◆チョコレート戦争2012
第五話 チョコレートの行方
一、
屋上は風が吹き荒んでいた。何も遮るものがないから、渡ってくる春の風が強く頬を殴りつけてくる。
屋上のドアを開いた時、丁度、国松があかねを抱かかえて嬉しそうに笑っている様子が目に飛び込んで来た。
危機一髪!
乱馬は、落ちていたブロック片を国松の背後に向かって投げつけた。
当ててやりたかったが、あかねがすぐ傍に居たので、やめた。わざと的を外して、投げつけただけだった。
ブロック片は国松の足元に当って砕ける。
「誰だっ!?人の恋路を邪魔する奴はっ!」
そう吐き出したいのをぐっと堪えながら、乱馬は不機嫌な声で言い放った。
「お取り込み中、悪いがよー。生憎、まだもう一個、最後のトラップが残ってんだっ!」
吐きつけられた国松は、あかねからパッと手を放した。
「やっと登場したかい。早乙女君。」
そう言いながらフッと笑う。
「君には悪いが、僕もあかねさんを物にしたいと本気で思ってるんだ。」
と、にんまりと笑う。
「ならば、俺を倒すんだな。」
乱馬は無愛想な表情で、言い放った。
「はなからそのつもりだ。風林館へ戻って来て、君を見かけた時から、君と遣り合いたいって思っていたんだ。
でも、僕は既にプロ格闘家だからね。アマチュアに手を出しちゃ、後々問題になるもんで、機会を狙ってたってわけだ。嬉しいよ。君を存分に倒せるんだから。」
「アマチュア呼ばわり」されたことで、乱馬はムカッときた。
頭に血がのぼるほど相手を愚弄し、冷静さを失わせる…。それが国松の狙いだというのは、何となく読めた。
平静を保ちながら、今度は自分から、国松へと言葉を投げつける。
「確かに、俺はアマチュアだ…。だから、プロの総合格闘技の世界がどんなものかは知らない。だが、そう簡単にてめーに倒される相手じゃねーことは、先に断っとくぜ。」
と。
「じゃあ、僕が本気を出しても、恨みっこなしだよ。」
「ああ…。俺も今はアマチュアとはいえ、近い将来、プロの格闘界へ飛び出すつもりだ…。だから、手加減は一切無しで良いぜ。」
そう言いながら、乱馬は身構えた。
「ならば、僕が足腰を立てなくしても、了承の上の試合ということで…。」
「ああ…。但し、俺を斃せたら…の話だぜ!じゃ、そのプロのお手並み拝見…といかせてもらうか。」
自ずと乱馬の闘志は燃え上がり、気合はビンビンに入りまくる。
「いつでも良いよ…。かかっておいで。」
余裕の笑みをこぼしながら、国松も身構える。
両人の気合いがかなり激しい物だと感じ取ったのだろう。
「あたし、攻撃のとばっちりを食うのは、嫌だから、もっと後ろへ下がるわよ、あかね。」
なびきは、あかねに声をかけた。
「そうね…。あたしたちが近くに居たんじゃ、存分に力を出して、戦えないわね。」
あかねも頷く。
国松はともかく、怒りの気をまき散らしている乱馬が目の前に居る。
このまま、無事に終わるとは思えなかった。
あかねには、両者の攻撃を避ける自信はあったが、姉のなびきはずぶの素人だ。至近距離に居るのは危険だ。それに、自分が居れば、なびきに何か起きそうになっても、俊敏に反応して助けることも可能だろう。
それに、国松の戦法にに、乱馬がどう対処し、どう戦うのか。無差別格闘天道流の跡取り娘として、興味があった。
あかねはなびきと共に、かなり後方へと下がる。
二人が間合いから消えたのを確認すると、乱馬は動き出した。
無論、国松も一緒に動いてくる。
(やっぱ、こいつ、速いっ!!)
乱馬がそう思った途端、頬の真横で国松の拳が唸った。
シャッ!
拳圧で、左頬がスッパリと裂ける。
乱馬も負けじと下からアッパーを繰り出した。
シュッ!
勿論、寸ででかわされる。
「なるほど…。思った以上に、やりますねえ…早乙女君。」
嬉しそうに国松が笑った。
「余裕、かましてられるのも、今のうちだぜ!」
乱馬は容赦なく吐きつけた。
空を切る拳の音。そして蹴りの音。
黒い学ランの乱馬と、白いカッターシャツの国松。
黒と白の身体が、互いに交錯する。
互いの拳圧に気押されまいと、攻撃と防御が交互に繰り返されて行く。
まだ寒い冬だというのに、身体はすぐに上気し始める。互いの額に汗が浮かんだ。
「へえ、なかなかやるねえー。早乙女君。」
国松はちろっと舌を出した。
「アマチュアでも、結構、強い奴が居るんだな。」
「それはそれは、プロの格闘家に直接お褒めに預り、光栄だな。」
わざと、丁寧に受け答えて流す乱馬。
「乱馬君と国松君…どっちが強いの?」
なびきがこそっとあかねに尋ねた。
「今のところ、両者の力は拮抗してるわ。」
あかねは真剣に見詰めながら答えた。
「ふーん…。乱馬君が苦戦してるってこと?」
「まーね…。」
「国松君ってさあ…あかねがてんで歯が立たなかったでしょう?」
「ええ…。国松さんも強いわよ…。でも…。多分、乱馬の方が力は上ね…。」
「ひいきの引き倒しかしら?」
「そういうのじゃないわよ。」
あかねは否定した。
乱馬と出会ってからこちら、あかねは己の力の限界を感じ始めていた。男子と女子。筋肉の付き方や体重のせいで、瞬発力、破壊力は格段と差がついてしまったことを、思い知らされずにはいられなかった。風林館高校へ入学したての頃は、まだ、それでも凌げた。
が、今はかなり水を開けられてしまったと思っている。自分が弱くなったとは思いたくなかったが、男子との差が歴然としてきたのは認めざるを得ない。
乱馬と国松のどちらに分があるか。
あかねの見解は的を射ていた。
確かにアマチュアとプロでは、雲泥の差があるだろう。
それはいかなるスポーツでも同じだ。
だが、それはあくまでも同じ土俵、同じものさしで測れる場合の話だ。土俵やものさしが違う場合、一様にはいかない。
特に、乱馬の究めようとしている流儀、「無差別格闘早乙女流」は、常識のものさしで測るのは土台無理な話だった。
もし、国松と乱馬の違いがあるとすれば、それは、場数(ばかず)の違いだろう。いや、修羅場と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
いくら国松が強くても、それはあくまでも、彼の土俵上での強さだった。予め用意された、彼の格闘技世界のレール上での話だ。
生憎、乱馬という男は「規格外人間」である。常識の範疇では計りきれないところがあるのだ。
同じ屋根の下に居て、常に彼の動きを見慣れているあかねには、良くわかるのだ。
「乱馬は野生児よ。格闘をやるために生まれてきたような奴よ。格闘馬鹿の父親に育てられ、修業修業に明け暮れて来た奴だもの…。いくら国松さんがプロ世界に身を置いていても、あいつとは格が違いすぎるわ…残念だけど、あたしより…いいえ、国松さんのレベルよりずっと上へ行ってしまってるの…乱馬は…。」
と、うそぶくように、姉へと呟いた。
激しいせめぎ合い。
男の意地を賭けた戦い。
だが、時間が経つほどに、両者の力の差が歴然と表れ始めた。
拮抗した闘いを続けるうちに、先に、国松の方の息が上がり始めたのである。
少し、また少し、時間の経過と共に、国松の呼吸が荒くなる。
(やっぱり、乱馬の敵じゃなかったわね…。)
あかねは少し安堵の吐息をもらした。
乱馬も闘いの終焉を感じ取っていた。
「やっぱ、俺の方が、力も技も数段上だな…。国松さんよ。」
乱馬は表情一つ変えず、国松を見据えた。
「くそっ!何故だ?何故、アマチュアの君に僕が…。」
力の差をひしひしと感じたのだろう。国松が悔しさを浮かべ始めていた。
「ぼちぼち終わりにしようぜ…。国松さん!」
…奴のどてっ腹に、俺の闘気をぶち込んでやるっ!!
そのくらいの気概で、ぎゅっと気を溜め込みながら、乱馬は国松へ焦点を合わせる。
丹田に力を込めると、一気に勝負に出た。
激しい気炎が、乱馬の右手へ集中していく。
(これまでか!)
国松は、観念して目を閉じた。
と、その時だ、乱馬の脇に猛スピードで飛来する多数の塊が視界に飛び込んでくる。
「え…?」
今にも気弾を打とうとしていた乱馬の闘気が一瞬和いだ。
飛び込んできた多数の塊。それは、右京のコテや小太刀の新体操用の道具たち。
それを避けるために、乱馬は横へとパッと飛び退けた。
「乱ちゃん!逃さへんっ!」
「さっきは散々な目にあわせてくれたね!」
「乱馬様…今度こそ、チェックメイトですわ!」
三人娘が、乱馬のすぐ先で、身構えていた。
二、
「てめーら、性懲りも無く…まだ、やるつもりか?」
乱馬は三人に向けて言い放った。
催涙弾を浴びせかけたにもかかわらず、果敢に立ち直って駆け上がって来たようだ。
「あたりまえですわ!目には目を歯には歯をでございます、乱馬様。」
「ここで引き下がったら女傑族の恥あるね!女傑族、絶対に狙った獲物、逃さないっ!」
「せや、うちらを舐めたらあかんで!乱ちゃん!」
彼女たちの闘志は、さっきよりも燃え盛っているようだった。
何が何でも、バレンタインを物にする…女の執念が彼女たちを駆り立てているのだろう。
「今の俺は、気が立ってる。向かってくるつもりなら容赦しねーが…それでも良いな?」
と吐き捨てる。
「そんなん、わかっとるわっ!」
「もちろん、承知の上ある!」
「望むところですわ、乱馬様!」
シャンプーも小太刀も右京も、引く気はさらさらないらしい。
じりじりと乱馬との距離を計り始めた。
「行きますわよ!」
小太刀の合図を皮切りに、三人娘が一斉に動き始めた。
小太刀はリボンを、シャンプーは双錘を、右京は巨大なコテを、それぞれ武器として構えて、飛び出してくる。
(来るっ!)
乱馬は三人娘に対して、真正面で身構えた。
どこから誰が攻撃してきても良いように、さっき、国松へ向けて放とうとしていた気を、再び、右手に集中させ始める。一網打尽に打ち負かすには、多少の犠牲は仕方があるまい。そう思った。
それに、まだ、国松との勝負も途中だ。いつ、彼が勝負を仕掛けてくるかもわからない。
一気に決着をつける算段だった。
が、三人娘は、乱馬の予想に反した動きを始めた。乱馬の方へ向かって来る娘は、一人も居なかったのだ。予想外の彼女たちの動き。
あらかじめ三人で打ち合わせていたのだろう。一斉に、後方へと、向かって行くではないか。彼女たちの視線の先…そこには、あかねが居た。
「しまった!こいつらの狙いは…あかねかっ!」
そうだった。三人娘は、乱馬ではなく、あかねへと攻撃の照準を合わせていたのだ。
「悪いなっ!乱ちゃん!うちらの狙いは、あかねちゃんやねんっ!」
「天道あかね!いざ、覚悟っ!」
「あかねのチョコ、乱馬に渡す訳にはいかないねーっ!」
そう、三人娘の真の狙い。それは、あかねがその胸に抱えているチョコレート入りの紙袋だったのだ。
さすがの格闘少女あかねも、三人娘の唐突な一斉攻撃に、一瞬、怯んだ。
「あっ!」
と叫んだときには、三人娘に囲まれていた。もちろん、あかねも格闘少女。パッと逃げようと横へ動きかけたが、強襲は避けきれなかった。
「取りましたわっ!」
小太刀のリボンが、あかねの胸から紙袋を上空へと掬いあげていた。
「返してっ!あたしのチョコっ!」
あかねも、リボンと一緒に、飛び上る。
彼女なりに、必死だった。この紙袋の中には、チョコの他にも、キス券やデート券など、ごちゃごちゃとややこしいものが入っている。
三人娘の狙いは、この争奪戦のご褒美を、乱馬以外の男に捧げることに尽きる。あかねのデートも生キスも、乱馬には絶対に渡したくない。その一心で、三人とも必死であった。
「そーれ、パスですわっ!」
小太刀は器用にリボンを回すと、右京へと紙袋を放り投げた。
「そら、今度はあっちやでっ!」
右京はチョコをコテの鉄板で受け止めると、また、シャンプーへと回した。
「返してよっ!あたしのっ!」
あかねはチョコレートを追いかける。
「返さないねっ!ほら、小太刀っ!」
三人でぐるぐると紙袋を回し始める。
何度か、三人娘の間で、往ったり来たりした後、小太刀が勝ち誇ったように、その紙袋をリボンで絡め取った。
「そろそろ、仕上げと参りますわ!そら、そこの、白シャツ男子。あかねのチョコはあなたにさしあげますわっ!」
小太刀は再びめぐってきた紙袋を、リボンで受け止めると、さっと国松の方向へ向けて、放り投げた。
「ダメーッ!」
あかねは阻止しようと、身体から両手を延ばして、懸命に飛び上がった。
放物線を描きながらゆっくりと国松の方へ飛んでいく紙袋。
「あたしのよっ!」
もう少しで届く…。
指先が紙袋をかすめたが、寸でで右京がコテを放り投げて、その軌跡を変化させてしまった。結果、屋上の四隅に巡らせてあった、錆ついた緑色のフェンスの方へと、飛ばされて行く。
このままだと、チョコレートの紙袋は、グラウンドへと弾き飛ばされてしまう。
グラウンドには脱落者が多数、たむろしている。
その誰かの手に入ったら…。
「あたしのチョコレートッ!」
追いすがるように、あかねは、チョコレートの入った紙袋を追いかける。最早、彼女には、紙袋しか見えていないかのようだった。
少しでも高いところへ…と、上を向いたまま、懸命によじ登ろうと手と足をかけたフェンスが、グラときた。
廃校舎の屋上だ。
設(しつら)えてあったフェンスなど、最早、手入れなどしている筈もない。腐食が進んでいたのだろう。あかねの体重を支えきれず、フェンスがぐらついた。案の定、あかねはバランスを失う。
「きゃあっ!」
「あぶねーっ!」
乱馬があかね目掛けて飛び出したのと、あかねが、悲鳴を挙げながら、フェンスごと向こう側へ弾き飛ばされたのは、殆ど同時であった。
「くっ!」
乱馬は無我夢中で、右足を強く蹴り、飛び上がった。
落ちて行くあかねに向けて、身体を投げ出す。
かろうじて、伸ばした右手が、あかねの左手を掴み取っていた。
そして、ぐっとあかねを己の身体の方へ引き寄せながら、空いた左手を大きく下へ広げ、体内に溜め込んでいた「闘気」を、地面へと思い切りぶちかました。
ドオンッ!
爆裂音と共に、地面が砕ける。その反動で、少し身体が浮いた。
「でやあっ!」
更にもう一発、左手から気弾を放った。
二度の気砲で、間一髪、地面への激突は何とか免れた。バランスを崩しながらも、受け身を取ながら、あかねを胸に抱きとめたまま、転げるように背中から地面へ着地する。
幸い、鉄棒脇の砂場へと落下したようで、思ったよりも、背中に受けた衝撃は少なくて済んだ。
見上げた先には、夕暮れが落ちて来た空が広がる。更に、脇へ視線を反らすと、ぐちゃぐちゃに弾け飛んだ紙袋が見えた。さっきの気砲の連打に、どうやら、撃ち抜かれてしまったようだ。
紙袋はボロボロに引きちぎれ、中からチョコレートが離散して、地面へとまき散らされている。ラッピングしていた袋からも、飛び出して、表面は砂まみれ、泥まみれ…。
その様は、あかねの視野の中にも入って来た。
乱馬の腕の中から、身体を起こしながら、あかねは小さく呟いた。
「あたしのチョコレートが…。粉々になっちゃった…。これじゃあ…乱馬にも食べて貰えない…。」
細い声が消え入りそうに震えていた。
「馬鹿野郎っ!チョコなんか、どうでも良いんだよっ!」
つい、大声をあかねに浴びせかけた乱馬。
「おめえが粉々になったら、どうする気だったんだよっ!」
ぎゅっと羽交い締めにしてくる胸の中で、あかねは溜まらず、わあっと泣き出してしまった。
言い訳も、怒気も、弱気も全てを飲みこんで、涙があふれ出して来る。ぐちゃぐちゃになってしまった、感情。
「チョコレートは作り直せっけど…おめーの替えは無えんだよ…バカ…。」
溜め息と共にこぼれる乱馬の言葉。
何も言い返せず、ただ、ただ、しゃくりあげるあかね。
しゃくりあげた涙が、落ち着くまで、四、五分はかかったろうか。あまりに勢いよく泣きすぎたため、顔は涙でぐちゃぐちゃ。勝ち気な娘は、それを乱馬に見られたくないとでも思ったか、乱馬の腕の中で胸板に顔をくっつけて、じっとしていた。
「もう、落ち着いたよな…。」
あかねがしゃくりあげなくなったのを確認すると、乱馬はすっと起き上った。パンパンとズボンを払い、おもむろに、傍に散乱して落ちている、あかねのチョコレートの欠片や紙袋を拾い上げる。
「いい気味だぜ…。」
とボソッと吐きつけた雑言。
その言葉に、ムッとなったあかねが、キッと乱馬を見据える。
「どうせ、そうよ!あんたは、あたしのチョコなんか、期待してなかったんでしょ?」
「たく…この期に及んで、まだ、喧嘩売るつもりか?おめーは…。」
乱馬もムスッとしたまま、残った紙袋の中をゴソゴソやった。それから、中から、封筒を発見すると、それを、ビリビリとあかねの目の前で破き始めた。そう、あかねのキス券とデート券が収められた封筒だ。
「これは、もう、要らねーよな?」
と無愛想に言い放つと、ビリビリと粉砕していく。
じっと、黙ったまま、あかねは乱馬の行為を見つめていた。
本当は…乱馬にあげたかったキスとデート券…。
また、頬を涙が一筋、伝い始める。
「群がる男どもの誰かに、貰って欲しかったのかよ…。」
不機嫌な顔が、その涙に対した。
乱馬の攻めるような言葉に、胸をえぐられ、黙ったまま、あかねはうつむいてしまった。
『そんな訳…ないじゃない…。』
声にならない。心で吐き出す。
「俺は、嫌だぜ!こんなもの、こうやって、こうして、粉砕してやるんだ!」
まだ、物足りないらしく、乱馬は、封筒を粉々に引きちぎり、ボロボロの紙袋へと突っ込んで行く。
「たく…。どいつもこいつも…こんなものに躍起になりやがって!」
そう吐き出すと、乱馬はごそごそと学生服のポケットへ手を突っ込み、何かを取り出す。
「そらよ…。」
そう言いながら、右手で乱馬はあかねの手を取った。それから、反対の左手で取り出したそれを、そっと握らせる。
何かがあかねの掌の中にすっぽりと入った。
「これって…。」
ゆっくりと掌を開くと、小さなハート型の赤い金紙が現れた。
「俺たちのバレンタインチョコは…そんくらいでちょうど良いんだよ!去年、おまえだって、小さなチョコを俺に用意してくれたじゃねーか…。
世間じゃ、逆チョコって言うのもあるんだろ?だから…ありがたく、受け取っとけ!俺からの逆チョコだっ!」
ソッポを向いた乱馬が、顔を真っ赤に染めながら、吐き出した。
照れ隠しの精一杯の虚勢だった。
渡す方も、渡される方も、心臓はドキドキ、バクバク、唸り出す。
あかねは、チョコが乗った手を、そっと胸の前で握りしめる。ハートチョコと共に、胸が熱くなる。
チョコレートのやり取りに、何をムキになってしまっていたのか。
強がりな心の城壁が、見事に陥落していく。
泣き虫の瞳から、また、涙が一筋、零れ落ちた。
無論、悔恨や溜め息の混じった涙ではない…。嬉し涙…だ。
何も、バレンタインデーは女の子から男の子にチョコをあげるために限定されたものではない。
そもそも、女子が男子にチョコをあげて求愛するのは、日本のバレンタインに限ったこと。
ましてや、チョコをめぐって、争う日でもない。
そして、一番肝心なこと。愛は贈り物の大きさで決まるものでもない…。
たかがチョコレート…されどチョコレート。
小さくても嬉しい乱馬からの逆チョコ。小さなチョコでもハッピーになれる。
自分は、一番大切なことを、忘れていたようだ。
「乱馬っ!」
あかねは、頬を染めながらソッポを向いてしまった許婚に、思い切り抱きついた。
ぎゅっ!…ぎしっ!
勢いよくあかねに抱き突かれた乱馬は、そのまま、凍結してしまった。
飛び込んできた彼女を、その胸の中に優しく抱きしめてやれるほど、長けてはいない。
不器用かつ奥手な彼。
みるみる、ハートのように真っ赤に染まる。
二人の、チョコレートを巡る不毛な争いは…こうして終焉を迎えた。
「純情純愛…か。…ま…、こんな幕切れもありっちゃありかしらね…。」
屋上から、オペラグラスを片手に、乱馬とあかねのやり取りを眺めていたなびきが、フッと笑った。
「この争奪戦に勝者は無し…ってね。結構儲けさせてもらったし。」
フッとなびきが笑った。
「ふふ、本当の勝者は、このあたしかもね…。」
校庭で、重なり合ったまま動かない二人の影。
その向こうには真っ赤な夕陽。
バレンタインデーの鮮やかなハートの如く、一つに重なった二人の姿を、きれいな赤に染めて輝く。
その遥か彼方に、富士の高根がぽっかりと浮かんでいた。
完
この争奪戦の本当の勝者は…やっぱり、なびき姉さんではないかと…。
2003年プロットから改作
2012年1月30日 完筆
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