◆チョコレート戦争2012
第四話 トラップ


一、

 落ち着かない時間を、あかねはなびきと共に、屋上で過ごしていた。
 バンバン、ドンドンと、普段、学校ではしない音が、そこら中で響いてくる。その音が、だんだんと近くなってくるのを感じていた。
 胸にはぎゅっと紙袋を手に、闘いの行方に耳を澄ます。

 小一時間経った頃、俄かに階下が騒がしくなった。

「そろそろ、一番手が登場するわね。」
 なびきがふっと頬を緩めた。
「さて、この扉を開けて、あんたのチョコレートを手に入れる幸運な男は誰かしらねえ…。」
 そう笑った時、扉とは反対側の方向から声がした。

「それは僕だよ。」

 背後で声がした。

「僕が一番手さ…。」

 えっと思って振り返る。見慣れたチャイナ服の少年ではなかった。黒い風林館の学生服。がっしりとした体格。

(乱馬じゃない…。)
 顔から一気に血の気が引いてゆくのがわかった。

 なびきもギョッとしていた。何故、扉からではなく、背後からこの男が現れたのか…。そう、屋上へ出られる扉は一つきり。なのに、この男は別の場所からここへ昇って来たことになる。
 策士策に溺れたのである。
(不味ちゃったかな…。)
 と、らしくなく、なびきは苦笑いしていた。

 あかねの目の前に現れたのは、上背のある男子生徒。
 襟元のバッチは「2」。ということは風林館高校の二年生。

「あなた、誰?」

 あかねは、顔をきびっと引き締めて、睨んだ。
 
「それはないなあ…。名前と顔くらいは知っていてもらえたと思ったのに。」
 そいつは笑みを口元に浮かべながら言った。
「知らないものは知らないわよ。」
 あかねは動揺を隠しながら、精一杯虚勢を張った。
 じっと見詰め返してくる目。彼の一重の薄い細い目は、決して笑っては居ない。その瞼の向こうに、鋭い強暴な光を称えている。

(こいつ、強い。)

 あかねの武道家の第六感が警鐘を鳴らし始める。

(こんな奴、この学校に居たっけ?それも、同じ学年に…。)
 強い視線で睨みかえしながら、記憶を探る。だが、どうしても、思い出せない。


「あらら…。最初に現れたのは、国松君じゃない。」
 なびきが二人の間に割って入った。

(たく…乱馬君たら…。何やってるのよ。早く来ないと…。)
 という焦りは一切面に出さず、なびきは、時間稼ぎのために、自ら、声をかけたのであった。
(ここは、できるだけ、時間稼ぎしないと…。)

 そんな姉の心の中など、知る由も無い妹は、気楽に問い返して来る。
「お姉ちゃん、彼のこと知ってるの?」
「ええ、知ってるわよ。国松君よ。」
 わざとゆっくりと答えを返す。
「国松くん?」
 無論、ピンと来ない名前だった。

「あんたさあ…。アメリカに格闘留学していた国松悠介くんを知らないの?」
 なびきは冷ややかに返してきた。
「知らない。」
 あかねは突っぱねるように言った。
「ま、あんたが知らなくても当然か。…あんたたちがこの学校へ入学した頃には、もう、アメリカへ留学していたものね。」
 となびきが答えた。
「そう言えば…マスコミで有名な格闘男子が風林館高校の同学年に居るって…あたしの受験前に言ってたっけ…お姉ちゃん。」
 あかねはなびきへと問いかけた。
「そんなこと、言ったかしらねえ…。」
「うん…サインとか貰って、ネットで販売してたじゃない。」
「あはは…。変なことは覚えてるんだ…あかねってば。」
 なびきが笑いながら、それに対した。
「とにかく、格闘技界ではかなり有名な存在らしいわよ。彼。」
 なびきは、親指で国松を指しながら、あかねへ答えた。

「そのとおり。僕は国松悠介です。以後、お見知りおきを。僕の可愛いスイートハート。」
 そう言って彼は胸に手を当てて、足を後ろに引いてお辞儀した。
 げえっ!何かキザ。趣味じゃない。
「いやあ、やっぱり、傍で見るあかねさんは可愛いや。誰もが交際したがるはずだよ。」
 彼はそう言ってあかねの身体を頭の先から足の先へと舐めるように視線を落とす。

 思わず背中がぞくっとした。
(…こういうタイプの奴は、苦手だわ…。)
 と、心根で吐き出す。

 あかねの手をすっと取った。
「さあ、そのチョコレートもデート券も、それからその可愛い桜色の唇も、僕の物だ。」
 と、なびきが居るのを気にしないで、平然と言い放つ。

 その馴れ馴れしさに、つい、あかねのスイッチが入ってしまった。

 差し出されて来た手を払いのけて、勝気さをむき出しに、国松へと対する。

「それはおあいにく様。まだあなたに権利一式が渡ったわけじゃないのよ。」
 と凄んで見せる。

「あかね、あんた…。」
 なびきは、驚いて、あかねを見返す。
 あかねは戦う気満々で、そこに立っている。

(不味い!)
 と止めようとしたが、あかねが手を横にして、なびきを牽制した。


「まだ、もう一つ、トラップが残ってるの…。」
 あかねはゆっくりと後ろへ下がり始めた。
 制服のスカートがさあっと風に舞った。あかねは上着を脱ぎ捨てると、持っていたチョコレートの包と一緒にフェンスの脇へと置いた。

「トラップだって?」
 国松は細い目を更にすぼめてあかねを見返した。意外だなと言わんばかりに…。

「そうよ。そのトラップは…あたし自身。」
 あかねは噛み砕くように、その国松という男に向かって言った。
「つまり、何ですか。君とここで戦えと。」
 そいつがにやりと笑ったように見えた。あかねはこくんと一つ頷いて見せる。

「面白いっ!」

 そいつはにやりと笑った。

「気の強い女の子だとは訊いていたけれど、そこまでとは。ええ、やりましょう。但し、僕は手を抜きませんからね。」

 そいつは学ランをぱっと取り去った。
 その下から現れたのは、筋肉質な身体。乱馬よりも引き締まっているかもしれない。一目見て、格闘系をやりこなしているってわかる。もし、あかねが入学して来た頃にも、この男が居たら、九能とタイマン張って、交際申し込みの男子団体は居なかったのではないかと、思えるほどに…。
 
 あかねとて武道家の卵。相手の殺気や闘気で少しくらい強さは嗅ぎ分けられる。

(強い…。強いわ…この人…。)
 冷や汗が、背中を伝って来るような気がした。

(でも…。でも、男は強ければいいってものじゃないわ。)
 と己に言い聞かすように、睨みかえしていた。

 国松も身構える。
 彼の背中に上がる闘気は、半端ではなかった。

(あかねっ!しっかりなさい!飲まれちゃダメ!)
 あかねは気押されそうになるのを、精一杯踏ん張って身構えた。
 気で負けてたまるものかと、必死だった。

 国松は間合いを計りながら、じりじりと詰め寄ってくる。攻撃範囲に入ったら駄目。あかねは、彼の気迫と共に、後ろへと交代する。勿論、屋上は場所が限られている。あかねの背中にフェンスの感触が当った。
「さあ、後がないよ、どうします?」
 そいつはにやりと笑って見せた。むかつく奴。
「勿論…。」
 あかねはすうっと息を吸った。そして吐きながら言った。
「攻撃するまでよっ!!」
 あかねは一気に前へと飛び出した。
「はあーっ!!」
 気合では絶対に負けない。負けられないっ!

 国松目掛けて、飛びかかって行った。



二、

 その頃、乱馬はまだ校舎内に居た。
 良牙と共に、三階で、群がって来る男たちを相手にしていた。
 
 思ったよりも駆け上がってくる連中は多かった。
 ムースと九能の二人をしても、数が多ければ、取りこぼしも多くなるだろう。一人が一度に相手できるのは、たかが知れている。いくら、二人が強かろうと、その脇を通り越して行く連中はいる。

 雪崩こんで来る女に飢えた奴らばかりだ。明らか、目の色が変わっている。

「畜生…思ったよりも、厄介な相手だな…。」
 群がって来る男たちを相手にしながら、乱馬は吐き出した。
 飛竜昇天破を打てば一網打尽だろうが、この狭い校舎の中で打ち込めば、どうなるか。良牙まで巻き込むことになる。良牙も爆砕転結を打ちたいところだが、同じ理由で、二の足を踏んでいた。

「乱馬、二手に分かれよう。おまえは屋上前の階段へ行け!この三階は俺が食い止める。できるだけ食い止めるが、どうしても漏れた連中はおまえが、仕留めろっ!」
 良牙が叫んだ。
 確かにその方が効率が良い。一人になった方が、互いの必殺技の加減の調整も容易にできるというもの。互いの技の応酬で、共倒れになる可能性も無くなる。

(さすがに良牙だ。格闘慣れしてやがる。)
 乱馬は思った。

 それに、まだ、走り抜けて来る男連中の後ろから、九能とムースの気配も伝わって来る。どうやら、彼らが戦闘不能に陥った訳ではなさそうだった。
 数の多さに圧倒されて、防ぎきれなかった者たちが階段を駆け上がってくるだけなのだろう。

「わかった、九能やムースもまだ戦えるようだからな。」
「三階(ここ)は俺が守り通す。おまえが最後の砦だ。乱馬、頑張れよっ!」
「おうっ!」
 乱馬はそう吐き出すと、最後の砦になる屋上への出入り口へ駆け上がった。
 この向こう側、屋上の天辺にあかねが居るはずだ。
 この扉を絶対に破らせる訳にはいかない。

 
 どんな奴にも、あかねは渡せない。あかねに群がる男たちは、殲滅させなければならない。

 奮い立った乱馬は、最後の砦になるであろう、屋上へ出る扉の前に仁王立ちした。

(誰がここの階段を駆け上がって来ても、この先は、対に通さねえ。)

 と、階下から足音が響き始めた。
 誰か来るっ!!
 全身に緊張が走った。

 ピュン、ピュン、ピュン!

 飛んできたのは、小型のコテだった。
 もちろん、難なく避ける。
「なっ!」
 明らか、右京の武器だった。
 そればかりか、黒い薔薇の花びらも舞い上がる。そして、投げつけられる、新体操の道具一式。
 
「おまえらっ!」
 乱馬は現れた人影に向かって、思わず、声を荒げていた。

「乱ちゃん、探したで!」
 と右京が叫んだ。
「乱馬、追いついた!」
 シャンプーも睨みつけて来る。
「ほーっほっほ、わたくしたちから逃げられるとでもお思いでしたの?」
 
「ちぇっ!しつこい奴らだな…。」
 思わず、吐き出していた。

「あたりまえや!」
「今日はバレンタインね。」
「絶対、逃しませんことよ!」
 三人とも、気合いは十分だった。

「仕方ねえか…。」

 乱馬は、すうっと息を吐いて身構えた。
 女子と争いごとを構えるのは、良しとしまいが、ここでリタイアする訳にはいかなかった。


「乱馬さまっ!お覚悟はよろしくて?」
「乱ちゃん、今度は逃がさんでっ!」
「乱馬、何がなんでもバレンタインデートしてもらうね。」

 小太刀、右京、シャンプー。
 その三人娘が、それぞれ、階段に散らばりながら、牽制しあう。

「どうしても、やるってんだな?」
 乱馬は三人に吐きつけた。
「俺としては、バレンタインに、無用な闘いはしたくねーが…。」

「恋はバトルや!いくでっ!」
 右京の声を合図に、三人娘は乱馬に襲い掛かる。
 勿論、彼女たちは本気だ。発せられる闘気を見れば一目瞭然だ。

 乱馬は彼女たちの攻撃を必死で避けた。三人とも、群を抜いた格闘少女。そのセンスも闘志も本物だ。男の乱馬と言えども、三人まとめて掛かって来られたら、かわすのが精一杯だった。
 最悪なことに、ここは袋小路。ここを死守しなければならないという使命もある。そう、逃げ場はない。
 容赦なく三人は、乱馬に向かって攻撃を仕掛けてくる。

「乙女心の詰った、このチョコレートを召し上がっていただくまでは、後へは引きませんわっ!!」
「せや、せっかくのバレンタインチョコ、全部食べて貰うでーっ!」
「乱馬、勝負ね。」

(こいつら、絶対、何か間違ってやがる。バレンタインのチョコレートは戦って食べてもらうもんじゃねーだろがっ!)

 だが、彼女たちに常識が通用する筈はない。非常識が常識といった連中ばかりだ。
「わたっ!やめろっ!」
 乱馬は彼女たちの攻撃をかわしながら叫んだ。狭い踊り場。小太刀の格闘新体操道具、うっちゃんのコテ、シャンプーの武器が絡み合う。階段は戦場と化した。
 三人娘が男だったら良かった。男だったらぶちのめしてしまえば事が足りる。だが、格闘少女とは言っても、彼女たちは女。いくら強くても、女に手を挙げることは出来ない乱馬だった。
 正直、乱馬も、愛情を闘志に置き換える物騒な連中など、相手にしたくなかった。

 紙一重でかわすのが精一杯だ。
 明らかに不利な戦いを強いられている。
 
 ムース、九能、良牙の三人が取り逃したのだろう。その隙を縫って、屋上へと駆け上がろうとする、不埒な男どもも居る始末。

「させるかっ!」
 乱馬も懸命であった。三人娘を相手にしながら、這い上がって来る男たちを狙い打つ。男には容赦なく攻撃を履行する。
「む、無念…。」
「こ、ここまで来たのに。」
 どおっと倒れこむ男たち。

(ざまあみろ。絶対にあかねの元へは行かせるか。)
 そう思いながら、闘いを繰り広げて行く。

「乱馬、やっぱりあかねが気になるか?」
 シャンプーが鋭い目を投げつけてきた。
「生憎、うちらかってこんなチャンス、逃がすわけにはいかへんねん!絶対、あかねには他の男、宛てごうたる。乱ちゃんはうちの許婚やっ!」
「天道あかねなど、乱馬様には所詮お似合いになりませんわ!」

 三人娘も必死の形相だ。

 チョコレートを乱馬に渡すために戦っているのか、それとも、あかねの元に他の男を誘導するために頑張っているのか。
 

 その時だった。

 乱馬が攻防を続けている屋上へ続くこの踊り場へ、良牙が駆け込んで来たのだ。

 乱馬は良牙を見るとぐっと息を飲み込んだ。

「り、良牙…てめー…。」

 凄い傷だった。擦り傷が良牙を覆い尽くしている。この方向音痴の良牙が、どうやってここまで上がってきたかはこの際置いておいて、乱馬は叫んだ。
「良牙っ!おまえ、その傷っ!」
 数を頼んだって、良牙をここまで傷だらけにするのは難しい…なのに、ボロボロの良牙がそこに居た。

「やられたっ!上背のあるごつい男だった。」
「どういうことだ?」
 乱馬は倒れこんだ良牙を見返した。

「やっと、国松さん、上に行ったんか。」
 うっちゃんがにやっと笑った。
「国松だって?」
 その言葉に、乱馬は嫌な予感がした。
 国松は今朝、乱馬の教室にわざわざ、宣戦布告をしに来た奴だ。しかも、格闘技留学してたと言う。腕っ節も、立ちそうだった。

「さっきの男ね、右京。」
 シャンプーも笑った。
「なかなか良い男でしたわねえ。」
 小太刀も同調する。

「今の今まで、そんな男は通してねえぞ!」
 乱馬は問い返す。


「アホやなあ…乱ちゃん。別に、階段使わなくても、上には行けるんやで。」
 と右京が笑った。
「あん?」
 乱馬は右京へと問い返していた。
「窓から上に上がればええんや。何も、階段使わなあかんってもんでもないで。ウチやったら迷わずそうするわ。」
 
「あ!」
 乱馬は軽く声を挙げてしまった。

 そうだ。確かに、階段など使わなくても、力ずくで上に上がれば事足りる。

「国松とかいう奴は…教室の窓から上に行きやがったぜ、乱馬。」
 良牙が悔しそうに言った。

 そう、格闘家くらいの腕力や体力があれば、手や足を掛けるところさえあれば、簡単に窓や壁と昇っていけるだろう。

「し、しまった!そこまで、考えてなかったぜ!」
 乱馬は舌打ちをした。
 
 どうやら、三人娘は、国松がそちらへ移動する時間を稼いでいたようだ。
 完全に、オトリである。


「ええやん。彼やったらあかねにお似合いやわ。乱ちゃん、これで思う存分…。」
 うっちゃんがコテを握り締めた。
「さあ、私たちのうちの誰か選ぶよろし。」
 シャンプーもずいっと睨んできた。
「そうですわ!天道あかねは、国松とやらに任せて、ほら、わたくしと熱いバレンタインを!」

「わかったよ…。」
 乱馬は構えていた手をスッと収めた。一緒に闘気も身体の中に吸い込んだ。

「で、誰のから貰おうか?」
 乱馬は観念したように彼女たちを見回した。

「やっとその気になってくれたんか。」
「私のに決まってるね。」
「まあ、あつかましい。当然乱馬さまは私のチョコレートだけをお召し上がりに…。」

「乱馬、貴様…。」
 良牙が睨みつけてくる。
「おまえがそんなに不埒な野郎だとは思わなかったぜっ!乱馬よっ!」
 良牙は最後の力を振り絞るように、腹ばったまま状態を起こした。人差指を、すっと身構える。

(しめたっ!良牙めっ!乗って来やがったなっ!) 
 乱馬は、ほくそ笑んだ。
 
 乱馬の目論見どおり、良牙は、技を撃ち込んで来た。

「獅子咆哮弾っ!!」
 目の前の空間が一瞬沈んだ。良牙の赤い気炎がこちらへ向けて飛ばされてくるのが視界に入った。

「今だっ!!」
 乱馬は床を思いっきり蹴り上げたと同時に、学ランのポケットに手を突っ込んだ。

「乱馬っ!」「乱ちゃんっ!」「乱馬さまっ!!」
 三人娘たちの声がこだまする。その中心に向かってポケットに隠し持っていた玉を、思い切り投げつけた。
 己は、ぐっと鼻と口を抑えて、息をしないように、煙を潜り抜ける。

 ボワン!

 玉が床に当たって、弾け飛んだ。
 と、辺り一面、白い煙がもうもうとたちこめた。
 乱馬が投げた玉。それは、なびきが予めもしもの時のために渡してくれた武器だった。どこからこんな物騒なものをくすねてきたのかは知らないが、「催涙弾」だった。
 察するに、この学校の科学部の連中が作っていたものだろう。

(悪いな、良牙、うっちゃん、シャンプー、小太刀。こんなところで時間を食ってる場合じゃねーんだ。)
 恐らく、彼女たちは至近距離から思いっきり催涙弾を浴びて、戦闘不能になったろう。彼女たちの闘気は最早、煙にまかれて消え果ていた。

 乱馬は眼鏡をかけ、煙を吸い込まないように注意しながら、だっと駆け出した。そのための眼鏡でもあった。
 すぐ上の扉へ向かって。
 この鉄の扉の向こう側に、あかねがいる。

(間に合ってくれっ!!)
 俺はただその一念だけで、全速力で階段を駆け上がって行った。


三、

 屋上では、あかねと国松の闘いが繰り広げられていた。

 全力疾走のあかねと、余裕の国松。
 その力差は一目瞭然だった。

 なびきが見学するに、あかねは国松にもてあそばれているような雰囲気だった。
 妹の無茶を止めようかと最初は思ったが、国松も本気であかねを相手するほど間抜けではないようなので、傍観を決め込んでいた。
 その間にも乱馬が現れるかもしれない…という、楽観的希望だけを胸に、二人の闘いを、巻き込まれないように離れて見物していたのである。

「へええ…。あかねちゃんも案外、強いんだねー。」
 と仕掛けて来る攻撃をかわしながら、ニヤッと笑う。

「あんたに、ちゃん付けで呼ばれる筋合いなんか、ないわっ!」
 とあかねは拳を突き上げる。が、当たらない。

「いいじゃない。今日から君は僕の恋人さ。」

「誰があんたの恋人になるなんて言ったかしら?」

「デート一回で物にするよ。必ずね。」

 不埒な会話を繰り広げながら、国松は闘いを愉しんでいる様子だった。

「勝ち気なくらいの方が、僕は好みだな…。もちろん、可愛い君だからこそ、許せるんだけどね。」

「馬鹿にして!」
 あかねは、得意の足蹴りを仕掛ける。
 
 国松はひらりとあかねの攻撃を交わした。
 あかねは、足を踏ん張って、上体を起こす。
「たく…。そんな一本気じゃあ、相手に意表だってつけやしないよ。」

「うるさいわねーっ!」
 ますます、高揚するあかね。

「怒った顔も素敵だな…。」

「からかわないでっ!」
 息が上がり始めるあかねに対して、国松はあくまで、冷静だ。

「そろそろ、終わりにさせてもらうかな…。」
 そう言うと、あかねの視線から国松が消えた。

 え…?

 すぐ耳元で彼が笑っていた。腕があかねの腰あたりに回される。

「ほら、捕まえた。」
 あかねは肘鉄を食らわせようと振りかぶったが、彼の強い腕に阻まれた。頑強な男の身体に、悔しいが、か細い腕は適わない。
「君から飛び込んで来てくれるんだから。感激だなあ。」
 ぐいっとそいつに引っ張られた。
 目の前で一重瞼が笑ってる。彼はあかねの身体をがしっとつかんで離さない。それどころか、そのまま、あかねを自分の方へと向かせた。
「さて、君を捕まえたし。まずは遠慮なく、その桜色の唇を貰うよ。」
 あかねは必死で抵抗するが抑え込まれて身動きできなかった。彼は左手一つであかねの身体を抱え、右手を頬へと滑らせて来た。

「い、嫌っ!」

 そいつの唇があかねを奪おうと近づいた時だった。
 ヒュン!
 物凄い勢いで、ブロック片が飛んできた。それはすぐあかねたちの後ろで弾けて落ちた。

「誰だっ!?人の恋路を邪魔する奴はっ!」
 
 国松がきびっと声を張り上げた。

「お取り込み中、悪いがよー、生憎、まだ最後のトラップが残ってんだよ!」
 ゆっくりとそいつは立ち上がっていた。

「ら、乱馬?」
 あかねは驚いてそちらを見やった。そこには、見覚えのあるチャイナ服の少年ではなく、風林館高校の学ランを着流した彼が立っていたからだ。一瞬、目を疑った。

…何でそんな格好をしているの?…問いかけたかったが、声にならなかった。

 国松はつかんでいたあかねの腰から手を離した。そして、ぺっと唾を吐きかけて言った。
「やっと登場したかい。早乙女君。」
 あかねは、彼から解放されて、トタンと地べたに手を付いてへたりこんでしまった。
 真向かいでは、二人の学ラン男が睨み合っている。凄みあってる。

「あかね、こっちよ。」
 その時やっと、なびきが手招いているのに気がついた。あかねは、重い腰を上げて、姉の方へと歩み寄った。
「お姉ちゃん…。もしかして、乱馬も巻き込んだの?」
 こくんと笑う口元。
「だって、可愛い妹を乱馬君以外の男に易々とあげるわけにもいかなかったしね。始めは焦ったわよ。まさか、国松君が参加するなんて夢にも思っていなかったもの。まあ、あのキザったらしさなら、大抵の女の子は逃げちゃうわよね。いくら強くったって。」
 確かにその通りだ。
「でも、乱馬ったら何で学ランなんか着てるのよ?」
「変装させたのよ…。一応、カツラと眼鏡も渡してあったんだけど…。」
「お姉ちゃんが変装させたの?」
「ええ…。ま、いろいろ事情があってね…。まあ、彼には彼の面子ってもんがあるからね。あんたを怒らせた手前、堂々とこの争奪戦にも参加できなかったでしょうし…。」

 あのひねくれものの乱馬なら、さもありなん。だいたいの予想はつく。途中で変装して戦うのが面倒になって、カツラと眼鏡はどこかへ放り投げてきたのだろう。

「口で要らないって言っておきながら、多分、本当のところは、あんたのチョコレートの行方が気になって仕方がなかったんじゃないの?ちょっと、声かけたら、ホイホイと乗ってきたわよ。たく、乱馬君も素直じゃないわよねー。」
 なびきは、傍らに置いてあったあかねの上着とチョコートのラッピングを手渡しながら続ける。
「さて、あんたのそのチョコレートを手にするのは、乱馬君かしら。それとも…。」

「あたしには関係ないわ。どっちが勝っても…。」
 あかねはこの期に及んで投げ遣りに言い放った。
「ほんと、あんたも素直じゃないわねえ…。本当は乱馬君のために、がんばって作ってたんじゃないのかしらねえ?」
 なびきはにんまりと笑った。

 完全に見透かされている。あかねはそれ以上、言葉を継げなかった。

 チョコの入ったラッピングを握り締めながら、あかねは、勝負の行方を見詰めた。
 チョコレート争奪戦の最終決戦が始まる。



 つづく





次回、最終話…


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