スイート★パニック


第五話 大破恋灸の正体


九、

 終業のチャイムが鳴り響く。
 放課後。
 学生たちが授業と言う柵(しがらみ)から、一斉に解き放たれる、時刻だ。
 教室の前後の扉から、本日の学業を終えた学生たちが、次々に廊下へと吐き出されて来る。
 ある者はクラブ活動へ、またある者は帰路へ。それぞれの目的に合わせて、蜘蛛の子を散らすように、あちこちへと渡って行く。
 もちろん、中には、連れ立って帰るカップルも居る訳だ。
 バレンタインの翌日である。クラブ活動へ向かうにしろ、帰宅するにしろ、そこここで盛り上がっているカップルが目につくのはある程度、仕方がないことだろう。

 無論、乱馬も帰宅準備をしているあかねの傍に、ぴったりと寄り添って来た。

「あかね。帰るぞ。」
 とポンと肩を叩かれた。
 その語りかけに、ドキッとするあかね。鞄へ詰め込んだ教科書を整理する手も、ピタッと止まる。
 それも仕方がないことであった。
 今朝からずっと乱馬の様子が変だったからだ。第一、帰るのにわざわざ声をかけて来ることなど、皆無だった彼が、終礼が終わるや否や、すっと影がさす如く、あかねの背後に立ったのだ。
 しかも、さもそれが当然と言わんばかりの瞳を手向けて来る。

 背筋に、うすら寒いものが走った。

 いつものあかねなら、何を言ってるのと言わんばかりに、食ってかかるか、無視を決め込むのだが、今日一日、乱馬の変容を目の当たりにしている彼女には、どう接して良いのやら、正直、戸惑っていた。
 下手に断ると、どういう態度に出て来るのか、読めない恐怖にさいなまれていた。
 当の乱馬本人は、
「こら、何ぐずぐずしてんだよ。ほれ、さっさと帰宅準備しろ。」
 と命令口調で催促してくる。肩に置かれた手は、そのままだ。いや、むしろ、力がこめられているように思う。
 いつものあかねなら、即刻、なぎ払うのだが、それすら、覚束ない。
 何故だろう、拒否できないのだ。抵抗しようものなら容赦はしないぞ…そんな、乱馬の強い「殺気めいた意志」のようなものが、置かれた手から滲み出しているような気がした。


「へええ…下校も夫婦一緒ですかい?」
「同じ家に帰るんだから、別にそんなに全力であかねを独占しなくても良いんじゃねー?」
 ひろしや大介が、からかい口調で後ろから声をかけてきた。
「俺たちは許婚同志だぜ?夫唱婦随で一緒に登下校するのは当り前だからな。」
 と、乱馬はすらっと答える。
「夫唱婦随ねえ…。」
「おっと、いきなりの亭主関白宣言かあ?」
「妻は夫に従うべし…。な、あかね。」
 と、そんな言葉をかけてくる。その横柄とも取れる乱馬の言葉に対して、あかねはカチンと来た。
「乱馬…あんたねー、人が黙って聞いていれば…何、バカなこと言ってるのよーっ!」
 肩に置かれた手を振りほどき、一転、肘鉄と蹴りを一発喰らわそうと身を翻した。
「おっと…。」
 いつもなら簡単に入って行くだろう肘鉄も、蹴りも、すっとかわされ、空振りに終わった。
 いや、そればかりではない。振りあげた手をぐっと掴むと、乱馬はそのままあかねを絡め取った。
「たく…、相変わらず、じゃじゃ馬な奴だなー。いきなり攻撃しかけてくるなんてよ。」
 そう言いながら、絡め取った手をぐっと引き寄せる。ストン、とそのまま、乱馬の分厚い胸板へと顔ごと押し当てられた。

「ま、元気があるのは良いけどよー。あんまり、おいたばっかしてると…お仕置きするぜ、あかね。」
 と、耳元で囁かれた。
 ぞくっと背中に冷たい物が走った。
 囁き際にわざとか、乱馬が吐息を吹きかけてきたからだ。すっと彼の手が、反対側の耳に触れてきた。わざと髪の毛を掻きあげるように、乱馬の指先があかねの耳たぶに触れて、すり抜けて行く。丁度、撫でられたような感触が残る。

「あーあー、やってられねーぜ。こっちがおまえらの熱気にあてられて、変になりそうだぜ…。たく…。あほらし…。」
「お邪魔虫はさっさと消えるから、あとは、勝手にやってくれや…。」
 あかねの耳越しに、ひろしと大介の声が通り抜ける。恐らく二人には、乱馬とあかねがじゃれあっているように見えたに違いあるまい。
 二人とも、くるりと背を向けると、
「じゃな。」
「また、明日。」
 と退散を決め込んで、さっさと扉に向かって歩み出す。
 いつも連れだって下校する、ゆかもさゆりも、あかねに声をかけるタイミングを逸したようで、バイバイと遠巻きにあかねに手を振りながら帰って行った。

「さ…俺たちも帰ろうぜ…。あかね。」
 胸に沈めたあかねの耳元に、またぞろ響く、魔性の囁き。逃さないぜと言いたげに、また肩に手を置かれた。
 このまま、彼の横に侍ったまま、家路に就かねばならないのか…正直、重たい気持に包まれた時であった。

「あかね。」
 と、背後の扉から、聞き慣れた声がした。

「なびきお姉ちゃん…。」
 ふと視線を流すと、なびきが通学かばんを持ってそこに佇んでいた。
「何か用か?なびき。」
 乱馬が怪訝な瞳を、この二番目の姉に投げかけて来た。あたかも、二人の下校を邪魔するなと言いたげにだ。

「何か用って…あかね…あんた忘れてたでしょう?あたしに付き合うって約束をさあ…。」
 ふうっと溜息を吐きだして、なびきはあかねに話かけて来た。
 
 えっという表情をあかねは一瞬、この姉に向かって手向けた。
「そんな約束したっけ…?」
 と問いかける。無論、心当たりは無かった。

「もう…。忘れたの?ボケるにはまだ若いわよ、あかね。」
 なびきはずんずんと教室の中にまで入って来た。そして、肩におかれた乱馬の手を振りほどき、すっと乱馬に向かって言葉をかけた。
「乱馬君…折角、あかねとラブラブで帰宅しようとしていたところに水を注すようで悪いんだけど…。今日の放課後は、あたしと先約があるのよねえ…。」
「先約だあ?」
 乱馬はきびすを返した。
「ええ…ちょこっとね…。悪いんだけど…あかねとラブラブで帰るのは明日からってことにしてもらえないかしら…。」
 と、チラッと乱馬を見やった。
 その言葉を聞いて、乱馬はふううっと溜息を吐きだした。
「わーったよ…。先約があったんなら仕方ねーや…。武道家たるもの、約束を破るのは礼節に反するしな…。で?何だ?その約束って…。」
「ちょっとね…。」
「ちょっとって何だ?」
 お茶を濁したような答え方をしたなびきに対し、しぶとく、聞き及んで来る。まるで、あかねの行動を把握しておきたい監視人のように…。
「女子にはさあ…男子に語って聞かせられないこともあるのよ…。わかる?乱馬君。」
 なびきは乱馬へと切り返した。
「やましいところへ行くんじゃねーだろーなあ?」
「そんなことあるわけないじゃないの…。ちょっとした買い物に付き合って貰うだけよ。ねえ、あかね。」
 そう言ってなびきはあかねへと笑いかけた。暗に、「あかね、あんたも合わせなわい。」と言わんばかりの顔つきだった。
「あ…うん。そうだったわ。お姉ちゃんに買い物に付き合うって頼まれてたんだっけ。」
 あかねも、相槌を打った。乱馬と肩を並べて帰宅するのも心許なかったので、姉からの救援を素直に受け入れたのだった。

「何か、腑に落ちねえこともあるが…。ま、いいか。買い物くらいなら…でも…。」
 乱馬はなびきをたしなめるように凄みのある声で言った。
「門限は六時だぜ。それに一秒たりとも遅れたら…今後、なびきとは外出させねーぞ。あかね。」

「なっ!」
 その高慢ちきな言動に、あかねの眉が吊りかけた。それを脇からなびきがぐっと抑え込んだ。
 あかねの怒鳴りそうな口を手で押さえながら、矢継ぎ早に言葉を発する。
「もう…過保護なんだからあ…。乱馬君ってばー。わかったわよ。六時ね…。もし、間に合いそうになかったら、ちゃんと家に電話をかけるわ。それでどう?」
 乱馬はじっとなびきを見据え、ぶっきら棒に言い放った。
「ま、それで良しとしといてやらあ…。いいか、門限六時だぜ。遅れそうなら、連絡だぜ。忘れるなよ。」

 そう言いながらあかねの肩から手を離すと、くるりと背を向けた。ポケットに手を突っ込んで、先に教室を後にした。


「一体何様のつもりよ…。あの乱馬の態度…。何が門限六時よ!小学生じゃあるまいし!」
 なびきに口元をぐっと抑えられていたあかねが、目を吊り上げて吐きだした。
「まーまー。いいじゃない。そんなに遅くなるつもりはないし…。」
 となびきは適当に怒り心頭な妹をなだめにかかる。
「で?お姉ちゃん…。約束って?そんなものしてたっけ?」
 と返す口であかねは姉へと問いかけていた。いくら頭を巡らせても、なびきと約束した記憶が浮かんでこなかったからだ。
「約束はしてないけど…。」
「してないなら、何?」
 怪訝な顔をあかねがなびきへと手向けた。
「だから、ちょっと付き合いなさいって…。決して悪いようにはならないから…。ほら、六時までに帰んないと、乱馬君に何を言われるかわかったもんじゃないから…、行くわよ。」
 なびきはくるりと背を向けて、あかねを促した。
「あ…。ちょっと、待ってよーお姉ちゃん!」
 慌ててあかねは通学鞄を手に取ると、姉の後を追って教室を出た。


 なびきはマイペースで、疑問符だらけで後をくっついてくる妹を伴って通学路を家とは反対側の方向へ向かって歩き始めた。
 商店街のある方向だ。
「お姉ちゃん…何を買うの?」
 と問いかける。
「別に…買い物なんかないわよ。」
 あっさりと投げ返された。
「じゃあ、どこへ向かってるの?」
「まあ、いいからいいから。あんたは黙ってついて来なさい。」
 なびきは含み笑いを浮かべながら歩いて行く。
 商店街へと差し掛かっても、特に店に立ち寄るでもなく、いや、むしろ、横断歩道を渡って、来た方角へと戻りだす。くるりと反転して、元来た学校の方角へと戻り始めたのだ。

「ちょっと、お姉ちゃん…学校へ戻る気?」
 あかねが焦って問いかけた。
「まさか…。」
 学校の正門が見えて来ると、また方向を別へと定めて歩き出す。
「こっちって、天道家(うち)の方向よ…。一体全体、どこへ向かってるの?」
 姉がどこへ向かっているのかはかりかねて、あかねは困惑しきりだった。
「いいからいいから…。っと、乱馬君の影はもうないわね…。」
 姉はそんなあかねなどお構いなしに、帰路に沿って歩き進める。いつも、乱馬が駆けて行くフェンスがある川沿いの道だ。
 どうやら、先にこの道を辿っている筈の乱馬に行き先を知られたくなくて、わざわざ商店街の方向へ歩き出して方向展開したのかもしれない。
 
 と、なびきはある場所でその歩みを止めた。



十、

「ここって…。」
 あかねが目を丸くして見上げた先には、「小乃接骨院」の看板。
 どうやらなびきの目的地は、ここだったようだ。

「ほら、ぐずぐずしないで…。早く来なさいな。」
 先に立って、なびきが接骨院の裏玄関から奥へと入って行った。
「あん…もう。待ってったらー。」
 あかねは慌てて、姉の後へと従った。



「やあ、待ってたよ…。なびきちゃん。」
 裏から診察室へと入ると、東風が待ち構えていた。
 既に何某かの話が、東風先生と姉のなびきの間に出来ている様子だった。そう、東風は、何故なびきがあかねを伴ってここへ来たかが、ちゃんとわかっているようだった。

「一体、ここに何の用があるの?お姉ちゃん…。」
 あかねはピンと来ないらしい。不思議そうにきょとんと、二人を見比べる。

「何の用って、あんたたちのために決まってるでしょ?ねえ。東風先生。」
 なびきが笑って受け答える。
「そうだね…。」
 東風も目を細めてにっこりと微笑みかける。

「あんたたちって?」
 なびきの意図がわからずに、あかねはきょとんと姉を見返した。

「たく…。何、すっとぼけてんのよ…。あんたと乱馬君のために決まってるでしょ。」
「あたしと乱馬?」
「八宝斎のお爺ちゃんに、お灸を据えられてからこちら、乱馬君、ちょっと変でしょーが。」
 えっという顔をあかねは手向けた。
「それに、…あんたさあ…。今日一日、体よく、彼に振りまわされてたじゃないの…。」
 そう言いながらなびきはにっと笑った。
「まさか…お姉ちゃん、朝からずっと…見てたの?」
 戸惑いながら小声で尋ねる。

「朝からラブラブだったわよねえ…。あんたたち。起き抜けの熱いベーゼといい、学校での乱馬君の過干渉といい…。」
 意味深な笑みを浮かべて、なびきは笑った。何でもお見通しよと言わんばかりにだ。
 特に今朝の起き抜けのキスは、二人きりの秘め事の筈である。にもかかわらず、姉はそれをズバッと言って退けた。これは、しっかりデバガメをしていたことを示唆しているではないか。
「あれだけ、ガサゴソ朝から隣の部屋でやられたらねえ…。別に、デバガメする気なんてなかったけどさあ…。」
 クスッとなびきは笑った。
(み…見られてたんだ…。全部…。)
 
 一体、どこからどこまでをなびきは知っているのだろうか。起き抜けのベーゼ、登校の様子、それから教室での様々な出来事。
 この長けた姉のことだ。恐らく、全て筒抜けになっているだろう。
 
 かああっと顔が真っ赤に熟れ上がった。

 そんなあかねの様子を諸共にもせず、なびきは言った。
「まさか、あんた、乱馬君をあのままほっておく気じゃないでしょうね?」
「勿論よ…。あのまま突っ走られたら、たまんないわよ…。」
 あかねは焦って答えた。

「そんなに、乱馬君の様子がおかしいのかい?」
 東風は二人へと問いかける。
「ええ…。傍から見てても、ちょっと異常なくらい、あかねに執心しているんですよ、乱馬君ったら…。」
「そんなに変なの?乱馬君…。」
「やたらにあかねにボディータッチするし、抱擁やキスなんかも人目憚(はばか)らずにしちゃうんですよ…。あの優柔不断で奥手な乱馬君からは想像つかないくらいの変貌ぶりですよ、先生。」
 あかねの代わりに、なびきが東風の問いかけに答えて行く。
「なるほどねえ…。抱擁やキスか…。確かに、普段の乱馬君じゃないね…。」
 東風はなびきの返答に出を組んだ。
「ちょっと、お姉ちゃん…。そんなにべらべらしゃべんないでよ。恥ずかしいじゃないの…。」
 あかねは慌てて、なびきを制しにかかる。が、なびきの言動は止まらない。
「あんたへの乱馬君の執心ぶりは傍目から見てても異常だわよ…。このままほっておいても良いんだけど…。脇でやたらめったらいちゃいちゃされたらやってらんないし…。」
「もしかして、何か対策を探ろうと東風先生に聞きに来たの?」
「もしかしてってそのつもりで来たのよ。他にどんな理由があるってーのよ。」
「そりゃあ、そーだけど…。」
 なびきの言葉に、あかねは口ごもる。
「お灸ってそもそも、東洋医学的なものでしょう?藻草を使って局所のツボを刺激して症状を緩和させたり回復させたりするんだもの。で、ツボって言ったら、整体師でもある東風先生の得意分野でもあるし…。
 現に、貧力虚脱灸の時は、散々ここでお世話になったでしょうが…。忘れたの?」

 忘れたくても忘れられない、貧力虚脱灸だった。八宝斎に据えられた、虚脱灸のせいで、乱馬は力を失ったのである。全身から力が抜け落ち、幼児にすら負けてしまう体たらくに、乱馬は悩まされた。貧力虚脱灸の破灸点を調べてくれたのは東風先生であった。
 あの騒動の結果、乱馬は飛竜昇天破を会得できたのだが、彼なり苦しみ抜いた筈だ。

「あたしが気を利かせて、乱馬君がすえられた「大破恋灸」について、ダメ元で東風先生に連絡して調べて貰ったのよ。」

 そう言いながらなびきは東風を流し見た。

「あははは…。ダメ元って相変わらず厳しいこと言うなあ…なびきちゃんは…。まあ、うちには、お灸とかツボの類について書かれた書物をたくさん転がっているからねえ…。」
 東風はなびきの後を受けて言った。

「で?先生、調べてみてどうでした?」
 なびきが問いかけた。

「ああ…。いろいろとわかったよ。あっと、先にこれを返しておくね。」
 東風は一冊の薄っぺらい冊子をトンと机の上に置いた。

「何?これ…。」
 あかねが脇から問い質す。
「あ、これ?八宝斎のお爺ちゃんから掠めてきた冊子よ。」
「八宝斎のお爺ちゃんから?」
 墨書きのそれらしい、古い冊子だった。
「ええ…。ちょっと借りて来たの。」
 そう言いながらなびきは得意げに笑った。
 借りて来たというのは詭弁だろう。恐らくこの姉は、勝手に持ち出したようだ。

「お爺ちゃんは、この本を見て乱馬君のお灸を据えたみたいだから…。」
「何で、そんなことだわかるのよ?」
 いぶかしげに尋ねるあかねに、なびきは、
「だって、ほら…ここ。」
と、冊子を開いてあるページを差し示した。
 そこには、「大破恋灸」という文字がはっきりと見えた。
「どうやら、この冊子には抜粋らしくって、載っているのは作り方と施術点だけなの…。つまり、ちゃんとした効用とか破灸点とかにははっきり言及されていないのよ。
 で、お灸を据えられた乱馬君は、あんな調子でしょう?だから、ちゃんと調べて貰おうと思って、今朝、ここへ立ち寄って、東風先生にこの本を預けて調べて貰ったのよ。」

 さすがに目敏い姉だった。
 あかねよりはるか先に、行動を起こしていたのである。

「で、この本を元に、院内にある書物を調べてみたんだ…。」
 そう言いながら、東風はトンと一冊の古い本を置いた。十センチくらいの背厚があるいかにもという黒い表装のいかめしい古書だった。
 『珍灸邪灸大全』。
 消えかけた文字で表紙にそう記入されていた。

「邪灸大全…。何か、いかにもっていうほど怪しげな本ねえ…。」
 なびきがペラペラとめくってみると、旧字体の漢字や平仮名がずらずらと並んでいた。所々に印が入った人体図も一緒に並んでいる。

「我が接骨院に昔からある、文字通りのお灸の全集だよ。それも、「邪(よこしま)」って文字が入るくらいだから、あんまり感心されたお灸ばかりじゃないけど…。
 その、大破恋灸もちゃんと載っていたよ…。というか、八宝斎のお爺ちゃんが持っていたのは、この本から写した写本のようだよ…。作り方とか施術法とかはそっくりそのままだったよ。
 でも、お爺ちゃんの本には効用や破灸についての記述は飛ばされていたようだよ…。」

「で?どんなお灸なんです?その…大破恋灸って…。」
 なびきは興味津津な瞳をたぎらせて、東風へと問いかけた。

「大破恋灸…正しくは、大邪恋破心灸(だいじゃれんはしんきゅう)…って言うらしいんだけど…。」
 東風は眼鏡を光らせて、それに対した。
「大邪破恋心灸(だいじゃれんはしんきゅう)ねえ…舌を噛みそうな名前だこと…。」
「ああ…。百聞は一見にししかずってね…。」
 そう言いながら東風はなびきから本を取り戻すと、ペラペラと頁を繰り始めた。そして、しおりを挟んであった個所をさっと開いて見せる。
 「大邪恋破心灸」という字が認められている個所だった。
「これだよ…。ちょっと読みあげてみるから聞いてね。」
 そう言って、東風はその本を手に、内容を読み始めた。

「大邪恋破心灸(だいはれんしんきゅう)…又の名を「大破恋灸(だいはれんきゅう)」と言う。
 この灸は晩熟(おくて)な男に施すと絶大な効力を発揮するお灸なり。」

「子宝に恵まれない晩熟(おくて)な男に施すお灸?」
 あかねがきびすを返した。
「あらら…乱馬君にぴったりなお灸じゃん。」
 クスッとなびきが笑った。
「どう言う意味よ?」
「だって、彼って晩熟(おくて)じゃない。」

「まあまあまあ。ここからが肝心だから、二人ともちゃんと聞いてね。」
 東風は茶々を入れて来たなびきとあかねを牽制しながら、記述を続けて読み始める。

「一度(ひとたび)このお灸を施すと、その煙にて男を覆いたる理性の皮を削ぎ落し、猛々しき本能が現れいずるなり。
 即ち、彼の理性剥ぎ落ち、邪に増大せし本能に従いてその煩悩を、想い定めたる乙女に全開させるなり。 
 迫りし乙女、彼を好む好まざるによらず、ほぼ全て、懐妊させらるるに至る。
 男の大いなる邪な恋慕の情、乙女の心身を破り滅するが如く貪り尽くせり。
 子宝の数、一人に留まらず、勇猛たる男ほど数多になりける。故に、「大邪破恋灸」と称されるなり。」
 東風はそこまで読むと、ふっと息を吐きだした。
 その言に耳を傾けていた、あかねの顔が、みるみる曇った。その脇で、なびきがふふっと軽く笑いながら言った。
「要するにあれね…。このお灸を施された男は、理性がぶっ飛んで、本能の赴くままに邪な恋情をたぎらせ、好きな女の子と子供を作り続けるって訳ね…。」

「な…何。そのふざけた効用は…。」
 あかねはふるふると手を握りしめた。

 その頭越しに、なびきは東風へと問いかける。
「ねえ、東風先生。その…乱馬君の邪な恋情が手向けられるのは、あかねだけだって思っていても良いのかしら?」
「何訊いてるのよ…お姉ちゃん。」
 あかねがじろっとなびきを見返した。
「だって…のべつまなっく、女の子を襲ったりし始めたら、不味いじゃない。あたしもその対象になったら怖いじゃないの。そんなの御免こうむりたいわ。
 それに、あんただって、シャンプーとかウっちゃんとかに乱馬君が子作り始めちゃったらイヤでしょう?」
 なびきの暴言に、あかねは押し黙った。当たらずしも遠からじ…の指摘だったからだ。乱馬の異常なまでの執心が他の女子に向けられたら、恐らく、平常心では居られまい。

「ま、そのことに関しちゃあ僕の予想になるけど…ずばり、乱馬君はあかねちゃんにしか言い寄らないんじゃないかなあ…。」
 東風は真顔でなびきの問いかけに答える。
「何でそう言い切れるんです?東風先生。」
「…今読みあげたここの箇所…えっと「想い定めたる乙女」って表現があるだろう?ってことは、好きじゃない女の子には眼もくれないってことの裏返しになるからね…。
 少なくとも、乱馬君はあかねちゃんに異常なまでの執心を寄せているってことだけは確かなようだしね…。あかねちゃんしか眼もくれないって解釈できるんじゃないかな?」
「そーよね…。確かに、乱馬君はシャンプーや右京、それから小太刀に対して、全く関心を寄せてなかったし…。それどころか、あかねを攻撃しようとしたあの子たちを尽く排斥しようとさえしてたわねえ…。
 あたしやかすみお姉ちゃんは眼中にないみたいだし…。
 あまつさえ、クラスメイトの目前で、許婚宣言なんかもしたわけだから…。あかね以外を追いたてる気なんか、微塵もないわね…。」
「今までの乱馬君の様子から判断すると、そういうことになるんじゃないかな…。」
 東風は眼鏡の中の瞳をしばたたかせながら頷いた。
「良かったわね…あかね。」
 なびきがポンとあかねの肩を叩いた。

「何が良かったのよ…。」
 ムスッとしたまま、あかねはなびきへと問い返す。

「だって…。乱馬君があんた以外の女子に全く興味を示していないってことになるじゃないの。」
「それがどーして良かったってことになるのよ…。」
「つまり、乱馬君の本命は、あかね、あんただってことよ。うりうり…本心では嬉しいんじゃないの?」

「なっ!」
 あかねの顔は、ボッと真っ赤に燃え上がる。
 確かに、乱馬があかねだけに迫っている。他の女子には眼もくれずにだ。ということは、彼の本命は自分だということが火を見るより明らかではないか。
 
「このまま、乱馬君の本能のままに突き進んで貰うってのもありよねえ…。どーせ、あんたたちは許婚同士なんだから…遅かれ早かれ夫婦になるんだろうし…。この際だから子作りに励んでみたら?」

「じ…冗談じゃないわ。このまま突き進まれたら、あたしの身が持たないわよっ!ここにもはっきりと書いてあるじゃない。子供は一人だけに止まらずって。」
 あかねは矢継ぎ早に怒鳴った。
 その言葉を聞いて、眼が点になる東風。その脇で、なびきはげらげら笑い出した。
「そーよねえ…。確かに…乱馬君って体力の塊みたいな奴だし…それをまともに相手してたら、いくら頑強なあんたでも大変かあ…。」

 あっと口に手を当てたあかね。顔は火が出るくらい真っ赤に色づく。勢い余って、つい、物凄いことを口走ってしまった。
 聞いたわよ…と言わんばかりの、なびきの「したり顔」に思い切り焦った。

「い…今のは無しよ…。」
 と慌てて否定に走ってみるものの、後の祭だ。

「ふふふ、そーよねえ…。っていうか、あかねも相当、体力があるから、間違いなく、二桁には乗るわねえ…。それはそれで、悲惨だわよねえ…。産みっぱなしって訳にもいかないしねえ…。」
 
 あかねの脳内に、たくさんの子供に囲まれて、あたふたする己の姿が浮かんだ。白い歯を輝かせて、乱馬が「まだまだ作るぜ!」とあかねの肩越しに抱きついて、耳元で囁いている様子まで映し出される。
 ぶんぶんぶんと、あかねは妄想を脳内から追いやった。

「…このまま突き進むつもりはないわよね?」
「あ…当り前よ!お姉ちゃん、デバガメしてたんなら観てたでしょー?あの乱馬の暴走ぶり…。あの勢いで迫られたら、本当に身が持たないわよ…。」

「で?東風先生…。ここからが肝心な話になるけど…。ズバリ、破灸法はあるのかしら?」
 なびきは返す口で、東風へと問い質した。
「まあ、一応ね…。破灸点もこの本に記してあるよ。」
 そう言いながら、東風は分厚い本の頁をめくった。そこには大きな×印が書き入れてある人体図が記されていた。
「ここって…。」
 あかねの動きが固まった。
「へええ…。何か、お股の近くに、ドンとでっかく思わせぶりに大きな×印が書きこんであるわね…。」
 なびきが後ろから覗きこむ。

「この本によると、ここが破灸点らしいよ…。それも強く気を入れた手で、思い切り指圧しなければいけないらしいよ…。殴るくらいの勢いで、相手がもんどり打って倒れるほど、強くね…。」
「あかねだったらできるんじゃないの?力、強いし…。」
 無責任な言葉を投げかけた。
 あかねの顔が、かああっと真っ赤に熟れ上がった。
「あの…。東風先生…。この場所って…やっぱり…その…。」
 戸惑いながら、あかねは東風へと戸惑いの問いを投げかけた。
 清純な乙女には、指をさすことが躊躇われる股のちょっと上あたりに、×印は打たれている。

「あははは…。何、とんでもないこと言い出すんだい?確かに男の急所に近いけど…。ちょっと違うよ、あかねちゃん。ここは「丹田」だよ。」
 東風はにっこりと微笑みながら、さらりと言って退けた。
「丹田…って、あの丹田ですか?」
「ああ、そうだよ。「丹田」。君たち武道家がとっても大切にしている身体のツボの一つだよ。股間じゃないよ。」
 その言葉にあかねはホッと胸を撫で下ろした。
「特に古武道では丹田に力を入れることはとても大切なことだと言われて来たろう?君たちの無差別格闘流でもそうなんじゃないかな?
 これは僕の予想だけど、丹田を強く押すことによって、正気を呼び覚ますんだろうね…。だから、思い切り強く圧さないとダメらしいよ。」
 と東風は解説してくれた。

「でも、問題はどうやってここを強く圧すように差向けるかよねえ…。乱馬君が簡単にどてっ腹を殴らせてくれるわけないでしょうし。」
 脇からなびきが指摘した。

 更に、東風が追い打ちをかけた。

「乱馬君が八宝斎のおじいさんにお灸をすえられたのは、おとといの晩だったって言ってたよね…。」
「ええ…確かに、灸をすえられたのは、おとといの晩だったわ。」
 なびきが呆けているあかねの代わりに答えた。
「そっか…なら、急がなきゃならないね。」
「って、どういうことです?東風先生…。」
 なびきが問いかけると、東風はフウッと一つ息を吐きだして、ゆっくりと頭をあげながら言った。

「この破灸点の有効期限は二日間程しかないらしいんだ…。その期間内に破灸しないと、ダメらしいよ。。」
「二日…っていうことは…。」
 なびきの問いかけに東風は、コクンと一つ頷いて見せた。
「追い打ちをかけるようで悪いんだけど…。あかねちゃん…。残された時間は少ないよ…。急いで破灸しなきゃ、乱馬君を元に戻せなくなる。」
「戻せないってことは…。」
「ああ…。乱馬君は大邪破恋心灸の効果を一生引きずることになる…。」

「ってことは…あかねの大ピンチね…。このまま破灸できなければ、乱馬君にたくさん子供を作り続けることを強要されるのね…可哀想に…。」
 あかねの耳元で、なびきがフッと笑い飛ばした。

 と、あかねの瞳に火が灯った。
 なびきの言葉に、勝気な乙女の萎えかけた心に、闘志が着火したのだ。
「じ…冗談じゃないわ…。そんな子作りだけに勤しまされる未来なんて、まっぴらごめんだわ…。」
 ゆっくりと頭を起こす。

「じゃあ、頑張れる?」
 なびきはあかねへと声をかけた。
「当然よ!見てらっしゃい…。絶対、破灸して見せるんだから!」
 ぎゅうっとあかねは右手で拳を作って握りしめた。

 ゴゴゴゴゴ…。

 あかねの周りに、闘気が湧き上がる。



「このくらい気合いを入れれば、大丈夫ね…。俄然、やる気になったみたいだし…。」
 ふふふとなびきは笑った。
「あはは…なびきちゃん…。そんなにあかねちゃんを煽らなくても…。」
 東風が脇から、こそっと声をかけた。
「このくらい煽って丁度良いんですよ、先生。相手は、理性が剥がれおちた乱馬君ですしね…。」
「理性が剥がれおちた乱馬君ねえ…。僕には、あんまり想像できないけど…。」
「…手ごわいですよ…。…知的にもかなり狡猾になってますからね…。本能に忠実な分、危険度が増してますし…。」
「あかねちゃん…。無事に破灸できれば良いんだけど…。」
「ま、できなくても、被害が及ぶのはあかねだけだから、別に良いんですけどね…。」
「またまた…。そんな心にもないことを…なびきちゃんってば…。」
「後は、あかね次第…だわね。」

「いずれにしても、今夜が勝負…だね。」
 そう言いながら、東風はパタンと、本を閉じた。




つづく




 確かに、乱馬君って体力の塊だし…。そんな彼が本能のまま突き進んだら…一人や二人どころじゃないよなあ…二人とも若いから、一ダースは軽くいきそうだよなあ…。



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