挿絵…ヒトミさま


◆チョコレート戦争2012
一、乙女心とチョコレート


一、
 二月に入ると、何となく教室が落ち着かなくなる。

 セイント・バレンタインズデー。通称「バレンタイン」
 女子が男子に恋を挑む一本勝負の日…。女の子が、男の子へとチョコレートを渡し、愛を告白する。そういう風習が、何十年前からか、当り前のように日本中に蔓延(まんえん)していた。

 男子も女子も、それぞれの思惑を秘めて渡りあう。決まった相手がいる者、いない者。それぞれの思いが、教室の空気を微妙な雰囲気に押し上げて行く。

 今年のバレンタインのチョコレートの評定を、男子も女子も教室の片隅でごそごそと語り合っていた。この女の子の告白のためにあるような年中行事の一つは、チョコレートを贈る側の女の子たちはもちろんのこと、受け取る側の男の子たちにも一大関心事である。
 今年のバレンタインチョコレートは幾つ貰えそうだの、あの子から欲しいだの…。各々、勝手気ままに話し始める。

「おまえはいいよなあ…。乱馬。結構もてるし…。ほら、中国娘のシャンプーちゃんやうっちゃん、九能の妹からは確実貰えるだろうしよう…。」
「それだけじゃなかんべ?この前のバスケ部の校外試合で、目立って、一年の女子にもファンが増えたみてーだし…。そっちからも、たくさん来るんじゃねーかあ?」
 いつもの連中がじんわりと、乱馬へと絡んでくる。が、乱馬にしてみれば、あからさまにあかねへの想いを態度にできない。複雑な性格。いや、正確には「恥かしがりや」なのである。
 だが、無責任な連中は、乱馬が不機嫌になるほどに、いろいろと詮索してくる。
「おまえには、許婚のあかねもいるしよー。」
「だな…。あんまりたくさん貰って、あかねにヤキモチ妬かせんなよー。」
 と、にんまりと笑ってくる。

「時に、乱馬…。おまえ、あかねとはどこまで進んだんだ?」
「唇は奪ったのか?」
「一緒に寝たか?」
 と平気で問いかけて来る。

(そんなことあの天道家で平然とできるわけねーだろ!)
 乱馬はぐっと、クラスメイトたちを睨みかえした。

「そんな、睨まなくても良いだろーが…。」
「んだんだ!俺なんか、一つ貰えたら、御の字なんだぜえ…。」

「あかねに、俺たちにも義理チョコくれって頼んで欲しいくらいなんだからよー。」
 とにべもない。

 とうとう、その一言に切れてしまった。

「んなものっ!だいたいバレンタインなんて、ただのお菓子屋の陰謀みたいなイベントだろ?興味ねえなっ!」
 ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、吐き出した。
「俺は修行中の身の上なんでいっ!バレンタインなんかに現(うつつ)ぬかしてる場合じゃねーんだっ!。」
「はっ!とか何とか言って、天道あかねと楽しく同じ屋根の下に暮らしてるじゃねーか。」
「いいよなあ…。乱馬は。決まった許婚があんなに可愛い子だし。」
「今年のチョコはあかねの手作りだったりして…。」
 執拗な友人たちの突っ込みに、つい、言ってしまったトリガーの一言。
「あのなあ、おめーらは、あかねの作ったものの餌食になったことがねーから、気楽に言えるんだよっ!」

 そこまで、言い切った時、後ろに物凄い気配を感じた。
 その場に居た者全員、思わず、背筋が凍りつく。

 あかねが物凄い形相をして、真後ろに立っていた。右手の拳をぎゅっと握りしめ、責め立てるような瞳で、乱馬を射てくる。

「な…何だよ…。おめーの料理が不味いことは、万人が認めることだろーが…。悔しかったら、ちゃんと食える物、作ってみろってんだ!」
 攻撃は最大の防御。そう、悟った乱馬は、すかさず、あかねに先制攻撃を食らわせる。

「いいわ!作ってみせるわっ!」
 鼻息荒く、怒りの闘気を燃やしながらの宣戦布告。

 いや、闘気を燃やしていたのは、あかねだけではなかった。

(誰だ?)
 その「得体の知れない闘気」へと、乱馬は気を荒だてた。
 きょろきょろと辺りを見回してみる。ここは二年F組の教室。どうやら、教室内から放たれて来る闘気ではないらしい。
(廊下か?)
 だが、それ以上の気配は掴めなかった。授業前の廊下には、たくさんの生徒たちが行きかっている。その中の誰かの気なのだろうが、それ以上はわからなかった。
 バレンタインデーが近づくにつれ、だんだんに膨らむ、その気配。乱馬は無性に気になり始めた。

 総じて、あかねはもてるのだ。
 乱馬と許婚になって、九能を一撃で倒してからは、男どもの馬鹿げた求愛行動からは開放されたあかねではあったが、それでも、あかねを狙っている連中は数多居た。風林館高校のそこここに、チャンスがあれば、あかねに言い寄ってやるという連中が、今でもごろごろしていた。
 乱馬は突出した武道家だから、手に取るように、その気配がわかった。野郎どものあかねを見つめる不埒な視線、そして、燃え上がる下心。あかねへの横恋慕を未だ強く持った野郎どもの放つ気配が。
 
(九能…五寸釘…他にも数人…。まだ、あかねを本気で狙ってやがる…か。…それにしても、他にも大きな気があるよな…。そいつは、俺にも、あからさまに闘気をぶつけて来やがる…。)
 時折感じる、大きな闘気。それは、あかねだけではなく、己へと向いていた。
(誰だ?)
 背後で探ってみるが、いつも、すっと消えてしまう。

「ちぇっ!たく、いい加減にして欲しいぜ…。」
 コンと小石が、傍の電柱へと当たって砕けた。

 ちょっとの間、会話から弾け出されて、気配を探っていた乱馬に、あかねの親友のゆかが口を挟んで来た。
「たく、乱馬君も罪作りな人ねえ…。」
 ぼそっとゆかが声をかけてきた。
「あん、罪作りだあ?」
 きょとんと乱馬はゆかを見返した。
「あかねをその気にさせちゃってさあ…。」
「その気だあ?」
「ええ…。あかねのことだから、手によりかけて作るわよー。手作りチョコレート…。」
 にんまりとゆかが笑っている。

 ハッとして、視線を巡らせると、別の闘気をあげながら、あかねが、ぐっと乱馬の方を見据えてくるのが見えた。

(げ…。藪蛇になっちまったかな…。)
 そう思った乱馬に、ゆかが笑いながら付け加えた。
「バレンタインまでに胃袋、強化しておきなさいよ…。乱馬君。」
 その言葉に、乱馬はハアっと思いっきり溜め息を吐きだした。



二、

「みてらっしゃい!今度こそ、美味しいって言わせてみせるわっ!!」

 昼間、乱馬にバカにされたことを、当然ながら、根に持っていた。

 あかねは一人、鼻息を荒げて、真新しいお菓子のレシピブックを広げた。
 そこには、美味しそうなチョコレート菓子がずらーり。
 「誰でもパティシエになれる!超簡単お菓子入門」。表紙には、そう書かれている。
 だが、この「誰でも」という言葉は曲者だった。この場合の「誰でも」は、「普通レベルの人間」を指す。あくまで、「特別レベルの人間」ではない。
 そう、あかねは、不器用な少女。しかも、特別な超絶な味音痴だった。これを「特別」と言わんで何としよう。
 出来上がってくるものは、全く不可解な物体。単に見てくれが違って形が悪い…というような、そういった軽いレベルではない。
 見てくれはもちろん謎めいていて、その味までもが著しく変質した「不可思議な物体」が出来上がるのである。それは、常人が食べられる物ではない。
 彼女が作る料理には、常に犠牲者が伴う。その犠牲者の多くは、生活を共にする家族たち。中でも、許婚の乱馬は、その筆頭に挙げられるだろう。

「まあ、あかねちゃん、気合いが入っているのねえ。」
 と脇から、姉のかすみが声をかけてきた。
 あかねの背後から、レシピ本を一緒に覗きこむ。
 ぺらぺらと頁を繰ってゆくと、何となく不安になってくる。作り方の欄には「湯煎」だの「ホイップ」だの「メレンゲ」だの…、格闘一点張りの少女・あかねが知らない、クッキング用語がずらりと並んでいる。
「うーん…湯煎とか泡だてとか…難しそうだわ…。ねえ、お姉ちゃん、あたしでも作れるかしら…。」
 不安に曇ったあかねが、かすみへと問いかけていた。
「そうねえ…。あかねちゃんは初心者だから、簡単な作り方のが良いわねえ…。」
 そう言いながら、かすみはページをめくっていく。主婦の感覚で、一つ一つ、丁寧に、難易度を見極めていった。

「これならあかねちゃんだって作れるわよ。」

 あるページを見開くと、かすみが一つのレシピを指さした。
 かすみが指さしたところには、美味しそうなトリュフチョコレートが載っていた。「電子レンジで簡単にできる手作りチョコレート」とタイトルが銘打ってある。
「湯煎だとか、面倒な作業もないから、あかねちゃんには向きよ。」 
 と、かすみは微笑みながら、不器用な妹に、示唆した。

「じゃあ、決めたっ!あたし、これを作ってみるっ!!」
 
「わからないことがあったら、私が教えてあげるわね。」
 百人力のかすみの言葉を背に、こうして、あかねの手作りバレンタインチョコレート大作戦は始まった。



 その日から、あかねは、夕食の後片付けが終わると、台所に立つようになった。
 武道家は毎日、道場で修業をする。一日たりとも怠けると、体が鈍(なまく)らになる。幼い頃から、父にそう叩き込まれたのと同じ道理だ。きっと、料理もお菓子作りも、繰り返し反復することで、ちゃんと人並みに食べられるものが作れるようになる。
 あかねは、そう信じたかった。
 自分の不器用さは、一応、納得済み。かすみがすすめるほどの簡単なレシピといえども、前日の一度や二度きりの実践では、到底満足いくものはできないことも、重々承知していた。
「毎日練習すれば、何とかなるわ!」
 そう思ったのだ。
 毎日下校時に近所のスーパーに立ち寄っては、本番と同じ材料を買い込む。板チョコ、マシュマロ、ナッツ、レーズン、無塩バター、ココア。材料が空で言えるくらい毎日通う。
 姉が台所用事をする傍ら、あかねはボウル片手に奮闘を始める。
 耐熱容器にチョコレートを割り入れるのも、つい、瓦と同じ感覚で力が入る。いや、あかねにとって、クッキングも格闘の一種なのだろう。

「でやーっ!!ったったったった…。」
 ガシャガシャと金属の音を発てて、泡だて器が回る。
(やっと、子供の頃からの憧れがかなうんですもの。頑張らなきゃ!)
 その一点に突き動かされている少女がそこに居た。
 「好きな男の子に手作りのチョコレートを食べてもらいたい。」。それは、少女の願望だろう。
 恥かしそうに「これ…。」って手を出して、相手の子は「ありがとう。」って言って…真っ赤に熟れた顔をこっちへ向けて…はにかむようにお互い見詰め合ってにっこり笑う。そんな他愛のない風景にずっと憧憬を抱いてきたのだ。
 普段は仏頂面の少年でも、不器用を連発する少年でも、格闘馬鹿でもかまわない。チョコレートを渡す一瞬のスポットライトを、自分も浴びてみたい。
 彼の笑顔を引き出したい…自分の贈り物で…。それが恋する少女のささやかな夢。

 真冬の冷える台所も、苦にならないほど、一所懸命。鼻先に汗まで沸いてくる。

「あかねちゃん、別に格闘じゃないんだから、そんなに真剣に混ぜなくてもいいわよ…。」
 横からかすみがアドバイス。

 その様子を物影から見つめる、乱馬の複雑な表情…。

(たく…相変わらず、不器用な奴だなあ…。)
 ジト目で見つめる、不慣れな手つき。
 台所はチョコレートまみれ。
「バレンタインデー」がどういう日で、それが、男にはどういう意味をもつ日なのか。乱馬は、あかねと関わるまで、深く考えたことは無かった。
 昨年のあかねからのバレンタイン。それは、すったもんだの末、貰った「小さなハートチョコ」。それでも、十分だと思ったのは、心底惚れた少女からの贈り物だったから。
 チョコの大きさや量が問題なのではなかった。要は、心だ。掌にすっぽりと入る小さなチョコレート。実は、今でも、食べずに、そのチョコを隠し持っている、けなげな少年。それが、乱馬だったのである。
 
(別に、手作りにこだわらなくても良いのに…。)
 ふううっと溜め息が漏れた。



 次の日も、また、その次の日も…あかねは懸命に台所へ立ち続ける。




(ちょっとはマシになってきたかな…?)

「何、こそこそ覗いてるの?乱馬君。」
 にんまりと、なびきが笑って立っていた。
「べ…別に、覗いてた訳じゃねーぞ。」
「なら、なんで、台所の前で立ってるの?」
「いや…俺は、水を飲みに来ただけでい!」
 と言い逃れてみせる。実際、水を飲みに来たのだが、あかねが奮闘しているのを目の当たりにして、すっかり、その気が削げていた。

「状況偵察じゃなかったのかしらあ?」
 くすっと笑ったなびきに、ムッとした表情を突き返した。

「何の偵察だよ…。」
「あかねのチョコ作りよ。違うの?」
「そんなんじゃねーっつーのっ!」
「男心をくすぐるわよねえ…。許婚の作る手作りチョコ…。」

 時に、複雑な天の邪鬼な少年の心は、本心とは裏腹な言葉を紡ぎだす。

「断っとくが、俺はあかねの作ったものなんか、絶対に食わないぞ!」
「どうして?」
「どうしてって、当り前だろう?腹壊すのが落ちだし、ぜーったい、食わねーからなっ!!」
 
「あらまあ、そんなこと言って良いのかしらねえ?あんた、あかねの純粋な真心を踏みにじる気?」

「るせーっ!!要らねーもんは要らねーんだっ!!誰があかねのチョコなんか…。」
 そう声を荒げた拍子だった。

 ドカッ!めこっ!

 飛んできた、雪平鍋。乱馬の後頭部へとめり込んだ。

「ええ、ええ、あたしだって、あんたなんかにチョコレートなんか上げるもんですかっ!!」
 暖簾の向こう側で、あかねがそう言いながら仁王立ちしていた。
 売り言葉に買い言葉。
「なら作るなっ!迷惑なんだよっ!!」
 カッと来た乱馬がつい口走る言葉。
 勿論、言ってからはっとした。しまった言い過ぎたと手を口に当てる。
 が、後の祭り。
「乱馬のバカーッ!」

 あかねの怒声が、天道家の母屋に響き渡っていった。




三、

「何よっ!あの言い草っ!!乱馬なんかに、チョコはあげないわっ!!」
 まだ、怒りが収まらず、始終、ブツブツ言葉を吐き出していた。乱馬の心無い一言で、すっかり戦闘状態へと入ってしまったあかね。
 チョコレート作りを切り上げて、道着に着替えて、庭先へ出る。修行のために組まれた木の棒目掛けて、思い切り、蹴りや拳を入れる。
 直接、物へ怒りをぶつけるのが、手っ取り早いストレス解消法。この辺り、彼女も乱馬に劣らずの格闘バカだった。

「たく、相変わらず喧嘩三昧ねえ…。あんたたちって。」

 あかねの様子をのぞきに来たなびきが、そう声をかけてきた。

「あー、もう、うるさい、うるさい、うるさいっ!!もう絶対、あんな奴にチョコレートなんて作ってやんないんだからっ!!」
 あかねは拳を思い切り振りあげた。
 バキッ!
 木の棒が、あかねの気合いに押されてポッキリと折れた。
 だが、あかねの怒りはおさまるどころかますます高揚してゆく。

 実は、乱馬に差し出すつもりのチョコレートは既に、完成していた。さっき乱馬と言いあった時に、作っていたのは、義理チョコ用のチョコ。
 自室の机の上には、可愛らしくラッピングして、カードでもつけて、リボンをかけた袋がトンと置かれていた。
 足掛け十日目にして、最高のできばえのチョコレートが出来上がった。自分で言うのも何だが、味も良し、形もまあまあ。のどかやかすみの両人も「これなら大丈夫よ。」「良く頑張ったわね。」と太鼓判を押されたチョコレートが、既に存在していたのだ。

「こうなったら一人で食べちゃうんだからっ!!」
 と吐き出した
 
「勿体無いわねえ…。自分で食べるくらいなら…あたしに預けてみない?」
 なびきが、ふふっと笑いながら声をかけてきた。
 なびきがこういう笑い方をするときは、大抵、何かを企んでいる。それも「金儲け」に繋がる何かだ。
 あかねは、一瞬、どうしようかと迷った。
 
 そんなあかねの心を見透かしたように、更になびきはたたみかけて来る。

「ふふふ、あたしが、乱馬君にこのチョコレートの有り難さをわからせてあげるわ。」
 とくすぐる言葉。
「乱馬が有り難さなんてわかるかどうか…。」
「大丈夫よ、その辺は…。それに、あたしも儲かるプランがあるの。一石二鳥って訳。」
 とウインクしてくる始末。
「はあ?」
 あかねは、姉の真意が掴みきれずに切り返した。
「何なら、ヤキモチを妬かせてあげるわよ。」
「ヤキモチ?」

「ええ…。いつもは、あかねばかりがヤキモチを妬いてるんだから…たまには、乱馬君にも妬かせてみない?」
 なびきは、にっこりと微笑んだ。

「そんなことができるの?」
 あかねは膝をつきだして、姉を見返した。

「もちろんよ!超ド級のヤキモチを妬かせてみせるわよ。…その代り、あたしがどういう手に出ようと、口を挟まないっていう条件を付けるけどね。」
 となびきが言った。守銭奴の姉に預けるとどうなるか…。心配がなかったわけではないが、乱馬に啖呵を切った以上、素直に渡すのも癪に障った。

「わかったわ…お姉ちゃんに預けるわ。煮るなり焼くなり、好きにしてくれたら好いわ…。」

「じゃ、契約成立…って訳で。」
「まさか、金銭を要求するなんてこと…。」
 ジト目で見返すあかねに、なびきは笑った。
「別に、あんたから巻きあげないでも、このチョコさえあれば、あたしも一攫千金だから、預け賃は要らないわよ。サービスしとくわ。
 でも、一応、この誓約書にサインはしておいてね。」
 とすかさず紙きれを一枚、目の前に差し出してきた。

「このプランを実行するにあたって、天道なびきの一存に全面的に従います。否は申し立てしません。」
 そう、マジックで書かれていた。

「これにサインするの?」
 怪訝な顔をあかねが向けると、
「当然よ!後で文句言われたら嫌だもの。それとも、やめとく?」
 と見透かしたように、なびきは笑う。


「わかったわ。サインすれば良いのね。」
 あかねはマジックを手に取ると、きゅきゅっと自分の名前を書き入れた。「天道あかね」と。



 結局、こうして、あかねの丹精込めた手作りチョコは、なびきの手に渡ることとなった。


(女の子を本気で怒らせたら怖いんだから。絶対に、乱馬(あいつ)の鼻を明かしてやるんだから。)

 あかねは、そんな言葉を心根に吐き出しながら、チョコレートの入った袋から、乱馬へ書いた小さなカードを抜き取った。




四、

(畜生!まだ頭がずきずきしやがる。後遺症が残ったらどうしてくれるんでい。)
 ブツクサ言いながら、後頭部のコブを手でさする。雪平鍋に続いて、中華鍋、シチュー鍋、果ては漬物石と、乱馬の後頭部を強襲していた。タンコブの一つもできるというものだ。
 一晩寝ても、まだ、タンコブが手に触っていた。

 あれから二人は、「陰険ムード」たっぷり。

 大概の喧嘩は、一晩明ければ、あかねの機嫌も、もとの黙阿弥に戻っているのが常なのだが…。
 今回はいつもに増して、あかねの不機嫌持続時間は長かった。
(あたしは、あんたと、一切口も利きたくありません!)
 固く結ばれたあかねの口が如実に物語っている。
 隣でご飯を食べていても、道場で稽古していても、「喋りかけるなオーラー」が乱馬にずいっと迫って来る。

 父親たちは、二人の間に立って、おろおろ、おろおろ。

「なあ、あかねぇ、そんなに怖い顔しないでおくれ…。」
 早雲は懇願するように話しかける。
「こら、乱馬っ!おまえが悪い!あかねくんにちゃんと謝らんかいっ!」
 玄馬が乱馬を責め立てると、
「んな顔してたら、ますます変な顔になるぜ。」
 乱馬は無表情でそれに対した。

 だがあかねはそ知らん振り。ピクリとも表情を動かさなかった。相当怒りが深いようだ。
 この不機嫌顔のお姫様は、一度旋毛を曲げてしまうと、やいそれと元通りには戻らない。そういうところは、案外、乱馬よりも頑固かもしれない。
 
 こうなってしまうと、彼女の心をほぐすのは、並大抵ではない。乱馬も半ば諦め状態であった。
 いつも並んで歩く通学路も、別々に歩いて登校する。

(そういえば、今日はまだ…あからさまに俺に向けられた闘気は気配を消していやがるな…。)
 乱馬は、歩きながら、そんなことを思った。

 今日は、バレンタインの前日。

「おい、訊いたか?」
 大介が勢い込んで乱馬の袖を引っ張った。
「あん?」
 乱馬は何事かと振り返る。
「その分じゃ知らねーのか、乱馬。」
 ひろしも話しかけて来た。
「知らねーって、何がだ?」
 要領を得ず、乱馬が問い返す。
「これ見てみろよっ!」
 ひろしの手から、さっと差し出されたもの。コピーで作ったチラシだった。

「なっ、何だぁ?こりゃーっ!」
 パソコンで打ち出された印字を読んで、思わず叫んでいた。

「バレンタイン記念、天道あかね謹製本命チョコレート争奪戦」
 チラシの頭にはでかでかとそう書かれていた。乱馬はひろしから奪い取るように、チラシへへばりつく。
「バレンタインを侘しく過ごす男子諸君へ。天道あかねの手作りチョコレート争奪戦に参加しませんか?ルールは簡単。バレンタインデー当日の放課後、一斉にグラウンドをスタートして、天道あかねの元へ最初に辿り着いた男の子に手作りチョコと生キス、そしてデート券を差し上げます!…。何だあ?これはっ!!」
 仰天して腰をぬかしそうになった。
「お、おいっ!誰だこんな悪ふざけのチラシ作った奴は!」
「悪ふざけじゃないと思うぜ。」
 ひろしがひょいっと顔を出した。
「これ配ってたの、天道の姉貴だぜ。」
「姉貴って、なびきか?」
 ぐいっとちらしを握り締める。
「参加希望の方は十三日の午後四時までに天道なびきへ参加料五百円を添えて申し込んでください……な…何考えてやがんだあ…な…なびきの野郎。」
 ぎゅううっとチラシを握りしめる。プツプツと怒りマークが頭へと浮き上がって来る。

「乱馬、あかねと喧嘩してんだろ?昨日から全然、口利いてねえよなあ…。」
「何があったか知らないが…。大変そうだな。」
 ひろしと大介が、トントンと乱馬の背中を叩いた。
「あ、先に断っとくが…俺。申し込んだからな。」
「あんだとお?」 
 大介の言葉に、思わず目を剥く。
「だってよう…。俺たちに天道あかねから本命のチョコをもらえるなんて夢みたいな話…。」
「俺も申し込もうっと…。」
 ひろしは、乱馬が握りしめていたチラシを、自分の元へと取り戻した。
 「ちょっと待て…。」
 乱馬は、キッと二人を睨みかえした。
「良いじゃんかよー。こんくらいの楽しみがあったってよー。」
「んーだ、んーだ。そこら中の彼女なし男子やあかねファンが、参加するって息巻いてたぜ。」
 と平然と受け流す二人。
「何なら、おまえも申し込めよ。乱馬。」
 とすすめてくる始末。
「もう一枚、チラシ、余ってるぜー。」
 
「うるせー!なびきの野郎…。よりによって…何てこと考えつきやがる…。」
 乱馬は、なびきを探しに三年生の教室へと駆け上がって行った。

 何てことだ!冗談じゃねーっ!何がデート券だ、生キスだ!!
 とにかく、真意を確かめなくちゃならねーっ!!

 メラメラと怒りの闘気が、彼の後ろから燃え上がっていた。






一之瀬の戯言
2003年に書きかけてそのまま、放置していた作品です。
ほぼ、ラストまで書いていたのですが…今回書きなおしました。
改変も加えています。
覚えていらっしゃる方がおられるかどうか…。この作品、あかね、乱馬、なびきの三人の視点を通して描こうとしていたものです。
が、あまりに煩雑なため、人称作文をすっぱり辞めて、ざっくりと通常モードで一本にまとめます。



 
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