙女心というものだ。


「あかね…。だから、俺は後へは引かねえ…。俺たちは自他共に認める、相思相愛の許婚同士だ…そうだろ?」
「だったらどうっていうの?」
 勝気な瞳で乱馬を見上げた。
「好きという言葉は言わなくても伝わってる。おまえも、いつかは俺と身体を合わせることを切に望んでいる…。じゃねーと、容易にキスを受け入れるなんてことはしねえーはずだ…。」
「たいした自信ね…。」
「ああ…。今のキスで確信したさ…。おめーは俺にベタ惚れだってな…。だから…。俺の全てをおめーにやる…。そして、おめーの全てを俺が貰う…。」
 そう言って乱馬は、熱い唇を再びあかねへと押しつけた。今度は押しつけるだけではなく、全てを吸い上げるように、舌先を絡めてくる。
 あかねはその余りに激しい衝動に、全てを許してしまいそうになる己が怖かった。

 いや、最早、抵抗は意味を成さないだろう。全てを剥ぎ取られ、彼に心ごと持っていかれる。確かに彼が言うように、それは己も望んでいたことではないか…。

 ともすれば遠のきそうになる意識を、かろうじてあかねはそこへ繋ぎとめた。

…優柔不断は…あたしも同じ…乱馬だけを責められないわ…

 あかねは決意した。

「いいわ…。乱馬…。あんたの望むとおりにすれば良いわ…。あたしはもう、抵抗はしない…。しないけど、一つだけお願いがあるの…。」
 乱馬のキスが途切れた時、少しはにかみながら、彼を見上げた。乱馬で無くても、思わず抱きしめそうになるほど、いじらしい瞳を彼へと廻らせて見せた。
「願い?なんだ?そいつは…。」
 あかねの言葉に不思議そうに見降ろして来た。
「乱馬…あたしの手作りチョコレート、食べてくれなかったでしょう?不味いとか言って…。」
「あん?」
 話の先が見えて来ない彼は、首を傾げた。

「実はね…ここに一つだけ、持って来たんだ…。」
 とはにかむようにポケットからチョコレートを取り出した。ここへ来る前にポケットに忍ばせたチョコレートだった。

「おめー…まだそんな物騒な物、持ってんのかよー。てっきり処分しちまったって思ったのによー。そんなもん、ここで出されたら興ざめだぜ?」
 などと失礼な返答が帰って来た。
 無論、カチンと来るのをあかねは拳を握りしめて耐えた。そして、できるだけ可憐に振る舞いながら、大きな瞳を乱馬へと廻らせた。
 暗がりの中ではあったが、豆電球の光であかねの表情は何となく察しがつく。

「わかってる…。あたしってば思いっきり不器用だから…手作りのチョコレートなんて乱馬の口に合わないことくらい…。でもね…。」
「でも?」
「夢だったの…。子供の頃から、好きな人に自分の作ったバレンタインチョコを食べて貰うことが…。」
「いや、これから毎年バレンタインは廻って来る訳だから…別に、今、ここで俺が食べなくても…。」
「だって…。乱馬とここで結ばれたなら、来年はもう夫婦になってるでしょう?っていうことは独身最後のバレンタインよ…。だから、相思相愛の恋人にお手製のチョコレートを食べさせてあげたいっていうあたしの夢はかなわなくなっちゃうわ…。」

 どこからそんなぶりっ子声が出て来るのか、自分でも不思議に思えて来るほど、あかねは、大げさ、且つ媚びた瞳を乱馬へと投げかけた。

「だから…。このチョコレートをあたしの手から食べてくれたら…この先は…あたし…その…乱馬、あなたが好きにしてくれたら良いわ…。あたしの全てをあなたに捧げるから…。ね?お願い…。」
 少し肩をすぼめ気味に、俯き加減で囁くように言い放つ。
 
 その仕草に、キュンと胸を射ぬかれたのは、他の誰でも無い、それを黙って見下ろしていた乱馬だった。

(かわいい…。)
 心根から思ってしまった。
 邪灸のせいで理性を失っていた乱馬だが、最後に薄く残っていた理性の膜までそのあかねの言葉で、見事に吹き飛んでしまった。
「わかった…。俺も男だ。おめーの夢を壊す訳にはいかねーもんな…。但し、一粒だけだぞ。それ以上は食わねーぜ。」
 と承諾したのである。

「本当?一粒だけでも食べてくれるの?」
 あかねはパアっと目を見開いた。
「ああ…男に二言は無え。」
 乱馬は言い切った。
「嬉しい…。」
 出来る限りの可愛い声で、あかねは嬉しさを表現して見せた。勿論、演技だ。

「じゃあ、あたしが食べさせてあげるからね…。乱馬…あーん。」
 あかねはチョコレートから銀紙をはがすと、目の前に開いた乱馬の口の中へと、チョコレートを放り込んだ。

「んぐ…。」
 予想していた衝撃は来なかった。というより、ちゃんとココアの味がした。
「へえ…まともな味してるじゃねーか…。」
 モゴモゴと口を動かしながら乱馬があかねへと声をかけた。
「そう?ちゃんと食べられた?」
 ニコニコと笑いながらあかねが対する。
「ああ…。これなら、食える…。」
「なら…もう少し、食べてくれる?」
「ああ…。」
「じゃあ、あーん…。」
 じゃれあう恋人たちのように、あかねは嬉々として、二つ目のチョコレートを乱馬の口へと放り込んだ。
「へええ…。おめーもちゃんと作れることがあるんだ…。痺れるくれえ、旨えぜ…。」
 そう言った乱馬の動きが一瞬、止まった。
 というのも、何故か舌先から痺れが来たからだ。無論、舌先だけでは無い。瞬く間に、身体中に痺れが廻り始める。

「おめえ…。このチョコレート…まさか…痺れぐすり…。」
 そう言って、乱馬の言葉が途切れた。


 ドスッ!


 次の瞬間、あかねの拳が、乱馬の丹田を襲っていた。すかさず、乱馬の丹田のツボを思いっきり押しあげるように殴りつけたのである。

 うごっ!っと息を吐きだして、乱馬の動きが止まった。

「ごめんね…乱馬…。これはあたしの作ったチョコレートじゃないの…。小太刀が作った特製痺れ薬入りのチョコレートなの…。」
 ふううっとあかねは吐きだした。
「何で、てめーがそんな物を…?」
「なびきお姉ちゃんが密かにあんたのバレンタイン戦利品からより分けていたものよ。小太刀のチョコレートなら痺れ薬が混ざってる筈だってね…。兄の九能先輩が引っかかって痺れまくってたって…。」
「ははは…小太刀のチョコか…。道理で…。しびれる筈だぜ…。畜生…もうちょっとでおめーと睦びあえたのに…。」
 乱馬はそう言い遺すと、そのまま、己の蒲団の上へと、俯きに倒れ込んだ。

 ドサッと音がして、倒れ込んだ乱馬の背中から、真っ黒な煙がもわもわと吹きだして来た。お灸を据えた時のような、もうもうたる煙が乱馬の背中全体から染み出してくる。
「な…何?この煙は…。」
 あかねが目を見張っていると、背後で声がした。

「大破恋灸が身体から抜け出る煙じゃよ……。」

 カタカタと乱馬の部屋の窓が開いて、そいつはそう言いながらにゅっと入り込んで来た。大方、ガラスにへばりついて、乱馬とあかねの様子を見守っていたのだろう。

「その声は、お爺ちゃん?」
 そう、見覚えのある小さな老人の影が、そこに立っていた。

「あかねちゃん。お主の破灸、見事じゃったぞ。これで、乱馬も悪夢から醒めるじゃろう…。」
 ウンウンと短い首を縦に振る。
「天道家の面々は睡眠薬でぐっすり眠っておるじゃろうし…。乱馬も暫くは動けまい…。ってことで、あっかねちゃーん!ワシと朝まで睦合おうぞーっ!」
 八宝斎はその小さな身体、全身であかね目掛けて飛び込んで来た。

「睦合う訳、無いでしょうーっ!」
 あかねはそう怒声を上げながら、飛び込んで来る八宝斎の大口目掛けて、持っていたチョコレートを引っ掴んで放り込んだ。
 無論、小太刀の痺れ薬チョコレートだ。八宝斎を瞬殺してしまった。口から泡を吹いて、痺れ出し、苦しみ出す。が、勿論、己を襲って来た相手だ。あかねがお手柔らかにかわす訳が無い。
 白目を剥いた八宝斎の襟ぐりに掴みかかると、開いた窓から思い切り外へと蹴りあげる。

「いっぺん、死んで来いーっ!このどスケベじいさんーっ!」
 夜の四十万に、あかねの怒声と共に、放り投げられる八宝斎。哀れ、冬の夜空の星となり、消えて行った。


 あかねはホッと溜息を吐きだすと、そっと乱馬の寝床を抜け、廊下へ出た。
 寝静まった天道家。シンと静まりかえっている。
 自分以外の全ての家族は、眠りの底へと漂っている。

「あー、疲れた…。」
 そう吐きだすと、自室へ戻り、そのままベッドの上へと身を投げ出した。



☆★☆

 
 翌朝は何事も無く、平穏に明けた。


「何とか破灸できたみたいね。」
 起き抜けに、なびきはあかねの部屋へと言葉をかけてきた。

「まーね…。何とか修羅場は凌げたわ。」
 あくびをしながらそれに答えるあかね。
 


「やーっ!」
「まだまだっ!」

 冷え上がった庭先では、朝っぱらから、早乙女親子の元気な声が響き渡って来る。

「元気な親子ね…。」
「迷惑極まりないわ…。たく、休日の朝っぱらから。もう少し眠りたいのに…。」
「あら、あんたらしくない言動ね…。」
「みんなは、睡眠薬のせいでぐっすりだから良いでしょうけど…。あたしは夜中に身体はってたのよ…おかげで寝不足よ…。」
 ふわあ…と生あくびばかりが出て来る。
 正直、もう少しベッドに居たい。

「あんたたちの関係も元の鞘かあ…。」
「元の鞘も何も…何も無いわよ。」
「そう?でも、本心はちょっと惜しかったと思ってるんじゃないの?」
「まさかっ!」
 あかねは吐きだした。
 積極的な乱馬はどこかしら鬼気としていた。それなり愛されているという実感は持てたが、あまりに直情的過ぎた。己の欲望と愛情がごちゃ混ぜになったような混とんぶりに、翻弄されたあかね。
「ま、あの優柔不断も元の鞘なんでしょうけど…。」
 あかねは視線を窓の下へと移した。
 庭に、小太刀、右京、シャンプーの三人娘が御乱入した模様だ。逃げ惑う乱馬が映し出される。
 昨日の今日だ。当の本人(乱馬)は破灸と共に恐らく記憶が削がれ、忘れてしまっただろうが、恐らく、あかねに対して、許婚宣言をしたことを快く思っていない彼女たちはそれなり必死で追いすがっている筈だ。
 慣れっこになった風景だとはいえ、その辺り、やはり複雑な心情で見下ろす。

「…たく、あの優柔不断ぶりは、筋金入りよ。そうすぐさま直るとは思えないわ。」
 あかねはくんと伸びあがりながら、そう吐き出した。

「でもないと思うけど…。」
 にやにやとなびきが笑う。
「何でそう思うの?」

「って、あんた、昨日の喧騒でさっきまでぐっすりだったもんね…。」
「それがどうしたの?」
「だったら…これ…気付いてないか。」
 そう言いながら机の上を見て笑うなびき。見ると机の上に紙きれが置かれているようだ。レポート用紙を引きちぎった紙だ。

「何それ…。」
 あかねはその紙きれを姉から受け取る。と、そこにはメッセージが書かれていた。

『後で出掛けるから、準備しとけ。チョコのお礼だ!』
 乱馬の字である。

「デートの誘いね…。ま、あの様子だと、出掛けるのは難しいかもしれないけど…。少しは進歩したんじゃない?彼なりにさ…。」
 そう言って立ち上がる。そして、一言、声をかけた。
「そうそう…今回の騒動のあたしへの報奨金は二千円ね。格安よ。」
 あかねは姉を見つめ返した。
「報奨金って…まさかお姉ちゃん、東風先生に相談に行ったこととか、乱馬の対処法を考えた事とか…有償にする気なの?」
「当り前でしょ?貴重な時間と知恵を裂いてあげたんだから。」
 強欲な姉らしい言葉だ。
 呆れ果てて、二の句が継げないでいると、姉はパタンと数枚の写真を机の上に置いてあった。
「あ…一応、これはあんたにあげるわ。今回のサービス品。じゃ、後で集金するからね。」
 そう言ってなびきは部屋を後にした。
 
 どこまで貪欲なのか…と呆れ果てながら、姉が置いて行った「サービス品」へと手を伸ばす。
 デジタル写真だった。それも、乱馬があかねに絡んでいる、決定的瞬間ばかり。熱い抱擁やキスの記憶が身体を駆け巡る。

(お姉ちゃん…もしかして…。)

 あの抜け目のない姉のことだ。もしかすると、乱馬にも同じ物を見せつけて、たかったのかもしれない。いや、たかったのだろう。

(だから…乱馬の奴…。)
 紙きれを見ながら、ふと思った。写真を見せられて、己の所業に焦ってあかねを誘ったとも考えられる。
 いや、案外、乱馬も記憶しているのかもしれない。あの騒動からまだ、顔を合わせていないから、確かめても居ない。



…あの様子じゃあ、出掛けるのは至難の業かもしれないけど…。
 庭さきで繰り広げられる追い駆けっこ。それを見下ろしながら、あかねはフッと微笑みながら立ち上がった。
…いつでも出掛けられる様に…用意しておかなくちゃね…出掛けられたら、たまには素直に甘えてみようかな…。





 冬の休日、昼下がり。
 今日も雲ひとつなく、晴れ渡っていた。




(2013年8月11日 一話から修正・完筆)




 ラストをどうもっていくか、結構悩んだなあ…。
 で、バレンタインから半年経ちました(爆)


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