スイート★パニック


第七話 最後の手段


十三、

 夕食後、そのまま、茶の間で団らんへと移ろうのが天道家の通常の姿だった。

 かすみは洗い物が片付くと、明日の弁当の仕込みなど、まだ台所仕事に余念が無い。
 早雲と玄馬はストーブを縁側へ持ち込んで、詰将棋の勝負中だ。
 あかねは、ぼんやりと雑誌に目を通しながら、バラエティー番組を観ていた。
 
 そこへ、なびきがほっこりと湯煙を上げながら入って来た。
「ああ、良いお湯だった…。あれ?乱馬君は?」
 キョロッと見渡して、そこに居る筈の乱馬の姿が無いことになびきが気付いたようだ。
 いつもなら、家族に混じって、父親たちのへぼ将棋の横で、腕立て伏せや鉄アレイで身体を鍛えながらテレビを観ている彼が居ないのが、不思議に思えた。
「二階よ。」
 と気のない素振りであかねが答える。
「二階?」
「ええ、明日提出の宿題を仕上げるんですって…。」
「ふーん…。あんたは?」
「あたしならとっくに済ませてあるから。」
「そっか…。化けの皮が剥がれて、真面目になった分、あんたのノートに頼らずに、自分でやってるって訳か。」
「みたいね…。いつ頼って来るかと思ってるんだけど…。今のところは音沙汰なしよ。少々それが不気味っちゃあ、不気味なんだけど…。」
「で?彼が居ないうちに…。」
「そうね…。かすみお姉ちゃんにも手伝って貰って…。」
「それがいいわね。あんた一人じゃ、失敗しそうだし。」
 ニッとなびきは笑った。
「失礼しちゃうわね。」
 あかねはぷくっと膨れて見せた。
「とにかく…今がチャンスよ。乱馬君がここに居ないなら仕込み易いでしょ?」
「そうね…じゃ、あたし、薬を取って来るわ。」
 あかねはすっくと立ち上がると、自室へと駆け上がった。

 途中、乱馬の部屋を覗くと、本当に宿題を片付けている様子だった。
 真面目に彼が家庭学習に勤しんでいる姿など、見たことも無かった。試験の前になると、あかねに泣きついて来て、一緒に山を張りながら勉強を教えるのが関の山だったのに、この光景は何だろう。
(やっぱ、これは、いつもの乱馬じゃないわよね…。異常事態だわ…。)
 そう思わずにはいられない。
 とにかく、元の乱馬に戻さなければ…安心して一つ屋根の下に過ごせない。
 とっとと睡眠薬を服用させて彼を眠らせ、東風が教えてくれたように、破灸点を思いっきり指圧してしまわなければ…。
 はやる気持ちを抑えて、あかねは自室へ薬を取りに入った。
 そして、それを隠し持って、茶の間へと降りる。

 かすみとなびきが茶の間で談話している。その前に、チョコレートが並んでいた。丁度、宝箱のようにきれいに包装されたチョコレートばかりだった。あかねの手作りでは無い、既製品だ。
 
(やっぱ、誰もあたしの作ったチョコは食べる気なんてないわよねえ…。)
 苦笑いを浮かべながらあかねはその宝石箱を眺める。
 乱馬のために作ったものがあかねの部屋に残されている。ここへ持って来ようかと思ったが、やめた。八宝斎の爺さんが目を回した曰くつきのチョコレートだ。持って来たところで、誰も手をつけたがらないだろう。
 今年こそ…と思って小学生の頃以来、何年作り続けていることか。勿論、ただの一度さえまともに作れた試しは無い。乱馬が「頼むから買ってくれ!」と懇願するのも頷ける腕前しか持ち合わせていない。
(今年も諦めるかな…。)
 ふうっと溜息を吐いたところで、乱馬が下へと降りて来た。

「はああ…。頭を使うと甘い物が食べたくなるな…。」
 などと言いながら、肩を叩いている。

「慣れない頭を使うと、余計に甘いものが欲しくなるのではないか?」
 玄馬が笑いながら、それに対する。
「いや、結構。勉学に勤しむ、これ非常に結構。乱馬君はやる気だね?実に頼もしい。」
 早雲がニコニコと笑顔を乱馬へと手向ける。
 この脳天気な親父たちは、とにもかくにも乱馬があかねに好意的になったのと、真面目になったのが嬉しいらしい。それが、たとえ、怪しいお灸の成せる業だと言え、そんなことはお構いなしだ。
 乱馬とあかねの仲が睦ましくなり、しかも、乱馬が天道道場の跡取りとしての自覚が芽生えたことは、この父親たちにとって吉事に違いないのである。

「ここらで一息入れなさいね。乱馬君。あんまり急にこんを詰めると、後が続かないわよ。」
 かすみがニコニコと乱馬へ声をかけた。
「一家団欒、結構。みんなでチョコレートをいただこうではないか。」
「だねー。バレンタインは終わったが、まだまだ、チョコレートはたくさんあるからねえ。」
 早雲と玄馬がはしゃぎながら将棋をさしていた縁側から炬燵のある茶の間へと移って来た。
「元はと言えば、これは俺の貰ったチョコレートなんだけどよ…。」
 じろっと乱馬が父親たちを一瞥する。
「何、ケチくさいこと言ってるんじゃ。おまえは!散々世話になっている天道家の皆様といただくのに何文句があるんじゃ?」
「おじさんやかすみさんには世話になってるが、親父には世話にはなってねーぞ。」
 乱馬がボソッと言った。
「良いではないか。チョコレートの一つや二つ。」
「だから、てめー(親父)に食われるのが気にくわねーだけだ。俺は。」
 ムスッと乱馬が言い返した。

「まあまあまあ。喧嘩は止そうよ。早乙女君に乱馬君。他にもかすみやなびきから貰ったチョコレートもあるから、早乙女君はそっちでも良いだろう?とにかく、みんなで仲良く、いただこう。」
 根っからの平和主義者の早雲が、雲行きの怪しい早乙女親子の間に割って入る。
「そうよ…乱馬。みんなでいただきましょうよ。」
 あかねもそれとなく、大人なげない乱馬へと声をかけた。
「ま…あかねがそう言うなら…。」
 乱馬はフッと息を吐いた。

「一つだけ言っておくが…この箱はあかねが俺にくれたもんだから…絶対に、食うなよ。」
 そう言いながら、あかねが渡した箱を別に避けた。
「本命からいただいたものは手をつけるなってか?」
 ツンツンと玄馬が乱馬を突いた。
「あったりめーだ。もしこれを食ったら…。」
「もしこれを食ったら?」
「明日の太陽は拝めねえと思えよ…。」
 どすの利いた声を乱馬は玄馬へと廻らせた。口元は笑ってはいるが、目は決して笑って居ない。どことなく、底知れぬ迫力が乱馬の言動へと乗せられていた。
「はははは…。こいつめっ!いけしゃあしゃあとのろけよって。」
 バシバシと玄馬は乱馬の背中を叩いた。
「あはははは、実に結構。仲良きことは美しきかな。二人がその気なら、いつ祝言を上げたって良いからねー。お父さんたちは大歓迎するよ。」
 早雲も御機嫌である。

「ちょっと…いくらなんでも。祝言なんて…。」
 いきなり話が進んで行きそうな勢いなので、あかねが横から茶々を入れようとした。と、乱馬がそれをグイッと抑えた。
「ってことは、おじさん…。俺とあかねの結婚を認めてくれるって理解しても良いんだな?」
 そう突っ込みを入れて来た。瞳は心なしか、輝いて見えた。
「ああ。勿論だよ。乱馬君とあかねは許婚同士だ。遠慮することはないよ。二人がその気になりさえすれば、いつ祝言を挙げてかまわないよ。」
 早雲が答えた。

「ちょっと、お父さん。祝言って言ったって乱馬君はまだ十七歳よ。日本の法律じゃあ男は十八歳にならないと婚姻届は出せないわよ」
 となびきが声を挟んだ。
「でも、春が来れば十八歳だぜ。そうなれば、いつだって婚姻届は出せる。なあ、あかね。」
 乱馬はニッと微笑んだ。
 勿論、あかねの背中にはゾッと冷たい汗が流れ落ちる。何故だろう。乱馬の微笑みの中に、得体の知れぬ何かを感じ取ったのである。心をそのまま鷲づかみにされたような感覚に捕えられた。
「ま、婚姻届は春に出すとしてもだ…あかねと結婚前提で絆を深めて行くのは構わねーよな?おじさん、親父…。」
 と彼は父親たちに言葉を投げた。

「ああ、構わないよ。好きにやってくれたまえ。」
 早雲は上機嫌でそう切り返した。
「特に異存は無いぞ。元々おまえたちは許婚なんじゃから。そうそう…何なら寝室も一緒にするかね?わっはっは。」
 にっこりと笑う玄馬。
「これは思ったよりも早く、孫が抱けそうだね。早乙女君。」
「ワシらはお爺ちゃんってか?」
 父親たちは勝手気ままに話し出す。
 その様子越しに乱馬はあかねを真摯に見詰めた。

(親父たちの許可は取れたぜ…あかね…。)
 彼の視線はそう語りかけてくるようだった。
 その瞳に魅入られて、(不味い…このままでは本格的にやばい…。)あかねの本能がそう警鐘を鳴らした。
 傍のなびきも、やれやれと溜息を吐きだしながら、あかねをチラ見する。
(心して今夜中に片をつけなさいよ。じゃないと、このままだと乱馬君に一生、付きまとわれるわよ…。)そんななびきの心の声が響いて来そうだった。

「まあ、御託はそれくらいにして…。お茶にしましょうよ。折角、チョコレートがたくさんあるんだから。」
 なびきが話を変えて来た。
 あまり深入りさせたくない。そう気を利かせたのかどうかはわからないが、一同はチョコレートに手を伸ばす。
 チョコレートにはコーヒーか紅茶で、緑茶はそぐわない感じもするが、それはそれで甘さが通り過ぎた喉を潤すには、格好の飲み物である。夜も更けて来るので、茶葉で入れた薄めのお茶だ。緑茶とてあまり濃くすると、カフェインがきつくなり目が冴えてしまうから、適度な薄さで淹れてある。その辺りはこの家の主婦、かすみの采配だ。

「最近は色んなチョコレートがあるんだなあ…。」
 カラフルに彩られたチョコレートが駄菓子の器の中に、無造作に入れられてある。それを摘まみあげながら早雲が目を細めた。
「味もこってますなあ…。」
 玄馬ももごもごと口を動かしながら頷く。

「あかねは食わねーのか?」
 乱馬がまだ手をつけようとしないあかねへと声をかけて来た。
 正直、チョコレートを食べる余裕など、あかねには無かった。どうやってばれないように乱馬のお茶に眠り薬を処方するか、その隙を狙っていたのである。手には薬を握りしめていた。
「俺が食わせてやろうか?」
 いたずらな瞳があかねへと注がれる。
「冗談でしょっ!」
 つい、怒声が漏れる。
「いや、俺、本気だけど…。何なら口うつしで食わせてやろうか?」
 その一言に、天道家の面々が固まった。早雲も玄馬も、わはははと笑いながら無心を装ってチョコレートを食べている。
「いい加減にしないと怒るわよっ!」
 あかねが真っ赤になって乱馬を睨みかえす。

(もう…また、熱くなっちゃってこの子は…。)
 なびきがお茶をすすりながら、あかねを見据えた。
(たく…しょうがないわね…。)
 フッと溜息を一つ吐きだすと、なびきはあかねのセーターの裾をそれとなく引っ張った。乱馬からは死角になっている。
 ハッとそのなびきの手に、あかねは我に返る。このまま、熱くなっては薬を処方するチャンスを逃してしまう。そう思ったのだ。
 が、この姉は、あかねへ向けて、トンでも無いことを言い出した。

「折角だから、乱馬君にチョコを食べさせて貰ったら?あかね…。」
 とニッと笑って見せた。
「なっ!お姉ちゃんまで、何言い出すのよっ!」
 あかねが怒った顔をなびきへと手向ける。
「ま、口うつしってのは、家族の面々の前だから遠慮して貰うとしても…手移しだったら良いじゃん。そのくらい…。あんたたちは許婚同士なんだから。」
 とにべも無い。
「よ…良かないわよ…。」
 しどろもどろのあかねの左手から、隠し持っていた薬をなびきはサッと掴み取った。このままあかねに任せておけば、しくじる。この聡明な姉はそう判断したようだ。
 あまりに一瞬の早技だったうえ、乱馬からは完全に死角になっている。当然、彼はなびきの動きを察しえなかったようだ。

(ちょっと…お姉ちゃん…。)
 あかねは視線でなびきを追った。
(いいからあたしに任せなさい。)
 なびきは視線でそう言いかえした。
 その向こう側のかすみも、ニコニコしながら、暗に頷いて見せる。
(なびきちゃんに任せなさい。あかね。)

 三姉妹のテレパシーである。

(この際、仕方ないか…。)
 ふうっとあかねは溜息を吐きだした。
 
「じゃあ、ジャンケンして、乱馬が勝ったらあかねにチョコを食べさせてあげる権利を得る…ってーのはどう?」
 すかさず、なびきが提案を試みる。
「ジャンケンかあ?格闘家たるもの、力勝負で勝敗を決めたいけどなあ…俺は。」
 乱馬がそれに返答を返して来た。
「力勝負じゃあ、あんたの方が有利じゃないの。」
「そうかあ?あかねは結構馬鹿力だと思うけどよー。」
「ジャンケンだって勝負には違いないわよ。」
「ま…いいか。それでも。」
 と乱馬はあかねへと視線を投げた。
「そうね…。ジャンケンなら公平な勝負になるわね。」
 ニコニコとかすみが頷いた。

「じゃあ、公明正大で勝負だ、あかねっ!」
 俄然、乱馬はやる気である。
「わかったわ…。じゃあ、いくわよっ!」

「じゃ、掛け声はワシがかけるぞ。」
 玄馬が横から割って入った。
「それ、ベーゼをするなら、こいういう具合にしやしゃんせ~アウト、セーフ、よよいのよいっと。」

「何だそれは?何の歌だ?」
 乱馬とあかねがキョトンと玄馬を見つめ返した。
「こら、よよいのよいが合図じゃ。おまえたちは、野球拳を知らんのか?」
「知らねーよ。そんなの。」
「昭和のジャンケン遊びの一種よねえ…。おじさま、古い…。」
 あかねが横から声をかけた。平成の御世にあって、野球拳など知る若者は少なくなっているだろう。乱馬が知らなくても当り前である。が、玄馬はそんなことはアウトオブ眼中だ。

「四の五の言わず、よよいのよいで、ジャンケンじゃっ!ほれ、行くぞっ!」
 どこまでもお茶らけた玄馬である。その横で、早雲もはしゃぎ出す。
「ワシも一緒に歌っちゃおうー、それ…。野球う~す~るなら…。」
「こらこら天道君、野球をするんじゃなくてベーゼだよ、ベーゼ…。その辺りはアレンジしなきゃ。」 
「あはあは。アレンジだね?早乙女君。」

 ポカンと口を開ける若者たちを余所に、オヤジーズは悪乗りし始める。

「ささ…お二人さん。行くぞっ!」
 促されて、渋々、二人は真剣勝負に臨む。
「ベーゼす~るなら~こういう具合にしやせんせ~っと、アウト、セーフ、よよいのよいっ!ほれ、よよいのよいっ!あそれ、よよいのよいっ!」

 父親たちの歌と踊りに合わせて、乱馬とあかねがジャンケン勝負をする。どちらも真剣だった。乱馬はあかねのキス欲しさ、あかねは阻止すべく。
 何度かのあいこの末、あかねはパー、乱馬はチョキで勝負がついた。

「やったー。俺の勝ちだーっ!」
 全身全霊で乱馬は喜ぶ。
「ほら、あかね…。俺がとっておきのを食わせてやるぜ。どれにしようかな…。」
 無邪気なものである。
 適当にチョコを一つ、つまみあげると、乱馬はそれをすかさず口へ含んだ。そして…あかねの口にそいつを口うつしで食べさせる。

「おおおっ!」
「ややや…!」

 すっかり毒気を抜かれたあかねは、全身で固まってしまった。
 そう。また、乱馬に口うつしでチョコレートを食べさせられてしまったのだ。しかも、家族の前で。
 あかねの顔は真っ赤に熟れた。そして、同時に怒気が走る。

「ら…乱馬ーっ!何てことするのよーっ!ルール違反でしょうがあっ!」
「へへへっ!油断してるおめーが悪いっ!何ならもう一個行くかあ?」
「い…行く訳、無いでしょうがあーっ!」
 二人のじゃれあいのような小競り合いが繰り広げられる中、なびきはささっと玄馬と早雲、それから乱馬のお茶の中へ、薬を混ぜ入れた。勿論、誰に気付かれることなく。もし、気付いた者が居るとすれば、かすみ一人だろう。
 後は、乱馬と父親たちがこのお茶を飲めば、数十分で眠気が訪れる筈だ。即効性では無く、緩やかに利いて来るタイプの薬だったからだ。

 目の前でじゃれあいを続けている二人。乱馬の手が食卓の上のあかねの湯呑みへと当たった。
「あっ!」
 彼の声と共に、湯呑みが倒れて、テーブルが湯浸しになる。
「あらあら…。」
 かすみが咄嗟にふきんを出す。その辺りは手際のよい主婦だ。
「わ…悪い…。おめーの湯呑み倒しちまったな…。」
 乱馬が焦りながらあかねへと声をかける。
「俺のお茶を飲むか?」

 なびきとかすみはその言を受けて、ギョッとした。ここで乱馬の湯呑みをあかねが飲もうものなら、計画は狂ってしまうからだ。
「あ…。いいわ、ほら、乱馬君。すぐに新しいお茶を淹れるから。ねえ、かすみお姉ちゃん。」
「ええ。乱馬君は気を遣わないで。」
 そう言いながら、かすみは手際良く、ポットから急須へと湯を注ぎ、あたふたとあかねの湯呑みを満たす。
「いいから、乱馬は変な気を回さないで。子供じゃないんだから、自分の湯呑みでお茶を飲むわっ!お願いだから、自分の湯呑みから口うつしであたしに飲ませ無いでよっ!今度、やったら、タダじゃおかないんだから!」
 あかねは茶卓を叩きながら、乱馬を睨みつけた。
「ちぇっ!遠慮しなくても良いのに…。」
「遠慮するわよっ!あんた、いつからそんな節操なしになったのよっ!」
 新しいお茶が入った湯呑みを受け取りながら、あかねが怒鳴る。

「あはあは…乱馬君…。口うつしの飲み食いは、流石にワシらが照れるから…人が居ないところでやってくれるかね?」
 早雲が苦笑いしながら、乱馬へと声をかける。
「まあ、仲が良いことは嬉しいのじゃが…。天道君の言う通りじゃよ…。乱馬。少しは人目を気にしてくれ…。」
「出来れば、結婚してからも、ワシらの前では遠慮してくれたまえよ…。」
 父親たちは苦笑しながら声をかけてくる。
「わかったよ…。人目の無いところでやるよ…。」
 そう口を尖らせた乱馬。
「是非、そうしてくれたまえ…。」

 そんな会話をかわしながら、乱馬や玄馬、早雲たちはお茶をすすり始めた。適温に冷めてきたので、ゴクンゴクンと、睡眠薬入りのお茶は、各々の喉へと吸い込まれて行く。

「ホント…乱馬君…。鬼気として来たわね…。あんたに執拗なまでに執心しているというか…。」
 なびきがこそっとあかねへ耳打ちしてきた。
「うん…。」
 コクンとあかねは頷く。
「ま…彼は本音の部分で、あんたに相当惚れてるってことの裏返しなんだろうけど…。ちょっと異常よね…。」
 それから、なびきはフッと一つ、溜息を吐きだした。
「後は、あんたが頑張んなさいよ…。あんたが風呂から上がって来る頃には、乱馬君も、お父さんたちも眠気に襲われていると思うから…。」
「わかってる…。」
 そう言いながら、なびきもあかねもかすみも、それぞれ、チョコレートを頬張りながら、お茶をすすり始めた。
 
 


十四、

 それから数分後、あかねは茶の間を抜け出して、風呂へと入った。
 夕刻の道場での手合わせからこちら、彼女はまだ風呂へ入って居なかった。乱馬への対処をあれこれ考えを巡らせるうちに、すっかり風呂の順番が後回しになり、今日はあかねが一番最後であった。
 かすみより後に入ることは珍しかった。というのも、彼女は最後に入って、軽く掃除してから出ることを常としていたからだ。掃除だけではなく、汚れものを残り湯で洗濯することもある。
 天道家の湯の順番は臨機応変だった。父親たちが先に入ることもあるし、あかねが一番湯を貰うこともある。その日、その日で風呂順は違っていたのだ。
 結構広い浴室だったので、男性陣はそれぞれペアで入ることもあったが、勿論、女性陣は一人で入る。
 女性の風呂はおしなべて長いものだ。

 ゆったりと湯に浸りながら、あかねはフウッと溜息を吐く。

 なびきが促したように、恐らく、あかねが風呂から上がる頃には、乱馬も父親たちも眠気に襲われる筈である。
 いずれにしても、そろそろ一家の就寝時間である。
 引き戸の向こう側にある洗面所では、入れ替わり立ち替わり、この家で暮らす面々が、歯を磨きに来ている影が写る。チョコレートを食べた後だ。全員、丁寧に磨きに来る。
 最初に来たのは乱馬だった。

「あかね…。背中流してやろうか?」
 とガラッと戸を開けて来た。
 それに目掛けて思わず石鹸を投げつける。
「何、さらっと覗いてるのよっ!このスケベっ!」
 と怒鳴ることも忘れない。
「だって、俺たちは夫婦になるんだぜ?一緒に入っても…。」
「入って来るなーっ!出てけーっ!」
 今度は洗面器を投げつけた。
「たく…わがままなんだから…。」
「どっちがよーっ!いいからお風呂くらい、ゆっくり入らせてっ!じゃないと、水ぶっかけるわよっ!」
「わかったよ…。たく…添い寝して貰いたくなったら、いつでも、俺の寝床へ入って来いよ…。朝まで抱きしめてやっからよ。」
「いいから、御託並べてないで、さっさとドアを閉めて、出てけーっ!」
 肩で息をしながら、あかねは怒鳴った。

「こらこら、乱馬…。おまえ、堂々とあかね君を覗いておるのか?」
 歯を磨きに来た玄馬の声がした。
「っと…親父は見るなっ!」
 そう言うと、乱馬は慌てて戸を閉める。
「ほう…ワシらにはあかね君の裸は見せたくないと…。」
「あ…当り前だっ!見たらぶっ殺すぞっ!親父っ!」
 曇りガラスの向こう側で乱馬が怒鳴る。

「ほらほら、二人とも、さっさと歯を磨いて、洗面所から出て行ってよね…。後がつっかえてるのよ。」
「そうだよ…。眠いんだから…ほら…。乱馬君も早乙女君も、サクッと磨いて向こうへ行ってくれたまえ。」
 洗面所の大渋滞だ。
 歯を一つ磨くのに、わいのわいのと賑やかなことだ。乱馬、玄馬、早雲、なびきと歯磨きが続き、最後に来たのがかすみだった。
「あかねちゃん。お湯は流さなくて良いわよ。明日の朝、残り湯をお洗濯に使うからそのままにしておいてね。」
 と声をかけてきた。
「はーい。」
 と元気よく返すと。
「何だか色々あって、疲れたから、先に休むわね…。火の元ちゃんと閉じておいてね…あかねちゃん。」
 そう静かに言い置いて、かすみはさっさと自室へと上がってしまったようだ。

 かすみが立ち去ってしまうと、途端、火の気が消えたように静けさが戻る。
 パシャッと湯船の水を掻いた音が跳ね返る。どこからともなく、タタンタタンと電車の走り去る音が響いて来る。
 まだ、十時を少し回ったところだろう。世間なら宵の口だ。
 だが、天道家の夜は早い。快食快眠が武道家のモットーでもあるため、日付変更際まで起きていることは稀に近い。あかねもそうである。彼女が夜を徹することは、テスト前など限られた要因がある日だけだ。
 それに、なびきが乱馬や父親たちには睡眠薬を入れたお茶を飲ませている。
 あと数分もすれば、三人ともぐっすりと夢の中だろう。

「さてと…。準備万端…仕上げはごろうじろってね…。今夜中にケリをつけるわ。乱馬…。」
 一度、気合いを入れると、あかねは湯船から上がった。
 ザッと音がして、身体から湯が滴り落ちる。
 湯煙が上がる洗い場から脱衣所兼洗面所へ出る。タオルで身体をしごき、水気を落すと、パジャマを着る。愛用の黄色いパジャマだ。おもむろにハブラシを取り、念入りに歯を磨く。歯磨き粉のミントの香りが口いっぱいに広がる。湯でじゃぶじゃぶと口をゆすぐ。
「おっと…元栓を閉めなきゃね…。」
 キュッと水道の蛇口をひねると、コントローラーで火の元をチェックする。ピッと音がして、給湯器の電源が落ちたことを確認する。
 それから廊下へと出た。

 辺りは不気味なまでに静まり返っている。
 あかね以外の家人は皆、自室へ入ってしまった。風呂場から一番近い早雲の居室からは、いびきが漏れ聞こえて来る。睡眠薬が利いてきたのだろう。早雲は既に夢の中へと深く入ってしまったようだ。耳を澄ますと、別の寝息も聞こえて来る。二階から居室を一階へと移した玄馬のものだろう。
 また、パンダになったようで、動物のうめきのようないびきが聞こえる。
(おじさま、今夜もパンダになったのね…。)
 苦笑いしながら、玄馬の部屋の脇を通り過ぎる。
 毛皮が分厚いから暖かいのとパジャマに着替えるのが面倒だからと、玄馬はパンダで眠ることが多いのだ。歯を磨いたついでに水で顔や頭をしごいて変身するのである。
 現在、玄馬はのどかと二人で一階の奥の部屋で寝泊まりしている。もっとも、ここ数日来、乱馬の母のどかは外泊しているので、玄馬は一人で眠っている訳だ。
 つまり、乱馬は乱馬で二階の一室を居室としている。元々早乙女父子が使っていた部屋をそのまま一人で使っているのである。

 階段を上がって自室へと向かう途中、乱馬の部屋の脇を通った。
 襖越しに彼の寝息も聞こえて来る。
 どうやら睡眠薬が順調に利いたらしい。襖を開いて、そのまま潜入しても良かったが、ここは一旦、自室へと向かった。
 まだ、髪の毛は乾かしていないからだ。天道家は隙間だらけのボロ家だ。冬の夜は冷えるから、髪を濡らしたままだと、てき面風邪をひく。
 乱馬の部屋を通り過ぎて、自分の部屋へと向かう。その途中、かすみとなびきの部屋が並んでいる。
 
(かすみお姉ちゃんもなびきお姉ちゃんも寝ちゃったのかな…。それともあたしに気を遣ってくれているのかな…。)
 二つの部屋とも、起きている気配は感じられなかった。
 朝が早い一家の主婦かすみはともかく、いつもなら、ステレオディスクの音を鳴り響かせて、楽曲を聞いているなびきの部屋からも、一切音は漏れて来ない。二人ともベッドへ入ってしまっかのように静まり返っている。
(あたしは寝ちゃダメよね…。)
 部屋へ入ると、ぱちぱちと頬を叩いた。あまりに周りが静かなので、つい、己も眠りの淵へと引き入れられてしまいそうだった。
 だが、ここで眠ってしまっては計略はオジャンだ。夜明けと共に、乱馬の性格が固定でもされたら…それこそ地獄が待っている。とにかく、ここは破灸あるのみ。
 いつもの如く、化粧水と乳液をパタパタと顔に塗りこめ、それから、濡れた髪にドライアーを当て、乾かす。温風が眠気を少し遠ざけてくれるような気がした。
 とにかく、天道家は自分以外、寝入ってしまっている。ともすれば、乱馬の大破恋灸を始末しなければならない。
 髪の毛を乾かし終わると、すっくと立ち上がった。

(やるっきゃないわね。)
 念には念を入れておくようにと、なびきに注意されていたことを思い出す。
『乱馬君はいつもより数倍、手強いわよ…。とにかく隙が無いから、どういう反撃に出てくるかは未知数だから…。』
 いつものおバカキャラはナリを潜めている。ウブさなど、どこかへ忘れ去ってしまったかのように、積極的、且つ、狡猾だ。
 睡眠薬が利いているとはいえ、相手は武道家。無意識に反撃して来ないとも限らない。
(念には念を入れて…。)
 あかねは予め姉から示唆されていたように、準備にかかった。目の前の紙袋に入っていた包装紙を破り捨てて、数粒のチョコレートを摘まみあげる。手作りチョコレートであることは一目瞭然の代物だった。

『わかってると思うけど…これは最終兵器だからね。いい?あたしの言うとおりに持っておきなさいよ。』
 そう念を押したなびきの言葉が脳裏に響く。

(確かに、手作りチョコレートは最終武器になるんだろうけど…。)
 そう苦笑いしつつも、そのチョコレートを数粒、パジャマズボンのポケットへとしのばせる。それから、ゆっくりとドアを開けた。
 夜の静けさがりを支配する。さっき、風呂から上がって来た時より、冷え込んでいる。
 あかねはカーディガンを上から羽織ると、そっと部屋を出た。
 スリッパは音をたてるから履いていない。が、一応、分厚いルームソックスは履いている。足の冷えは身体の冷えに直結するからだ。身体が冷え切っていては、肝心な時に動けない。仮にしも武道家の卵であるあかねは、ちゃんとそのことを心得ていた。

 当然、廊下の電灯はつけなかった。
 余計な光を漏らして、気配を悟られたく無かったからだ。案外、光源は眠っていても気になる刺激となるものだ。
 あかねは、廊下へ出ると、己の部屋のドアも閉めなかった。極力、無駄な音はたてたく無かった。
 廊下のきしむ音を極力たてないように、暗がりの中、ゆっくりと息を殺して乱馬の部屋へと近づく。たった数メートルの距離なのに、長く感じられた。

 念のため、襖の前で立ち止まり、耳を澄ます。
 襖越しに、一定した寝息が響いて来る。乱馬は眠りこけているようだ。
 あかねは唾をゴクリと飲み込むと、大きく息を吸った。そして、ゆっくりと音をたてないように吐き出して行く。それから、襖の引き手へとゆっくり手をかけていった。



つづく
 




 次が最終話になります…かなり予定を越えて書き込んじゃったなあ…。


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