スイート★パニック


第一話 災厄のバレンタインデー

一、


 ここは風林館高校のほど近くの通学路。

 いつもの朝の通学風景とは一転して、何となく通学路がざわざわと落ちつかずに浮ついている。
 それもその筈、今日、二月十四日はバレンタインデー。
 それは、この八十島(やそしま)の小さな国に暮らす、女子にとって、一年に一度廻ってくる特別な日だ。
 チョコレートを武器に、好みの男子へと真剣勝負を仕掛ける日でもある。
 諸説あるが、バレンタインデーの起源はローマ時代に遡ると言われ、日本古代の歌垣のような若者の祝祭日と、バレンティアヌスというキリスト教の殉職者の処刑日が重なり、女性が男性に求愛する日となっていったようである。後に、イギリスのお菓子会社が、女性の告白用にバレンタインボックスと呼ばれるチョコレートの詰め合わせギフト箱を発売したところ、それが何やかんやで、世界に伝わって広まっていったとか。
 この八十島の国も、明治時代に入って、某菓子メーカがそれを真似て、女性が男性にチョコレートを贈る儀式的な日に定着していったという。

 それはさておき、女子たちは勿論のこと、男子たちにとっても二月十四日は特別な日。
 本命チョコだの義理チョコだの、どの女子から幾つ貰えるかだの…ドキドキワクワクの一日でもある。
 無論、その喧騒からはじき出された存在もある。バレンタインなど、トンと縁の無い者も居る。
 そして、何より、バレンタインが厄日となる者も居るのである。

 乱馬とあかね。
 このカップルも、微妙な雰囲気をかもしながら、通学路を学校へと急いでいた。
 あかねが手にした紙の手提げかばんの中には、それらしくラッピングした袋がチラチラと覗いている。何となく彼女の目が腫れぼったいのは、寝不足なのを物語っている。夜通し台所で格闘していたことを如実に物語っている。
 一方、乱馬はというと、ポケットに手を突っ込んで、あかねより少し斜め上、川沿いのフェンスの上を複雑な表情で歩いていた。

(こいつ…性懲りも無く…手作りチョコをたくさん作りやがって…。)
 心なしか、顔がひきつっている。

 あかねは名うての不器用少女。その上、極端な味音痴と来ている。作る物作る物、とてもまともに食せた試しが無い。
 察するに、今日の「獲物(手作りチョコ)」の出来栄えも期待は出来そうにない。
 夕べ、寝しなにトイレに立った時、階段下ですれ違ったなびきに、
『あかねったら、あれを全部配るつもりみたいよー。』
 とため息交じりで話しかけられた。
『あんなもの食べさせられたら大変よー。世間でまん延しているノロウイルスより厄介よ。乱馬君、あんた、あかねの許婚なんだから、責任持って何とかしなさいよねー。』
 と言葉を手向けられた。
『あん?責任だあ?』
『ええ…一人で全部引き受けて食べるとか…。』
『できるかっ!そんなことっ!』
『だったら、配らないように何とかしないと…。下手したら重病者が出るかもよー。』
 そんななびきとの会話が思い出された。

 結論から言って、何も出来なかった。
 上機嫌でチョコレートを作るあかねを眺めながら、『やめろ。』という言葉をかけるなど、優柔不断な彼には土台無理な話。
 今朝方、あかねが登校準備に着替えに部屋へ上がった隙に、こっそりと台所へ入り、怖々(こわごわ)、一つ摘まんでみたが、とても尋常な味では無かった。すぐさま口から吐き出した。
 水を何杯も飲んで、ようやく口の中がすっきりするほどの惨い味だった。
 早雲も玄馬も知らんふりを決めて、朝ごはんもそぞろに、あかねにチョコレートを渡される前に、たったとどこかへ出かけてしまった。
 乱馬も、いつ、自分にそのチョコレートが手渡されるか、内心ドキドキしながら、家を出て来たのだ。
 自分は良い。我慢して食べれば良いだけのことだが…。クラスメイトの男子や女子に、義理チョコや友チョコとして、それを手渡すのはどうだろうか…。
 大方の級友たちは、あかねの手作りの破壊力を見知っているだろうが、無論、それを熟知している者ばかりではない筈だ。
 クラスメイトたちが、あかねのチョコを口に入れた時の、阿鼻叫喚が目に浮かぶ。
 恐らく教室は地獄絵図と化すだろう。


 何とかしなければ…と思うのだが、いかんせん、どうしたら良いのか、妙案も思い浮かばず、複雑な表情であかねをフェンスから見下ろしながら、登校していた。

 と、回りが俄かに騒がしくなった。

「おお〜、スイートッ!今日はバレンタインじゃー。ワシにもチョコくれーいっ!」

 早朝の通学路は、一人の爺さんの出現で、その静寂を破られた。
 爺さんの名は八宝斎。目下、天道道場居候の妖怪的元気爺さんであった。しかも、若い女競りが大好きだから性質が悪い。ひょいひょいっと小さな身体を縦横無尽に廻らせて、見境なく、チョコを求めて登校して来る女学生たちに、その手くせの悪さを投げつけるのである。

「きゃあっ!」
「何よ…この爺さんっ!」

 華麗なスカートめくりに続いて、風林館高校の制服を着た女学生たちが持っているチョコレートの入った包装紙を、片っ端からすくいあげて行く。
 見る見る間に赤や青の包装紙に包まれた、チョコレート包みが爺さんに奪われて行く。

「あーっ!あたしのチョコレートっ!」
「あたしのもっ!」
「盗られたわっ!」
「ドロボーッ!泥棒よっ!チョコレート泥棒よーっ!」
 女学生たちの黄色い声が、通学路に響き渡る。
 ひょいひょいと爺さんは、女子高生たちの手提げ袋や学生鞄から、器用にチョコレートの包みを抜き取って行く。辺りは、女子高生たちの悲鳴ど怒声で湧き上がった。


「何やってんだっ!こらっ!」
 フェンスの上からタッと降り立つと、乱馬はグッと爺さんの首根っこを抑えつけた。そして、鷲づかみにして睨みつける。
「おー、乱馬か。おまえもチョコレートが欲しいか?」
 作務衣の襟元をつかんだ少年に、八宝斎はフッと言葉を吐き出しながら、そっと盗ったばかりの赤い包みを差し出した。
「うり、これをやるから見逃してくれっ!」
 うるうると爺さんは潤んだ瞳を乱馬へと手向けた。
「見逃せるかーっ!第一、そのチョコはてめーが貰ったもんじゃねーだろがーっ!とっとと元の持ち主に返しやがれっ!」
 憤慨した乱馬は、爺さんを睨みつける。
「嫌じゃ、嫌じゃ…。ワシだってチョコレートが欲しいもん。」
 首を激しく横に振りながら、八宝斎は抵抗を試みる。

「居たわっ!盗人爺さんよっ!」
「あたしのチョコレート返してっ!」
「たく、盗人猛々しいって良く言ったもんだわっ!」
 乱馬と八宝斎の周りに、チョコレートを盗られた女子学生たちが群がり始める。

「ワシだってチョコレートが欲しいっ!」
 八宝斎は盗ったチョコレートを巻き上げられまいと、必死で抵抗している。

「そんなにバレンタインチョコが欲しいのか?」
 乱馬は爺さんへと畳みかける。
「うん、欲しい。」
 わざと弱々しい声で、八宝斎はそれに答える。
「しょうがねーなあ…。」
 そう言いながら乱馬は背後へと声をかけた。
「あかねっ!」
 そう言いながら、一緒に連れ立って歩いていたあかねへと声をかけた。
「何?」
 呼びとめられてあかねが乱馬へと言葉を手向けた。
「おめー、チョコレート持ってるだろ?」
「うん…持ってるけど…。」
「じじいが欲しいんだってよー。恵んでやってくれよ。」
「うん…まあ、たくさん作ったから…別に良いけど…。」
 あかねは乱馬に促されて、ゴソゴソと紙袋を漁りだす。と、すかさず乱馬はガシッと、乱暴に紙袋ごとあかねから分捕った。
 内心、「しめた!」と思ったのだ。そう、このどさくさにまぎれて、あかねのチョコレートを処分してしまえば良い。そんな考えが脳裏によぎったのだった。

 紙袋ごと乱馬に取られて、一瞬、あかねの動きが止まった。
「ちょっと…乱馬。」
 と声をかけたが、
「いいから、おめーは黙ってろっ!」
 乱馬はそれを身体で制した。

「ほーれほれ…。じじい。ご所望のチョコレートだぜ。しかも、あかねの手作りだぜえ…。」

 その言葉に、首根っこを押さえつけられた八宝斎がギクッとなった。みるみる顔面が蒼白になって行く。汗が額からたらーりと垂れ落ちる。
 勿論、八宝斎も、あかねの手作りの破壊力を良く知っている一人である。

「有り難く、頂戴しやがれーっ!」
 ニッと笑って乱馬はあかねからチョコレートを剥ぎ取ると、手でぐわっしゃと八宝斎の口の中へと放り込んだ。それも一つ、二つでは無い。あかねから奪い取った袋ごと、零れ落ちるのも気にしないで、八宝斎目掛けて頬張らせた。

「あがーっ!」
「ほれ食えっ!」
「うごおおー。」
「やれ食えっ!」
「ぎょえええっ!」
「全部食えっ!」

「おっ…おごーっ!」
 八宝斎が動きを止めた。そして、一瞬、白目を剥いた。
 そして、がっくりとうなだれると、そのまま目を回して意識を失ってしまった。

「けっ!ざまーみやがれっ!最終兵器、あかねのチョコレートの威力を思い知ったか。」
 乱馬はそう言ってバサッと八宝斎を放り投げた。
 と、周りに居た女子学生たちが一斉に、八宝斎の懐から、盗られたチョコレートを我先にと取り戻しにかかった。当然、鉄拳を食らわすのを忘れずに…だ。
 目を回したまま、女子学生たちにのしあげられて、すっかりズタボロになって道端へと沈んだまま、動かなくなってしまった。
 その周りに、八宝斎が食べこぼしたチョコレートが、泥まみれになって転がっている。

「すげえ…やっぱ、最強の破壊力だぜ…。あかねのお手製チョコレートは…。」
 パンパンと手を叩きながら、乱馬はのびた爺さんから目を離し、あかねへと言葉をかけた。
 と、あかねはメラメラと瞳を燃やしてこちらを向いていた。
 怒り心頭、わなわなと彼女の肩は震えていた。
 徹夜で作ってきたチョコレートを片っ端らから、乱馬が八宝斎へと食べさせたのだ。食べこぼしは泥まみれ。あかねの手にしていた袋の中には、一つもチョコレートが残って居なかった。
 乱馬はそんなあかねの様子など、気に留めることもなく、いけしゃあしゃあと言葉を続けた。

「ほれ見ろ。てめーの作ったチョコレートは食えたもんじゃねーだろ?これに懲りたら、義理チョコや友チョコを手作りするのはやめとけ。人様に差しあげるのは、ちゃんと買ったものにしとけ……な?」
 そう言い終るや否や。

 どっかーん!

「乱馬のー…バカーッ!」
 あかねは乱馬の振り向きざまに、一発。
 その拳は、見事に乱馬をのしあげた。
 それからあくるりと背を向けると、紙袋をわっしゃとつかみ取り、そのままのっしのっしとした足取りで、学校の方向へと立ち去って行く。

「たく…。もっと上手いやり方が無かったのかしらねえ…。」
 カウンターパンチを一発、脳天に食らって、地面に沈んだ乱馬を覗きこみながら、なびきが声をかけた。
「ある訳ねーだろ…。」
「これが精いっぱいか…。」
「うるせーっ!」
 ムッとして乱馬は、ゆっくりと身体を起こした。
「ま、いいわ。はいこれ。」
 なびきがにっこりと乱馬へと小さな赤いパッケージを差し出した。
「何だ?」
「あたしからのバレンタインチョコよ。」
 とさりげに己の義理チョコを乱馬へと託した。
「何の真似だ?」
「勿論、ホワイトデー狙いよ…。勿論、倍返しでね。」
 そう言い置くと、なびきはさっさとその場を離れる。

「たく…。姉妹、揃いも揃って…俺をこけにしやがって…。」
 差し返す間もなく、乱馬の手元にはなびきの義理チョコがこれ見よがしに握られている。


「ホーッホッホッホ!御機嫌よう、乱馬様。」
 甲高い特徴的な笑い声が天空から響き渡る。
「乱馬様…。わたくし、黒バラの小太刀お手製のチョコレートですわ。ほーっほっほ。」
 その声と共に降り注ぐ黒バラ。
「げ…小太刀…。」
 そう言うや否や、黒バラから何かが弾け飛んだ。
「しびれ薬…。」
 パタンと前へつんのめる乱馬。
「ホーッホッホ…痺れなさいませー乱馬様っ!」
 高らかと寒空の下、レオタード姿の小太刀が新体操のリボン片手に笑っている。

「乱馬ーッ!」
 今度は己を呼ぶ声と共に、目の前に自転車の車輪が飛び込んで来るのが見えた。小太刀の痺れ薬のせいで、身体は思うように動かない。
 結果…。
 
 めこっ…。

 タイヤはそのまま、乱馬の脳天へと突っ込んで止まった。
「乱馬ーっ!今日はバレンタイン。心をこめた、私の大本命チョコ受け取るね!」
 チャイナ服の可憐な少女、シャンプーだった。これみよがしに、ママチャリの籠からバレンタイン用のハートボックスを差し出す。

「待ちいっ!ウチのが先やっ!」
 ピシュッと何かが己目掛けて吹っ飛んで来た。鉄製の巨大コテが目の前へと突き刺さる。一歩間違えれば、鉄板に引き裂かれるくらいの至近距離だ。コテには、これまた大きなチョコレートの包み紙が据え付けてあった。
「何するねっ!右京。」
 シャンプーがコテを放り投げて来た右京へと怒声を浴びせる。
「フン!そこのあなたたちこそ、邪魔ですわっ!、乱馬様はこれから私と痺れるようなデートをするのですよっ!」
「何を言うかっ!私とバレンタインデートするあるっ!」


 シャンプーと右京、そして小太刀の三人が、いつもの如く小競り合いを始める。
 その隙に正気づいた乱馬は、そっと後ずさりを始め、一目散に逃げの態勢に入った。このままでは遅刻する。そう思ったのだ。

「悪い…。俺、学校へ行くわ。じゃ、またな。」
 そう声をかけると、校門目掛けて猛烈ダッシュを開始する。
 既に、予鈴が鳴り響いていた。
 遅刻するのはまっぴらごめんだ。

「あ、乱馬様。」
「乱馬っ!」
「乱ちゃんっ!」
 当然置いてけぼりの三人娘。
 各人、諦めきれずに、その場を離れた乱馬を追い始めた。

 そんな一行の様子を恨めしそうに見詰める瞳が、そこにあった。
「乱馬め…ワシをこんな目に逢わせよって…。」
 あかねのチョコレートという最強武器によって、乱馬にボロボロにされた八宝斎が発した声だった。
「乱馬…許すまじ…。おのれ…必ず、復讐してやる…。」
 地面に突っ伏すその瞳に、不穏な黒い影がちらつき始めた。




二、

 さて、ところ変わって、天道家。

 かすみが熱心に朝家事の真っ最中だった。
 木立ちからは木漏れ日が差し込む。空も雲が少なく、冬には珍しい安定した晴天が見込めそうな朝だった。
 こういう日は、主婦は忙しい。
 分厚いセーターやシャツなど、普段あまり洗わない物もたくさん洗濯したいし、ほこほこと蒲団も干したい。

「あら、お爺さん、お帰りですか?」
 パンパンとはたいていた蒲団叩きを止めて、庭を横切って来る八宝斎にかすみは声をかけた。
 が、八宝斎はムスッと口を結んだまま、ぼそぼそと小声で何かを言いながら縁側から母屋の方へと入って行く。
「お爺さん?」
 不思議そうにかすみはその姿を見送った。
 八宝斎が縁側の向こう側に消えてしまうと、何事も無かったかのように、バンバンと蒲団を再び叩き始める。

「のう、かすみちゃん。ワシの宝箱を知らんかのー?」
 縁側からひょっこっと八宝斎が顔を出した。
「宝箱ですか?」
 かすみが再び、蒲団を叩くのを辞めて、八宝斎へと向き直る。
「ああ。このくらいの段ボール箱じゃよ。ワシの部屋の押し入れに突っ込んであったと思ったがのう…。」
「それなら、さっき、お爺ちゃんの部屋をお掃除したとき、ちょっと湿気ていましたから、箱を変えて差しあげようとおもって…。ついでだから、天日干ししていますよ。」
「天日干し?」
「ええ…ほら、あそこですわ。」
 かすみはにっこりとほほ笑みながら、庭の真中を指差した。そこにゴザを広げて、幾許かの我楽多が並べてあるのが目に入った。
 とるに足りない我楽多ばかりだが、打ち捨てることなく、かすみらしく丁寧に広げて干してあった。
「おお…。ほんに天日干ししてあるわい。どら…。」
 八宝斎はゴザへ腰を下ろすと、ごそごそとやりだした。

「何かお探し物ですか?」
 かすみは蒲団を竿に干しながら不思議そうに問いかける。
「まーな…。確か、宝箱へ入れておったと思ったが…。」
「見当たりませんか?」
「うーむ…。」
「そう言えば、あと、もうひと箱ありましたわ。場所が無いからまだ段ボールに入れっぱなしで日なたに出してありますよ。」
 そう言いながら、かすみは別の方向を見定める。
「あっちの箱かな?」
 八宝斎は、ゴザから腰を上げると、身軽に段ボール箱の方へと身を翻した。そして、また、ごそごそとやりだす。
「何をお探しですの?」
 かすみが興味深げに八宝斎へと声をかけた。
「ちょっと…な。」
 八宝斎は真剣に探している。そして、手を止めた。
「おおっと、あったあった、これじゃ。」
 と言って、ホコリだらけの冊子を取り出した。
「御本ですか?」
 にこにことかすみは問いかける。
「ああ本じゃ。」
「読書でもなさいますの?」
「まあ、な…。」
 いかにも、怪しげな年代物の薄っぺらい冊子だった。
「ふふふ…あったぞ…。確かこの本に書かれていた筈じゃ…。大破恋灸の作り方と灸点が…。このお灸を乱馬へすえてやる…。みておれ…。」
 八宝斎は本を手に、母屋へと入って行く。

 それっきり、「立ち入り禁止」と張り紙をして、己の居室として使っている畳みの部屋へと籠ってしまった。


 ★☆★


「で?お爺ちゃんは部屋にこもりっきりなの?」
 なびきがかすみへと声をかけた。
「ええ…。熱心に本を読みながら何か作ってるみたいなの…。」
 かすみがそう答えた。
「夕食も忘れてか?あの食い意地の張ったお師匠様が…。」
 漬け物に箸を伸ばしながら玄馬が言った。
「また、何かとんでもない嫌がらせを考えているのではないかね?お師匠様は…。」
「かもね…。今朝の仕返しとか…。」
 なびきが乱馬へと顔を手向けた。
「今朝って、何かトラブルでもあったのかね?」
 問いかける早雲に、
「ま、いろいろとね…。」
 乱馬とあかねの顔を見比べながら、なびきが言った。

 乱馬は黙ったまま、黙々とご飯を食べている。
 その隣で、あかねもムスッとした表情のまま、これまた箸を動かしていた。



 どうやら、乱馬とあかねはあれから臨戦態勢に入ってしまった様子だった。
 わざわざ作った手作りチョコを台無しにされたのだ。あかねが怒らぬ筈は無い。
 しかも、乱馬は乱馬で、山ほどのチョコレートを抱えて帰って来た。一日の間に、たくさんチョコレートを貰った様子だった。
 義理チョコやら本命チョコやら…。三人娘だけでは無い。クラスメイトや下級生、上級生…当人が思う以上に、あちこちで女子から声をかけられ、気がつくと、たくさんのチョコレートが集まって来た。

「ほう…。結構たくさん貰って来たのう…。」
 玄馬が紙袋に手を伸ばそうとした。
「勝手に食うな!俺んのだっ!」
 乱馬は玄馬へと声を荒げる。
「子供の物は、親のワシの物だが…。」
「何でそーなるんだよ?」
 早乙女父子の雲行が妖しくなったところで、バンっとあかねが箸を置いた。
「ちょっと、親子喧嘩ならご飯を食べてからやってよねっ!」

 ツルの一声。

 玄馬はビクッとして、乱馬の紙袋から手を離した。
 なびきも、玄馬に対して、手を横に振って見せた。。あかねの機嫌が悪いのは、これのせいもあるからそっとしときなさい…という合図だ。傍で早雲も苦笑いをしている。

「あ…そうだ。お父さんとおじ様。これ…。」
 あかねはそう言って、膝元から紙袋を取り出した。真っ赤な包装紙に包まれた小箱だった。
 ギクッと早雲と玄馬がのけぞった。
「もしかして…それは…。」
 早雲がそう声を投げかけて、あかねがコクンと頷いた。
「バレンタインチョコよ…。買って来たやつだから安心して。」
 あかねが剣のある言葉でそれに対した。
「ほう…わざわざ買って来てくれたのかね?」
 玄馬がホッとした表情であかねに対した。手作りチョコでは無かったことに安堵したようだ。
「ええ…。誰かさんのせいで、手作りチョコは全部、チャラになっちゃったから…。」
 あかねはとげとげの言葉を乱馬に浴びせかける。
「いや、手作りじゃなくても、父さんはあかねのチョコが嬉しいよ。」
 早雲がウンウンと頷きながら、貰った小箱に頬を擦り寄せる。
「ワシも、有り難く頂戴するよ。ありがとう、あかね君。」

「あら?あかねちゃん、乱馬君には?」
 のほほんとかすみがあかねへと問いかける。空気を読まない長姉らしい問いかけだった。
 その傍でなびきが、余計な事を…と言わんばかりの苦笑いを浮かべた。

「乱馬はたくさん貰えたみたいだから…要らないでしょっ!」
 ポツンとあかねは葉を投げると、おもむろに立ち上がって茶の間を出て行った。

「相当怒りが深いみたいね…。」
 こそっと乱馬に耳打ちするなびき。
「けっ!修行中の身の上の俺には、バレンタインなんて、関係ねえっ!」
 と突き放すように言った。
「じゃ、そのチョコレート、ワシにくれ。」
 玄馬がすかさず、紙袋を盗りにかかる。
「だからって、てめーにはやらねーぜっ!」
 乱馬はわしっと紙袋を横抱きにする。
「修行中の身の上なんじゃろ?なら、ワシが美味しくいただいてやろうと言うておるのじゃ…。」
「やかましいっ!何でてめーに食わせねーといけねーんだ!」

 また、早乙女父子喧嘩が勃発しそうな雲行になった。
 やれやれと言った顔を二人に手向けた…その時だった。

「乱馬っ!覚悟―っ!」

 そう言って、乱入してきた、八宝斎。
 右手にキセル、左手に何か怪しげな物を持って、天井付近から乱馬目掛けて飛びかかる。

「なっ!」
 すっかり油断していた乱馬は、その強襲を避けることができなかった。

「それ、喰らえー、大破恋灸ーっ!」
 そう言って、八宝斎は乱馬の背中の首元へ何かを貼り付けた。
 「灸」と叫んだところから、どうやら、手に持っていたのは、お灸の藻草(もぐさ)だったようだった。そして、手にしていたキセルで、そいつにそのまま火をつけた。
 しかも、いろいろ細工が施されていたようで、瞬時に藻草は火が燃え上がるように熱くなったからたまらない。 

「熱ちゃっ!あちゃっちゃーっ!熱いーっ!」
 もうもうと背中から煙と火が立ち上る。
 もんどりうって、乱馬はお灸を振り払おうと、身体をねじらせた。

「ふん、そのお灸は特別せいじゃ!ちょっとやそっとじゃ、身体から剥がせんわいっ!」
 八宝斎の爺さんはチョコンと玄馬の肩に乗り、吐きつける。
「じじいっー、てめー、何しやがるっ!」
 涙目になりながら、乱馬が八宝斎を睨みつけると、爺さんは笑いながら言った。
「ほっほっほ、良い気味じゃ!」

「乱馬君、お水よっ!」
 そう言って、どこから持ち込んで来たのか、かすみがバケツを両手に、バッシャと乱馬の背中目掛けて水をかけた。

「つ、つめてーっ!…で…あが…。まだ、あちいーっ!ひいいいっ!」
 女に変身した乱馬は、まだ燃え盛る藻草に、悲鳴を上げた。
「なんと…水をかけても消えぬとな?」
「新手のお師匠様の嫌がらせか?」
 玄馬と早雲が、共に、背中で燃え盛る火をしげしげと眺めた。
 
「ふふふ…。熱かろう…。水をかけても燃えきるまでは決して消えん、特別なお灸じゃっ!」
 カラカラと八宝斎は得意げに笑った。

「じじい…てめー、何のつもりで…。」
 バタバタと走り回りながら、乱馬は八宝斎へとわめき散らした。身体を動かしていないと、熱さで我慢が出来なかった。
 まるで、カチカチ山の狸である。


「ワシの目的はただ一つ。乱馬よっ!貴様がこの大破恋灸の餌食となることじゃあーっ!かーっかっかっかっか!」
 八宝斎は腰に手を当てて、笑い飛ばした。


「ダイハレン灸だあ?」

「そうじゃ。そのお灸は、伝説の大破恋灸じゃっ!」
 わしっと指をさしながら、八宝斎は唾を飛ばした。

「お師匠様…まさか、それはあの「貧力虚脱灸」のような嫌がらせのお灸なのですかな?」
 玄馬が尋ねる。
「ふん。その威力たるや、貧力虚脱灸の比では無いわいっ!」
 八宝斎は得意げに答えた。
「どのような恐ろしい効力が…。」
 早雲の問いかけに八宝斎は答えた。

「だから、得も言えぬほどの効力を発揮するじゃろう…。ふふふ、覚悟せいっ!」
 ビシッと八宝斎は真正面からキセルで指しながら、乱馬を睨みつけた。
「うるせーっ!おととい来やがれーっ!このくそじじいーっ!」
 女になった乱馬は怒号を上げると、そのまま、八宝斎を全力で蹴りあげた。

 キラーン…。

 八宝斎は高く蹴りあげられて、空高く消えて行った。

 それを眺めながら、なびきが乱馬へと声をかけた。
「力はいつもと同じ見たいねえ…。貧力虚脱灸みたいな無力になる物じゃないみたいだし…。どう?変わったところは無い?」

「いや、別に…特に何も変わったところはねーぜ…。」

「男に戻れるかしら?」
 かすみがざばっと、傍のストーブからやかんを掴むと、すかさず湯を注いだ。
「あちいっ!かすみさん、俺を殺す気ですか?」
 苦笑いしながら乱馬が吐き出す。

「ちゃんと、男にも戻れるみたいだし…。一体、どんな効用が現れるというのだ?」
 玄馬が小首を傾げた。
「不発だったんじゃねーの?たく…人騒がせな…。」
 乱馬はそう言って退けた。
「だといいけど…。」


 乱馬に特に異変が起こることも無く、平穏に天道家の夜は更けていく。
 いや、実は異変は始まっていたのだが…。まだ、誰もそのことに気がつかなかったのであった。




つづく




すいません…。バレンタインは過ぎ去りましたが…やっぱり書かせていただくことにしました。
バレンタイン…になるのかなあ…。いや、一期一会13周年かな?

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