スイート★パニック


第六話 その男、我がままにつき


十一、

 二月の夕暮れは早い。六時前というと、すっかり真っ暗だった。

 あかねとなびきは、乱馬に言われた門限の刻限である午後六時少し前に、連れだって天道家へと帰宅した。

「ただいまあ…。」
 共に、玄関先で声をかける。
「おかえりなさい。」
 そう言いながら、かすみが奥から出てきた。台所からは夕餉の香ばしい匂いが漂ってくる。
 脇に学生鞄を置きながら、靴を脱いでいるあかねに、かすみが声をかけた。

「あ、そうそう。乱馬君がね、帰宅したら道着に着替えて道場へ来いですって。」
「道場へ?」
 キョトンとかすみを見上げると、のほほんと答えが帰って来た。
「何でも、これからは毎日、学校から帰宅したら、あかねちゃんと二人で道場で汗を流すのを日課にするんですって。」
「何…それ。」
 いきなり姉に言われて、あかねは思わず、問い返した。
「何って、私に訊かれても…。とにかく、夕食までまだ小一時間あるから、道場へ行きなさいね、あかねちゃん。」
 そう言いながら、かすみは奥の台所へと立ち去った。

「一体、何のつもりよ…。乱馬ったら。」
 むくれるあかねに、なびきがトンと背中を叩いた。
「ふふっ、いきなりチャンス到来じゃないの。」
 とニヤリと笑った。
「チャンス?」
 あかねがきびすを返すと、なびきが言った。
「あんたさあ、今夜中に破灸しないとやばいんでしょ?よもや忘れた訳じゃないでしょうねえ?」
「わ、忘れる訳ないわよ…。えっと、乱馬の丹田目掛けて、気を打ち込んで破灸点を強く指圧しなきゃならないのよね…。しかも、明日の朝の太陽が昇る前までにね…。」


 なびきに指摘されるまでも無く、さっきまで居た、小乃接骨院で東風先生にいろいろ示唆されたことが甦る。



『いいかい、この大破恋灸の究極の目的は子宝を授かるとことにあるらしい…。つまり、施灸することによって、優柔不断だとか羞恥とかいう理性の武装を削ぎ落し、施術者の本性をさらけ出させることにあるんだよ。』
『つまり、今の乱馬君は本性剥き出しってことですか?』
『そういうことだね。で、本来の姿に立ち返るということは、本能にも忠実であろうとする…。人間の動物的究極の本能には様々な欲望が絡むだろう?例えば、食欲や物欲…。そして、性欲…。それらを尽く露わにさせるためのお灸…それがこの「大破恋灸」の正体だ。』
『ってことは…。今の乱馬君が素の乱馬君ってことになるわけだ…。』
 姉はニッと笑った。
『あれが、乱馬の本来の姿…。』
 今日一日の乱馬の様子が、走馬灯のようにあかねの脳裏に甦った。
『あかねに対して異常なまでに執心したのも、心根からあんたに惚れてるってことの裏返しよねえ…。それから、勉学に勤しむ姿も見せてたし…乱馬君って本当は勤勉で真面目なのね…。』
 姉に指摘されたことは、多分、本当だろう。
 三人娘や九能先輩に対して、手加減が一切無かったことも、頷ける。英語にしても数学にしても、いつもと心を入れ替えたように生真面目に授業を聞いていた。
 
 夕食まで道場で修行すると宣言しているのも、恐らくは、武道家としての乱馬の真面目さが現れたのであろう。
 
『それから、肝に命じて欲しいんだけど…このお灸は、理性を引き剥がした期間内に破灸しないと、効果がそのまま施術主に固定されるそうだ。』
『つまり、乱馬君を元に戻せなくなってしまうっていうことですか?』
 問いかけたあかねに、ゆっくりと東風は頷いた。
『この本によると、二回目の朝日を浴びたと共に施術が固定する。
 お灸を据えられたのが夕べなら、今朝、一回目の朝日を浴びていることになるね。そして、二回目は…多分、明日の朝だ。天気予報によると、明日は晴れ。朝から冬の好天に恵まれるそうだからね。』
『といういことは、今夜中に何としてでも、破灸しないと…。』
『乱馬君の性質は、このまま固定されてしまう…ってことになるね。』
 
 そう強く言い切った東風の言葉が、脳内に甦った。



「たく…。自分の身に降りかかってることでしょーが…。それとも何?別に積極的な乱馬君に心ひかれるところがあるとか?」
 目の前で姉が笑いながらこちらを見据えて来た。
「ま…まさかっ!」
 思わず、あかねは真っ赤になって怒鳴った。
「なら、道場へさっさと行って乱馬君と組み手なさいな…。」
「組み手?」
「たく…。最後まで言わないとわかんないかしらねえ…。組み手をするってことは、乱馬君の丹田のツボを押すチャンスだってことよ。」
「あ…。」
 あかねは、ようやく、なびきの言わんとしていることが呑み込めた。

 そうだ。破灸点を指圧するためには、乱馬に近寄らねばならない。組み手をすれば、乱馬の身体にそれだけ近寄れ、自然に密着できるチャンスが広がるということだ。

「そういうことよ…。あんただって、最終手段を使うのは気が引けるんでしょ?」
 なびきはニッと笑った。
 あれから、東風やなびきに、いろいろ作戦を練って貰った。
 急に破灸点を指圧しろと言われて、はいそうですかとやいそれ出来るものではない。しかも、乱馬がもんどりを打って倒れる程、強く指圧しなければ、破灸できないときている。
 敏い姉と年長の東風にいろいろ案は捻りだして貰ったが、それはそれ、これはこれである。
 何しろ、時間が無い。
 できるだけチャンスは多い方が良いに決まっている。

「わかったなら…。さっさと着替えて道場へ行きなさいな。」
 なびきはそう言うと、トントントンと先に二階の自室へと階段を上がって行った。



「そーよね…。道場で手合わせするってことは、破灸点を指圧するチャンスが広がるってことだわよね…。」
 あかねは肝に銘じると、これまた、トントンと階段を駆け上がった。
 そうと決まれば、一分一秒も無駄にしたくはない。
 限られた時間内に破灸せねば、己の未来へも多大な影響を及ぼしてしまう。


「絶対、この手で、破灸してやるんだから。」
 そう念じながら、制服から道着へと着替える。
 黒帯を丹田で結び、鏡の前で、姿を写し、気合いを入れる。
「よっし…。見てらっしゃい。」
 そう、気焔を吐きだすと、闘志満々で道場への渡り廊下を歩いて行く。

 「天武館」と書かれた道場の入口。幼いころから馴れ親しんだ引き戸をガラガラと開く。
 と、身体を翻す乱馬の姿が眼に入った。
 ダンと音を立てて、乱馬の姿態が躍動した。
 道場という空間を、縦横無尽に駆け抜ける。床を蹴り、空を跳躍し、伸縮する肢体。道着からせり出した鍛えられた鎖骨と二の腕や足は、艶めかしいくらいに美しかった。
 その雄姿に息を飲み、思わず暫し見惚れてしまったあかね。

(のまれちゃダメ。あれはあたしが良く知る、いつもの乱馬(彼)じゃない。姿勢を正しなさい、あかね。じゃないと、破灸できないわ。)
 
 そう思いながら、ギュウっと握りしめる拳。

 ややあって、乱馬は動きを収めた。
 あかねの気配を察したのだろう。

「よっ、ちゃんと門限に遅れなかったみてーだな。感心、感心。」
 と右手を挙げた。
 そしてツカツカとあかねの方へと歩み寄った。
「ふふ、俺の逞しい肉体を間近で見て、惚れなおしたか?俺って格好良いもんなっ!」
 と笑った。
 元々ナルシストな乱馬である。化けの皮(理性)が剥がれて、余計にその傾向が強まったようだ。
 勿論、その言い方にあかねは、ムッと来たが、グッと抑えた。

「で?ここへ呼び出したのは、どういうつもり?」
 返す口で乱馬へ問いかけた。

「どういうつもりって、ここへ呼び出した理由は一つしかねーだろ?」
 トンッとあかねの前へと近寄って、ニッと笑った。

「だから何?」
 気圧(けお)されまいと、あかねは必死で乱馬に対した。

「だから、修行だよ。」
 乱馬はすっとあかねへと言葉を返した。
「修行?」
「ああ、修行だ。毎日ちゃんと決まった時間、身体を懸命に動かさねえと強くはなれねー。当り前のことだろ?」
「だからって、何で帰る早々にあたしをここへ呼び出したの?」
 キッと見据えるあかねの勝気な瞳。それをニッと笑って一蹴すると、乱馬は続けた。
「俺たちは日本に、いや、世界に無差別格闘流を知らしめなきゃなんねー。そのためには、日々精進ってな…。だから決めた。」
「何を?」
「共に、強くなるってな。」
「共に?あたしと?」
 キョトンと見返したあかねに、乱馬は言った。
「俺たちは許婚、いや、夫婦になるんだから、学校から帰宅したら、ここで毎日、特訓だ。」

 
 勿論、乱馬もあかねも無差別格闘流の使い手であるから、道場で手合わせすることもあったが、乱馬から誘いかけて来ることは滅多になかった。どちらかというと、あかねとは、父親たちに促されて、イヤイヤ手合わせするような感じのことの方が多い乱馬だった。
 自分から誘いかけてくることなど、皆無に近かった。
 にもかかわらず、こうやってわざわざ一緒に修行をしようと誘ってくるなど、施灸によって彼の生真面目な部分が露呈した証拠だろう。
 普段は真面目さ欠片すら無い彼が、こんなことを言い出すのだ。やはり、尋常ならざることを感じさせられた。

「ま、おめーが拒否したところで、それを許すほど、俺は甘くはねーけどな。」
 と目の前のそいつは吐き出した。
 その言葉に、思わず背筋がゾクッとした。
 こいつは、決めたと思ったことは、あかねが拒否したところで、有無も言わせず従わせるだろう。そんな気迫がこめられていたからだ。

「わ…わかったわよ。あんたが、そこまで言うなら、付き合ってあげるわよ。」
 と吐き出すのがやっとだった。

 蛇に睨まれた蛙。今の自分を形容するのは、そんな言葉だろうか。
 いつもならハンディーとして女に変身してからあかねと組み合うことが多かったが、今はその素振りなどない。あくまで、男の乱馬としてあかねと対峙しようという腹づもりなのだろう。

「ま、御託を並べてるより、身体を動かそうぜ。おめーの帰宅が遅かった分、時間は短い。修行の時間は貴重だからな。」
 乱馬はそう言うと、すっと後ろへと下がった。
 そして、背筋を伸ばしてあかねを真正面から捕え見る。
「ほら、ぼさぼさすんなっ!俺がじきじき組み手の相手をしてやるってんだ。無差別格闘流は礼に始まり、礼に終わる。ガキの頃からてめーも教え込まれてるだろ?」
 どこまでも、横柄かつあかねの優位に立ちたげな乱馬であった。内心、ムッとしながらも、あかねは大人しく彼の指示に従った。

(ここで変にごねたところで、聞く耳は持っていないだろうし…。それに、一分、一秒でも早く、こんなあいつから解放されたいもの。だったら、丹田を撃つしかないわ。)
 あかねはそんな思いを胸にグッと抑え込んで、足を引いて姿勢を正した。
 そして、どちらからともなく、一礼をする。
 始まりの合図だ。

「来いっ!」

 乱馬の吐きつけた一言に、あかねの肢体が動いた。

「でやああああーっ!」
 真正面から食らいついた。奇襲攻撃など乱馬には通用しない。とすれば、下手な細工を凝らすよりも、真正面からぶつかって行く方が、己の理に適っている。
「やああっー、たあああっー。」
 気炎と共に叩きつける、拳と蹴り。
 しなやかな女体からは想像のつかないくらい、激しい気魄の連打だ。
 拳も蹴りも、乱馬の傍を駆け抜けて行く。まともに入れば、乱馬ですら容赦なく打ち砕いてしまいそうな勢いだ。
 隙あらば、乱馬の丹田へと、気魄をこめた拳か蹴りを食らわせてやりたい。あかねなりに必死で突っかかって行った。

 が、乱馬の方が一枚も二枚も上手だということは、当のあかね自身も良く理解していた。
 そう簡単に、やりこめる相手だとは、思っていない。
 シュッシュッと鋭い拳圧が乱馬の頬を掠め飛ぶ。ひょいひょいと乱馬は、それを見極めながら交わしていく。
 必死で丹田を狙い打とうとするあかねを、面白いくらい皮一つで避けていく。

(くっ、かすりもしないわっ。)
 とてもではないが、あかねの相手では無かった。狙い打つなど、もっての外だ。
 いつもの彼なら、撃ち続けると、少しは隙も見せることがあるのだが、今日の乱馬は違っていた。攻撃の糸口が全く見えない。

「たく、どこ狙ってやがるっ!俺の土手っ腹狙いか?」
 とすれ違いざまに吐きつけられる。
「だったら何?」
「たく…。ま、いいか…。好きに打ち込んできなっ!」
 対する乱馬は余裕綽々だ。
「言われなくても、そうするつもりよっ!」
 あかねは息まいた。
 熱せられればそれだけ熱くなる。それがあかねの闘志だ。
「でやああっ!」
 自慢の流星蹴りが乱馬の土手っ腹目掛けて炸裂する。
 もちろん、すいっとそれを交わす乱馬。
「まだまだあっ!」
 ダンと激しく床板を蹴り返し、その反動で乱馬へと拳を炸裂させる。
「っと…。あぶねー。」
 乱馬は脇へと飛んだ。と、避けたあかねの拳圧で、乱馬の道着が少し肌蹴た。少しばかり開いて、鎖骨から胸板にかけて肌が剥きだしになった。
「へええ…。直線攻撃だけじゃなくって、結構多彩に動けるようになってきたじゃねーか…あかね。でも、俺は拳一つだって、てめーから受ける気はねーぜ。」
 と言葉を手向ける。
 
「こんどはこれよっ!」
 あかねはまた、激しく身を翻した。あかねも子供のころから鍛え上げた無差別格闘流の使い手だ。風林館高校の男子生徒を一人で何人も負かしたこともある強靭な拳と蹴りだ。
 だが、乱馬の前では尽く不発に終わった。悔しいが、彼の方が一枚上手なのだ。
 必死で打ち込もうとするが、余裕でかわされた。
 その駆け引きが十分程続いたろうか。
 さすがに、十分を越えて動き回ると、スタミナもぼちぼち切れてくるというもの。
 荒い息があかねから漏れ始めた。

 その様子を見越して、乱馬はニッとあかねへ笑みを手向け、すっと身構えた。

 ドンッ!

 と音がして、乱馬の右手から気柱が飛んだ。体内の気を一気に増幅し、あかね目掛けて打ち込んだのだ。

「きゃああーっ!」
 思わず足元をすくわれて、あかねは後ろへと吹き飛ばされる。乱馬の丹田を狙い打つことだけに集中しすぎて、防御の足元が疎かになっていたのだ。
 踏ん張りが効かなかった。
 床板に打ち付けられる…そう思った瞬間だった。
 ふわっと逞しい手が伸びてきて、己の身体ごと包み込んだ。
 当然、次に来るだろう衝撃は無かった。
 ぐっと、引き戻されて、我に返った。
 ハアハアと荒い息が己の口から漏れる。肌蹴た道着から見える分厚い胸板。乱馬の胸の中だった。
 ハッとして見上げると、そいつは満面の笑みを浮かべて満足げに微笑んでいた。

「たく…。相変わらず、隙だらけだぜ、おめーは…。」
 そう吐きつけて来た。

「だったら何よ…。」と言い返したかったが、荒い息に掻き消されて声にならなかった。ハアハアと荒い息が漏れる己に対して、乱馬は息一つ乱れて居ない。
 だが、相手はあかねを抱え込んで油断している。
 千載一遇のチャンスだと思った。
 ひらりと手を翻し、目の前の乱馬の丹田へと気をこめて右手で打ち込もうとしたその刹那だった。
 その手をギュッと握りしめられた。
 いや、それだけではない。闘気を吸い上げんとばかりに降りて来た、熱いベーゼ。 

 暫し、時が止まった。
 
「隙あり…。」
 そう言って、乱馬は笑った。
 あかねから闘争心が根こそぎ削ぎ落ちた瞬間だった。
 拳を構えた右手と反対の左手をギュッと握られたのだ。
 その刹那、「丹田」に拳を打ち込もうとしていた拳は、不意打ちに終わった。いや、打ち込むことすら、瞬時に吹っ飛んでしまったのだった。
 かああっと顔が真っ赤に熟れた。

「ち…ちょっと、乱馬っ!神聖な道場で、何すんのよーっ!」
 つい、怒鳴ってしまった。
 当然である。道場は神聖な勝負の場所だ。決して、恋愛の駆け引きをする場所では無い。
「神聖だからこそ、貰ったんだけどな…。勝利の御褒美の神聖な唇を…。」
 気遅れすることもなく、平然と言って退ける乱馬。
「ふ、不謹慎なことしないでよ。」
 あかねはダッと下がって乱馬を睨みあげた。
「不謹慎?何で?」
 ニッと笑う乱馬。

「ら…乱馬の馬鹿ぁっ!」
 カッと来て思い切り叫びながら、突っかかって行くあかね。
 こうなると、冷静さは断たれてしまう。丹田に拳を打ち込まなければならないという命題も忘却の彼方に行ってしまったようだ。
「神妙に真面目に勝負しなさいよーっ!」
 あかねの怒声が天道道場から響き渡って行った。




 そんなあかねを道場の開いた窓の更に向こう側から覗きこむ影が一つ。二階の窓場から双眼鏡片手にデバガメ中のなびきであった。
「あーあ、あの子ったら、体よく乱馬君にあしらわれて熱くなっちゃって…。
 この分だと、最終兵器を登場させないといけない…か。」

 ふうっと溜息が漏れた。




十二、

 夕刻の道場での大失態。
 
 拳も蹴りも、結局、一発も乱馬に入らずに終わった。
 身体を密着させて、手合わせしていたにも関わらず、至近距離から一発も当てられなかった。
 乱馬は強すぎた…というより、己が熱くなりすぎたせいもあった。
 道場を後にすると、乱馬は真っ先に風呂場へと入って行った。食前にひと風呂浴びて、さっぱりするつもりなのだろう。
 あかねは食事がすんだ後で入ることにした。女の湯は長いので、乱馬の後に湯に入るとなると夕飯には間に合わない。
 家族そろって雁首並べて食べるのが天道家の夕食の習慣なので、汗を拭いて着替えるのに留めるのだ。
 それに、今は真冬だ。夕方に入ると湯ざめしてしまうのは必定だ。水を浴びることに慣れている乱馬と違って、湯ざめすると風邪をひきかねない。身体を冷やさないうちにタオルで汗を拭いて着替えようと、二階へとあがる。
 と、二階の廊下でなびきとすれ違った。いや、あかねの上がって来る気配を感じて、なびきが部屋から出てきたようだ。 

「ホント、あんたって、瞬間湯沸かし器なんだから…。」
 汗をタオルで拭きながら上がって来た妹を見て、なびきが言いながら笑った。
「だって仕方がないわよ…。」
「キス一つで熱くなっちゃって…。」
「なっ…また見てたの?お姉ちゃん…。」
「まーね…。一部始終見学させてもらったわ。」
「もう…油断も隙も無いんだから…。」
 タオルで汗をぬぐいながらあかねは姉を睨みつける。さすがに、徹底的にデバガメされているようで、気分を害しかけた。

 だが、なびきは気にすることも無く、あかねへと問いかけてきた。
「それより、どうするの?このままじゃ、朝までに破灸するのは難しいんじゃないの?」
 そう言われて、あかねは黙り込んだ。
 確かに姉の指摘するとおりだ。道場での組み手は目的を達するのに、恐らく一番手っ取り早い方法だったことは言うまでもない。
 が、あの体たらくだ。夕食後に再び対戦してもらうという方法もあるだろうが、乱馬がそれを快諾するかどうかは微妙だった。
 あの後、小一時間、対戦したが、物の見事に空振りに終わってしまった。
 何より、もう、ヘトヘトである。組み手が出来る状況では無い。全スタミナを使い果たした…そんな感じである。

「その様子じゃあ、東風先生が言及していた最終手段を使うのが一番良さそうねえ。」

 あかねは黙って頷いた。
 できれば使いたくない方法ではある。
 が、背に腹は変えられない。

「そうね…。確実に破灸するためなら、手段は選ばないわ…。」
 と小さく吐き出した。
 東風に提案された方法は、あまり感心されたものでは無かった。が、この際、悠長な事は言っていられなかった。
 今夜中に片をつけなければならない。明日の朝日を浴びれば、乱馬は元には戻せない。
 優柔不断で奥手な乱馬では無く、恋愛だけではなく何事に対しても生真面目で融通の利かない強引な乱馬と取って代わることになる。しかも、執拗なまでの愛情をあかねへと傾けて来るという厄介なおまけ付きだ。
「なら、ぬかりなく策を巡らせないと…。」
 と、なびきはすっとあかねに封筒を手渡した。「処方箋」とハンコが押されている。
 東風のところから貰って来た薬袋であった。中に、さらさらとした粉薬が幾つか、怪しげに入っていた。

「真っ当な方法じゃ、てんで歯がたたなかったから、これを使うのも仕方がないか…。」
 浮かぬ顔をして、あかねはそれを受け入れた。
「じゃ、間違わないように処方しなさいよ。食事時じゃあ効き目が早すぎるから…そうね、食後の団らんで、チョコレートをつまみながらって感じで、あたしがお膳立てしてあげるから。」
 なびきがこそっと耳打ちすると、すっとあかねから離れた。階下から乱馬が風呂を終えて上がってきたのが見えたからだ。
 あかねも慌てて、持っていた薬袋を道着の下へとたくし入れた。乱馬に見つかっては不味いからだ。

「さっさと着替えて降りて来なさいよ。ぼちぼちご飯の時間だから。」
 わざとなびきはそう声をあげると、トントントンと階下へと降りて行った。

「まだ、着替えないでぐずぐずしてたのかあ?さっさと着替えて来いよ。なびきが言うように、もうすぐご飯だぜ。」
 通り抜け間際に乱馬が耳打ちした。
「あ…うん。そうだよね…。さっさと着替えて、お姉ちゃんたちを手伝わなきゃね…。」
 あかねはくるりと背を向けると、自室へ入り、パタンと扉を閉めた。
 別に後ろめたい訳ではないが、東風から貰った薬を使うか否か、迷っていることは確かだった。だが、乱馬の強さは半端ない。このまますんなりと、丹田を指圧できるとは到底思えなかった。
「気のりしないけど…。使うっきゃないか…。」
 ふうっと息を吐きだすと、机の上に薬袋を置いた。

 そう、薬袋の中身は、「睡眠薬」だった。
 この薬を乱馬に服用させて、熟睡させてから丹田を思い切り指圧する。
 姑息だが一番有効かと思われる作戦だった。力の差を思い切り見せつけられた後でもある。圧倒的に乱馬に歯が立たなかった。ならば、姑息な手段に打って出るしか術が無い。そう自分を納得させた。
 


 普段着に着替えて階下に降りると、茶の間に家族が集って、夕飯を目の前に座っていた。
 天道家では茶の間へ運んで、全員が一つの座卓にてご飯を食べるのを常としていた。朝ご飯など時間差で食べるときは、台所で食べることもあったが、殆どの場合、畳に座って食べるのが習慣であった。
 一時代前の食卓の風景が、この家族では残っているのだ。
 台所から運ぶのはなびきやあかねの手伝い仕事でもあった。
 いつもは乱馬の母のどかも一緒に食卓に就くが、この前から不在であった。時折乱馬の母は、何某かの私用で天道家から出ていることがあった。生業としている着物の着付けやお花やお茶の仕事が入ると、どこかへ出かけて行くのである。
 今夜に限っては、のどかが居ない方が、ありがたかった。乱馬が優柔不断で無い姿を見せようものなら、「男らしいわ。」とか言って喜ぶのだろうが、居ない方が事がすんなりと事が進むだろうことだけは確かであった。
 玄馬や早雲はどうやり過ごそうか…その辺りも、作戦に織り込み済みだった。
 つまり、乱馬ともども、睡眠薬で眠らせてしまえば良い。変な茶々を父親たちに入れらるのが毎度のパターンなので、予め、眠ってもらうことを是としたのだ。勿論、なびきの差し金である。
 従って、睡眠薬は一服だけではなく、複数あった。仕損じた時用に予備まで置いてある。
 乱馬にお灸を据え、あかねに蹴りあげられて後、八宝斎の姿は見えないが、いつまた帰宅するとも限らない。
 なびきの言を受けて、東風は粉薬タイプの睡眠薬を数包入れておいてくれた。これをお茶に混ぜて、父親たちと乱馬に飲ませるだけだ。


「お待たせー。お夕食をいただきましょう。」
 かすみがにっこりとほほ笑んで、つけていたエプロンを外した。
 煮魚に煮物の小鉢、味噌汁に野菜サラダ。そして箸やすめの漬物。どこにでもあるような純和風な食品がテーブル狭しと並んだ。かすみお得意のおふくろの味だ。
 和やかな夕食の時間が始まる。

「あー、うめえっ!身体を動かした後の飯は最高だぜ。」
 乱馬が唸った。

「そういえば乱馬君。今日はやけに熱心だったね。夕方、ずっと道場で身体を動かしていたけど。」
 早雲が乱馬へと言葉を手向けた。
「あかね君とも取っ組みあっておったようじゃが…。」
 玄馬もそれに合わせた。

「ええ。武道家としてもっと強くなりたいですからね。毎日の鍛錬は欠かせないのは当り前だぜ。」
 もしゃもしゃとご飯を頬張りながら、乱馬は言った。

「はははは、我々も見習わなきゃならんねえ、早乙女君。」
「ははは、乱馬、貴様、何か悪いもんでも食ったか?喩えば、あかね君のお手製チョコとか…。」
 
「ちょっと、おじさま。そのセリフ、聞き捨てならないわね…。」
 ムッとした表情をあかねが手向けた。失礼ねと言わんばかりにだ。

「ははは、言葉のあやだよ、あかね君…。」
 玄馬は肩をすぼめならがら言った。

 そのやり取りを聞いていた乱馬が、
「そうか…。このままじゃ、いけねーか…。」
 とボソボソッと吐きつけた。
「何?何がいけないって?」
 とあかねが乱馬へときびすを返すと、乱馬はトンと持っていた箸を置いてあかねへと向き直った。
「おめーの作る料理は不味い。」
 唐突に、何の脈略もない言葉をあかねへ向かって投げつけた。
「なっ!いきなり、何?失礼なっ!」
 思わずあかねは怒鳴った。
 今ここで、何故、己の料理の腕を批判されなければならないのか。一体、いきなり何だという怒りを乱馬へと手向けたのである。
 だが、乱馬は臆することなく、言葉を続けた。
「だから、料理の腕を上げてくんねーと、俺が可哀想だろ?」
 また、脈略のなさげな言葉がポンと乱馬の口から流れ出た。
「はあ?」
「だって、かすみさんだって、いつまでも天道家に居るって訳でもねーし。いつかは、どっかへ嫁に出ていくだろ?それまでの間に、おめーには料理がまともに作れるようになってもらっとかなきゃ、大変じゃん。だから…。」
「だから、何?」
「明日から、おめーとの修行時間は夕刻じゃなくって、夕食後ってことにすっかな。」
「はああ?言ってる意味がわかんないんだけど…。」
 あかねは乱馬へと食ってかかった。
「明日からおめーは学校から帰ったら、かすみさんについて夕飯の手伝いをしながら、料理のいろはを叩きこんで貰え。そーだ、それが良いや。包丁の使い方から味付けに至るまで…。かすみさん、あかねを仕込んでやって下さい。お願いします。」
 乱馬はかすみに向かって一礼した。それも、わざわざ膝を後ろに引いて、正坐して畳に頭をくっつけて土下座をしたのだ。

「え…ええ。別に私は構わないけど…。」
 落ちつき払ってはいるものの、戸惑いながらかすみが返答する。

「ほら、あかね。おめーも頼めよ。」
 と乱馬があかねを促して来た。
「だから、何よ…それ。」
 ムッとしてあかねは乱馬へと文句を垂れる。
「夕方は料理の修行をして、夕食後、片付いたら道場で二時間みっちり修行だ。明日からそれを毎日こなすんだ。良いか?あかね。」
 あかねの苦言など耳に入らぬ様子で、乱馬は勝手に一人で決めて納得している。
「はああ?何であんたにそんなこと決められなきゃいけないのよっ!」
 当然、あかねの鼻息は荒くなる。その様子をなびきは黙って、かすみは動ぜず、早雲と玄馬は苦笑いして見守る。
「妻は夫の言に従うべしっ!夫唱婦随が早乙女家の家訓だって教えた筈だぜ?あかね…。」
 あかねは、そう吐きつける乱馬の厳しい瞳に、思わずドキッとなった。鋭い武道家の瞳とはまた少し違う鋭い眼光。狂気とまではいかないが、厳しく迫る迫力が籠められている。もし、否と言えばどうなるか…わかってるだろうな…と弱者を服従させんばかりの凄みに満ちている。
 と、なびきがあかねの脚をトンと自分の脚で触れた。
 その刺激にハッとして隣のなびきへと視線を流す。

(ここは熱くならないの。)
 そんな無言のメッセージを帯びた瞳であかねを流し見ている。
 暗に冷静になれと言われていることが分かった。
 今の乱馬はお灸の効果で別の人格が浮き上がっている。それが彼の本性だとしても、はげ落ちた化けの皮を元通りに身にまとえば、また普通の乱馬に戻る筈だ。いや、戻さねばならない、己の手で。
 あかねはギュッと拳を一つ、目の前で握りしめ、それから、フッと息を吐きだした。一呼吸入れたのだ。

「そーね…。あたしもこのままじゃまずいわよね…。わかった、明日からかすみお姉ちゃんに弟子入りするわ。」
 と心根にもないことを吐きだして見せた。

「よっし、その心意気だぜ。一日でも早く、俺にまともな料理を食わせてくれよな。」
 バシバシと背中を叩かれた。
 内心ムッとしながらも、
「わかったわ。その代り、ちゃんと作れるようになったら、食べてくれるわよね?」
 これまた、作り笑顔を乱馬へと手向ける。顔は笑っていたが、決して眼は笑っていない。
「もちろんだぜ!ちゃんと不器用を直したら、食ってやる、だから、頑張れよっ!」
 そう言いかえす乱馬はにこやかに笑っていた。


「あははは…。乱馬君だけじゃなく、あかね君も何か悪い物でも食ったかね…。天道君…。」
「かもしれないね…。」
「妙に迫力があるところが、ちょっと不気味だね…。」
「こらこら、そうはっきりと言っちゃダメだよ…早乙女君…。」
 玄馬と早雲が顔を突き合わせて、ごそごそと囁き合っていた。
 



 つづく









(c)Copyright 2000-2013 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。