スイート★パニック


第二話 大破恋灸の怪


三、


 はああ…。


 特大の溜め息を吐きつけるあかね。
 傍らにはチョコレートの包みが置いてある。
 昨日、夜を徹して、作ったものだった。
 帰ってから乱馬に渡すつもりで、学校へは持参せず、別にとってあったものだ。つまり、乱馬と八宝斎によって玉砕された手作りチョコレートである。

 言うまでも無く、あかねにとって乱馬は特別な存在である。
 つまり「本命男子」である。その彼に渡すため、クラスの男子や女子に配る、義理チョコや友チョコとはちょっと違った趣向にした。
 ハートの型に流し込み、アラザンやナッツを多めに使った。他と差別化し、それとなく豪華に作ったつもりだった。
 不器用なりに、何とかハート形に仕上がった。自分の力量からすれば、最高の物が出来たと思っていた。
 同じ屋根の下に住む利点を活用し、学校から帰宅して、乱馬に渡すつもりでラッピングしておいたのだった。

 義理チョコや友チョコを持って、登校途中、八宝斎の乱入によって、手作りチョコは見事粉砕されてしまった。
 おまけに、乱馬には「最終武器」呼ばわり。挙句の果て、「人に渡すのは手作りせず、買え!」などと、言いたい放題乱馬に言われた。
 傷心したまま、バレンタインの友チョコで盛り上がるクラスメイトの会話を、黙って座ったまま聞いていた。
 朝の喧騒を見ていたゆかとさゆりは、そんなあかねに、慰めの言葉をかけてきた。
「朝から大変だったねー。」
「あかねのチョコレート、全部、道路にまきちらされたんでしょ?」
「実は、あたしたち、今朝の騒動を割と近くから見てたんだけど…。」
 ゆかとさゆりがあかねへと言った。
「まーね…。あたしの昨日の労力は、全部、パーよ。あいつ(乱馬)のせいでね…。一緒に食べるつもりだった友チョコも無くなっちゃったし…。」
 ふうっと大きな溜め息を吐きだした。
「友チョコのことなら気にしないで。」
「あかねの気持ちだけ、いただいておくから…。気にしないで、あたしの作ったチョコを食べてね。」
「あたしのもどうぞ。」
「でも…。」
 と躊躇するあかねに、友人たちは口々に、
「気がねするんなら、ホワイトデーで返してくれても良いわよー。」
 などと慰めながら、チョコを勧めてきた。

「乱馬君も乱馬君よね…。あかねの気持ちを踏みにじるなんてさー。」
「思い出しただけでもムカムカするわっ!」
 そう吐き出したあかねに、さゆりが言葉を挟んだ。
「まあ、それはそれとして…。あかね。乱馬君には買ってでも良いからさあ、ちゃんと本命チョコを渡しなさいよ。」
「あんな奴にやるチョコレートなんか…。」
 と言いかけたあかねにさゆりが言った。
「あんたさー、乱馬君がどれだけ女子たちにとって、ポイントが高いかわかってないでしょう?」
「はあ?」
 何を言うのかという瞳でさゆりを見返すと、チッチッと手を横に振りながら、
「乱馬君にチョコレートを渡そうと思ってるのは、何も、あの三人娘たちだけじゃないわよ。ほら…。」
 教室の隅っこをチラッと指差した。
 と、女子たちが、乱馬の周りを取り巻いていた。同学年だけではなく。他学年の女子も入り混じっているようだった。
 皆、口々に何かを言いながら、さっとチョコレートの包みを乱馬に差し出している。
 正直、衝撃だった。ガツンと脳天を一発殴られたような光景。
「見たでしょ?乱馬君ってモテ度高いのよ。あかね。あたしだって、あかねの許婚じゃなかったら、チョコを渡してたかもよ…。」
 えっとあかねはさゆりを見返した。
「あ、冗談、冗談…。真に受けないで。乱馬君があかねオンリーだってことくらい、あたしにもわかってるから。」
 と苦笑いしながらさゆりが言った。
「物好きが多いのねえ…。あんなとうへんぼくにチョコレートをわざわざ渡すなんて…。」
 そう言いかけたあかねを、ゆかが真顔で言った。
「だからって、ちゃんと渡さないと、許婚失格になっちゃうぞ…あかね。」
「そんな大げさな…。」
 戸惑うあかねに、ゆかもさゆりも釘を刺すように言った。
「ちゃんと作りなおすか買い直すかして渡さないとさあ、後悔しても知らないわよ!」
「親友として忠告しておくわよ。」






 そんな友人たちとの、昼間の会話を思い出しながら、また、ふうっと溜息を吐きだす。


「そんなこと、言われても…。あれだけ散々、乱馬からこき下ろされちゃったら…もう、これ(手作り)を渡す訳にはいかないものね…。」
 手作りのチョコレートの横には、もう一つ。帰りがけに買って来た、既製チョコレートの赤い包み紙も置いてある。
 親友たちの忠告に従って、手作りチョコを渡すのを諦めて、ちゃんと買って帰って来たチョコレートを、帰宅した乱馬に、改めて渡そうと思っていた。
 が、乱馬が持ち帰って来た大量のチョコレートを目の当たりにして、渡すのをためらってしまったのだった。そればかりではない、夕食時に悪態まで吐いてしまった。
 複雑な乙女心が成せる天邪鬼な行動だった。

 チョコレートをたくさん貰ってきたということは、乱馬のモテ度が高いことを指し示している。クラスメイトの女子たちの義理チョコばかりではない。見知らぬ女子たちから手渡された、明らかに本命めいたものが多いのだ。
 それだけポイントが高い少年の「許婚」であるのだから、それはそれで、良かれとおもうべきなのであろう。だが、そこは、「勝気」な性分のあかねだ。
 乱馬にチョコレートを渡すのを、寸でで躊躇(ためら)ってしまったのである。そう、チョコレートの山を見て、乱馬への嫉妬がふつふつと湧き上がってしまったのだった。
 「乱馬にチョコレートを渡さなきゃ」…という本心とは裏腹に、天邪鬼な行動が、乱馬目掛けて炸裂してしまったのである。

「やっぱ、あたしって…嫌な女だわ…。」
 チョコレートの箱を、右手で触りながら、ふうっと溜息を吐き出す。
「今更、何、乱馬に嫉妬してるんだろ…。」
 やる瀬ない想いが、複雑に乙女心を揺さぶっている。

 素直にチョコレートを渡せたら…可愛げがあるだろうに。出て来る言葉や態度は、自分の気持ちからは程遠い、天邪鬼なものばかりなのだ。

「意気地なしよね…。素直じゃないわ…。あたしって…。」
 それは良くわかっている。

 散々、ぐだぐだ考えた挙句、
「年に一度のバレンタインデーだものね…。渡さないで後悔するなら、渡せばいい…か。はいこれって、さりげに部屋に置いてくれば良いのよね…。でも…。どっちのチョコレートを渡すべきかしら…。」
 手作りと既製品と。二つの袋を眺めながら、また溜息が洩れる。

 背後で部屋の扉をノックする音が響いて来た。
 ハッとして、振り向くと、
「入るわよ。」
 と言って、なびきが入って来た。
 あかねは咄嗟にチョコレートを隠そうとしたが、急に入って来られたので、隠しようが無かった。

「あら…。まだ渡してなかったの…。」
 なびきがニヤリと笑った。

「な…何のことかな…。」
 焦って言葉を投げ返す。

「チョコレートよ。それ、乱馬君に渡す分なんでしょう?察するに、手作りと既製品、二つあるみたいだけど…。
 あんたのことだから、どっちを渡すか、帰って来てからずっと悩んでたんじゃないのぉ?」
 にんまりとなびきが笑う。
 図星であった。
「ま、どっちでも良いけどさあ…。でも、残念ねぇ…。」
「残念…?って?何が?」
 あかねは不思議そうになびきへと言葉を返した。
「ま、百聞は一見にしかずって…ちょっと来てみなさいよ。」
 なびきは、くるりと後ろを向くと、廊下へと出て行く。
 何事かと、あかねも、チョコレートを置いたまま、部屋を出た。

 なびきは二階の廊下を渡って、乱馬の居室へと向かって歩き出す。と、開かれた襖(ふすま)の前の廊下で早雲が苦笑いをしながら立っていた。

「どうしたの?お父さん…。そんなところで…。」
 あかねが声をかけると、なびきがすかさず、部屋の中を指差した。
「覗いて御覧なさいな。」
 そう促されて、あかねは乱馬の居室を覗きこんだ。

 と、蒲団が敷かれ、その中で乱馬が大の字になって転がっているのが見えた。
 物見遊山の天道家の面々が見守る中、その気配も気にせず、高いびきで眠り呆けている。
 傍から見ていても、気持ち好さげにいびきまでかいているのだ。武道家の用心深さなど微塵も感じられなかった。

「ふっふっふ…。お灸が効いて来よったか…。」
 そこへ、八宝斎が現れた。乱馬に遠くまで飛ばされて、ボロボロになって帰り着いたようだ。
「お灸?」
 八宝斎が乱馬へお灸を据えた現場を見ていないあかねは、不思議そうに八宝斎へと言葉を継いだ。
「ああ…。今朝の仕返しに、乱馬にお灸をすえてやったんじゃ。」
 と得意満面、八宝斎はあかねへと笑って見せた。
「お灸って…まさか…貧力虚脱灸みたいな…嫌がらせの…?」
「ま、似て非なる物じゃ。もっと邪悪じゃ。」
 ふぉふぉふぉと厭らしい笑みを八宝斎は浮かべた。
「どんな効き目のお灸を据えたんですか?」
「伝説の「大破恋灸」じゃ。」

「ダイハレンキュウ?」
 勿論、聞いたことも無い名前のお灸だった。

 と、乱馬が寝返りを打った。
 うん…と小さく息を吐きながら、背中をくるりと向けたのだ。
 その背中に一同は、固唾(かたず)を飲んだ。
 八宝斎がお灸を据えた場所、後ろ首の背骨との接点辺りが、何だかどす黒くただれていた。明らかにお灸を据えた後の、黒焦げのような丸いシミ。五百円玉くらいのシミだ。
 で、良く目を凝らすと、そこから、煙がくすぶっているではないか。藻草はとっくに燃え尽きたのに、何かが浸み出してくるように、そのシミから煙がすうっと立ち上っている。

「何…あれは…。」
 あかねは指差した。
「あれは、乱馬の化けの皮じゃ。」
「乱馬の化けの皮…?」
「ああ、そうじゃ。乱馬という男の化けの皮が、お灸によって剥がれおちている煙じゃ。」
「化けの皮が剥がれおちる…。」
 何だか、嫌な響きの言葉であった。
「化けの皮が剥がれたら…乱馬はどうなるんです?」
 あかねは真剣な表情で、八宝斎に尋ねた。

「知らんっ!」

 だああああっ…とその場に居た天道家の人々は、足元からスッテンと転びかけた。

「知らないって…。そんな無責任な…。」
 呆れ果てたあかねが八宝斎の胸倉を掴んだ。

「だって、人によって、その症状は違うと言われておるんじゃもん…。」
 うるうると大きな目を見開いて、あかねの問いへと答え始める。
「ただ、わかっておるのは、明日の朝、目覚めた時、化けの皮が剥がれた乱馬の性格が大きく変わっておるじゃろう。それも、乱馬が失恋するくらい大きな変化が表れて来る…。じゃから、このお灸は大破恋灸と呼ばれておるんじゃ。」
 
「あらあら…ハレンって…恋が破れるっていう意味だったのね…。」
 かすみが頷く。
「ってことは…あかねが嫌いになるくらい、乱馬君の性格が変わるってこと?」
 なびきが八宝斎へと問い質すと、爺さんはコクンと頷いた。
「あかねちゃんに嫌われたら良いんじゃ!こんな、男はっ!」
 ゲシゲシと眠っている乱馬の背中を、八宝斎は蹴り付ける。だが、八宝斎の攻撃など気にとまらなのだろう。乱馬は全く動じることなく、コンコンと眠り続けていた。
「じゃから…あかねちゃん…。乱馬なんか見切りをつけて、ワシと新しい愛の歴史を作るのじゃーっ!」
 返す手で、八宝斎はあかねの胸へ飛び込み、すりすりし始めた。

「作るか―っ!そんなものーっ!」
 反射的にあかねは、そう怒鳴りつけながら、八宝斎に掴みかかると、そのまま抱え込んで、円盤投げよろしく、廊下の窓から放り投げた。

「あかねちゅわーん、そんな御無体なあ……。」
 八宝斎の声が遠ざかる。ぐんぐんと夜空に吸い上げられて行くように、消えて行く。
「たまや―、かぎやーってか?」
 八宝斎が消えさった夜空を見上げながら、早雲が言葉を吐きだした。


「この様子じゃあ乱馬君、朝まで目覚めないみたいね…。ああ、あかね、それから…。乱馬君にあげるバレンタインチョコを枕元に置いておこうだなんて、くれぐれも考え無い方が良いわよ。」
 ポン、となびきがあかねの肩を叩いた。
「どーして?」
 と尋ねるあかねに、なびきは言った。
「早乙女のおじ様を甘く見てたら、痛い目を見るわよ。」
「はい?」
「ほら…。あそこ…。」
 なびきはすかさず、部屋の片隅を指差した。

 そこには、ゴソゴソと乱馬が貰って来た紙袋を漁っている玄馬が目に入った。

「おじさまっ!」
 思わずあかねは玄馬をとがめた。

「いや、奴がどんなチョコレートを貰って来たか、親として気になってのう…。」
 と返す口がモゴモゴと動いている。明らかにチョコレートを食べていたのだ。
「あかね君も食うか?」
 とすっと差し出して来る始末。

「いえ…あたしは…。」
 呆れかえるあかねに、なびきが言った。
「ね?枕元に置いてたって、明日の朝までにおじ様に食べられちゃうのが関の山だから、諦めて明日の太陽が昇ってから、乱馬君に渡しなさい。
 別に一日遅れたところで、本命なら、彼だって悪気はしないでしょうしさあ…。」
 そう耳元で吐きつけると、なびきはさっさと退散して行った。


「確かに…一理あるわね…。あの様子じゃあ、乱馬が眼がさめる前におじ様に食べられちゃうわね…。」

 いびきをかいて眠りこけている乱馬の枕元で、ガサガサと音をたてながら、包装紙を破り、チョコレートを頬張る玄馬を見詰めながら、あかねは苦笑いを浮かべるしかなかった。




四、

 バレンタインから一夜明けて、翌朝。

 目覚まし時計が鳴って、いつものように目覚めた。蒲団の中から手を伸ばし、目覚まし時計を止める。それからふうっと溜息を吐いた。

「もう朝…か。」

 寒い朝は寝床から出たくないものだ。特に、天道家のようなオンボロ一軒家は、隙間風で蒲団から少しはみ出しただけでも、冷える。
 今朝は晴れているのだろう。蒲団から出した手が、冷気にまとわれるような気がした。
 しかし、いつまでも蒲団にしがみ付いている訳もいかない。
 起きあがる決意をすると、蒲団から顔を出した。

 と、こちらを見詰めている瞳と視線が合った。


「え?」
 キョトンと見上げると、そいつはにっこりと微笑んだ。

 思わず、ガバッとベッドから跳ね起きる。

「ちょっと、乱馬っ!あんたこんなところで何やってるのよーっ!」


 そいつは、あかねの勉強机の椅子の背もたれを正面に手をかけ、股を開いて腰掛けながら、にっこりとあかねへ微笑みかけてくる。そして、真顔で言い放った。
 
「何って、あかねの可愛い寝顔を鑑賞してただけだぜ?」

「はああ?」
 返す口で、思い切り聞き返していた。
 いきなり何を言い出すのかと、大きな瞳で彼を見返す。

「それに、俺、昨日、おめーからチョコレート貰いそびれたし…貰いに来た。」
 と言いながら、机の上に置かれた、赤い包み紙を手に取った。
「これ…俺んだろ?」
 と屈託なく笑う。
「あの…その…。」
 己に手向けられた彼の笑顔の輝きが眩し過ぎて、しどろもどろになっていると、
「もう、素直じゃねーんだから…。それとも、何か?こいつは他の男のチョコレートだとか言わねーだろうな?」
 少し険しい顔をあかねへ向けながら、ずいっと競り出して問いかけて来た。
「あ…あたしからのチョコ…ほ、欲しいの?」
 思わず、小声で問いかけていた。
「あったりめーだろ?」
 即答された。
「あのなあ、俺とおまえは許婚なんだぜ?その許婚にチョコレートが無いなんて、哀し過ぎるじゃねーか。」

 到底、いつもの乱馬からは口を吐かない言葉があかねの脳内に響き渡る。
 冗談でも、絶対言いそうにない言葉の羅列だ。
「あんた、乱馬じゃないでしょ?」
 キッと険しい表情を手向けると、そばにあった花瓶の水をバシャッと乱馬へとかけた。

「こらーっ!いきなり何しやがんでいっ!」
 ブルブルと頭を振りながら、乱馬は怒鳴り声を上げた。勿論、女乱馬へと変身を遂げていた。
「え…?ら、乱馬?本物の…?」
 誰かが悪い冗談で、乱馬に化けていると思ったのだが、女に変身したところを見ると、そうではないらしい。
「たく…いきなり水なんかかけんなよな…。俺は一分一秒たりとも、女で居たかねーんだからなっ!」
 そう言いながら、お湯入りのポットを頭から注ぐ。そして、早々に男へと立ち戻っていた。

「何寝ボケてんだ?おめえ…。」
 苦笑いしながら、乱馬は突っ立っていた。頭から水と湯を浴びてビシャビシャだ。
「寝ボケてるのは乱馬の方じゃないの?」
 と言葉を投げてみた。

「俺は、ねぼけてなんかねーぜ。だって、小一時間前に目が覚めて、それからずっとあかねの部屋(ここ)に居たんだから。」

「小一時間前に目覚めて、それからずっと、ここに居た…ですってえっ?」
 当然、あかねはプチっと来た。乱馬の言からすると、小一時間も彼に寝顔を観察されていたことになる。
「あんたねえっ!何考えてるのよっ!レディーの部屋に侵入して、小一時間も何やってたのよっ!」
「だから、あかねの寝顔を眺めてたんだってば…。さっきから言ってるだろ?」
「何であたしの寝顔を眺めてたのよ。」
「あのなあ、俺はおまえの許婚なんだぜ?」
「それがどうしたのよ。」
「だから、おめーの寝顔を眺められるのは俺だけだってこと。おめーの寝顔は最高に可愛いぜ。あかね…。」
 大真面目な瞳をあかねへと手向けて来る。

「はああ?」
 あかねは思い切り脱力系の声を張り上げてしまった。

 一瞬、乱馬がどうにかなってしまったのかと思った。何か悪い物でも食べたか、それとも、頭をぶつけて変になったか…。寝起きだったので、その現象が昨晩の八宝斎の爺さんの据えたお灸の効果だとは思いつかなかった。
 第一、乱馬は、常日頃、ポットなど持ち歩いていない。なのになぜ、今朝はそんな物を持っていたのか。その疑問が大きく膨らむ前に、買った方のチョコレートの包みを持ちながら乱馬はあかねへと問いかけた。

「このチョコレート、俺が貰っても良いんだよな?」
「いいけど…。」
 元々乱馬に買ったものだ。欲しいというのなら、ここで上げても良いかと、軽く頷く。
「じゃ…。」
 そう言うと乱馬は、チョコレートの包み紙を丁寧に開き始めた。
 シールの封を破り、そこからきれいに包装紙を剥がして行く。これもガサツな彼からしてみれば、変な行動の一つであった。
 
 何の変哲もない、チョコレートの詰め合わせの箱が現れる。包装紙に合わせて、赤系の茶色。
 四角や丸、楕円、銀紙に包まれた物…などなど。茶色の宝石箱がそこに現われた。
「うーん…。今朝の気分はこれかな。」
 そう言うと乱馬は、丸いトリュフのチョコレートを手に取った。それから、そいつを摘まみあげると、さっと口に入れた。
「え?ここで食べる気?」
 そう問いかけた途端だった。

 肩を引き寄せられ、そのまま、乱馬の唇が降りて来た。

「ちょっと、乱馬っ!」
 焦ったあかねだが、それ以上、言葉にはならなかった。
 乱馬の唇で口をふさがれてしまったのだ。

「ん…。」
 熱い吐息がすぐ傍で漏れる。

 と、乱馬の舌先があかねへと入り込んで来た。さっき、口にくわえたチョコレートと共に。

(え?)
 
 トロリとした甘い塊が、舌先をからめてくる。ちょっと洋酒も効いた上品な甘さが口へと広がる。
 戸惑っていると、侵入させた舌先であかねの唾液を味わうように、軽く一巡りさせると、そのままチョコレートと共に抜き去る。
「御馳走様っ!」
 そいつはニヤッと笑うように囁いた。

 それから、そいつはくるりと背を向けた。
「早く、着換えろよ…。じゃねーと、遅刻すっぞ。じゃ、後でな…。」
 そう後ろ手に手を振りながら、チョコレートの箱を手に、あかねの部屋から退散して行った。


 あかねは自失呆然で乱馬の後ろ姿を見送る。
 唐突のキスの衝撃で、思考回路は停止してしまった。
 そのまま、ヘタリと床へと座り込む。

「何…今の…。」

 口の中では、チョコレートの甘さがほんのりと、キスの余韻を残していた。


 乱馬の異変の始まりの狼煙(のろし)であった。




つづく





いきなりかいっ!乱馬君っ!

最初、乱馬を女のまま描写していました。というか、男に戻さずそのまま突き進んでいたわけで…。さすがに女乱馬とあかねちゃんのキスは…ドン引きだろうと書きなおしたのでありました。ちゃんちゃん…。


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