挿絵…ピスタさま
◆チョコレート戦争2012
第二話 なびきの目論み
一、
中休み。乱馬はずかずかとなびきの教室へと出向いた。
三年B組。ここが現在の彼女の根城。
中休みは十五分と、少し長い。
ガラガラッと乱暴に引き戸を開けて見渡す。
居た。ターゲットはのうのうと電卓片手に、何やら熱心に計算中だった。机の上には、紙きれがたくさん積み重なっている。
「くおらっ!なびきっ!!」
ドンと机を叩くと、大きな声を出した。
そのくらいの勢いをつけなければ、この女と対等には向き合えない。普通のトーンでは、なびきに飲みこまれる。
「あら、乱馬君。意外に早かったわねえ。」
電卓から目を離すと、なびきが顔を上げた。
「おめー、これは何だっ!!」
握り締めていたちらしを、ずんと彼女の目の前に晒した。
「読んで字の如くよ。」
平然と言って退けられた。
「だから、何の真似だと訊いてるんでいっ!!」
ついカッと頭に血が上がってしまった。まだまだ、なびきに言わせれば、「未熟者のひよっ子」だ。
「金儲けよ。」
なびきはすっぱりと言い切った。
「お、おまえなあ…。」
どう切り返そうか、一瞬、迷った。敵は投げたストレートをそのまま打ち返してくる。それも、ライナーでだ。
「やっぱ、気になるんだ。あかねの手作りチョコ。」
にやにやと含み笑い。
「んなんじゃねーっ!」
この時点で、乱馬は、既になびきのペースにはまってしまっていた。もちろん、当人は気付きもしていない。
「あらそう…。だったら、別にいいじゃないの?あたしが何したって…。」
乱馬の問いを、軽く受け流すと、なびきはまた、電卓を叩き始める。可愛げの「か」の字もない女だった。
「それとも、乱馬君も申し込むの?…だったら、参加料は五百円よ。身内でもびた一文、まけないからね。」
と、今度は攻め上がって来る。
「誰が、こんなしょーもねえ企画に申し込むかっ!」
思わず、言い放っていた。
「じゃあ、何しに来た訳?」
なびきはちろっと上目遣いで乱馬を見上げる。
「だから…あかねの奴は承知したのかよっ!この企画に…。」
もそもそっと歯切れ悪く問いかける。
「したわよ。」
そう言いながら、申込用紙の束をトントンと机に叩いて、輪ゴムでまとめ始めた。
「あのう…。天道なびきさん、こ、これを。」
言ってる矢先に、男子生徒が一人、申し込み用紙を持って現れた。
「毎度ぉ〜♪はい、参加料はここへ入れてね。」
なびきはすかさず、机から缶の貯金箱を取り出して、相手の前に立て書ける。
ちゃりん…と五百円玉の弾ける音がした。それを確認すると、申込用紙に「済」と赤ペンを入れる。
「じゃあ、これが、ルールの紙と参加証。良く読んで参加して頂戴ね。がんばるのよ。」
肩を怒らせる乱馬の真横で、のうのうと商売するず太さ。
しかも、申込書を持って来たのは、今の男だけではない。
休憩時間が長いせいか、次々と男連中が教室になだれ込んでくる。記名記入した申込書と参加費を持って。
みるみる、乱馬の横に、長蛇の列ができあがっていく。
(ひょっとしてこいつら、俺を出し抜いて、本気であかねを物にしようなんて考えてるんじゃねーだろうな。冗談じゃねえぞ!)
メラメラと燃えあがる、乱馬の怒り。
横に突っ立っている乱馬を気にするそぶりも無く、なびきは商売に勤しんでいる。
「あ、はい、次の方。お金はこっち、申込書はこっちね。」
てきぱきと慣れた手つきで、事務作業をこなしてゆくなびき。
(何て奴だ。)
呆れ顔の乱馬。
ひとしきり、落ち着いたところで、なびきが乱馬を見た。
「まだ居たの。」
(何だ、その言い草は。)…とカチンと来た乱馬は、思い切り、机をバンッと両手で叩いていた。
「おまえなあ。」
「うふふ。あかねの人気って全然衰えてないのねぇ。我が妹ながら凄いと思うわ。あの子のどこに惹かれて男連中が集まってくるのやら。
ううん…あの子ったら、女子にももてるのよねえ…。女の子の申し込みも、ちらほらあるのよ。」
(あたりめえだっ!俺が惚れてんだ。金の亡者のてめえと違ってあかねは可愛い。極上の女だ。料理が下手だということさえ除けば。)
そう言い放ちたい気持をグッとこらえて、乱馬はなびきへと詰め寄った。
「たく、こんなバカなことは辞めろっ!今すぐにっ!」
と突っかかる。
「何だかんだ言って、あかねのこと、気にかかるんだあ、乱馬君。」
にやりとなびきが笑った。
「そんなんじゃねーよっ!」
「だったら、黙ってなさい。このことはあかねも承諾してるのよ。ここに、承諾書もあるんだから。」
とチラリとあかねがサインしたのが見え隠れする紙を見せた。
「それに、今更やめたら、パニックになるかもよー。こんだけ、申込書があるんだから。」
ぐっと、乱馬は両手を握りしめる。なびきが女で無かったら、とうに、床に沈めていただろう。
それを見透かして、なびきは乱馬へと言葉を投げて来た。
「ねえ、乱馬君。あたしと組まない?」
なびきは、ちらっと乱馬を見た。
「おまえと組むだあ?」
「ええ、そうよ。あかねの元へ駆け上がる男連中を蹴散らすトラップも必要だからね。」
「俺にトラップになれってか?」
「ええ、そうよ。あんただって、許婚の意地…いいえ、プライドってものがあるでしょう?
どう?その気があるなら、そうね、学校じゃ何だから…家に帰ったら、改めて、あたしの部屋へ来て頂戴よ。決して悪い話じゃないと思うわよ…。
あんただって、あかねに群がる男たちを蹴散らしたいんでしょう?」
なびきはたたみかけるように、一気に乱馬へ話を持ちかけた。
そして、思わせぶりに、手にしている「申込書の束」をトントンと叩いて見せた。
いったい幾人の男が申し込んだのか。そいつはかなりの束になっていた。それに、まだ、続々と、申込書を持った男子生徒がなびきの元へやって来る。
「わかった、話だけでも聞いてやらあっ!」
乱馬は吐き出すと、教室を出た。始業のベルはもうすぐ鳴る。いつまでも、ここに居るわけにもいかないだろう。
教室に帰る途中にも、申込書を片手にした男連中と随分すれ違った。三年生、二年生だけではなく、一年坊主居た。
いや、驚いたのは、きゃぴきゃぴと一年生の女子集団がなびきの教室へと吸い込まれて行くではないか。
(あかねって女子にももてるのよねえ…。)
さっきのなびきの言葉が、乱馬の脳で反復される。
…おい、チョコレート貰って嬉しいのは男だけじゃねーのか?女があかねのチョコ貰って、交際権獲得してどうするんだよ。危ねーぞ、それ…。
その道すがら階段の踊り場で、一人の男とすれ違った。
襟元のバッチは「2」とあったから、同じ二年生だ。見慣れない顔だった。
すれ違いざま、乱馬の方をちらっと見てきた。視線が合うと、ふふっと笑ったような気がした。
(こんな奴居たっけ?まあ、一学年十クラスあるから、知らえー奴もいるんだろうが…。にしても…いい体つきしてやがるな…。かなり鍛えてやがる…。)
ポッケに手は突っ込んでいたから、すれ違った奴が申込書を持っているかどうかはわからないが、階段を上がっていったからもしかすると、なびきの元へ行くのかもしれなかった。休み時間はまだ、五分ほどある。
どっちにしても愉快ではなかった。
…たく、あかねの奴…何考えてやがる。承諾したってなびきは言ってやがったが…。
教室への入り際で、あかねの方に視線を流すと、つんと反らされた。
勿論、口も利く素振りは見せない。
…可愛くねー。たく、俺へのあてこすり…腹いせのつもりかあ?…
休み時間の終了を告げるチャイムが、鳴り響いた。
ニ、
下校するや否や、乱馬はなびきの部屋へと駆け込んだ。
「待ってたわよ。」
彼女は笑った。
「あかねなら友達と出かけたみたいだから、暫くは帰って来ないわ。ゆっくり話ましょうか。」
この小悪魔は、あかねの動向をよく把握していた。
「さてと…まずはこれ。」
なびきは持っていた紙切れを、札束のようにどっかと乱馬の前に広げて見せた。
「ざっと数えて五百枚はあるわ。」
あっさりと言った。
風林館高校は一学年四十名で十クラスで四百人。で三学年あるから、千二百人の生徒が居る。ざっとそのうちの約半分が男子だから、五百というと男子生徒の八割方ということになる。残りの二割は決まった交際相手が居るか、国公立大学受験を控えてそれどころではない三年生か…といったところだろう。
そういえば、なびきは既に、大学の推薦入学を決めていたから、受験とは無関係だった。
無論、なびきの場合、受験が迫ろうが金儲け優先になるのであろうが…。
「中にはねえ、一年生の女の子も団体で申し込んでるのよ。あの子、男っぽいところもあるから、同性からも人気があるのね。あかねお姉さまなんて呼ぶ子もいるのよ。知ってた?」
ああ、そうか。廊下ですれ違った女子の団体は、そういう子たちだったのか。
乱馬は納得した。
「一応、今回は急場だから、風林館高校の生徒以外の申し込みは受け付けないことにしたわ。チラシにも、風林館高校の関係者以外は参加できないとうたってあるけど…潜ってくるかもね…。他校生もね。」
「な、何ぃ?他校生も来るかもしれねえって?」
「あら、あかねって、対外試合の助っ人なんかで、他の高校へ行くことがあるからさあ…結構、他の学校の男子たちにも眼をつけられてるのよ。知らなかった?」
「知らねーよっ!んなのっ!」
不愉快そうに、乱馬は切り返した。
「まだ締め切りまで、時間があるから、ざっと全部で六百人ってところでしょうね…参加者は。」
なびきはホクホク顔だ。
参加費は五百円だから、ざっと計算して二十五万円の上がりだ。高校生が一挙に 手にして良い額ではなかろう。
「おい、税金は大丈夫なのかよ。確定申告しなくていいのか?」
「大丈夫よ…。必要経費と私の取り分を除いた額は、ちゃんと、慈善団体へ寄付するつもりよ。」
と、さらりと言い抜ける。
「で、率直に言うわ。乱馬君には、この子たちを蹴落とす、トラップになって欲しいの。あたし的にはね…。」
商談開始の言葉を乱馬へと投げつけて来た。
「トラップっつったってよー。」
「あんたの腕だったら、このくらいの人数、寄って集っても蹴散らせるんじゃないかってね。嫌ならいいのよ。誰かにあかねのキッスを持って行かれるかもしれないけどね。それが耐えられるなら。」
話の急所は抑えてくる。流石だと言わざるを得まい。
「あかねのキスなんて興味ねーよ。」
乱馬は素っ気なく返答するが、明らかに動揺している。
「ふうん、その割には、わざわざ、ここまで来るなんて。ま、いいわ。嫌だったら別に。」
「誰も嫌だっつーてねえっ!」
乱馬はぶくっと膨れっ面。
「たく、あかねの奴がどう思ってるかは知らねーが、あいつの思うようにはさせねー。」
「どういうことかしら?」
なびきは申込書を仕舞いながら言った。
「だから、あかねの奴には男なんて近寄らせねーっ!勿論、趣味の悪い女もだ。あ、言っとくが、あいつを守るつもりで言ってるんじゃねーぞっ!あいつの元に、いつまで待っても男が現れなかったら、面白いじゃねーか!」
この勘所の鋭いあかねの姉に、こんな子供じみた言い訳や詭弁が通じるとは思わなかったが、変な許婚の沽券が、そんな言い訳を弾き出していた。
「とにかく、あかねのチョコレートは誰にも食わさねー!あんなもの、他の連中が食ったら腹壊すのが落ちだからな…。」
あの申し込み用紙の束を目の当たりにして、プッツン来たようだった。
「もてるあかねに対する嫉妬」が、彼の心を支配し始めていたのかもしれない。
(明らかに動揺しているわね…乱馬君。ほっほっほ。こちらの思う壺よ。)
にんまりと、なびきは笑った。
「じゃ、契約成立ってことで良いわよね?」
「お…おう。」
「あたしも、並居る男たちをあんたが蹴散らかしてくれた方が、いろいろと都合がいいし。あかねはどう取るかは知らないけど。」
「ああ、絶対に、あかねの元へ誰も近寄らせねー。見てろ、あの、寸胴女め!ぎゃふんと言わせてやるぜ。」
支離滅裂だったが、とにかく、乱馬は、なびきの助っ人として、バトルに参入することが決まったのである。
あとは、当日、群がる男どもを、粉砕しまくってしまくってしまくるのみ。
(けっ!あかねのキスだけは他の男に渡してなるかよっ!)
強い決意の瞳が、輝いている。
「これは提案なんだけど…。素のままのあんただと、あかねもヘソを曲げるかもしれないから…。変装してね。」
「変装だあ?」
「ええ。女に変身しても良し。」
「女は却下だ!女の腕力だと、強い男が居たら不利になるからな。」
「その方が、懸命かもね。」
「あん?」
「こっちのことよ。まあ、あからさまに乱馬くんってわかるのもあんたは気が引けるでしょうから…。適当に変装しなさいな。他にも助っ人は頼んであるから。三人居たら御の字ね。」
「三人?」
嫌な予感が乱馬の脳内を過(よ)ぎる。
「えっと、これが今回の催しの企画書。」
なびきはびらりと乱馬に紙切れを渡した。鉛筆でごそごそ書かれたものをコピーしてあるようだ。
「学校側と掛け合ったんだけど…。」
と前置きをする。
「学校側と掛け合っただあ?」
「ええ…。今度、建て替えが決まった旧校舎を使わせて貰うの。」
「旧校舎って…あの三階建の古い鉄筋校舎か?」
「そうよ。旧校舎は春休みには取り壊す予定らしいから、多少暴れても大丈夫じゃない?もちろん、校長先生の許可も貰ってあるからね。」
とにこやかに笑う。さすがになびきだ。後々問題にならないように手は打ってあるようだ。手並みが鮮やか過ぎる。それ故に、何かうすら寒い物を感じた乱馬である。
「んーと…そうねぇ、乱馬くんは三階のこのあたりに潜んでもらおうかしら。」
なびきはサッと赤鉛筆でチェックを入れ始める。
「三階ねえ…。」
「あたしはあかねと屋上へ上がるから、その手前に待機して欲しいの。せいぜい、あかねを他の男に盗られないように、がんばんなさいよね。」
なびきはそう言うと笑って見せた。
どうも腑に落ちない部分もあったのだが、乱馬は、その場は紙を貰って引き下がった。
…絶対に、誰もあかねの傍へ近寄らせねーぞ!。
乱馬の決意はチョコレートの巨大な塊のように固かった。
一方、あかねは…。
かすみに手伝ってもらって、丁寧に作ったチョコを包装しなおした。ごわごわしたラッピングも、それなりに見える。
「こんなものかな…。」
出来栄えを確かめながら、あかねは包みを眺め見た。
「本当に、乱馬君はあげなくていいの?」
かすみが心配そうにあかねを見た。
「いいのっ!!どうせ、あたしのチョコレートなんか期待していないもの。」
自然鼻息が荒くなる。
「本当にごめんなさいね。あの子ったら、デリカシーの欠片もなくって。父親との放浪生活が長かったから、すっかりひねくれて育ってしまって。」
のどかが申し訳なさそうな顔をあかねに差し向けて来る。少しだけ心が痛んだが、ぐっと気持を抑え込んだ。
「い、いえいえ、おばさま、そんなに心配してくださらなくっても。元々はあたしが言い出しちゃったことですし…。」
言い訳ともお詫びとも思い難い言い方で受け流す。
「えっと、段取りはわかってると思うけど、六時間目が終わったら、北館の屋上。いいわね。」
なびきがひょいっと顔を出して念を押す。
「わかってるわよ。」
「で、誰があんたの元まで辿り着いても恨みっこなしよ。」
なびきは一瞬、笑みを零した。
「大丈夫。覚悟は出来てるわ。」
何の覚悟かはわからないが、あかねは、そう答えた。
…乱馬が来なかったときの覚悟…?それとも、どんな奴が来ても構わないという覚悟…?…
「たく、素直じゃないのは、あんたも乱馬君と一緒よねえー。」
なびきはぽつんとあかねの耳元に吐きつけた。
「あたしと乱馬を一緒にしないでっ!」
とあかねは嫌な顔を、姉へと返した。
「でも、ホント、あんたって、もてるわねえ。」
なびきは申込書の束をゆらゆらとあかねの目の前に差し出した。
「関係ないわよ、そんなこと。」
目下興味なし。もてると言っても、何だかわけのわからない変な男子ばかりだ。
「九能ちゃんも参加するって言ってたわよ。」
「九能先輩ねえ…。」
「あかね君のチョコレートは、この僕が貰ったあっ!とか言いながら、竹刀振り回して参加するつもりじゃないの?
相手が九能ちゃんでも我慢できるのかしらねえ…。」
「だ…大丈夫…よ、多分。」
あかねは小声で答えた。
「思わぬ伏兵が潜んでるってことも在りえるわけだし。今ならまだ止められるけど…。どーする?」
なびきはあかねのほうをちらっと見やった。
「いいわ。別に、どんな男の子がチョコを貰ってくれたって。」
「あんたが、そこまで言うんなら、決行でいいわね。」
なびきは念を押した。
「勿論っ!」
「それから、まだ、乱馬君の申し込みは無いわよ。」
なびきは、あかねへ投げかけていた。トラップとして阻止する側になったことは、あかねには伝えないつもりだった。
「乱馬なんか…関係無いし…。」
あかねは、もうどうにでもなれと言わんばかりの、一種、なげ遣りな気持ちにもなり始めていた。
ゆかやさゆりといった、親しい友人たちは、
「あかねも大変よね。乱馬君が煮え切らないから。」
と同情的だ。
そうなのだ。当の乱馬がどう捉えているのか。あかねにはさっぱり見えて来なかった。
本当に手作りチョコは要らないのか、それとも、売り言葉に買い言葉だったのか。
…彼を試すようなことになるのかもしれない…。
あかねはあかねで、複雑な乙女心を持て余していた。
三、
そして、迎えたバレンタイン当日。
乱馬は誰よりも先に起き出して、道場で一汗かいていた。体の調子は至って快調だった。己の状態を確かめると、かすみさんに先に用意してもらった朝ご飯を掻っ込んだ。そして、あかねやなびきと顔を突き合せないうちに、さっさと登校して行った。
まだ七時前。霜が下りている。放射冷却がきついところを見れば、今日も冬の快晴に違いない。白い息を吐きながら道を駆けた。
「やあ、おはよう。早いんだね。」
接骨院の前で東風先生が体操をしていた。
「おはようございます。」
乱馬はぺこんと頭を下げた。
「元気だね。あ、そうそう、今日の昼過ぎ、風林館高校へお邪魔するからね。」
「はあ?何しに来るんですか?」
乱馬は訊き返していた。
「校庭で、催し物があるそうで、救急係として詰めてくれないかって、なびきちゃんから頼まれたんだよ。」
あ、そういうことか。乱馬は納得した。
どうやら、怪我人がわんさかと出ることを予測したなびきが、東風へと声をかけたようだ。東風なら安い料金で借り出せる…そう踏んだのだろう。
(ちぇっ、ぬけめの無え奴…。ま、東風先生が来るなら…こっちだって思いっきり暴れられるって寸法だぜ。)
そんなことを考えながら、風を切って通学路を駆け抜ける。
学校へ早く出たのは、勿論、あかねとなびきに顔を合わせたくなかったということもあったが、何より第一に、お邪魔虫たちの魔手から逃れるためでもあった。
ややこしいときに、またややこしいことになるのはまっぴら御免だ。
まずはシャンプー。それから久遠寺右京…そして。九能の妹、小太刀。この三人娘と、朝っぱらから関わりたくない一心だった。できるだけ、無駄な体力は使いたくない。
彼女たちが路上に現れる前に、通学路を通ってしまえばよい…。乱馬なりに考えた結果だった。
その目論見が功を奏したようで、すんなりと、学校へ到着した。地獄のバレンタイン通学路にはならないですんだのだ。
「へっ!まんざら早起きも悪くねえな…。」
靴箱へズックを突っ込みながら、ふうっと息を吐いた。
朝早い学校。
全く生徒が居ないのかと思えば、決してそうではない。朝の早い運動部の連中が、もう、グラウンドの片隅で朝練を始めていた。
その脇をすり抜けて教室へ。さすがに教室は乱馬が一番だった。どっかと鞄を置いて、窓際へと渡ると、カギを開けて窓を開いた。
朝の新鮮な空気が、教室へと流れ込む。きらきらと民家の瓦が、朝日の光を受けて輝いている。
と、その時だった。背後に人影を感じ、はっとして振り返る。
(殺気!)
そう思って、咄嗟に身構えていた。
と、男子生徒が一人、にっと笑って立っていた。見覚えがある顔…。この前、なびきの教室へ怒鳴りこんだ帰り、踊り場ですれ違った、男子生徒だった。
「やあ、早乙女君、おはよう。」
そいつは、乱馬に言い放った。
「うっす。」
乱馬はぽそっと吐き出した。言葉を交わしたことなどない相手だ。どう、切り返したものか、迷ったのだ。
まだ朝早い教室。他に人気は無い。
「君も参加するのかい?」
いきなりそう尋ねられた。おそらく、「バレンタイン記念、天道あかね謹製本命チョコレート争奪戦」のことを暗に指し示しているのだろう。
「しねえよ。んな企画。」
乱馬は目いっぱい不機嫌そうに言い放つ。
「ふうん…。それは残念だな。」
その返事に、何なんだこいつは…という鋭い視線を投げかける。
「君と正面切って勝負できると思ったのに。」
…何だかしらねえが、ムカツク野郎だな…。
と心で思いながら、答えを返す。
「参加はしねえが、バトルには加わるかもしれねえぜ。」
ツッケンドンに言い放った。と、そいつの顔がぱっと輝いた。
「ふふ。そうこなくっちゃ。放課後、楽しみにしてるよ。あかねさんのチョコとキスは…この僕が貰うからね。」
「そいつは俺に対する宣戦布告か?」
乱馬はムッとした表情で、切り返した。
「もちろんそうさ。じゃ、また放課後に!」
そいつはあばよと云わんばかりに手を上げると、ゆっくりと教室を出て行ってしまった。
と、すれ違いに大介が入って来た。
「乱馬…。今の…。」
「あいつを知ってんのか?」
乱馬は大介を見返した。
「国松さんだろ?」
「国松だあ?知らねーな。」
小首を傾げる。
「たく、おまえは、あかねのこと以外には興味ねえのかよ。ちょっとした有名人だぜ。」
「どうした、どうした?」
ひろしも入って来た。
「いや、国松さんの姿を見たからさあ。」
「お、国松さんか。へえ、もしかして、争奪戦に参加するとか?」
ひろしも知っているようだった。
「ああ、参加するって言ってたぜ。命知らずな奴だよ。たく、あかねの何処がいいんだか。」
吐き出すように乱馬は答えた。
「なんだって?」
「そりゃ、波乱は必定ですな。」
ひろしと大介が身を乗り出してきた。
「その…国松って何者なんだ?」
乱馬は二人に問い質していた。
「これだもんなあ…。暢気というか、乱馬はよう。」
ひろしが吐き出した。
「国松悠介。今はえっと二年A組だったっけかな。」
「ああ、確かA組だべさ。」
「前から居たか?あんな奴。」
乱馬の疑問に二人はさらりと答えてくれた。
「年が明けてから戻ってきたんだよな。確か。」
「んだんだ。らしいな。」
「戻って来たって?」
訳もわからず訊き返す。
「国松さんって一年ほど海外へ留学してたらしいぜ。それも格闘留学だってよ。アメリカだって言ってたっけな。」
「そうだ、だから、本当はもう卒業控えててもいいんだがな。あっちのハイスクールの単位は日本じゃ認められてねーから、本当は三年生なんだけど…帰国して二年に編入したんだってよ。」
「なるほど、海外留学組ってわけか。道理で知らない訳だぜ…。」
乱馬は納得した。
「その国松さんが参加することになってるというと…。」
「乱馬、これはフンドシ締めなおしてかからないと煮え湯飲まされるぜ。」
ひろしが頷く。
「強いのかよう、そいつ。」
「ああ、メチャクチャ強いぜ。格闘技を極めようと海外渡航してたって言うくらいだ。総合格闘技のプロになるとか言ってな。とりあえず、高校だけは卒業しようと帰って来たって話だったよな。」
乱馬の眉間に皺が寄った。確かに、奴の気迫は他の奴とは違った。強いという自信があるのだろう。野性の鋭さを持っていた。
「おい、今からでも遅くはねーから、おまえも正面から参加したらどうだ?」
「まだ申し込んでねーんだろ?申込書、余りなら持ってるぜ。」
ほら、お節介が始まった。
「いいんだよ。んなくだらねーことに、びた一文だって使いたくねーや。」
乱馬がなびきに乞われて、トラップとしてバトルに参加することは、大介もひろしも知る由が無い。
「んな暢気なこと言ってさ、結構、ナンパな野郎だって噂もあるぜ…国松さん。」
「そうだぜ…あかねの唇の貞操、かっさらわれてもしらねーぜ。」
登校してくる生徒たちが増えて来るにつれ、教室は異様な雰囲気が漂い始める。
大方の女生徒たちは、義理チョコだの本命チョコだの持って、それぞれの思い思いに男の子たちとコンタクトを取っていたようだ。
でも、そんなラブラブな子は、そう居ない。大半の女子は、義理チョコだの、友チョコだのを渡すのに、精を出す。
あかねも大量に作ったチョコレートの大半は、友人たちとの交換に使った。いわゆる「友チョコ」と呼ばれる物だ。
「あかね、今回はいい具合にできたじゃない。」
ゆかやさゆりが昼休みに頬張りながら品評してくれた。
(そりゃあ、あれだけ毎日頑張ったんだもの。それをあの唐変木は…。)
友だちの評価に、また、怒りがぶり返しかけそうになるのを、友人たちの手前、グッとこらえる。
「ラッピングしたのは、形ももっと良いんでしょ?」
とゆかが問いかけた。
「え…ええ。ちゃんと、ココアパウダーも振って、それらしくしてあるわよ。」
と頷く。
「持って来てないの?見当たらないけど…。」
「企画用のチョコは、なびきお姉ちゃんに預けてあるの。万が一、誰かが盗んだら洒落にならないからって。」
「ふーん…用意周到なんだ…。」
「ホント、乱馬君もバカよねえ…。」
「あかねからのチョコを食べもしないで拒否るなんて…。」
「あ…ごめん。気にしないでね。」
「いいわよ、別に…。」
と、ぞろぞろと、見知らぬ女生徒がぞろぞろと教室に入って来た。
何故か、乱馬の周りへと群がりだす。
「あのう…。これ、早乙女先輩にっ!」
「あん?」
「あたしの気持ちですっ!」
「はあ…?」
「チョコレート、受け取ってくださいっ!」
「おまえはいいよなあ…。この前の球技大会、思いっきり目立ちまくってたからなあ。」
ひろしと大介が後ろから覗き込む。
この前の球技大会で、大活躍した乱馬。それは悔しくなるほどいい男っぷりだったので、話題に上っても当然だった。
乱馬がしどろもどろしていると
「良いなあ…本命かあ?今年は天道から貰わないって踏んだんだろうな。」
と、ひろしが評した。
気が付くと、その後ろ側に、少女たちの列が出来上がっていた。つるんでつるんで、来るわ来るわ。皆一様に、乱馬へとチョコレートを渡しに来たようだ。
ラッピングの大きさから、本命チョコの気配が漂う。
…許婚の天道さん、今年は早乙女さんにチョコレートを渡さないんですって…。
…まあ、だったらチャンス到来よ!
…あたし、早乙女さんに交際申し込んじゃおうかなあ!
乱馬とあかねの仲が微妙な状況らしい…。そんな噂が、校内を駆け巡っていった結果だろう。
なびきの情報によれば、乱馬は、一つ年下の一年女子の「大本命」の人気が高いらしかった。無論、後輩たちだけではなかった。同級生(二年生)たちも居るし、年下趣味の上級生(三年生)たちもチョコレートを持って、乱馬の前に現れる。
あかねが、ふと目を落とすと、乱馬の机の上には、積み上がったチョコレートの包装紙の山。
これ見よがしに、見せ付けられたら、自然、あかねの怒りのテンションも上がろうかというもの。その背面から湧き上がる怒気は、真っ直ぐに乱馬へと向けられていく。
乱馬がそれを感じない筈がない。ちらりと後ろに目をやると、憤慨した瞳がこちらを突き刺して来る。
あかねだった。
…んな目で見るんなら、素直にチョコくれたらいいじゃねーか…。
乱馬は心で吐き出していた。
…へっ!おめーのチョコが無くったって、俺はこんだけ貰えるんだ!…
あかねには、乱馬の視線から、そう聞こえた。
事の成り行きで、姉、なびきの計画に乗ることになったあかね。
ちょっと軽薄だったかな…と少し後悔する部分もあったのだが…チョコを大量に貰っている乱馬を見ていると、そんなことはどこかへ吹っ飛んだ。
チョコレートを貰うのは、何も乱馬が悪い訳ではないのだが、変に燃え上がる闘争心。これが、ヤキモチというものの厄介なところ。
あげたい…。
貰いたい…。
その心とは裏腹に、互いの想いの糸は、もつれていく。何度も絡まり合い、動かない団子玉になる。
「見てらっしゃいっ!乱馬ッ!」
あかねは、ぎゅっと拳を握りしめた。
そして、遂に迎えた、放課後…。
バトルの幕は切って落とされようとしていた。
つづく
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